2023年12月13日

古田史学会報

179号

1,「朱鳥改元」と
「蛇と犬が倶に死ぬ」記事
 正木裕

2,柿本人麻呂と第一次大津宮
 日野智貴

3,柿本人麻呂系図の考察
 古賀達也

4,裴世清は十余国を陸行した
 
岡下英男

5,古田武彦古代史セミナー
2023に初参加の記
 倉沢良典

6,「邪靡堆(ヤビタイ)」とは何か
 野田利郎

7,「壹」から始める古田史学四十五
 倭奴国と邪馬壹国・奴国②
古田史学の会事務局長 正木裕

 

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裴世清は十余国を陸行した(会報179号) ../kaiho179/kai17904.html


裴世清は十余国を陸行した

京都市 岡下英男

1.はじめに

 『隋書』俀国伝には、俀王・多利思北孤のもとを訪れた隋使・裴世清の行路が記載されている。その行路記事の読解には、これまでに多くの説が報告されているが、それらの中で、解釈の分かれ易いところは「又十餘國を經て、海岸に達す。」の部分であろう。それは、この部分にある省略のせいである。
 俀国伝の省略の多い記述を日本の現地に当てはめる解釈には、当然、複数の可能性がある。例えば、「海岸に達す」の「海岸」には諸説あり、九州東岸、有明海沿岸、難波沿岸などが比定されている。
 本稿では、右の箇所に着目して、難波の都で多利思北孤と面会するべく東行する裴世清の行路記事について考察した。

2.省略された箇所は読んで得られたイメージで補われる

 『隋書』の読者は、裴世清の行路記事を、その行路の各段を脳内にイメージしながら読み進める。
 前述のごとく、裴世清の行路の記述には省略された箇所が存在する。読者は、それを、それより前の記述で得られたイメージからの想像によって補う。それは、当時の読者は現在私たちが持っているような日本列島の地理的情報は持っていない、持っているのは、既に読んだ記述から同時進行的に作り上げたイメージだけだからである。読者は、そのイメージを基に次の記述を理解するであろう。
 本稿では、裴世清の行路記事が、基本的に、右のような読み方を期待して編纂
されていると考えた。

3.『隋書』俀国伝の記事

 解釈の基となる俀国伝の記事の関係部分の原文と読み下しを掲載する。読み下しに番号を付けた箇所は解釈が分かれ易いところで、これらについて私の考えを述べる。
【原文】
明年、上遣文林郎裴清使於俀國。度百濟、行至竹島、南望𨈭羅國、經都斯麻國、逈在大海中。又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國、其人同於華夏、以為夷洲、疑不能明也。又經十餘國達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於俀。俀王遣小德阿輩臺、從數百人、設儀仗鳴鼓角來迎。後十日、又遣大禮哥多毗、從二百餘騎郊勞。既至彼都、其王與清相見、大悦、曰「我聞海西有大隋、禮義之国、……」
【読み下し】
 明年、上、文林郎裴清を遣わして俀國に使せしむ。百濟を度り、行きて竹島に至り、南に𨈭羅國を望み、都斯麻國を經て、逈かに大海中に在り。又東して一支國に至り、又竹斯國に至り、又東して秦王國に至る。其人華夏に同じ、以って夷洲と為すも、疑うらくは明らかにする能わざるなり。
 ①又十餘國を經て、②海岸に達す。竹斯國より以東は、皆な俀に附庸す。
 俀王、小德阿輩臺を遣わし、數百人を從え、儀仗を設け、鼓角を鳴らして來り迎えしむ。後十日、又大禮哥多毗を遣わし、二百餘騎を従え郊勞せしむ。既にして彼の都に至る。其の王、清と相見え、大いに悦んで、曰く、「我聞く、海西に大隋禮義の国有と、……」
(原文、読み下し文は岩波文庫『魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』による。ただし、倭は俀に戻した。)

