俀国伝と阿蘇山 野田利郎(会報178号)
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「邪靡堆(ヤビタイ)」とは何か
姫路市 野田利郎
はじめに
『隋書』俀国伝に「邪靡堆に都す」とあります。邪靡堆は「ヤマト」、「ヤマタイ」などと音読されていますが、確かな根拠はないようです。
本稿では「靡」の漢音は「ビ」ですから、「ヤビタイ」と読むことにします。この邪靡堆を俀国の都とする説があります。しかし、俀国伝には邪靡堆を「いわゆる邪馬台なる者なり」とありますから、魏の時 代とも思えます。本稿は俀国伝の冒頭文の内容、及び、唐の皇太子の李賢が『後漢書』の邪馬台国に注釈を入れた内容から、邪靡堆の時代を検討した報告です。
一.邪靡堆
(1)俀国伝の冒頭の部分は次の通りです。
□俀國,在百濟、新羅東南,水陸三千里於大海之中依山島而居。魏時,譯通中國三十餘國,皆自稱王。夷人不知里數,但計以日。其國境東西五月行,南北三月行,各至於海。其地勢東高西下、都於邪靡堆,則『魏志』所謂邪馬臺者也。古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里,在會稽之東,與儋耳相近。漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣使朝貢,謂之俀奴國。(以下略)
次に岩波文庫の訳を記載します。ただ、「俀」は原文の通り「俀」とし、番号と下線は筆者が付記しました。
◇①俀国は百済・新羅の東南にあり。水陸三千里、大海の中において、山島に依って居る。
②魏の時、訳を中國に通じるもの三十余国,皆自ら王と称す。
③夷人里数を知らず,ただ、計るに日を以てす。その国境は東西五月行、南北は三月行にして、各々海に至る。
④その地勢は東高くして西下り、邪靡堆に都す、則ち『魏志』のいわゆる邪馬台なる者なり。古よりいう、『樂浪郡境および帶方郡を去ること並びに一万二千里にして、会稽の東にあり、儋耳と相近し』と。
⑤漢の光武の時、使を遣わして入朝し、自ら大夫と称す。
⑥安帝の時、また使を遣わして朝貢す、これを俀の奴国という。(以下略)
(2)邪靡堆を俀の都とする説
邪靡堆を古田武彦氏は俀国の都とします(注1)。氏は②の「魏の時」の文には一切、言及されず、③の「東西五月行、南北三月行」を俀国の「国境」として、邪靡堆を俀国の都とします。つまり、「多利思北孤の首都」と「卑弥呼の首都」は同一で、邪靡堆は「山・堆」であり、「大倭の中心たる山の都」と云います。その結果、冒頭文の③、④は「隋の時」となっています。
(3)冒頭文の時代区分
古田氏の解釈とは異なり、冒頭の文は時代毎に区分されています。①の「俀国」は隋の時です。隋の時代以外は「~時」と書かれています。②の「魏の時」は⑤の「漢の光武の時」の直前まで続いています。つまり、②、③、④は「魏の時」です。⑤は「漢の光武の時」、⑥は「安帝の時」と整然に記述されています。
なお、③、④が「魏の時」であることを記事の内容からも確認しておきます。
(4)「水陸三千里」と「東西五月行、南北三月行」
中国から見ると、倭人は日本列島(除く北海道)の部族で、部族の代表が卑弥呼や多利思北孤です。
①の水陸三千里(長里で約千六百キロ)は、隋のときの部族の領域で、青森から長崎までの日本列島の距離(約千六百キロ)と一致しています(注2)。
③は、魏の時の部族の領域です。魏の時、夷人は里を知らず、距離を日数で表しています。海に囲まれた部族の場合、「国境」ではなく、部族の「国の境」です。その境は東西五月行(千葉から長崎まで)、南北三月行(千葉から青森まで)で、各々海に至ります(注3)。東西と南北の距離を併せると青森から長崎までとなります。つまり、倭人の部族の領域を「隋の時」は里で、「魏の時」は日数で表しているのです。したがって、③は魏の時です。
