2023年12月13日

古田史学会報

179号

1,「朱鳥改元」と
「蛇と犬が倶に死ぬ」記事
 正木裕

2,柿本人麻呂と第一次大津宮
 日野智貴

3,柿本人麻呂系図の考察
 古賀達也

4,裴世清は十余国を陸行した
 
岡下英男

5,古田武彦古代史セミナー
2023に初参加の記
 倉沢良典

6,「邪靡堆(ヤビタイ)」とは何か
 野田利郎

7,「壹」から始める古田史学四十五
 倭奴国と邪馬壹国・奴国②
古田史学の会事務局長 正木裕

 

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覚信尼と「三夢記」についての考察 -- 豅弘信論文への感想日野智貴(会報178号)

柿本人麻呂と第一次大津宮(日野智貴(会報179号) ../kaiho179/kai17902.html


柿本人麻呂と第一次大津宮

たつの市 日野智貴

はじめに

 本稿は令和三年に「柿本人麻呂「近江荒都歌」の解釈について」と題して例会で行った発表を現在の知見も踏まえて新たにまとめたものである。前回発表はA4用紙十枚に及ぶレジメであり、そのレジメは例会のみならずメールでも会員等の皆様に送らせていただいたが、長すぎ論点も多岐に渡るためコメントしにくいという旨のご指摘もいただいた。今回はなるべく簡単に、従来「近江荒都歌」とされていた万葉集29番歌(本稿では「大津宮歌」)が第一次大津宮を歌ったものであることを論じたい。
 なお、以前の発表で論じておきながら今回割愛した部分については、希望があればどなたにでも会員の皆様にはメールで以前の発表のレジメを送らせていただく。

 

従来説の読みと私の読み

 まず、「大津宮歌」の原文と従来の読み、私の読みとを掲載する。(原文<>内は写本の異同等がある)従来説と解釈の大いに異なる部分には波線を引き、以下説明を加える。

【原文】
玉手次 畝火之山乃 橿原乃 日知之御世従 [或云 自宮] 阿礼座師 神之<盡> 樛木乃 弥継嗣尓 天下 所知食之乎 [或云 食来] 天尓満 倭乎置而 青丹吉 平山乎超 [或云 虚見 倭乎置 青丹吉 平山越而] 何方 御念食可 [或云 所念計米可] 天離 夷者雖有 石走 淡海國乃 樂浪乃 大津宮尓 天下 所知食兼 天皇之 神之御言能 大宮者 此間等雖聞 大殿者 此間等雖云 春草之 茂生有 霞立 春日之霧流 [或云 霞立 春日香霧流 夏草香 繁成奴留] 百礒城之 大宮處 見者悲<毛> [或云 見者左夫思毛]
【従来説】
玉たすき 畝傍の山の 橿原の ひじりの御代ゆ [或云 宮ゆ] 生れましし 神のことごと 栂の木の いや継ぎ継ぎに 天の下 知らしめししを [或云 めしける] そらにみつ 大和を置きて あをによし 奈良山を越え [或云 そらみつ 大和を置き あをによし 奈良山越えて] いかさまに 思ほしめせか [或云 思ほしけめか] 天離る 鄙にはあれど 石走る 近江の国の 楽浪の 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇の 神の命の 大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言へども 春草の 茂く生ひたる 霞立つ 春日の霧れる [或云 霞立つ 春日か霧れる 夏草か 茂くなりぬる] ももしきの 大宮ところ 見れば悲しも [或云 見れば寂しも]

【日野説】
玉たすき 畝傍の山の 橿原の ひじりの御代ゆ 生れましし 神のことごと 栂の木の いや継ぎ継ぎに 天の下 知らしめししを 天に満つ 筑紫を置きて あをによし 奈良山を越え いかさまに 思ほしめせか 天離る 鄙にはあれど 石走る 近江の国の 楽浪の 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇の 神の命の 大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言へども 春草の 茂く生ひたる 霞立つ 春日の霧れる ももしきの 大宮ところ 見れば悲しも

 

