2010年6月5日

古田史学会報

98号

1,禅譲・放伐
 木村賢司

2,九州王朝
の難波天王寺
 古賀達也

3,越智国に
紫宸(震)殿が存在した
 今井 久

4,「天 の 原」はあった
古歌謡に見る九州王朝
 西脇幸雄

5,「三笠山」新考
和歌に見える
九州王朝の残映
 古賀達也

6,能楽に残された
九州王朝の舞楽
 正木裕

7,穴埋めヨタ話3
一寸法師とヤマト朝廷

 西村

 

古田史学会報一覧

熟田津の石湯の実態と其の真実(其の一)  今井久(会報92号)
「温湯碑」建立の地はいずこに 合田洋一(会報90号)


越智国に紫宸(震)殿が存在した!

西条市 今井 久

越智国の舞楽と地名伝承を探求する中で、「紫宸殿」地名の存在を知り報告する。
所在地。西条市(旧東予市)明理川
近くに「天皇」の穂ノ木の地名と柳森須賀神社(旧記には柳天皇宮)が鎮座し、「櫛引」(神意によって吉凶を占う)の地名等が併存している。
 「紫宸殿」は、国の天子の居した所で、その地名は黙過できない重大な意味あいのある地名なので、得た資料により記述する。
現在の時点ではその伝承の起原、由来は聞かれなく不明で目下探求中である。地積台帳には不確実な部分もあるが、約、41筆(旧東予市農業委員会事務局調べ)。
 面積にして概算、5ヘクタールを越える土地面積であり、「紫宸殿」の存在にふさわしい広域の敷地名なのである。方向は(地面の低い方へ)やや東よりの北東で、長方形で海の方へ向いていて、周桑平野の中央部で海に近い。
 (旧)東予市合併前の「壬生川町全図保乃木(小字名)入り」図では地名「紫宸殿」となっている、東予市誌など他の文献には「紫震殿」と「宸」の文字が「震」と記している、その違いは無視できないので西条市東予支所税務課、地積登記台帳で調べ確認(一番古くは明治二十二年登記)するとやはり「紫震殿」の「震」である。以後の登記名もこれに倣い、同じ文字地名であった。
 早速、歴史、文献資料に詳しい方に問う。答えは『「役場」の登記係の誤字登記で、変更もならず現在もそのままである。「壬生川町全図保乃木」の「紫宸殿」地名が正しい』とのことで、それは地元の共同認識であると言って、具体的に明治以降の登記の際の文字、名前届出登記の際の文字の誤りのある例を挙げて『登記簿必ずしも正しくはない。「壬生川町全図保乃木」図、地名は、その認識で正しくは「紫宸殿」だとして記している』とのことである。
 他、櫛引、天皇などの地名は「壬生川町全図保乃木」図も登記簿も同文字地名であった、ここに記しておきたい。なお、(発掘調査も出土物もなし、地名遺跡とでも言うべきか) 紫宸殿は、既に周知のように、西暦六一八年 建国の唐の皇帝が自らの宮殿を「紫宸殿」と称したことに始まる。「日本」の九州王朝の天子もこれに倣い、首都、太宰府(都府楼跡)の奥に、この呼称を「内裏」等の地名とともに残している。この地名の起こりの時代の古いことも考慮せざるにいられない。
 「大洲藩加藤家に残る河痕地図」に見る周桑平野への中山川氾濫の痕跡は、太古よりこの「紫宸殿」の地と法安寺(後述)は一度も被害のない安全な地所にあり、重要な建造物の故 建てられるへく地所を選んで建てられていることに気付く古代以来そのままの地所である。

