2010年4月5日

古田史学会報

97号

1,九州年号「端政」
と多利思北孤の事績

 正木裕

2,天孫降臨の
「笠沙」の所在地
 野田利郎

3,法隆寺の菩薩天子
 古賀達也

4,東日流外三郡誌の
科学史的記述について
の考察
 吉原 賢二

付記 編集便り

5,纒向遺跡 
第一六六次調査について
 伊東義彰

6,葦牙彦舅は
彦島(下関市)の初現神
 西井健一郎

 

 

古田史学会報一覧

九州年号の改元について(前編) (後編)正木裕
能楽に残された九州王朝の舞楽 正木裕(会報98号)

九州王朝から近畿天皇家へ -- 「公地公民」と「昔在むかしの天皇」 正木裕(会報99号)


九州年号「端政」と多利思北孤の事績

川西市 正木裕

 本稿第一章では、能楽の大成者である世阿弥の『風姿花伝』から、九州王朝の天子「多利思北孤」の倭国を六十六国に分国した事績が伺われる事、第二章では、九州年号「端政」が仏教上の用語であり、多利思北孤の即位年号に相応しい事、一・二章を通じ、「端政」年間に九州王朝は「隋」の脅威に備え、河内・難波に進出、仏教を梃子として集権体制を強化したと考えられる事を述べる。

 

第一章 『風姿花伝』の中の多利思北孤

1、多利思北孤の六十六カ国分割

 『聖徳太子傳記』(一三一八年頃成立。以下『傳記』)によれば、太子十八才の時に、倭国を六十六カ国に分割したと記されている。

■『聖徳太子傳記』
太子一八才御時
春正月参内して国政を執行したまへり。神代より人王十二代景行天皇の御宇に至るまでは国未だ分れず、十三代成務天皇の御時に始めて三十三ヶ国に分らる。太子又奏して六十六ヶ国に分ち玉へり。

 古賀達也氏は、高良玉垂命や「法興」年号の研究から、六十六カ国分割は多利思北孤の事績とされる。その要旨は以下の通りだ。(註1)

■『傳記』には「九州年号」が散見され、これは九州王朝系資料からの引用と考えられる。その中で聖徳太子の生年を九州年号「金光」三年壬辰(五七二)年としており、太子十八才は五八九年・九州年号「端政」元年となるが、
(1). 『太宰管内志』によれば、筑後遷宮期における倭王の称号と考えられる高良玉垂命がこの年に薨去している(註2)
(2).釈迦三尊像光背銘から多利思北孤の年号と判断される「法興」の元年が五九一年であり、玉垂命は多利思北孤の前代と思われる。
から、端政元年(五八九)に「多利思北孤は自らの即位と同時に九州の分国と天子の呼称を用いたのではあるまいか」とされる。つまり『傳記』で六十六国分国を行った「聖徳太子」のモデルは多利思北孤となるのだ。

 

2、『風姿花伝』と聖徳太子六

 ところで『傳記』成立の少し後に生まれた世阿弥(一三六三~一四四三)の著『風姿花伝』(以下『花伝』)では、日本国の能楽の祖は聖徳太子であり、秦河勝に命じ「六十六番の遊宴」と「六十六番のものまね」及び「六十六番の面の製作」を行わせ、面は河勝に与へたと記される。 また、能楽の由来を神道や仏教に求め、祇園精舎建立供養に際し、釈迦如来が十大弟子の一人舎利弗に六十六番のものまねをさせた説話を記す。

■世阿弥『風姿花伝』
【序】それ、申楽延年のことわざ、その源を尋ぬるに、(略)、推古天皇の御宇に、聖徳太子、秦河勝におほせて、かつは天下安全のため、かつは諸人快楽のため、六十六番の遊宴をなして、申楽と号せしよりこのかた、代々の人、風月の景を仮って、この遊びのなかだちとせり。そののち、かの河勝の遠孫、この芸を相続ぎて、春日・日吉の神職たり。(略)

