2010年4月5日

古田史学会報

97号

1,九州年号「端政」
と多利思北孤の事績

 正木裕

2,天孫降臨の
「笠沙」の所在地
 野田利郎

3,法隆寺の菩薩天子
 古賀達也

4,東日流外三郡誌の
科学史的記述について
の考察
 吉原 賢二

付記 編集便り

5,纒向遺跡 
第一六六次調査について
 伊東義彰

6,葦牙彦舅は
彦島(下関市)の初現神
 西井健一郎

 

 

 

古田史学会報一覧

天孫降臨の「笠沙」の所在地

「笠沙」は志摩郡「今宿」である

姫路市 野田利郎

一.「笠沙」は「今宿」

 天孫降臨地を確認するとき、わたしは高祖山の北の山裾にある大塚古墳付近に「笠掛池」と「笠掛」の地名を見つけ、古事記の「笠沙」とは、この「笠掛」でないかと思った。
 しかし、古田先生は天孫降臨時の古事記の「笠沙」を御笠郡とし、日本書紀の「笠狭の岬」を御笠川の博多湾河口付近に推定されており、この思いは無駄と思われた。ただ、今宿町の今山は弥生時代の石斧の産地で、石斧は糸島、博多湾、御笠郡周辺に色濃く分布しており、この時代の筑前西部地帯の中心地を今宿と考えることもできる。 そこで、笠沙=今宿と仮定し、記紀の原文を解読してみると、従来説では不思議と思われた箇所が次々と解消したので、その結果を皆様にご報告してご批判を請うものである。
 今宿町の中心地は、この頃には海であったので、今山を中心に今津、今宿などの周辺を含めて今宿と呼び、また、天孫降臨地は、古田武彦先生の「福岡糸島の高祖山を中心とする連山」、つまり「椚(くぬぎ)村」の裏山の「くしふる山」を前提として検討した。

二.古事記の「笠沙」

 まず、『古事記』から検討を始める。天孫降臨時のニニギノ命の詔を、笠沙=今宿の立場から検証してみよう。原文は次の通りである。
「此地者、向韓国、真来通笠沙之御前而、朝日之直刺国、夕日之日照国也。故、此地、甚吉地」
 この文を古田先生は「四至の文」と指摘されたが、必ずしも四方へ至る道を述べてはいないと思う。なぜなら、東西を日の出、日の入りの描写にしているからである。「四至」の文なら西に宗像があり、東には唐津などと具体的な記載になるのではないだろうか。この詔は目に見えたことを述べた文と考える。このことを確認するためニニギノ命と同じく、この地から四方を見ることにする。
 第一に、どこに立って見るのか。椚村の裏山の「くしふる山」と思えるが、山系の一角の占拠は頂上付近も勢力圏となり周囲を見通せる場所、例えば高祖山(標高四一五m)の山頂を考える。
 第二に、そこから見える東は博多湾であり、「朝日が直接照りつけてくる」、西を見ると糸島平野と唐津湾であり「夕日が照り映える」となる。この地の東西の状況に合致する。
 第三に、北に見えるのは今宿(笠沙)であり、韓国は遠い。今宿の今津は『筑前国続風土記』に「昔は此津に唐船来り着しかば、今の長崎湊のごとし。(略)八幡古記等には、本朝上古より唐船の来りし所と有。」また、唐泊も「今津より一里半西に在、海邊也。万葉集十五巻に、志摩郡韓亭とかけり」とある。今宿には今津という港がある。
 これまでは、この地は韓国に向い、韓国からの真直ぐな道が来ていると理解されてきた。
 しかし、この地は山頂であるから、韓国からの道はない。韓国から道(海路)が来ているのは今津(笠沙)である。そこで、原文を「此地者、向韓国真来通笠沙、之御前而」と区切り、次のように考えた。
 (1).通説は「向う」先を「韓国」とするが、この地と向かい合っているのは、目の前の今宿(笠沙)であるから、「向う」先は「笠沙」である。その笠沙は港(今津港)があり、その港に韓国から真直ぐに海路が来ている。したがって、「韓国から真直ぐな海路が来ている笠沙(今津)」に「向かい」である。
 (2).「之御前而」の「之」は「の」ではない。「之」は「これ」であり、笠沙を指す。「之(笠沙)の御前」となる。敬語「御」は国主事勝国勝長狭の首都に対する使用であるが、更に「御前」とは「おそば近く」の意味もあり、この地が笠沙の直前にあることを示している。
 句の意味は「この地は韓国から真直ぐな海路が来ている笠沙に向かい、その直前にある。」となる。
 第四は南である。南は背振山地がそびえる。高祖山(四一五m)に対して、西から浮嶽(八0五m)、金山(九六七m)、背振山(一0五五m)、九千部山(八四七m)が連なる山系である。東南にも油山(五九七m)の丘陵地がある。ニニギノ命の詔には、この壮大な山への言及がない。南は述べてはいないのである。
 つまり、ニニギノ命は南の山を背に、北に向かい正面と東西を見て述べたのである。全文は次のように訳すことができる。笠沙が今宿となると素直な内容となる。
 「この地は、韓国から真直ぐな海路が来ている笠沙に向かい、笠沙の直前にあって、朝日が直接照りつける国、夕日が照り映える国である。この地はすばらしい位置にある。」
 この地がすばらしい位置にあるのは、東の博多、西の糸島の両面を睨み、笠沙の直前にあるからである。(正木裕氏のご注意による)

