2009年 8月12日

古田史学会報

93号

1,仏像論
  古田武彦

2,壬申の乱の謎
  今井俊圀

3,伊倉 十
天子宮は誰を祀るか
  古川清久

4,彩神(カリスマ)
 梔子(くちなし)
  深津栄美

5,「白雉二年」銘
奉納面メール論談
大下隆司/正木裕

6,古田史学の会
 定期会員総会
  の報告(略)

 

古田史学会報一覧

 

 

 

伊倉1          10 11 12ーー天子宮は誰を祀るか


伊倉いくら 十

天子宮は誰を祀るか

武雄市 古川清久

伊倉 四十六
“筑前の天子社の痕跡”

 本稿は古田史学の会(九州)の日出島哲雄氏からお預かりした原稿(既に古田史学の会会報に掲載されています)を、数字など一部を編集し掲載するものです。天子宮の共同調査の最重要部である筑前領域の天子宮、天子社洗い出し作業の一端がお分かりになると思います。

 筑前糸島の天子社
         日出島 哲雄

一 荒金卓也氏の天子宮研究

 『九州古代王朝の謎』の著者・荒金卓也氏は、熊本県内のどこかに「日出づる処の天子・多利思北孤」の遺跡や伝承などがあるのではと考えられた。熊本県の道路地図をご覧になっていて、その名もずばりの天子宮を見つけられた。最初に見つけられた天子宮は、熊本市より東の大津町にある。荒金卓也氏は、大津町以外にも熊本県内に多くの天子宮を見つけられた。

 二 検索で天子社がぞろぞろ

 荒金卓也氏が天子宮を調べられた時は、まだ検索エンジンはほとんど使われていなかった。二〇〇六年に私は、天子神社を検索してみた。佐賀県鹿島市にも天子神社があることが分かった。鹿島市の天子神社は、『九州古代王朝の謎』には書かれていなかった。
 その後、古川清久氏から佐賀県江北町にも天子社があるという知らせが来た。氏は検索エンジンを活用して、天子を祀る神社が、『九州古代王朝の謎』に記されている他にも多くあることを見つけた。
 筑前にも天子を祀っていたと思われる神社があるので調べて欲しいと氏から頼まれた。私は筑前の天子社を調べることにした。古川氏は糸島には隠されている天子社が多いと思われると言う。まず、糸島から調べることにした。

 三 『筑前国続風土記』の天子社

 私は貝原益軒の『筑前国続風土記』に天子社について書かれているのではと思い、調べてみた。天子社があるのは怡土郡と志摩郡だけだった。
 周船寺村の松ノ木天子社、飯氏村の三郎天子社、山北村の十六天子社、御坂村の十六天子社、高田村の能徳天子社である。『筑前国続風土記』の各天子社の説明を記す。原文の漢字の旧字体を現字体またはカタカナにしておく。

(怡土郡の周船寺村の)松ノ木天子社
 村の西にあり。産神也。祭る所埴安命なり。社内に神木松二株あり。
(怡土郡飯氏村の)三郎天子社
 産神也。ヒルコ命、スサノオ尊、月読尊を祭れり。鎮座の始詳ならす。
(怡土郡山北村の)十六天子社
 村中にあり。産神也。祭る所国常立尊・国狭槌尊・(七人の神の名)・イザナギ尊・イザナミ尊・天照大神・天忍穂耳尊・彦火ニニギ尊・彦火火出見尊・ウガヤフギアエズ尊なり。鎮座の始詳ならす。
(怡土郡御坂村の)十六天子社
 産神也。祭る所天神七代・地神五代の神也。鎮座の始詳ならす。社内に八龍神祠・九龍神祠・石祠三(祭神不詳社家は天神ともいふ)
阿弥陀あり。天正五年従五位下大蔵朝臣隆種としるせる棟書本社に蔵めり。文禄二年村民本社を再興し、明暦年中にも改造し、天明五年にも今の社を重建せり。
(志摩郡高田村の)能徳天子社
 産神也。祭る所天神七代・地神五代の神なりといふ。昔の社はノフトクといふ所にありしそ。

