2010年6月5日

古田史学会報

98号

1,禅譲・放伐
 木村賢司

2,九州王朝
の難波天王寺
 古賀達也

3,越智国に
紫宸(震)殿が存在した
 今井 久

4,「天 の 原」はあった
古歌謡に見る九州王朝
 西脇幸雄

5,「三笠山」新考
和歌に見える
九州王朝の残映
 古賀達也

6,能楽に残された
九州王朝の舞楽
 正木裕

7,穴埋めヨタ話3
一寸法師とヤマト朝廷

 西村

 

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禅譲・放伐

豊中市 木村賢司

 古田史学の会では、今年の総会時に表記の公開討論をするという。九州王朝から近畿王朝への移行は、禅譲放伐のどちらかについては、二年前の大湖望雑論会で、参加された方々に意見をお聞きした覚えがある。また、それより前、故 林氏と西村氏の二人が同じく大湖望で夜を徹して激論している。林さんは放伐、西村さんは禅譲である。雑論会時には古田先生の意見も聞いた。先生は禅譲でも放伐でもない、倭国に勝利した唐の意向との示唆があった。雑論会では放伐派が少し多かった。安隋さんは、わからんものは、わからんとした。
 私は、古田先生が九州王朝の存在を世に発表するまで、人々は知らず、隠されてきた事実から放伐と思う、と述べた。この考えは今も変っておらず、先般、西村さんの栗隈王は九州王朝の臣下説に疑問を呈したのもその為である。
 禅譲、放伐の定義が大切である。古田先生のいう孟子の概念(定義)は知らないが、私の耳学問理解では、中国では堯が舜に禅譲した、舜が夏王朝の始祖である禹に禅譲した。それ以降、夏から殷(商)、周(春秋戦国含む)、秦、前漢、王莽の新、後漢まで禅譲はなかった。後漢の献帝が魏の曹否(文帝)に禅譲した。それ以降も多くは放伐であるが、いくつか禅譲での王朝もあり、清王朝に至る。
 献帝が曹否に禅譲した時、献帝自ら曹否に禅譲を申し入れたことになっている。そして、曹否は何度もその申し入れを断ったが、ついに受け入れた形となっており、禅譲の儀式を群臣の前で厳かに行った。即ち、禅譲は皇帝が臣下に禅譲したいと申し入れることが条件であり、それを受けた臣下が群臣の前で儀式を行って皇帝となることが条件である。
 中国には古代から「天」思想がある。人間を超えた天があり、その天の意思で人間(自然も)は存在している、という思想である。天の意志即ち天の命である。その天の命を代行している一人の人間が天子=皇帝である。皇帝が天の命に沿わなくなると革命となる。命を革める革命思想である。革命には禅譲革命もあれば放伐革命もある。皇帝が力不足で天の命に沿えなくなったと自ら認めれば禅譲革命、臣下が皇帝は天命に沿っていない、天命は自分側にあるとすれば放伐革命である。天子=皇帝は世界でただ一人である。即ち天命を受ける人間は一人である。だから王や大王はいても天子=皇帝は一人という思想である。
 前漢の劉邦(高祖)が皇帝になった時、天命は劉家に降った。その子孫が天子を引き継ぐとした。王莽が前漢を乗っ取った時、いろいろの瑞兆があらわれたので王莽に天命が降ったとした。にせ瑞兆である。後漢の劉秀が皇帝になった時、まだ、劉邦の子孫側に天命がある、とした。魏の曹操は禅譲を迫らなかった。蜀の劉備は曹否が皇帝になったと聞き、献帝は殺されたと思い、劉邦の末裔であるとして皇帝となった。劉備の子供の劉禅は魏に降り、皇帝から公となった。劉姓から曹姓に天子が変ったので、その後、天下の覇者は、何姓の者でも天子を目指した。魏は晋に禅譲を迫られた。晋の姓は司馬である。漢人以外も天子となった。
 日本(倭国)には多利思北孤まで天子はいなかった。卑弥呼も倭の五王も王である。南朝の陳が滅んで隋が中国を統一したが倭国は南朝側であったので、北朝側の隋に臣従せずに天子を名乗った。しかも、日出ところの天子である。隋の天子を日没するところの天子と呼び、天子が二人居ることを隋に認めさせようとした。
 中国の「天」思想からは認めるわけにいかない。隋に変った唐が天子を偽称する倭国を滅ぼした。近畿王朝は天子でなく天皇を名乗った。唐王朝は、天皇は天子でないとして許した。近畿王朝の日本国は、天皇は天子と同格として多利思北孤の倭国と同じように年号を制定した。唐王朝はそれも許した。
 皇帝は天子であるが、天皇は天子ではない、というのが中国の考え。多利思北孤の姓は「阿毎」である。近畿天皇家の元の姓は何なのだろう? 元々姓などなかった? 私は同じく「阿毎」姓では、と思っている。遠い血族である。
 唐に臣従していた近畿王朝が何故年号を制定できたのだろう。武則天が唐を周と変えた機をとらえてやった? 近畿王朝は武則天に取り入るのがうまかった?
 近畿王朝は年号を制定できたので、日本では天皇=天子となった。新羅が強くなり、唐もこれを抑えられなくなった。近畿王朝を抑える力はもう唐にはなかった。それより遣唐使を迎え友好をはかった。以来日本には、維新は何度もあったが一三〇〇余年革命は起こらなかった。 さて、多利思北孤倭国九州王朝から天皇家日本近畿王朝にどう移行したのか、公開討論会での論客の論旨、論拠が楽しみである。私は唐の意向も受けて、徹底的に放伐した、と見ている。しかし、何の根拠も論拠もない勘、想像である。
 今年、奈良は平城遷都一三〇〇年の盛り上げに懸命である。天皇家は東京に移り種が尽きようとしている。私は種が尽きた時点で天皇家を国民に禅譲?されてはと思っている。禅譲革命?である。えっ、革命はいや、維新でいい、ああそう。

*ゆずってもらうか、うばいとるか、
      ただそれだけのこと、禅譲、放伐。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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