第四【神儀云】(略)一、仏在所(インド)には、須達長者、祇園精舎を建てて供養のとき、釈迦如来御説法ありしに、堤婆、一万人の外道をともなひ、木の枝・篠の葉に幣をつけて、踊りさけめば、御供養のべがたかりしに、仏、舎利弗に御目を加へたまへば、佛力を受け、御後戸にて、鼓・唱歌をととのへ、阿難の才覚、舎利弗の知恵、富楼那の弁舌にて、六十六番のものまねをしたまへば、外道、笛、鼓の音を聞きて、後戸に集まり、これを見てしづまりぬ。(略)一、日本国においては、欽明天皇御宇(五四〇~五七二)に、大和国泊瀬の河に、洪水のをりふし、河上より、一の壺流れくだる。三輪の杉の鳥居のほとりにて、雲各この壺をとる。なかにみどりごあり。貌柔和にして玉のごとし。これ降り人なるがゆゑに、内裏に奏聞す。(秦河勝の出自略)上宮太子、天下すこし障りありし時、神代・仏在所の吉例にまかせて、六十六番のものまねを、かの河勝におほせて、同じく六十六番の面を御作にて、すなはち河勝に与へたまふ。橘の内裏の柴宸殿にてこれを勤す。天治まり国しづかなり。(略)河勝、欽明・敏達・用明・崇峻・推古・上宮太子につかへたてまつる。(略)上宮太子、守谷の逆臣をたいらげたまひし時も、かの河勝が神通方便の手にかかりて、守谷は失せぬと云々。

 『傳記』に六十六番遊宴譚は無いから、世阿弥は別系列の伝承から採って『花伝』に記したものと思われるが、両者の共通点は多い。それは、共に「聖徳太子」の事績とされる事や、六十六という数字が一致しているだけではない。
 秦河勝が欽明期の生まれで、「崇峻・推古・上宮太子につかへた」という『花伝』の記述と、『傳記』の六十六分国の「端政」元年(崇峻二年・五八九)は時期的にも一致する(註3)。
 より厳密に言えば、六十六番遊宴は「天下すこし障りありし時」に行われ、その結果「天治まり国しづか」となったとされる。文面上でそのような例は「守谷の逆臣をたいらげたまひし時」だ。そして蘇我・物部戦争で物部守屋が滅んだのは『書紀』では用明天皇二年(五八七)秋七月。「端政元年(五八九)」は、守屋討伐後の混乱を鎮め「天治まり国しづか」となった時期だ。同時に対物部戦争が天下の権を競う一大決戦だった事は疑い得ず、戦に勝利したこの時点が六十六カ国分国を行うに相応しい事は言うまでもない。
 六十六番遊宴は六十六カ国分国の行われた「端政」元年頃の出来事と考えて不合理はないだろう。従って『花伝』の遊宴譚は、多利思北孤による六十六国分国に付随する伝承だと推測される。しかも『傳記』では不明な六十六という数字も、『花伝』を読めば仏教説話によるものとわかるのだ。
 分国にあたり六十六国の代表を参集させ、同時に饗宴や禄賜を行った事は容易に推測できる。その際六十六各国の歌舞披露があり、また下賜品には六十六の面等も含まれていたとするのは憶測が過ぎるだろうか。(註4)(分国や遊宴が多利思北孤の事績なら、守屋討伐も九州王朝の事績となるが、これは後述。)

 

3、六十六部廻国巡礼と多利思北孤

 こうした推測を補強するものとして「六十六部廻国巡礼」という風習があり、その起源は古代まで遡るとされる(註5)。その概要は次の通りだ。

■六十六部廻国巡礼とは、法華経を書写して全国の六十六カ国の霊場に一部ずつ納経して満願結縁する巡礼行をいい、巡礼に従事する行者を六十六部行者、六部行者、廻国聖などと呼んだ。(註6)

 なぜ「六十六」かについては、釈迦入滅後、弥勒菩薩の出現するまでの無仏時代に、経典は六十六か国に保管されたことからその霊場を巡って納札する六十六部信仰が生まれたとされる(*瑞龍山祥雲寺・桐生市HPより)が、注目すべきはこの風習が『法華経』信仰と深く結びついている事だ。ここではその資料を二つだけ挙げよう。

■『太平記』巻第五「時政参籠榎嶋事」北条時政の前世は箱根法師で『法華経』六十六部を六十六カ国の霊地に奉納したとする。

■『日寛上人(一六六五~一七二六)伝記』
師(日寛上人の事)修行者に問うて云く笈の後ろに書き附けある「納め奉る大乗妙典六十六部」とは如何なることぞや、行者答へて云く日本六十六箇の観世音菩薩に法華経一部充を納め奉りて後世得楽を祈るものなり(大石寺第四八世法主日量上人著一七七一~一八五一)