 大正十五年に編集された『糸島郡誌』では、松ノ木天子社は伊と神社、三郎天子社は飯氏神社、山北村の十六天子社は十六天神社、御坂村の十六天子社は三坂神社、能徳天子社は能徳神社になっている。
 福岡市西区太郎丸の十六天神社を訪ねた時、十六天神社の隣に住む人から、「十六」は「いざよい」と読むというと聞いた。

 四 『怡土志摩地理全誌』の天子社

 油比章祐氏の『怡土志摩地理全誌』(糸島新聞社)には天子社が三つ記されている。そのうち、三郎天子社、前原市三坂の十六天子社は『筑前国続風土記』に記されている。
 前原市香力の三社神社は三社天子神社といわれていたという。三社天子神社は『筑前国続風土記』に記されていない。三社天子神社の地が筑前藩領でなく中津藩領であったためである。
 『怡土志摩地理全誌』の三社天子神社の説明を記しておく。
  三社神社
 祭神は手力雄命、豊国主命、国狭槌尊とめずらしい三柱の神を祀る。恐らく筑前では唯一の神社であろう。祭日は一一月一五日。永正年中(一五0四ー一五二一年)の創建であるが、勧請の由来は不明。昔、三社天子神社といっていたらしいが、明治初め、三社神社と改称するよう県から指令を受けている。神仏混淆で律宗興福寺の僧が祭祀を受け持っていたが、住僧がいなくなり、明治初年頃は雷山大悲王院が祭祀を担当していた。今次大戦で消失した金比羅宮を合祀している。

 金比羅宮
 …阿岐仁天皇社が本名らしい。明治初め、県は白峰神社と改称させたが、後、金比羅宮になった。祭神は大物主神、須世利姫命、顕仁天皇となっている。・・・・今次大戦の空襲で、隣の興福寺と共に消失し、三社神社に合祀している。

 五 雷山神籠石は天子直属だったかも

 私が驚いたのは十六天子社であった三坂神社である。私は、三坂が雷山神籠石を守る防人が与えられていた土地として調べたことがある。当然、三坂神社にも行っている。三坂に土地を与えられていた雷山神籠石の防人については、二〇〇八年の『古代に真実を求めて』に投稿しています。「不破道を塞げ(壬申の乱は九州)」という論文です。
 天子社の創建は一六世紀であるが、天子を祀るのは防人の時代に起源があるのではなかろうか。雷山神籠石を守っていた防人たちは天子直属だったのではなかろうか。糸島の天子社は、防人たちに起源があるのではなかろうか。
 以上、二〇〇七年一〇月二日で分かっていることです。
 その後、日出島氏から (1)「・・・・天子社(糸島の・・・古川注)は北、西、南から細石神社を囲んでいます。東は高祖神社です。細石神社には金印があったはずだと古田先生か考えています。・・・・」「・・・・細石神社を囲んでいることに意味があるように思えます。金印を守る意味があったのではと・・・・」 (2)「三郎天子社の由緒書を読んでいて、産神とは天子で祭神は後で追加したのではと思いました。」 (3)「筑前国続風土記」では天子社、山北に行くと天子宮。この違いを追求すると何か出てくるかも。「十六」は太郎丸では「いざよい」ですが、山北では「じゅうろく」です。とのメールを受けています。これらは私も気にしている事でもあります。
 飯石神社由来案内(抜粋)
 俗に三郎天神と称す。大屋敷にあり(大園)祭神は御食入沼命、玉依姫の息子で神武天皇の兄に当る。・・・・(恰土島郷土記より)・・・・続風土記には産神(三郎天子社)、蛭子神、素葢雄尊、月読尊を祭る。(文字を一部変更しています。・・・古川注)

 

 伊倉 四十七
 “天子宮調査雑感”