(5)「邪靡堆」の時代区分
④に、「邪靡堆に都す、則ち『魏志』のいわゆる邪馬台なる者なり」とあります。この文での「則ち」は、前の事柄に対し、後の事柄で言い換えることを示しています。
古田氏は「邪靡堆」を俀国の都とします。つまり、「(俀国の都は)、則ち、『魏志』のいわゆる邪馬台なる者」となります。しかし、これでは「隋の時の都」が「『魏志』の都」となり、文が成立しません。同じ場所に都が置かれても、時代が異なる場合は、「則ち」ではなく、例えば、「俀国の都は『魏志』の邪馬台の故地に都す」などの表現となります。つまり、邪靡堆は隋の時の都ではないのです。
では、④の邪靡堆とは何なのでしょうか。俀国伝には隋の使者が俀国に赴き、報告した内容が含まれています。隋使が、魏の時の都は「邪靡堆」と報告したと考えます。
したがって、「(魏の時)邪靡堆に都す、則ち、『魏志』のいわゆる邪馬台なる者なり」となります。「魏の時」と『魏志』と時代が一致して文意が通じます。④は魏の時の文です。
二.唐の李賢の証言
(1)李賢の生い立ち
邪靡堆を唐の時代に考察した人がいます。李賢(生涯655年~684年)です。李賢は唐の皇太子です。高宗の六男で、母は武則天。同母兄・李弘の死によって皇太子となります。儀鳳元年(676年)に学者たちとともに『後漢書』の注釈を完成させます。
618年に隋が滅び、唐の高祖李淵(在位618年~626年)の八年間の治世の後、太宗(在位626年~649年)と高宗(649年~683年)の約六十年間に、『隋書』(636年成立)、『晋書』(648年の成立)、『北史』(659年成立)、『南史』(高宗の時に成立)が完成しています。李賢は高宗の時代の人です。李賢が『後漢書』に注釈したのは唐の676年ですから、李賢は『隋書』、『北史』を読み、『後漢書』に注釈をしたことになります。
李賢が活躍した頃には、『隋書』を編纂した史官達の内、存命の者もいたと思われ、『隋書』編纂の史料などを豊富に利用できたと考えられます。そこで、李賢の『後漢書』の注釈から、李賢が「邪靡堆」を「隋の都」と考えたか、それとも「魏の都」と考えたかを検証することにします。
(2)『後漢書』への注釈
『後漢書』倭伝の冒頭部分です。
□其大倭王居邪馬台國[案今名邪摩惟音之訛也]。樂浪郡徼,去其國萬二千里,去其西北界拘邪韓國七千餘里。其地大較在會稽東冶之東,與朱崖、儋耳相近,故其法俗多同。
李賢の注釈は、原本では割注で書かれていますが、[ ]で示しました。また、「臺」は「台」と表記します。なお、『後漢書』(百衲本二十四史)倭伝の割注部分の影印を掲載します。

岩波文庫の訳は次の通りです。ただ、割注の訳はないため、筆者が訳しました。
◇その大倭王は邪馬台国[案ずるに、今の名は邪摩惟の音の訛るなり]に居る。樂浪郡徼は、その国を去る万二千里,その西北界拘邪韓國を去ること七千余里。その地、大較会稽の東冶の東にあり、朱崖・儋耳と相近し、故にその法俗多く同じ。
李賢は「邪馬台國」に「案ずるに、今の名は邪摩惟の音の訛るなり」と注を入れて、邪摩惟の音が訛って邪馬台と変化したと云っています。ただ、このような変化を、直接記載した史書はありません。「邪摩惟」の字形は「邪靡堆」に酷似していますから、李賢は『隋書』の内容から、この結論に達したと考えられます。その考察の過程は、次のようであったと思われます。
第一に、『隋書』を編纂した魏徴は、隋使の報告に、「魏の時の都は邪靡堆」とあり、『後漢書』の邪馬台のことと考えます。しかし、『魏志』には邪馬壹国とあるため、「所謂」つまり、「世の中でいわれている」ことにして、「『魏志』のいわゆる邪馬台なる者なり」の文を作成します。
一方、李賢は「都於邪靡堆,則『魏志』所謂邪馬台者也」から、魏の時の邪靡堆は、邪馬台のことと理解します。そして、「『魏志』所謂邪馬台者也」から、邪馬壹は邪馬台へ変化したと考えます。