 そして『法華経』伝来も、九州王朝の事績を記した『二中歴』によれば、六十六分国のあった端政元年(五八九)なのだ。(註7)。
 また、六十六部巡礼で『法華経』は観世音菩薩に奉納されるが、多利思北孤は「海東の菩薩天子」を自負していたことは『隋書イ妥国伝』の記述から明らかだ。多利思北孤は分国と同時に自らを菩薩として見立てさせたのではないか。

■『隋書イ妥国伝』大業三年、その王多利思北孤、使を遣わして朝貢す。使者いわく、「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。故に遣わして朝拝せしめ、兼ねて沙門数十人、来って 仏法を学ぶ」と。


4、『花伝』『傳記』に見る多利思北孤

 以上、能楽の由来を説いた世阿弥の『風姿花伝』中の聖徳太子の秦河勝に命じた「六十六番の遊宴、ものまねと面」譚、及び法華経を六十六国の菩薩に納める六十六部廻国巡礼の風習の考察から、海東の菩薩天子を自負する多利思北孤は守屋討伐後、高良玉垂命の崩御を受け、「端政」元年天子に即位、法華経伝来や仏説に触発され倭国を六十六国に分割した。その際の六十六国の代表を参集させた式典(即位式典も兼ねるか)の伝承(六十六国の歌舞披露や面下賜があったのかもしれない)が『花伝』や『傳記』にとりこまれたのではないか。
 また、多利思北孤が「菩薩天子」を自負したのは、単に仏教を崇拝した事の誇示の為ではなく、政治上は勿論、六十六国全体に自らを宗教的崇拝の対象とさせるという「仏教による統治」を目指した事を示すものと推測される。
 六十六部廻国巡礼の風習は、各国に伝来直後の法華経経典を配布し仏教を流布すると共に、自らも菩薩天子として信仰の対象とさせた、その名残なのではないか。これも「廃仏派」物部守屋討伐後の出来事に相応しいだろう。
 釈迦三尊像光背銘文の「上宮法皇」の「法皇」、あるいは伊予温湯碑に記されていたとする「法王大王」とはまさに宗教上・政治上両面での最高権威であることを宣言した名称だったのだ。


第二章 九州年号「端政」と多利思北孤

1、九州年号「端政(正)」について

 それでは多利思北孤の即位した九州年号「端政」にはどんな意味があるのだろうか。
 『二中歴』で「端政」は、崇峻二年(五八九)から推古元年(五九三)までの五年間で、元年に法華経が唐から渡来したと記す。そしてこの年高良玉垂命が薨去した事は前章で述べた通りだ。(註8)「端政(正)」年号の意味は、字面を追えば「正しい政治」或は「正しい政治の始め」となろう。
【端】●2ただしい ●3ただす ●10はじめ
【政】●1ただす ●2まつりごと ●3おきて ●4おしへ(人の道)(*諸橋『大漢和』の抜粋)
 斉藤隆一氏は「表面的に仏教的要素が感じられない字を使っているので、この年に多利思北孤が即位したのではないか。(註9)」とする。「端」には「始め」の意味があり、「端政」は「即位」の意味を持つ事からの推察でこれも正しいだろう。
 しかし「端政(正)」は早くから中国で仏教用語として使用されていた。(註10)
 中国南北朝時代の僧「曇鸞(どんらん)」の作『讃阿弥陀仏偈』では、菩薩を「顔容端政(正)げんようたんじょう」、即ち「真実なる言葉とその行為に相応した顔をされている」と讃えている。

■『讃阿弥陀仏偈』
南無阿弥陀仏 釈して無量寿と名づく。『経』(大経)に傍へて奉讃す。(略)
【二一】 (略)菩薩の万行心眼を貫く。かくのごとき功無辺量なし。このゆゑに心を至して頭面をもつて礼したてまつる。
【二二】 安楽の声聞菩薩衆、人天、智慧ことごとく洞達せり。身相の荘厳殊異なし。ただ他方に順ずるがゆゑに名を列ぬ。顔容端正にして比ぶべきなし。精微妙躯にして人天にあらず。虚無の身無極の体なり。このゆゑに平等力を頂礼したてまつる。

  曇鸞は承明元年(四七六)~大統八年(五四二)中国南北朝時代の浄土教の第一人者。唐代浄土教大成の基礎をつくった。新宗七高僧の第三祖。(略)魏帝は彼を重んじて神鸞と号し、また南方の梁(五〇二~五五七)の武帝は北方に向かって鸞菩薩と呼んで礼拝したという。著書『浄土論註』『讃阿弥陀仏偈』(「ブリタニカ国際大百科事典」より)
 多利思北孤は「海東の菩薩天子」を自認し、かつイ妥国は南朝に臣従していた。従って南朝梁の武帝が崇拝する曇鸞が菩薩の顔容とする「端政」は、多利思北孤の年号として二重の意味で相応しいのだ。