 ここではこれまで行なってきた天子宮調査の中で感じていたことを書くことにします。一般的に「古田史学の会」は文献史中心の団体であり、漢籍や万葉仮名を原書で読みこなすといった素養でもなければ近寄りがたく、おいそれとは参加しにくい威厳を持っています。このため発言したり、会報などに寄稿するといった事はとてもできないという印象がつきまとっています。
 およそ、戦前までは寺子屋や私塾のようなものもある程度残っていましたし、漢文を強制的に勉強させられるという環境も一部にはあったようですが、私が高等学校で学んだ四十年前でも漢文はほとんどお飾り程度で大学の入試に漢文が出ることなど特殊な学部学科でもなければ皆無というありさまでした。このため、今後はさらに一層、古代史に踏み込み、『記』『紀』などと正面から取り組んで研究しようなどという人間はますます減って行くことになるでしょう。
 もちろん、会員には穴掘り考古学に造詣の深い方、漢籍を読みこなす方、建築の専門家、神社、仏閣の専門家といった多彩な方々が参加されていることは承知しています。
 ただし、現在、私が行なっている作業は漢籍と向かい合って頭を悩ませるなどといったものではさらさらなく、九州の山奥から島嶼部まで日常的に走り回ってきたという土地カンだけを頼りに、ただひたすら現場を調べるといったものに過ぎません。
 古田史学の会の大家諸氏に対して有利な点は、唯一、現場に近いという事、調査のための多少のネットワークを持っているという事ぐらいしかありません。
 ただ、闇雲に走ったからといって直ちに成果が出てくるものでないことは明らかであり、ある程度の下調べは必要になります。ところがインターネットの普及によって、この作業がかなり容易になっているのです。検索エンジンの登場によって、普通では全く出会うことがなかったようなものにまで直接焦点を絞り込み瞬時にアクセスすることができるようになりました。 
 この間のネットの普及によって、実に多くのサイトが爆発的に湧き上がり、まさしく何でも探せる状況が出現しました。実際、検索する側からすれば、まさに古代史についても宝の山が転がっているのです(もちろん玉石混交ですが)。このため、始めから正解に到達した上で、後追いで周辺調査や文献調査をすることさえ可能になっているのです。
 まさに、麓から登って来るのが登山とすれば、八合目まで車で登り、残り一合、二合で勝負するという狡猾な事をやっているのが私の天子宮調査なのかも知れません。
 私は、古代史から離れていた二十年余、民俗学、地名学といったものに興味が流れ、九州の辺境である多くの山奥や島嶼を踏んできました。その関係で、八代史談会、熊本地名研究会、八代河童共和国などにも加入し、古田史学の会と平行して民俗、地名に関する雑文を送り込んでいます。
 昔の民俗学、地名学は素人でも参加できるものでした。そこでは「ただ、あるものをそのままに拾い書き留めなさい」といった考え方が主流でした。
 現在の天子宮調査も拾い出しや分布領域の確定といった基礎調査に留まっていますので、私のような素人にもできるのであって、結局、古田先生などの著書を読んでいる人間が九州王朝説という鋭利なメスを片手に民俗学的調査方法を古代史に持ち込んでいるだけなのかもしれません。
 ともあれ、現場にはまだまだ宝石のような古代の残滓が残り、もしかしたら何らかの伝承さえも残されているのかも知れません。今後とも天子宮の調査を継続します。もしも可能であれば、会員、読者の皆さんの協力も得たいと思っています。九州は過去の経緯から会員が少ないのですが、少人数でも組織的に動けばそれなりの成果は出てくるはずです。今、なお、“書を棄て野に出る“ことは必要です。
 古田史学の会は「遠足会」を続けています。入会した当初、親睦と多少の遺蹟の把握程度のものと思っていましたが、ようやくその必要性が分かってきました。九州でも部分的にフィールド・ワークを始めたいと考えています。
 読者の中で、もしも、天子宮の現物を見たいという方がおられれば、ご一報下さい。そして佐賀にお出で下さい。武雄温泉で疲れをとって(共同浴場に併設された一泊朝食五〇〇〇円程度の静かな宿をご紹介します)、時間が取れればどこにでもご案内致します。レンタ・カーを駆使して、自分流の調査をされるのも良いでしょう。先ずは連絡を!