4.「經十餘國達於海岸」をどのように読むか

 裴世清の行路記事で解釈が分かれ易い部分(前項の読み下し文の①又十餘國を經て、②海岸に達す)について、私は以下のように考える。

①「又十餘國を經て」の解釈
a「又十餘國を經て」は東へ進む陸行である。
裴世清は竹斯國から東に進んで秦王國に至っている。ここから東行がイメージされる。以降、東以外の方位の指示がないから、東行のイメージが維持される。十余国は竹斯國から見て秦王國を越えてさらに東の方向に在ることになる。
 さらに、十余国を経てから、初めて、海岸に達するのであるから、その間に海岸は無い。つまり、裴世清は十余国を東方に陸行したのである。進む方向を変えるとか引き返すという理解はできない。裴世清は九州の東部、即ち、東岸へ向かって陸行したのだ。
b「経」から陸行がイメージされる
 裴世清が陸行したとする解釈は、「経て」という表現から補強される。
 「経」は、読み下しでは「経る」であるが、意味が明確ではないので、これをどのように理解するべきかと考えてみた。「経」は、名詞としては織物の縦糸の意味を持つから、裴世清一行を経糸とすれば、これに対応して、十余国は織物
の横糸となる。つまり、裴世清一行と十余国は縦横の関係にあり、「経る」は十余国を「めぐる」・「通過する」などの意味に理解するのが適切となろう。ここからも、読者には、境界を接する十余国を通過する陸行がイメージされると考える。
 なお、「経る」は、十余国よりも先に、都斯麻國(対馬)にも「都斯麻國を經て(經都斯麻國)」と使われている。対馬は南北に細長く、従って、古代、船で東西に航行する際には、そのほぼ中央の地狭部(一番狭い場所)で船を乗り換えた(例えば、遣唐使も、東岸で下船し、陸上を経由して西岸へ移動し、そこで西に向かう船に乗り変えた)と伝わっている。裴世清一行もこの地狭部を西岸から東岸へ陸行したのではなかろうか。水行から上陸・陸行し、再び水行する、織物の経糸が横糸をめぐるように。
 このように、「経る」は陸上を通過する陸行を意味すると考える。

②「海岸に達す」の解釈
a「海岸に達す」は港に着いたことを意味する
 裴世清は陸行して、つまり、陸側から海に達したのであるから、「海岸に達す」は港に着いたことを意味する。
 竹斯国から東行して九州東岸に達したとき、古代、そこには港があったかといえば、そこには「豊の秋津」があったのである。
 古田武彦氏は、『盗まれた神話』の中で、『日本書紀』の国生み神話に出てくる「大日本豊秋津州」の解釈を、概略、

次のように書かれている。
「豊秋津」とは「豊の国のアキの港」である。それは、現在、大分県の国東半島に安岐という地名、安岐川という川の名に残っている。さらに、「アキ津」は別府湾全体を指す可能性も言われている。
b 海岸に達したら、以後の水行と上陸がイメージされる
 港に着けば、以降の行路として水行がイメージされる。水行からは、目的地の港に上陸することがイメージでき、さらに、上陸した地点で俀王の郊労を受けたという記述につながる。先に述べたように、裴世清の行路の方向は、竹斯国から秦王国へ進む方向の東を最後として、以後、記載されていないから、海岸に達した後の水行においてもその方向が維持されたと考える。つまり、裴世清は瀬戸内海も東航して難波に到着したのである。
「海岸に達す」は、多くの意味を持たせた簡潔な表現なのである。

5.「海岸に達す」の解釈を比較する

 裴世清が九州から東行して、難波で俀王の歓迎を受けたと理解する場合の、行路の記述で省略された部分を考える。
 「海岸」を目的地(難波)とし、十余国を瀬戸内海沿岸の国々とする説がある。この場合には、十余国を経る航路は水行となるが、「十余国を経て(經十餘國)」を読んだ時点では「経る」が水行であるとはイメージし難い。「海岸に達す(達於海岸)」を読んでから、初めて、先の「經十餘國」の「経る」が水行だと、後戻りしてイメージすることになる。
 これに対して、「海岸」を九州東岸の港と理解すると、そこからは水行する、水行すれば、当然、どこかの港に上陸する、つまり、目的地(難波)に上陸して?王の臣下の歓迎を受ける、と前へ前へと、容易にイメージできる。
 このように、二通りの解釈に、行路のイメージに難易の差があると考える。

6.推定した裴世清の行路

 以上から裴世清の行路を纏めて次のように考える。
・裴世清は九州に上陸後、一貫して東行して、難波を目指した。
・その際、竹斯國から東行して秦王國へ、さらに九州内部を陸行して東に向かい、十余国を通過し,九州東岸に達した。
・海岸に達したらそこは港であり、以降の行路は水行となり、やがて目的地(難波)に到着・上陸することがイメージされる。
・以後、裴世清は俀国伝の記述の如く、そこで俀王の臣下の歓迎を受け、次いで、俀王の都に入り、俀王と面会した。この時代、日本列島全体が俀国の勢力下にあり、俀国王は難波に居たのである。


 これは会報の公開です。史料批判は、『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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