2、蘇我・物部戦争と九州王朝の難波・河内進出

 では、「端政」年間はどんな時代だったのか。
 前章で九州王朝は対物部戦争に勝利したと述べた。「端政」改元直前に聖徳太子らは物部守屋を討ち、一帯を勢力圏に収める(註11)。守屋の本拠は難波・河内であるから、「聖徳太子」のモデルが多利思北孤(あるいはその太子の「利」)ならこれを契機に九州王朝は難波・河内に進出した事となる。
 その証左として、瀬戸内の九州年号資料には、「端政」年間に記事が多く見受けられる。これは九州王朝の天子・高官の頻繁な筑紫と畿内の移動を裏付けるものだ。

■『伊予三嶋縁起』(一五三六)
端政二(五九〇)暦庚戌自天雨降給。自端政二年至永和四年以七百十九年也。崇峻天皇位此代端政元暦配厳島奉崇。

■『豫章記』越智氏系図中、十五代目「百男」細注
端正二年(五九〇)庚戌崇峻天皇時立官也。其後都江召還。背天命流謫也。

■『万福寺子持御前縁起』(防長風土注進案一七二八)
推古天皇御宇端正元癸丑年ここなる銀鎖岩の上に鎮座し給ふ(*「癸丑」は五九三年推古元年。端正五年)足引宮は彼の飛車に打飛て大日本国長州厚狭郡本山村に到着あり、頃は推古天皇御宇端正元年癸丑十一月十三日午の刻とは聞へけり(*「厚狭あさ郡」は宇部市付近)

■伊都岐島神社縁起(厳島神社)
・推古天皇端正五年癸丑十一月十二日也○A ・推古天皇端正五年癸未(*癸丑の誤りか)・厳島明神ト申ハ推古天皇御宇癸丑端正五年・厳島神社推古天皇の御宇端正五年戊申十二月十三日厳島に来臨御座(註12)


3、『書紀』の六十六分国関連記事

 また、六十六分国のあった端政元年には、『書紀』に難波・河内の更に東国へ使者を派遣し「諸国の境を観しむ」との記事がある。これはまさに諸国分国の為の使者と取れるのではないか。

■崇峻二年(五八九)七月壬辰朔に、近江臣満を東山道の使に遣して、蝦夷国の境を観しむ。宍人臣鴈を東海道の使に遣して、東の方の海に浜(そ)へる諸国の境を観しむ。阿倍臣を北陸道の使に遣して、越等の諸国の境を観しむ。

 

4、「端政」年間の分国と難波・河内進出の背景

 では何故九州王朝はこの時期難波・河内に進出し、かつ六十六分国をおこなったのか。その最大の要因は「隋」の脅威だ。
 九州王朝の臣従していた南朝では、五五七年梁が滅び、江南に陳建国。後梁(西梁)とに分裂する中で勢力は衰退。一方北朝では五八一年に文帝が隋を建国し江南支配に向け準備を重ねていた。そして五八八年に文帝は、楊広(後の煬帝)を指揮官とし陳へ遠征。翌五八九年に陳の都・建康が陥落、陳は滅亡し南朝は途絶えた。
 多利思北孤の前代の九州王朝の天子が高良玉垂命とすれば、その本拠は筑後有明海沿いで、直線距離では隋は高句麗と同じ位の距離にしか過ぎない。東シナ海を挟んだ鼻先・対岸が臣従していた国を滅ぼした国、いわば仮想敵国となったのだ。
 こうした状況の下、九州王朝は隋の脅威に備え、物部を討伐し難波・河内に拠点を設けた。そして国力の涵養のため集権体制の確立を目指し、「仏教」を梃子とし、自ら「菩薩天子」と号して宗教と政治の両面で権力の掌握を図りつつ、地方統治制度を再編した。これが六十六国分割だ。六十六国分割に際しては、『豫章記』の端正二年(五九〇)に越智氏の百男が立官とあるように、当然新たな地域支配者の選任と、九州王朝への臣従が要請されたろうから、こうした再編を通じ九州王朝の地方統治は強化されたはずだ。
 後代常色・白雉期に、九州王朝は唐・新羅の脅威に対抗する為、難波遷都を行い、全国に評制を敷いたが、その先例は多利思北孤のこうした端政年間の対隋防備施策だったのだ。