 

 伊倉 四十八
 “薩摩半島先端の大宮姫伝説”

 薩摩半島南端といえば、西の坊津、野間池は置くとしても、まずは開聞岳、長崎鼻、池田湖、指宿温泉といったものが頭に浮かびますが、指宿市には揖宿神社があります。
この神社の縁起によれば、祭神は天智天皇とされ、古くは「開聞新宮九杜大明神」と呼ばれていたものが明治維新によって「揖宿神社」と改称されたとあります。
 八七四年に開聞岳が大噴火を起こした際に開聞神社外が指宿に避退したもので、それ以来、開聞新宮九杜大明神と名を変えたものと思われます。
 枚聞神社がそうであったように、この神社にも「天智天皇が大宮姫と共に指宿で天寿を全うした」という大宮姫伝承があります。
 今年の大晦日(二〇〇六年十二月)に訪れた薩摩の一宮、開聞岳の麓の枚聞(ひらさき)神社に大宮姫伝承があることは言わずもがなであり、比較的知られてもいますので、先に指宿市の西隣に位置する頴娃(えい)町の大宮姫伝承についてご紹介しましょう。
 頴娃町の海岸には射楯兵主(イタテツワモノノカミ)神社があります。ただ、この神社は古くは竃蓋(かまぶた)神社と呼ばれていました。祭神は素戔鳴命とされてはいるものの奇妙な伝承が残されています。

 まず、頴娃町にはこれまた不思議なのですが、御陵という地名(JR指宿枕崎線にも御領駅があります)があります。もちろん、御陵や御所という地名は幾つかありますので、それほど珍しいものではありませんが、薩摩半島の先端にあるのが奇妙という意味です。それはともかくとして、奇妙な伝承とは“天智天皇と大宮姫がこの御陵の安藤実重中将を訪ねた折に饗応のために大釜で米を炊いたところその釜蓋が強風で飛ばされその蓋を祭った”というものです。
 ただ、この話については、熊本地名研究会のメンバーでもあるために、地名学と民俗学の側からある程度の説明ができると考えています。ご存知の方もおられるかも知れませんが、民俗学者の谷川健一氏の『続日本の地名』(岩波新書)に登場する永尾神社の話がそれです。
 間違いがあると大変ですので、詳しくは同書を読まれるとして、ここでは極めて簡略化した話をします。熊本県宇土半島の旧不知火町(現宇城市)に永尾(えいのお)神社があり、この氏子はエイを食べないとされています。このことに着目した谷川は、柳田国男以来の南方文化論の延長に南から移動してきたエイをトーテムとする集団が住み着いたとするのです。この永尾神社は海に向かって突き出した尖った岬の上に建てられています。つまりエイの尾に乗っているのです。さらに、沖縄ではエイをカマンタと呼ぶのですが、この這い上がったエイが乗る山が鎌田(かまた)山と呼ばれているのです。もう、お分かりでしょう。頴娃町のエイはスティングレイのエイであり、竃蓋神社のカマブタとはエイの現地名であるカマンタ(マンタ・レイも有名ですね)が持ち込まれている可能性があるのです。
 これは、熊本地名研究会の小崎龍也氏が谷川の永尾地名説に基づき新たに展開されているものですが、私も九州に五~六ヶ所の永尾(えいのお)地名を発見しています。 
酔ノ尾(鹿児島県いちき串木野市)、釜ノ尻(鹿児島県東町獅子島)、永ノ島、エイノ鼻(長崎県佐世保市)、江ノ浦=下釜(長崎県諫早市)です。詳しくはHPアンビエンテの「地名は時間の化石」を見て下さい。
 恐らく、頴娃町の釜蓋神社の話はエイ=カマンタを祀る部族が住み着き、その地形との一致もあり釜蓋と表記される地名が生まれたのでしょうが、いつしかそのことが忘れ去られ、後発の大宮姫伝説が重なって饗応のための釜蓋が飛ぶという話に変わったと考えられます。
 さて、話を枚聞神社に戻しましょう。ここでは大宮姫伝説にまつわるもう一つの話をします。