第二に、『隋書』の後に成立した『北史』(注4)には、邪靡堆の「靡」を「摩」に換え「邪摩堆」とあり、李賢は、邪靡堆を邪摩堆と考えます。
第三に、李賢は「邪馬台」は「邪摩堆」であったから、「邪馬壹」の本来の名を推測します。「邪馬」は「邪摩」であり、「壹」は「一つの事に心をつなぎとめて思う意味」がある「惟を当て、「邪摩惟」と考察します。
そこから、『後漢書』の「邪馬台」に、「案ずるに、今の名は邪摩惟の音の訛るなり」との注を入れたのです。
以上の李賢の考察は、『隋書』の「邪靡堆」を魏の都と確信したから、可能となったのです。仮に、李賢が「邪靡堆」を「隋の時の都」と考えていたなら、後漢では「邪馬台」、魏では「邪馬壹」、隋では「邪靡堆」と時代毎に都の名は変遷したと理解し、『後漢書』の邪馬台へ注を入れる根拠が無くなっていました。あるいは、『三国志』と『後漢書』の比較から「邪馬台国」に注を入れたとすると、「邪馬壹の音が訛る也」となっていたことになります。邪靡堆は魏の都であったのです。

おわりに
『隋書』の「邪靡堆」は魏の時代の都です。
第一に『隋書』の俀国伝は「魏の時」、「漢の光武の時」、「安帝の時」と時代を区分して書かれています。「邪靡堆」は「魏の時」の文中にありますから、魏の時のことです。
第二に、唐の李賢は『隋書』、『北史』を読み、『後漢書』の邪馬台国に「案ずるに今の名は邪摩惟の音の訛る也」と注を記載しています。
邪馬壹を邪摩惟と表記したのは、邪靡堆を魏の都と確信したからです。
以上
(注)
『失われた九州王朝』、269頁~273頁。『古代は輝いていたⅢ』、142頁~145頁。いずれも、ミネルヴァ版。
(注2)第一に『隋書』の東夷伝は長里であることを確認します。『隋書』百済伝に「其國東西四百五十里,南北九百余里,南接新羅,北拒高麗」とあります。長里は一里=約五百三十二メートル(『漢辞海』の歴代度量衡表から隋の尺は三十一・一センチです。)、短里は一里=約七十七メートルです。東西の四百五十里は長里で約二百四十キロ、短里で約三十五キロとなります。朝鮮半島の東西の長さは概略二百十キロ~二百九十キロですから、長里が合致します。
第二に、「水陸三千里」を俀国の都までの距離とする説があります。距離とすると、百済・新羅の共通の起点は朝鮮半島の境界、釜山となります。俀国の都を九州とすると、釜山―大宰府付近は約二百三十キロ、近畿とすると、釜山―奈良付近は約七百キロです。三千里は千六百キロですから、いずれも該当しません。
第三に「水陸三千里」を『魏志』の狗邪韓国から末盧国までの三つの千余里の合計、三千里とする説があります。しかし、前史の距離を踏襲する場合に合計して継承する例を寡聞にして知りません。また、三千里は長里ですから短里説は不可です。いずれも距離説は成立しないのです。
(注3)各月行を地理上の距離から逆算すると、一月行は約二百キロで、東西五月行は千キロ、南北三月行は六百キロ、合計千六百キロとなり、列島の距離に合致します。
ただ、「一月行、二百キロ」は「一日行、約七キロ」となります。魏の頃の軍隊の一日の陸行距離は約十三キロと云われていますから、短いことになります。しかし、軍隊とは異なり、小人数の通常人が一カ月単位で歩行する場合、気象・季節・地形の影響、寝具・食料の運搬、食料確保、休息等の余分な日数が必要で、さらに、一月行は永年の経験値を標準化した数値です。全ての困難な状況も織り込んでいますかから、倭人の独特な数値です。
(注4)『北史』(百衲本二十四史)の俀国伝の冒頭部分の影印を掲載します。四行目に「邪摩堆」、はじめの行に「俀国」、終りの行に「俀奴国」があります。
これは会報の公開です。史料批判は、『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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