三.日本書紀の「笠狭の岬」

 次に『日本書紀』の天孫降臨の記事を検討する。これまでは、ニニギノ命は山頂に降臨して山頂から地上に降り立ち「笠狭の岬」へと移動したと解説されたが、次のことが前提とされていたのではないだろうか。
 その一、ニニギノ命は途中の経過地も

なく、クシフル岳に降り立った。
その二、ニニギノ命は降臨後、その地を放棄し「笠狭の岬」に移動した。
 わたしは、笠沙=今宿と仮定したから、「笠狭の岬」を「今宿の岬」と考える。しかし、そのためには今宿に岬があることが条件となるが、今宿には二つの岬がある。長浜海岸の先端である今津と長垂山からの砂嘴の先端の今山である。そこで、「笠狭の岬」=「今宿の岬」として『日本書紀』を読み、その帰結は次の通りとなった。
第一は、「クシフル岳」と「笠狭の岬」は同じ地域にあり、「天孫が天降る」の事実を表現する方法に「クシフル岳に達した」と「笠狭の岬に到着した」の二通りがある。
 第二は、ニニギノ命は笠狭の岬へと「移動した」のではなく、笠狭の岬に「到達した」のである。
 この結論を神代紀、第九段、本文の天孫降臨の記事「于時」から「留住」までを、三つの文面に区分して説明することにする。(1)


四.分散しての降臨

 はじめの文面は、ニニギノ命の降臨したときの記事である。
 「時に高皇産靈尊、眞床追衾を以ちて、皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊に覆ひて降りまさしむ。皇孫乃天磐座を離ち、且天八重雲を排分け、稜威の道別に道別きて、日向の襲の高千穗峯に天降ります。」
 この文面は読み下し文の通りと考えるが、補足すると、古田先生は「道別道別」を「あちこちの港に分かれ、それぞれの道をかきわけて」と訳し、分散して集合したと説明される。つまり、ニニギノ命が到着した時には、先行部隊はクシフル岳に達していたと思われるのである。


五.不可解なニニギノ命の行動

 二番目の文面はこれまで難解とされてきた、降臨後のニニギノ命の行動である。「既にして皇孫の遊行す状は、?日の二上の天浮橋より、浮渚在平處に立たして、膂宍の空國を頓丘より覓國ぎ行去り吾田の長屋の笠狹の碕に到ります。」
 この読み下し文の理解は困難で、「天の浮橋」の用途なども不明である。二番目の文面は更に細分して、原文に則して詳細に分析する。


