2010年6月5日

古田史学会報

98号

1,禅譲・放伐
 木村賢司

2,九州王朝
の難波天王寺
 古賀達也

3,越智国に
紫宸(震)殿が存在した
 今井 久

4,「天 の 原」はあった
古歌謡に見る九州王朝
 西脇幸雄

5,「三笠山」新考
和歌に見える
九州王朝の残映
 古賀達也

6,能楽に残された
九州王朝の舞楽
 正木裕

7,穴埋めヨタ話3
一寸法師とヤマト朝廷

 西村

 

古田史学会報一覧

法隆寺移築考 古賀達也(会報92号)

「法隆寺の菩薩天子」 古賀達也(会報97号)


九州王朝の難波天王寺

京都市 古賀達也

天王寺と四天王寺

 拙稿「法隆寺の菩薩天子」(『古田史学会報』九七号)の末尾で触れましたように、『二中歴』所収「年代歴」の九州年号「倭京」細注にある「二年(六一九年)、難波天王寺を聖徳が建てる。」(古賀訳)という記事中の難波が、摂津難波と博多湾岸にあったと考えられている「難波」のいずれなのかというテーマを検討し始めた当初から、わたしには気にかかっていたことがありました。現在の「結論」は摂津難波と考えていますが、その場合、大阪に今もある四天王寺と『二中歴』の天王寺がはたして同じ寺かという問題でした。もっとはっきり言えば、四天王寺と天王寺とどちらが本来の名称なのかという疑問でした。
 関西の方なら特にご存じのはずですが、お寺の名前は四天王寺ですが、現地名は天王寺区なのです。古い地図にも「天王寺村」と記されていますから、地名が天王寺であることは間違いありません。考えてみれば、これは大変不可解な現象です。
 四天王寺というお寺は聖徳太子が建立したと『日本書紀』にも記されており、古代からあった名称であることは確かと思いますが、それならその四天王寺が建てられた場所としての地名も「四天王寺村」であるはずで、寺名とは異なる「天王寺村」とはしないはずです。しかし、事実は「天王寺村」であり「四天王寺村」ではないのです。
 また、もともと「四天王寺村」であったのが、いつのまにか「天王寺村」に変わったということも考えられません。何故なら、お寺の四天王寺は現在まで立て替えはあっても、当地に存続しているのですから、勝手に寺名とは異なる村名に変えることなどできないのではないでしょうか。また、する必要もありません。
 そうすると、考えられるケースはただ一つ。天王寺村の由来となった本来の寺名は「天王寺」だった。このケースです。すなわち『二中歴』に記された「天王寺」が正しく、『日本書紀』の四天王寺は別の場所に建てられた別のお寺だった。あるいは、本来「天王寺」という名前のお寺が、九州王朝滅亡後に大和朝廷により四天王寺と名称変更されたのではないでしょうか。現存地名「天王寺」の存在が、この論理性を支持する動かぬ証拠なのです。
 この論理性の帰結からも、『二中歴』の「倭京二年(六一九年)、難波天王寺を聖徳が建てる。」という記事が正しかったこととなります。すなわち、この難波は摂津難波であり、天王寺は大阪市天王寺区にあった「天王寺」のことだったのです。『二中歴』編者は『日本書紀』に影響されて「難波四天王寺」とすることはせずに、原史料に忠実に「難波天王寺」と記したのです。更には、九州年号と共に記されたこの記事は、九州王朝の事績であり、この時代の摂津難波は九州王朝の直轄支配領域だったのです。

 

天王寺の古瓦

 現在の四天王寺は地名(旧天王寺村)が示すように、本来は九州王朝の天王寺だったとしますと、その創建は『二中歴』所収「年代歴」の九州年号「倭京」の細注「二年、難波天王寺を聖徳が建てる。」(古賀訳)という記事から、六一九年になります。
 他方、『日本書紀』には四天王寺の創建を推古元年(五九三)としています。あるいは、崇峻即位前紀では五八七年のことのように記されています。いずれにしても、倭京二年(六一九)より約二〇~三〇年も早いのです。どちらが正しいのでしょうか。
 ここで考古学的知見を見てみましょう。たとえば、岩波『日本書紀』の補注では四天王寺の項に次のような指摘があります。
 「出土の古瓦は飛鳥寺よりも後れる時期のものと見られる点から、推古天皇末年ごろまでには今の地に創立されていたと考えられる。」(岩波書店日本古典文学大系『日本書紀・下』五五八頁)
 『日本書紀』では飛鳥寺(法興寺)の完成を推古四年(五九七)としています。四天王寺出土の古瓦はそれよりも後れるというのですから、七世紀初頭の頃となります。そうすると『二中歴』に記された倭京二年(六一九)に見事に一致します。従って、考古学的にも『日本書紀』の推古元年(五九三)よりも『二中歴』の方が正確な記事であったこととなるのです。このことからも、この寺の名称は『日本書紀』の四天王寺よりも『二中歴』の天王寺が正しいという結論が導き出されます。
 このように、地名(旧天王寺村)の論理性からも、考古学的知見からも四天王寺は本来は天王寺であり、倭京二年に九州王朝の聖徳により建立されたという『二中歴』の記述は歴史的真実だったことが支持されるに至ったのです。この史料事実と考古学的事実という二重の論証力は決定的と言えるのではないでしょうか。

 

二つの四天王寺

 現在の四天王寺は、元々は九州王朝が倭京二年(六一九年)に創建した天王寺だったとする私の仮説には、実は越えなければならないハードルがありました。それは、『日本書紀』に建立が記された四天王寺は何処にあったのか、あるいは建立記事そのものが虚構だったのかという検証が必要だったのです。
 崇峻紀や推古紀に記された四天王寺建立記事が全くの虚構とは考えにくいので、わたしは本来の四天王寺が別にあったのではないかと考え、調べてみました。すると、あったのです。
 難波宮跡の東方にある森之宮神社の社伝には、もともと四天王寺は今の大阪城公園辺りに造られたとあるのです。あるいは、平安期の成立とされる『聖徳太子伝暦』にも、「玉造の岸に始めて四天王寺を造った」との記録がありました。遺跡などの詳細は不明ですが、今の大阪城付近に初めて四天王寺が造られたとの伝承や史料があったのです。
 これらの事実は、現在の四天王寺は九州王朝の天王寺であって、『日本書紀』の記す四天王寺ではないとする、私の仮説にとって偶然とは言い難い大変有利な証拠でもあるのです。この「二つの四天王寺」問題と「九州王朝の難波天王寺」仮説は、『日本書紀』の新たな史料批判の可能性をうかがわせます。このことも、追々、発表していきたいと思います。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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