越智国に紫宸(震)殿が存在した! 今井久 壬生川町全図 古田史学会報第98号
 八世紀より日本国王となった近畿朝廷の京都の紫宸殿の存在を思うと、同時代に「地方」のこの地に、こんな大畏れた地名、建物など有るべき謂れも、称すことも許されるべくもない。国王、天子は二人と居ない、自明の理である。
 そのような意味あいから、この地名が何故この地に遺存しているのか私なりに考察してみたい。
 この地帯は、古代は越智国であった、古代日本、倭国九州王朝を支えた有力な一王国であった、それは大山祇神社の三嶋縁起、他、文献に散見される。
 中国、古代の西暦前の周王朝以来修貢を重ね続けてきた九州王朝が「正統」と臣従してきた「南朝」が、敵対してきた「北朝」隋により滅亡、危機感をもった時の九州王朝の国王、法王多利思北弧はその対策の為の国政政策の一端として、国の動脈である瀬戸内諸国への巡行をした。その一例が厳島神社縁起に見える九州年号を記す文献、この越智国への来航で、「伊予国風土記」逸文に見る「温湯碑文」は、その事跡であると思う。
 「伊予国風土記」逸文の、湯の岡は(石湯岡である、筆者仮説)、熟田津(西条市安知生)よりの「夷与村逍遥」は越智国の周敷平野一帯への国情視察ではなかったか、「河野系図築山本」の百男の段の「背天命流謫也」に見る、「北朝」隋への対応を巡っての「流謫」ではなかったか、またそれ故の「夷与村逍遥」で、この国への法王の「視察巡行」であり、それは多数の随行者を伴い従え、その日夜を分かたぬ警護の者たちに守られてのことで、一日ではとてもおぼつかない。 この明理川「紫宸殿」(当時は紫宸殿の呼称なし)の地を選んでご宿泊をされたのが最初の「建築施設」となったのではないか。
 旧小松町北川の法安寺創建伝承には「推古天皇四年、即ち法興六年(五九六)聖徳太子(法王大王多利思北弧)と越智益躬の建立との名とその年号をともに聞く。愛媛県現存最古の寺(四天王寺式・国史跡指定県第一号)で「温湯碑文」の年号との一致をみる。他にも関連していると思われる事跡は省くが「周敷平野一帯への(逍遥)巡行と推察する所以である。
 法隆寺釈迦三尊光背銘文に「法興元三一年二月二十二日登遐」とある。法王多利思北弧は(六二二年)まで生存在位している。唐皇帝の「紫宸殿」呼称を知り、随の国使と「礼」を巡って相譲らなかった誇り高き法王多利思北弧である、自らの宮殿も「紫宸殿」と呼称した可能性はないか、興味のあるところであるが一応措くとして、この御宿泊の「建築施設」は偉大な国王への「礼」として直ちには捨てては畏れ多い、持続していたのではないか。
 それは、福岡八幡宮奉納の名を記さない(天子か)翁面の白雉二年(六五三)に見る時代を経て存在し、「紫宸殿」と呼称されていたのではなかろうか。
 白雉二年の実報寺の「千仏の繍仏造詣」の一大イベントは、同じ白雉二年創建の長桂寺大徳院、同じ、四年の光明寺、他、白雉年間創建の二ケ寺へと広がったこの地帯一円の仏教興隆の証であり、それは福岡八幡宮の翁(能)面の奉納舞楽へと繋がる一連のものであり、法安寺創建伝承にみる越智国への早くからの仏教導入があった。
 また、白雉二年の「千仏の繍仏造詣」とそれに続く一連の寺建立事跡は、唯、漫然と行われたのではなく、何か画期的、大きな契機があったのではないか。それは対唐政策への国内統治強化、「評」の設置の完成による、賞揚祝福と国家安定興隆を願っての一大行事であったのではないか。
 伊予国主に補せられた越智益躬の敬虔な仏教帰依による国政執行伝承(日本霊異記)を聞く所以で、そこには「歴史に抹消された」この地の「紫宸殿」の存在があった。この一連の文献、事跡には、この地へ天子が複数回来られていた、との思いに駆られる。
 また、福岡八幡宮の翁面に舞楽文化の存在した証しとして「能楽」「徳楽」「農楽」「得能」などの地名の遺存があり、当地には福岡・甲賀八幡神社の翁・能面に関わる舞楽の伝承は聞かないが、後世の近畿朝廷の設置した伊予の国府より遠い高縄山地を越えた道後松山地方の神社に、雨乞三面「相殿三神面由来」には能面こそ新しく見えるが、越智益躬の「奉納舞楽」の文献伝承をここに見る。
 なお、越智国には「海の大日本総鎮守の神(大山祇神社式内社)、陸の大日本総鎮守の社(布都神社式内社)が、その由来は承知していないが鎮座している。
 事の真偽、地名の起こりの時代の新、旧などの問題は今後の課題として一応記して、散漫な記述となったが、そのまとめとしたい。
 「紫宸殿」の地名をはじめとして一連の関連し合う地名の分布、伝承、事跡に九州王朝大倭(タイ)国の存在と、その一王国、越智国にその天子が見えられ、一定期間滞在(複数か)され、その施設が長期間存在した事を抜きにしてはこの、広域な「紫宸殿」の地名存在の説明がつかないと考える。 九州王朝と越智国滅亡とともにそれは、破却撤去されて、九州王朝は無きものとされた民衆は恐れてその伝承は、禁言、禁書となって千有余年の歳月に耐え、密かに地名としてかろうじて残ったのではなかろうか。諸兄の批判検討を仰ぎ報告とする。
 なお、この拙論が、先学の諸兄の「真実の伊予古代史」の補強の一端にもなれば望外と思うものである。

 終わりに、この稿を記すにあたり真鍋達夫さんより数々の史料と教示を頂いたこと、厚く感謝いたします。
 また、「紫宸殿」地名の実態とその確認に協力していただいた、玉井三山さんにも重ねて厚く感謝をいたします。
     二O一O年四月二十六日

 参考文献
一、地名の由来と穂ノ木。明理川詳細図。真鍋達夫氏。
二、「紫宸殿」地積図と地番。旧東予市農業委員会事務局。
三、壬生川町保乃木全図。西条市小松支所農林水産課。
四、大洲藩加藤家に残る河痕地図(大洲藩替地図より)真鍋達夫氏。
五、松前町にかかわる近隣の史跡・文化財等。松前町文化財保護審議会編集。松前教育委員会発行。平成十三年十一月三十日。
六、東温市(旧重信町)現地研修資料。東予郷土史懇談会主催。史料・由緒沿革。真鍋達夫氏。浮嶋神社・徳威三島宮。社記由来。雨乞三面(相殿三神面由来)両社・隔年遷座の神面。
七、伊予の高根。真鍋充親著。発行所立春短歌会。発売元新潮堂書店。昭和四十四年八月三十一日初版発行。
八、法隆寺の中の九州王朝。古田武彦著。朝日新聞社発行。朝日文庫。
九、無量寺由来。旧朝倉村、無量寺蔵。住職 龍田宥仁師。
十、筑紫舞と九州王朝。古田武彦氏。市民の古代第五集。古田武彦を囲む会編集委員会。昭和五十八年五月二十一日発行、中谷書店。
十一、「九州年号に関する最新情報」古賀達也氏。東海の古代一O七号。平成十一年七月発行。古田史学の会 東海。
十二、「白雉二年」奉納面メール談義。大下隆司・正木裕氏。
十三、「白雉二年銘奉納面」について。大下隆司氏。二OO九年八月十五日、稿。他、続日本紀(上)。東予市誌。小松邑誌。          以上


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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