2010年4月5日

古田史学会報

97号

1,九州年号「端政」
と多利思北孤の事績

 正木裕

2,天孫降臨の
「笠沙」の所在地
 野田利郎

3,法隆寺の菩薩天子
 古賀達也

4,東日流外三郡誌の
科学史的記述について
の考察
 吉原 賢二

付記 編集便り

5,纒向遺跡 
第一六六次調査について
 伊東義彰

6,葦牙彦舅は
彦島(下関市)の初現神
 西井健一郎

 

 

 

古田史学会報一覧

法隆寺移築考 古賀達也(会報92号)

「三笠山」新考 -- 和歌に見える九州王朝の残映 古賀達也(会報98号)

纏向遺跡は卑弥呼の宮殿ではない 古賀達也(会報96号)


法隆寺の菩薩天子

京都市 古賀達也

法隆寺の本尊と菩薩天子

 二月の関西例会で正木さんから発表された、九州年号「端政」(五八九~五九三)の語源と出典に関する発見はわたしに新たな視点と示唆を指し示してくれました。それは法隆寺の最初の本尊についての問題でした。
 今でこそ法隆寺の本尊は釈迦三尊像ですが、この釈迦像は倭国の天子、多利思北孤(上宮法皇)が没した翌年(癸未年:六二三年)に造られたと、その光背銘に記されています。他方、近年の年輪年代測定の成果により法隆寺五重塔の心柱の伐採年が五九四年であったことが判明し、五重塔や金堂が七世紀初頭に別の場所に建立されていた可能性が高くなっています(その後、和銅年間に現在地に移築)。そうしますと、法隆寺建立から釈迦像が造られた六二三年までの期間は別に本尊があったことになり、その元の本尊は何だったのだろうか。このような問題意識を漠然と持ち続けていたのですが、正木さんの研究によりこの問題が一気に発展したのです。
  九州年号「端政」が菩薩の顔の様相を表現した仏教用語であったとする正木さんの発見は、端政年号の時の倭国の天子、多利思北孤が『隋書』にあるように隋の天子を海西の菩薩天子と呼び、同時に自らを「海東の菩薩天子」と認識していたとする古田先生の指摘とも見事な一致を示します。菩薩の顔の様相である「端政」という年号に、自らを菩薩天子とする多利思北孤の強い意志が感じられるのです。
 こうした視点に立ったとき、法隆寺建立当初の本尊は菩薩像ではなかったのか。もしそうであれば、法隆寺夢殿に長く秘仏として蔵されていた救世観音菩薩像こそ本尊に最もふさわしく、その可能性が最も高いことに気づいたのです。
 釈迦三尊像が上宮法皇の「尺寸の王身」と光背銘に記されているように、そのモデルは倭国の菩薩天子、多利思北孤です。そして、釈迦像と顔がそっくりの夢殿の救世観音菩薩も、天平宝字五年(七六一年)の『東院資財帳』に「上宮王等身観世音菩薩像」と記されているように、やはりモデルは多利思北孤と考えられるのです。これらのことから、法隆寺建立当初の本尊は、夢殿の救世観音像との考えに到達したのです。

 

菩薩天子と現人神

  法隆寺建立当初(七世紀初頭頃)の本尊が、夢殿の救世観音だったとするわたしの仮説が正しければ、多利思北孤は自らを菩薩天子と認識していたのみならず、自らの姿に似せた菩薩像を本尊としたことになります。ここに新しいテーマが出現するのです。それは日本仏教思想史上のテーマです。
 すなわち、仏教国において、時の最高政治権力者が自らに似せた仏像を崇拝の対象にさせたというテーマです。このような先例が古代アジアの仏教国にあったのかどうか、今後調べてみたいと思いますが、権力者の仏教信仰において、まず思い起こされるのが中国南朝梁の武帝の逸話ではないでしょうか。
 梁の武帝は仏教を深く信仰し、度々仏前に捨身し三宝の奴と称したほどで、この時代、南朝では仏教が興隆しました。日本でも聖武天皇が自らを「三宝の奴」と称した宣命が『続日本紀』に記されていることは有名です(天平勝宝元年四月:七四九)。
  こうした例から、権力者が仏教に帰依している、いわゆる仏教国においては仏法僧の三宝が上位で、世俗の権力者が相対的に下位にあるものと、わたしはこれまで理解していました。ところが、仏教国である九州王朝倭国では世俗権力のトップが菩薩天子となり、その姿に似せた菩薩像を崇拝の対象にさせたとすれば、何とも異質な宗教観が倭国には存在していたように思われるのです。おそらく、キリスト教国やイスラム教国では絶対に起こり得ない現象ではないでしょうか。もちろん、一神教と多神教の差異がありますので、単純な比較はできないでしょうが。
 それでは、こうした「異質」な宗教観は多利思北孤の時代に始めて成立したのか、それともずっと以前からあったものなのでしょうか。おそらく、日本列島や倭国において、仏教伝来以前から存在した宗教観のように思われます。それは、『日本書紀』の景行紀や雄略紀に見える「現人神」(あらひとがみ)という表現に表された、神が人間の姿となって現れる、あるいは「天皇」を現人神とする宗教観が淵源ではないかと考えています。『万葉集』に見える「大君は神にしあれば」という表現も同類の思想です。
 すなわち、九州王朝では天子やトップを「現人神」とする伝統があり、仏教を受け入れて以降は「現人仏」「現人菩薩」「菩薩天子」などへと「発展進化」したのではないでしょうか。中国での「菩薩天子」「如来天子」思想の調査研究を含めて、新たな研究テーマにしたいと思います。