六.「既而」

「既而皇孫遊行之状也者」の「既而」は「既にして」と読まれているが、その意味を諸橋の辞典で見ると「さるほどに」と「やがて」の二つを書いてある。そこで更に「さるほどに」を広辞苑でみると、「前を受け、さらに改めて説き起すのに用いる語。さて。」とある。
 通説は「やがて」を採用するが、わたしは「さて」と考える。「さて、皇孫がすすんできた状況は」である。ニニギノ命がクシフル岳に来るまでの様子を次に続く文面で記述されているからである。 同様に「既而」を「さて」と訳した例に、第九段一書第一の山田宗睦氏(『日本書紀上』教育社、七八頁)の訳がある。
「既而天照大神、以思兼神妹万幡豊秋津媛命、配正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊為妃、令降之於葦原中国。」(さて、アマテラス大神は、オモイカネ神の妹の万幡豊秋津媛命を、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊にめあわせて妃とし、葦原中国に降らせた。)


七.「天浮橋」の用途

次は「則自[木患]日二上天浮橋立於浮渚在平處」を見てみよう。
     [木患]木編に患。JIS第3水準ユニコード69F5

 (1).「[木患]日二上」は一書第四に降臨地を「日向襲之高千穗[木患]日二上峰」とあることから降臨地のクシフル岳のことである。また、「天浮橋」を古田先生は「漁師が船に乗るときに、陸地との間にかける板である。」とした。したがって、「[木患]日二上天浮橋」は、「クシフル岳(に置いている)の天で製作された浮き板」となる。この板がクシフル岳にあるのは、後続部隊への目印としたのであろう。
 (2).「立於浮渚在平處(ウキジマリタヒラニタタシ)」を、通説はニニギノ命が天の浮橋から平らな場所に降り立つと説明するが、わたしは「天の浮き板を平らな処に在る浮島に立たして」と読み、その意味を「(ニニギノ命は先着の部下に命じ)天の浮き板を平らな処にある浮島(洲)に(目印として)立てさせた」と理解する。
 この句は「すなわち、クシフル岳の天製の浮き板を平らな処にある浮き島に立たして」となる。同じ部分を『古事記』では「於天浮橋、ウキジマリソリタタシテ、天降坐于竺紫日向之高千穗之久士布流多氣」と記述され難解であったが「天の浮き板を浮き島在り、隆(ソリ)立たして、それに向かって、竺紫の日向の高千穗のクジフル岳に天降り坐しき」と理解することができる。又、「天の浮き板を立たす」→「クシフル岳に到着」への経過が示され、「天浮橋」は下りるときの使用でないことがわかる。

 

八.宗像から来たニニギノ命

 二番目の文面の残りの部分、「而膂宍之空國自頓丘覓國行去、到於吾田長屋笠狹之碕矣。」の検討をする。
 (1).「膂宍之空國」を従来は「乏しい国」と訳しているが、「膂宍」は背中の脂肪が少なく、肉の中でも上肉と森浩一氏は述べる。(同氏著「日本神話の考古学」朝日新聞社、一九九九年、一四三頁)空国を古田先生は「宗像」とされた。わたしは「膂宍之空國」は「うまし国の宗像」であり、宗像への褒め言葉と考える。
 (2).「而膂宍之空國自頓丘覓國行去」は「膂宍之空國をめざして」ではなく、「膂宍之空國から」である。つまり「うまし国の宗像から丘続きに良い国を求めて通り」となる。同じ読み方に小学館の口語訳があり、「やせて不毛の国から」と訳している。
 (3).「宗像から来る」に補足すると、天孫降臨以前の誓約の記事に、『乃ち日神の生せる三の女神を以て、筑紫洲に降りまさしむ。因りて教へて曰はく、「汝三の神、道の中に降り居して、天孫を助け奉りて、天孫の為に祭られよ」とのたまう』(書紀、神代第六段の一書第一)とある。この三の女神は第六段の本文で「筑紫の胸肩君等が祭る神、是なり」とも書かれ、天孫が宗像から降臨した事実を前提に記述されたことが伺える。
 (4).「吾田長屋笠狹之碕」の「吾田長屋」は、今宿には井田、有田、宇田など「田」の地名が多く、また、長浜、長垂山などの「長」の地名もあり、「吾田長屋」は今宿の地名と思われる。
 まとめると、二番目の文面は次のように訳すことができる。
「既而皇孫遊行之状也者、則自?日二上天浮橋立於浮渚在平處、而膂宍之空國自頓丘覓國行去、到於吾田長屋笠狹之碕矣。」
「さて、皇孫がすすんできた状況は、まず、クシフル岳の天製の浮き板を平らな処にある浮き島に立てさせて、そして、うまし国の宗像から丘続きに良い国を求めて通り、吾田の長屋にある笠狭の岬についた。」