「天尓満 倭乎置而」の訓読と意味

 通説では「天尓満 倭乎置而」を「或云」に示された「虚見 倭乎置」に釣られて「そらにみつ やまとをおきて」と読んできた。
 確かに「異伝」における「虚見」は「そらみつ」と読める。しかしながら、「天尓満」と「尓」の一文字の入っている本伝と正伝とは明らかに発音が異なる以上、「天」と「虚」とを同じ発音であるとする必要はない。
 「天」を「そら」と訓読されているのは、実は『万葉集』では例が多くない。29番歌以外では219番歌と2001番歌、3223番歌のみである。しかも3223番歌は定訓の無い歌であり、219番歌と2001番歌についても以前発表した通り「天」を「そら」と読む必然性はない。仮にこれらを「天」を「そら」とした用例であるとしても、『万葉集』全体の中では稀少な例であり、29番歌もそうであるという根拠にはならない。
 以前の発表では同じく柿本人麻呂による歌である219番歌の解釈についても論じたが、今回は量が多くなるため割愛する。しかしながら、仮に219番歌の「天」を「そら」と読んだとしても、それは膨大な人麻呂の歌の中での唯一の例であって、一般化できないこと、当然である。
 そもそも『万葉集』には「そらみつやまと」の例はあっても「そらにみつやまと」は管見の限り無いし、仮にあってもその「そら」に「天」を用いている例は無いはずだ。
 従って「天尓満」は「そらにみつ」ではなく「あまにみつ」と読むべきであり、そうすると「倭」を「やまと」と読む必要は無くなる。そこで私は「筑紫を置きて」と読んだ。
 「倭=筑紫」とすると問題となるのが「玉たすき 畝傍の山の 橿原の ひじりの御代ゆ」という言葉の意味である。これについて服部静尚氏から畝傍や橿原が実際には大和の地名では無いのではないか、という問題提起を以前いただいた。しかし、その後服部氏から大和以外に当該地名は見つからなかったとの連絡がきた。服部氏はそれを受けて、この歌を大和朝廷による統一以降の歌ではないか、との仮説を示された。
 確かに、異伝の「虚見 倭乎置」は「倭=大和」と印象付けたい勢力の意向を受けての“訂正”乃至“改竄”であろう。だが、その本伝は『万葉集』の29番歌をその記述通りに持統天皇の御代の歌であると解釈してみて、どうしても無理であった場合にのみ、時間をずらすべきではあるまいか。九州王朝説に立った場合、持統天皇の時代に於いて「倭」は「筑紫」か「九州王朝が統治する国家」を指す。
 そして、以前の発表で指摘した通り「筑紫を置きて」は「筑紫から移動して」というだけではなく「筑紫を差し置いて」という意味でも解釈できる。そうすると大和に代々宮を構えた政権が「九州王朝(倭国)を差し置いて」大津宮に遷宮した、という意味の歌となる。
 なおこれは、第一次大津宮を作ったのは銅鐸圏では無く景行天皇(又は成務天皇)であったとする解釈である。銅鐸圏討伐記事が忍熊王討伐記事に盗用された可能性をも否定する訳では無いが(その説を肯定もしない)、「橿原近辺から大津へ」遷宮した人物は『日本書紀』における景行天皇以外、該当者がいないのである。銅鐸圏の王者が大津宮の前は橿原に宮を構えていた、或いは、九州に「畝傍」や「橿原」と言う地名があり、且つ九州王朝の王者がそこに住んでおり、そしてそこから大津宮に遷宮した(或いは、そこから銅鐸圏討伐の兵を派遣した)というような説を唱えるのではない限り、景行天皇による第一次大津宮遷宮を否定することは出来ないと言わざるを得ない。

「天皇の神の命」とはどういう意味か

 さて、ここまで来て問題になるのは「天皇之 神之御言能 大宮」の一節である。通説では「天皇の神の命」を「天智天皇」のことであるとする。そして「近江の国の 楽浪の 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ」を「天皇」に係る修飾語とする。より正確に言うと「近江の国の 楽浪の 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇」で「天智天皇」を表し、さらに「の神の命」と二重、三重に敬称が付いたと考えるのである。
 だが、この「天皇の神の命の」は直後の「大宮」の修飾語である。「大宮」の修飾語のそのまた修飾語が「大宮」の名称である「大津宮」だ、と言うのは不自然である。これは「知らしめしけむ」とあるのを終止形に解釈するべきではないだろうか。つまり、ここで前半と後半に別れているのである。
 前半で注目すべき点は、柿本人麻呂が前半の主語を省略しているばかりか、その人物に「天皇」はおろか「吾大王」とすら述べていない、と言う点である。単に「天の下」(九州王朝の分国)を統治していた一族の人間が、九州王朝を差し置いて勝手に近江に行き新しい分国統治を始めた、と言っているに過ぎない。
 そんな中、後半ではいきなり「天皇之神之御言」と記されている。これを「天皇神命」と言う称号である、と解釈するのは流石に不自然ではないだろうか?
 柿本人麻呂は「吾大王」と言う漢字は頻繁に用いるが「天皇」と書くのは珍しい。その上、天皇を神格化したいだけであれば「天皇の命」だけで充分であるのに「天皇の神の命」とまで書くと、神格化を超えて「白々しい」とすら感じる。
 そもそも、古文は一般に「省略」が多い。同語反復は避けるのが普通である。余程強調したい場合は別だが、敗者への神格化を強調してどうするのか。第一、九州王朝の官人がどうして何百年も前の、既に亡んだ政権の長を「天皇」と呼ぶだけでも不自然なのである。