 皇后来
 開聞岳が海に落ち込む山麓には大規模な熔岩塊の海岸線が広がっていますが、その西の一角に皇后来(コウゴウライ、コゴラ)と呼ばれる小さな入江があります。コゴラは恐らく皇后浦の転化したものでしょう。枚聞神社から西に四キロほど走ると入野駅に着きます。
 外に近道もありますが、少し下った入野道地、脇といった集落のアコウ群落の美しさを堪能して向かうことをお薦めします。皇后来は直に分かります。鹿児島県による解説を読むと、

 皇后来
 天智天皇の后大宮姫が志賀の都から伊勢を経て海路九州に下り、山川の牟瀬の浜にお着きになった姫はしばらくその地に滞在されていた□いよいよ開聞の鳥居ケ原に新築される仮宮殿にお帰りになるため、牟瀬の浜から舟で開聞岳をまわられて脇浦の入江にお着きになったという。以来この入江を皇后来(こごら)という。 鹿児島県

 ここからは古田史学の会古賀達也事務局長の「最後の九州王朝」“鹿児島県「大宮姫伝説」の分析”(一九八八)に限りなく重なってくるのですが、まず、天智天皇は置くとして、「志賀の都から伊勢を経て海路九州に下り」は気になります。どう考えても志賀の都とは九州王朝の都の博多湾岸に思えるではありませんか。
 この古賀論文についてのコメントは別稿としますが、一点だけ書いておきます。頴娃町に限らず開聞岳付近には非常に多くの「別府」地名があります。ただ、現地では「ビュウ」(佐賀の別府地名はベフ)と呼ばれているのです。
 もちろん、別府地名は全国に分布しており、アイヌ語起源(ナイとともに川を意味する)説もありますが、一般的に九州西岸では“O”音が“U”音に入れ替わる傾向が顕著ですから、例えば「オオゴト」は「ウーゴト」と発音されるのです。とすれば「ビュウ」の本来の発音は「ビョウ」であるわけで、いわゆる郡評論争で著名な九州王朝の評督府の評の可能性を否定できないのです。私も現地で「ビョウ」と呼ばれていることは知っていましたが、古賀氏はこれを十年も前から「評」と関係付けておられたのです。この独創性と感性については驚くばかりです。このため私も多少の新しい仮説を提出しておきたいと思います。
 仮に大宮姫が九州王朝のラスト・プリンセスとして、大和朝廷の影響がなお及んでいない薩摩や大隅に最後の抵抗拠点(亡命地)を求めたとも考えられます。この薩摩半島先端への亡命ルートを考えると、それが宇佐神宮の沖を通る九州東岸が選択されるとは考えられず、西回りが当然のコースになるはずなのです。実はこれを裏付けるものがあるのです。
 それは志賀の都=博多湾沿岸から薩摩への第一の中継地点ともいうべき佐世保市に大宮姫を祀る神社があるのです。そして、さらに一歩踏み込めば、「伊勢を経て」についても、古田史学の会水野代表による「阿漕的仮説」(二〇〇六)で展開された元伊勢神社球磨川河口付近説にも繋がることになってくるのです。これについても詳報は別稿とします。今後とも天子宮、大宮姫伝説からは目が離せません。

 

 伊倉 四十九
“道川内、乙千屋の両天子宮の周辺調査”