(註1)古賀達也「国内資料に見える九州の分国」(『九州王朝の論理』二〇〇〇年五月明石書店)

(註2)■『太宰管内志』三瀦郡。御船山玉垂宮 高良玉垂大菩薩御薨御者自端正元年己酉(五八九)

(註3)『書紀』で秦河勝は、推古十一年(六〇三)、推古十八年(六一〇)、皇極三年(六四四)に記述あり。但し、欽明期(五四〇~五七二)に生まれ、推古十一年当時すでに「大夫」であるので、皇極三年記事に「東国不尽川辺の大生部多を打つ」とするのは年齢的に不審。
■『書紀』推古十一年(六〇三)十一月の己亥の朔に、皇太子、諸の大夫に謂りて曰はく、「我、尊き仏像有(たも)てり。誰か是の像を得て恭拝(ゐやびまつ)らむ」とのたまふ。時に、秦造河勝進みて曰さく、「臣、拝みまつらむ」とまうす。便に仏像を受く。因りて蜂岡寺を造る。

(註4)筑紫舞では各国の翁が貴人の前でそれぞれ舞を披露する演目があるという。ただ「面は訳あって用いない」とする。(古田武彦『よみがえる九州王朝』「幻の筑紫舞」(一九八三年角川選書)
  なお同書には筑紫舞は「宝満川に捨ててある子を拾って、その子達に舞をおしえる」とある。これも『風姿花伝』中、猿楽の遠祖秦河勝は河上より流れ下った壺から拾われたとする記述と附合している。

(註5)田代 孝「六十六部回国納経の発生と展開」(『巡礼論集II六十六部廻国巡礼の諸相』巡礼研究会二〇〇三年一月)
(要旨)六十六部聖が古代の法華経を信仰する山岳修行者・聖の系譜を引くものであり、鎌倉時代前半にはその活動が社会的に定着していたことを示した。(須永 敬氏の評釈より引用)

(註6)大阪市ホームページ「六十六部廻国供養塔」より)

(註7)古賀氏は、この法華経伝来は多利思北孤の出家や法興年号公布の度動機になったのではとされる(古賀達也『九州王朝の論理』先出より)
■『法華経』の伝来については『二中歴』古代年号部分に興味ある記事が記されている。
端政 五年 己酉 自唐法華経始渡
 端政元年(五八九)に『法華経』が唐より初めて渡ったと読めるが、その二年後の五九一年より法興年号は始まる。初めて見た『法華経』への感動が、自らを法王と名のらせ、それまでの「俗世」の年号と並行して法興年号を公布した動機となったのではあるまいか。(*己酉は端政元年・五八九年)

(註8)『大漢和』に「政は正に通ず」とあるように、九州年号資料では端政と端正が混在する。ただ、「政」は「正」に略し易いが「正」を「政」に変えるのは不自然だから、本来の年号は『二中歴』どおり「端政」と考えるべき。

(註9)斉藤隆一「九州年号試論」(『市民の古代』第十一集)

(註10)西村秀己氏によれば大蔵経で「端政」の句は四四二回出現し、三十二の九州年号中では八番目という。なお「端政」の意味から六十六面とは、あるいは菩薩の顔容を刻した面像だったのかも知れない。

(註11)■『書紀』崇峻即位前紀・用明天皇二年(五八七)秋七月。蘇我馬子宿禰大臣、諸皇子と群臣とに勧めて、物部守屋大連を滅ぼさむことを謀る。泊瀬部皇子。竹田皇子。廐戸皇子。難波皇子。春日皇子。蘇我馬子宿禰大臣。紀男麻呂宿禰。巨勢臣比良夫。膳臣賀施夫。葛城臣烏那羅。倶に軍旅を率て、進みて大連を討つ。大伴連噛。阿倍臣人。平群臣神手。坂本臣糠手。春日臣。〈闕名字。〉倶に軍兵を率て、志紀郡従り渋河の家に到る。
 守屋の本拠は難波・河内であることは『書紀』の「物部守屋大連の資人捕鳥部万、一百人を将て、難波の宅を守る」「餌香川原(河内国古市・現在の羽曳野市)に、斬されたる人あり。」等の記事で知られる。

(註12)癸丑の誤りか。或は「戊申」は十一月十二日の暦日干支であり、その混同とみれば?と一致。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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