 ここで私は「の」の意味に注目した。これは「連体修飾格」の意味に解釈できる。「天皇にとっての神様」という意味での「天皇の神の命」である。
 そして、この「神」とはどういう存在か。それは、同時期に作られ同じく大津宮について詠んだ和歌に答えがあった。高市古人の歌である。
33番歌 「樂浪乃 國都美神乃 浦佐備而 荒有京 見者悲毛」
(楽浪の国つ御神のうらさびて荒れたる都見れば悲しも)

 単に「国つ神」ではなく「国つ御神」と詠んでいる。こちらは敗者の側に立つ人なのであろう。
 同時代に同じテーマで作られた和歌における「神」は、同じ存在を指す可能性が高い。それを前提にすると、この「神」は「天皇にとっての神」であると同時に「近江(大津宮)に関係の深い神」でもある。
 持統天皇が「天皇」であったとする古賀説に立つと、ここでいう「天皇」は「持統天皇」のことである。柿本人麻呂は敢えて「吾大王」とは言わなかった。また「皇」ではなく「天皇」と書いたのも意味がある。単に「皇」と書けば九州王朝の天子を指すと思われる。
 つまり、ここでいう「神」とは「持統天皇らの氏神(祖先神)」であって、しかも近江と関係の深い「景行天皇・成務天皇・仲哀天皇・忍熊王」らを指す。
 ここまでの内容を踏まえてこの歌の大意を示すと次のようになる。
〔大意〕畝傍の山の橿原の偉人(神武天皇)の時代から生まれ来た神々が代々天(より神勅で統治権を委ねられた筑紫)の分国を統治してきたのであるが、天に満ちている(ぐらい偉大である)筑紫を差し置いて(勝手に)奈良山を越え、一体何を考えたのか、天から遠く離れた田舎ではあるが、近江の国の楽浪の大津宮で分国統治を始めたのである。(今の)天皇の(祖先である)神々の大宮(大津宮)はここにあったと聞くけれども、(神々の)御殿はここにあったと言うけれども、今は春草が茂って伸びている。霞が立って春の日差しが霞んでいる、この大宮の(かつてあった)ところを見ると哀しいものだ。
 この歌は決して敗者への同情などではない。九州王朝の官人である柿本人麻呂が、倭国のナンバー2として我が物顔でいる持統天皇に対して「貴女のご先祖様は偉大な神様でしたね」と表向き称えつつ「貴女の先祖が九州王朝に対する反逆者であったことは忘れない」と、強烈な皮肉を込めているのである。

まとめ

 私の「近江荒都歌」の解釈は次のようになる。
 九州王朝の「分家」として神武天皇が「橿原」「畝傍」の地に政権を樹立した。ところが十世代以上が経過し、景行天皇とその子である倭建命や成務天皇、孫である仲哀天皇らは九州王朝と対立した。九州王朝を無視して近江に(第一次)大津宮を作った。だが、結局、仲哀天皇は九州王朝との戦争中に戦死した。
 人々の記憶に残ったのは「大和の王者が九州王朝に反乱を起こしたが、敗れた。あれは神様の怒りを招いたのであろう。」ということであった。そのような社会に柿本人麻呂も誕生し、九州王朝に仕えた。
 だが、時代は変遷する。九州王朝は唐との戦いのため、あの「近江」に遷宮したその「第二次大津宮」は、「神の怒りを買った」仲哀天皇の子孫である天智天皇に乗っ取られた。
 天智の息子・弘文天皇は壬申の乱で敗死するが、気が付くと天智天皇の娘である持統天皇が即位し「天皇」と呼ばれるようになっていた。「神の怒り」など、遥か昔の話となっていた。むしろ「神の怒り」を受けたはずの仲哀らは持統らにとっての「氏神」だったのである。
 九州王朝の臣下であった柿本人麻呂は、「第一次大津宮」の跡地を探した。九州王朝の勝利した時代を確認したかった。だが、そこには数百年の間に跡形もなく消えた、廃墟が広がるばかりであった。そして、その廃墟の主はもはや「神の怒りを買った反逆者」ではなく、時の権力者である「天皇」から「氏神様」と崇められているのである。そのことを歌にしたのが「近江荒都歌」であった。


 これは会報の公開です。史料批判は、『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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