 人吉の天子宮調査の行き掛けに発見した熊本県芦北町の敷道川内、乙千屋の両天子宮については、伊倉 三十一“熊本県芦北町の新たな天子宮の発見”において既に報告していますが、突発でもあったため周辺の調査を全く行なわないものでした。
 最近、玉名から八代や芦北の国との関係が深まってきました。当然ながら、地元の郷土史会などとの関係を創る必要もあって、八代史談会、熊本地名研究会に引き続いて芦北の“野坂の浦”に加入することにしました。言うまでもなく“野坂の浦”は万葉集の野坂の浦を会(誌)の名称としたものです。熊本地名研究会の『熊本の地名』はもとより、既に八代史談会の『夜豆志呂』でも四本の長編を掲載しています。今後、九州王朝説も含め古代史、民俗、地名論などをこの『野坂の浦』に掲載できることになるでしょう。既に準備段階から九州王朝説の注入に入っています。こうして、十月の三連休、再び佐敷に入り“野坂の浦”の合評会に参加し宴会に参加させて頂きました。
 翌日、再び道川内の天子宮に足を向けました。前回の報告に入れた写真では鳥居の額の「天子宮」の文字が見えなかったため、まずは、確認できる写真を撮ることが目的でした。その後、周辺での聴き取りを行いましたが、その中で、神社直下の農家の若奥様からかなり詳しい話をお聞きすることができました。この家は元は神社の管理(世話)をしていたということ。現在、宮司は付近の諏訪神社から来られているという事。この数軒の一帯は天子の下(テシノシタ)と呼ばれている事。自分は乙千屋から嫁いできたが、乙千屋の天子宮は地元ではお天(てん)さんと呼ばれている。・・・・といったものでした。
 「オテンサン」という呼び名は合評会でも会の編集員からお聞きしていましたので、これで駄目押しができたことになります。たとえ町史、郡誌には○○神社とされていても、地元では「オテンサン」と呼ばれ、「テンジン」、「テンマングウ」などとは呼び分けられていることがはっきりと確認できます。
 『芦北町史』『津奈木町史』は一応抑えましたが、現在、会の主筆からお借りして、大正期の『葦北郡誌』を全編読んでいるところです。ただ、『肥後国誌』『肥後神社誌』は、入手が遅れており後回しになっています。
 それはさておき、この天子宮調査の件は会でも十分にご存知ですので、今後、新たな情報が入ってくるかもしれません。何と言っても現地にお住まいの方の知見に勝るものはありません。仮に天子宮が倭の五王の時代にまで遡るものとすれば、地元では千五〇〇年の永きに亘ってテンシグウと呼ばれてきたということになるのです。
 一方、前進もあれば後退も在ります。“伊倉 三十七 “崖崩れに消えた垂水市二川の天子神社”で報告した天子神社は場所が違うのではないかという情報を新たに得ました。ネット上に出てくる垂水市二川の天子神社は牛根郵便局の隣の垂水市二川1884番地にあることになっているのですが、裏を取るために地元区長(垂水市では振興会長と呼ぶそうですが)に電話でお尋ねしたところ、天子神社からは少し北に位置する垂水市のはずれ、二川浮津の天子神社の事ではないかと言うのです。私は二川牛根局前説を支持したいのですが、今後とも調査を継続します。

 

 伊倉 五十
 “佐世保市の大宮姫神社は誰を祀るか?”