 

法隆寺と難波

 『日本書紀』天智紀に記された法隆寺(若草伽藍)焼失後、和銅年間頃、跡地に移築された現法隆寺の移築元寺院の所在地や名称について、古田学派内で検討が進められてきましたが、未だ有力説が提示されていないように見えます。わたし自身も、倭国の天子である多利思北孤の菩提寺ともいうべき寺院ですから、九州王朝倭国の中枢領域にあったはずと考え、筑前・筑後・肥前・肥後を中心に調査検討を行ってきましたが、有力な手掛かりを見いだせずにきました。
 しかし、近年到達した前期難波宮九州王朝副都説により、摂津難波も九州王朝が副都をおけるほどの直轄支配領域であるという認識を持つに至ったことから、この地も法隆寺移築元寺院探索の調査対象に加えるべきではないかと考えています。
 前期難波宮が九州王朝の副都として創建されたのは六五二年、九州年号の白雉元年ですが、それ以前の七世紀前半から摂津難波が九州王朝にとって寺院建立の有力地であった史料根拠があります。それは現存最古の九州年号群史料として著名な『二中歴』所収「年代歴」です。そこには、九州年号「倭京」の細注に次の記事があります。  「二年(六一九年)、難波天王寺を聖徳が建てる。」(古賀訳)  倭京二年に九州王朝の聖徳と呼ばれていた人物が難波に天王寺を建てたという内容ですが、当初わたしはこの記事の難波を博多湾岸の「難波」という地名と考え、その地に天王寺が建てられたと考えていました。しかし、筑前の「難波」であれば、九州王朝内部の記事ですから、単に天王寺を建てたとだけ記せば、九州王朝内の読者には判るわけですから、「難波」は不要なのです。しかし、あえて「難波天王寺」と記されているからには、筑前ではなく摂津難波の難波であることを特定するための記述と考えざるを得ません。
 たとえば、同じ『二中歴』「年代歴」の九州年号「白鳳」の細注に「観世音寺東院造」と寺院建立記事がありますが、こちらには観世音寺の場所に関する記述がありません。それは観世音寺と言えば太宰府の観世音寺であることは九州王朝内の読者には自明なことであり、従って、わざわざ「筑紫観世音寺」などとは表記されなかったのです。ですから、「難波天王寺」とあれば、読者には摂津難波の天王寺と理解されるように記されたと考えるほかないのです。
 また、倭京二年の建立とされていますが、倭京は多利思北孤の時代の九州年号です。その二年に「聖徳」という人物が建てたというからには、これも同様に聖徳と記せばわかるほどの九州王朝内の有力者と考えられます。恐らく、多利思北孤の太子である利歌弥多弗利のことではないでしょうか。多利思北孤の太子である利歌弥多弗利が聖徳と称されていれば、文字通り「聖徳太子」となり、この利歌弥多弗利の伝承や業績が、『日本書紀』に盗用されたのものが、いわゆる聖徳太子記事ではないかと推察しています。
 このように、九州王朝は七世紀前半の倭京二年(六一九年)に、難波に天王寺を建立していた史料根拠があるのですから、天王寺以外にも多利思北孤自身が建立した寺院が摂津難波にあっても不思議ではないのです。地理的にも、遠く九州の寺院を移築するよりも、摂津難波の寺院を移築した方がはるかに容易ですから。
 このような認識の進展により、法隆寺移築元寺院の探索地に摂津難波を加えなければならないと考えています。更には、難波の四天王寺の調査研究も九州王朝との関係から再検討しなければならないと思っているのです。
 (ホームページ洛中洛外日記に若干の修正を加え転載:編集部)


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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