九.今宿に留まる、ニニギノ命

 最後の第三番目の文面となった。クシフル岳の先住者への了解である。
『其の地に一の人有り。自ら事勝國勝長狹と号する。皇孫問ひて曰はく、「國在りや以不や」對えて曰さく、「此に國有り。請はくは任意に遊せ」とまうす。故、皇孫就きて留住ります。』
 この文面はこのままに理解できる。宗像からニニギノ命が笠狭の岬(今宿)に着いたとき、笠狭には国主の事勝國勝長狹が居り、ニニギノ命が住むことを了解する。同じ内容が一書の第二、第四、第六にあり、了解を得たことが強調されている。そこで、「故、皇孫就きて留住ります。」と、ニニギノ命は笠沙に留まり住んだのである。
 その後、ニニギノ命は「久しくして、天津彦彦火瓊瓊杵尊崩ります。因りて筑紫の日向の可愛の山陵に葬りまつる。」(神代下第九段本文の末尾)と、クシフル岳の周辺に葬られている。
 ニニギノ命は笠狭に侵入し、そこに住み、その地の山に葬られた。「笠沙」は今宿にあった。大胆にも、ニニギノ命は先住勢力の中心拠点の裏山を占拠したのである。
 
 本稿は古田先生の天孫降臨地を糸島の日向とされた論から、記紀の説話を読み解いてみたものであり、古田先生に多大な感謝を申し上げます。


(1)その他の一書について、筆者の訳を示す。
 (1)九段一書第二
「故天津彦火瓊瓊杵尊降到於日向[木患]日高千穂之峰。而膂宍胸副国自頓丘覓国行去、立於浮渚在平地、乃召国主事勝国勝長狭而訪之。」
「それで、アマツヒコホホニニギの尊は、日向のクシヒの高千穂の峯に到着した。すなわち、うまし国の宗像から丘続きに良い国を求めて通り、平らな処にある浮き島に立ち、国主の事勝国勝長狭をお招きして、質問した。」
 (2)九段一書第四
「于時大伴連遠祖天忍日命、帥来目部遠祖天[木患]津大来目、背負天磐靫、臂著稜威高鞆、手捉天梔弓・天羽羽矢、及副持八目鳴鏑、又帯頭槌剣、而立天孫之前。遊行降来、到於日向襲之高千穂[木患]日二上峰、天浮橋而立於浮渚在之平地。膂宍空国自頓丘覓国行去、到於吾田長屋笠狭之御碕。時彼処有一神名曰事勝国勝長狭。」
「そのとき、(略)部下は天孫の前に立ち、行く先をすすんで行き、日向の襲の高千穂のクシヒの二上の峯に到着し、天製の浮き板を平らな処にある浮き島にたてた。(皇孫は)うまし国の宗像から丘続きに良い国を求めて通り、吾田の長屋の笠狭の岬に到着した。そのとき、そこに主がいた。事勝国勝長狭と名乗った。」
 (3)九段一書第六
「故称此神曰天国饒石彦火瓊瓊杵尊。于時降到之処者、呼曰日向襲之高千穂添山峰矣。及其遊行之時也、云云。到于吾田笠狭之御碕、遂登長屋之竹嶋。乃巡覧其地者、彼有人焉。名曰事勝国勝長狭。」「そこで、この神を褒めて、天国饒石彦火瓊瓊杵尊という。その時、降臨して到着された所を日向の襲の高千穂の添山峰という。その有様は云々。吾田の笠沙の岬に着かれ、ついに長屋の竹島に登られた。すると、そこに人がいるのを見つけた。その人は、事勝国勝長狭と名乗られた。」


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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