 伊倉 四十八“薩摩半島先端の大宮姫伝説”において、
 仮に大宮姫が九州王朝のラスト・プリンセスとして、大和朝廷の影響がなお及んでいない薩摩や大隅に最後の抵抗拠点(亡命地)を求めたとも考えられます。この薩摩半島先端への亡命ルートを考えると、それが宇佐神宮の沖を通る九州東岸が選択されるとは考えられず、西回りが当然のコースになるはずなのです。実はこれを裏付けるものがあるのです。
 それは志賀の都=博多湾沿岸から薩摩への第一の中継地点ともいうべき佐世保市に大宮姫を祀る神社があるのです。そして、さらに一歩踏み込めば、「伊勢を経て」についても、古田史学の会水野代表による「阿漕的仮説」(二〇〇六)で展開された元伊勢神社球磨川河口付近説にも繋がることになってくるのです。これについても詳報は別稿とします。今後とも天子宮、大宮姫伝説からは目が離せません。
 と、しました。今回はこの現地踏査の話です。早岐の瀬戸辺りの土蜘蛛の話はあるものの、古代史において佐世保が論じられることはあまりありません。しかし、この九州西端の地は平戸の西岸(宮ノ浦、志々岐崎)と東岸(平戸の瀬戸)を抜ける重要な航路上の中継点にあります。
 拙論「船越」でも書いたように、まず太宰府から宝満川を下れば久留米付近で筑後川に合流します。古代においてはこの辺りが既に海であったとも考えられますが、今ならここからさらに下り西に向かえば最も安全に移動できる西周りルートに入ることができます。大川市付近から有明海に漕ぎ出しせばあっという間に諫早に着くことができるのです。そして、船越(諫早には三つの船越地名がありますが、『延喜式』にも船越が出ています)すれば鏡のように波静かな大村湾に乗れ、あとは早岐の瀬戸を抜ければ、ほとんどの風波を避ける事ができる佐世保湾(九十九島の多島海)に労せずに入るのです。
 私が、なぜ、西周り航路を重要視するかですが、簡単に言えば、平戸南端の志々岐崎を周り対馬海流に乗れば、ほって置いても自然に朝鮮半島に到達できるからです。唐津という名前(これは中国の唐ではなく朝鮮半島の韓に向かう港なのです)や秀吉の朝鮮征伐の影響からかこのことはあまり重視されていませんが、大船がなかった時代には潮流を利用する航路が最も重要だったはずなのです。
 前置きが永くなりましたが、この佐世保市の西、現在の相浦港に近い竹辺町九八番地に大宮姫神社あります。
 まず、佐世保の市街地はこの相浦地区ではなく、佐世保駅を中心に拡がっています。それは、明治以来、海軍工廠がこの地に置かれ(現SSK佐世保重工業)人口が急増したからであって、古代においては川もない佐世保よりも、この相浦こそが中心地であったと考えられます。当然ながら、ランドマークである愛宕山の東側に流れる相浦川一帯も古くは相当奥まで湾入していたはずで、この大宮姫神社がある相浦川左岸の小丘陵はまさに波際線に近い一等地であったように思えます。
 神社の由来記によれば、「・・・・神社はもともとは愛宕町ふきんにあった大宮古社を宗家松浦家の十六代当主の宗金親が天正四年(一五七六)に現在地に新築移転したもので、武辺胤明はその時の神官であったことになります。・・・・」とあります。祭神として特別な記載がない以上、大宮姫が祀られていると考えて良いと思うのですが、一般には豊玉姫とされているようです。ただ、この武辺一族は藤原氏の流れを汲むものらしく、それが多少気になります。佐世保市の大宮姫神社が薩摩、大隅の大宮姫伝説のものかは依然不明ですが、この神社の存在は際立っています。松浦党との関係も考えて見る必要があるかも知れません。そのうち千五百人の大所帯の松浦党研究会にも参加してみたいと思っています。手を広げ過ぎですかね。
 今後とも調査を継続しますが、有明海とこの相浦が通底していたことを感じさせる地名がこの大宮姫神社のそばにあります。竹辺町の下流の隣は新田町ですが、その隣が母ケ浦(ほうがうら)町なのです。この非常に珍しい母ケ浦(ほうがうら)という地名が久留米市から筑後川を下り大川付近で有明海に出た正面の佐賀県鹿島市の七浦にあるのです。そして、佐賀天子宮二社のうち一つがこの付近にあるのです。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailはここから

古田史学会報93号

古田史学会報一覧

ホームページへ

Created & Maintaince by" Yukio Yokota"