2022年10月12日

古田史学会報

172号

1,『漢書』地理志・「倭人」項の臣瓚注
谷本茂

2,室見川銘板はやはり清朝の文鎮
大原重雄

3,官僚たちの王朝交代
律令制官人登用の母体
古賀達也

4,倭国の女帝は如何にして
仏教を受け入れたか

服部静尚

5,乙巳の変は九州王朝による
蘇我本宗家からの権力奪還の戦いだった

満田正賢

6,「二倍年暦」研究 の思い出
古田先生の遺訓と遺命
古賀達也

7,「壹」から始める古田史学・三十八
九州万葉歌巡り
古田史学の会事務局長 正木 裕

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初めての鬼ノ城探訪 多元的「鬼ノ城」研究序論 古賀達也(会報171号)
蝦夷国への仏教東流伝承 羽黒山「勝照四年」棟札の証言 古賀達也(会報173号)


官僚たちの王朝交代

律令制官人登用の母体

京都市 古賀達也

一、前期難波宮「官人登用の母体」説

 令和四年新春古代史講演会で佐藤隆さんが「難波との複都制、副都に関する問題」とのテーマで講演され(注①)、前期難波宮「官人登用の母体」説がレジュメに記されていました。これは注目すべき視点です。
 服部静尚さん(古田史学の会・会員、八尾市)の研究(注②)によれば、律令制による中央官僚の人数は約八千人とされています。わたしは、九州王朝(倭国)の前期難波宮で執務した官僚達が後に藤原京に移動したと、次のように考えています。
〝これだけの大量の藤原宮(京)の官僚群はいつ頃どのようにして誕生したのでしょうか。奈良盆地内で大量の若者を募集して中央官僚になるための教育訓練を施すとしても、壬申の乱(六七二年)で権力を掌握し、藤原宮遷都(六九四年)までの間で、天武・持統らにそれは可能だったのでしょうか。
 わたしは前期難波宮で評制による全国統治を行っていた九州王朝官僚の多くが飛鳥宮や藤原宮(京)で新王朝の国家官僚として働いたのではないかと推定しています。〟(注③)

 おそらく佐藤さんも同様の問題意識を持っておられ、前期難波宮は「官人登用の母体」と考えられたのではないでしょうか。すなわち、大和朝廷の大量の官人は前期難波宮で出現したとする説です。前期難波宮を九州王朝の都とするのか、大和朝廷の孝徳の都(通説)とするのかの違いはありますが、前期難波宮(難波京)において数千人に及ぶであろう全国統治のための大量の官人が出現したとする点では一致します。しかし、この視点を徹底すれば問題は更に深層へ至ります。それは前期難波宮の大量の官僚群は前期難波宮において、いきなり出現したのかという問題です。専門的な律令統治能力を持つ数千人の官僚群が短期間で出現することは起こり得ないでしょう。

二、太宰府(倭京)「官人登用の母体」説

 九州王朝説の視点からは、七世紀中頃(六五二年)に創建された前期難波宮(難波京)よりも古い太宰府(倭京)の存在を考えると、九州王朝による律令官制の成立は、筑後から筑前太宰府に遷都した倭京元年(六一八)から始まり、順次拡張された太宰府条坊都市とともに官僚機構も整備拡大されたと考えています。そして、前期難波宮完成と共に複都制(両京制)を採用した九州王朝は評制による全国統治を進めるために、倭国の中央に位置し、交通の要衝である前期難波宮(難波京)へ事実上の〝遷都〟を実施し、太宰府で整備拡充した中央官僚群の大半を難波京に移動させたと思われます。この推定には考古学的痕跡があります。それは太宰府条坊都市に土器を供給した牛頸窯跡群の発生と衰退の歴史です。
 牛頸窯跡群は太宰府の西側に位置し、太宰府に土器を供給した列島屈指の須恵器窯跡群で、時代によって土器生産が活発になったり、低迷したことを「洛中洛外日記」で紹介しました(注④)。牛頸窯跡群の操業は六世紀中頃に始まります。 当初は二~三基程度の小規模生産でしたが、六世紀末から七世紀初めに窯の数は一気に急増し、七世紀前半にかけて継続します(注⑤)。わたしが太宰府条坊都市造営の開始時期とする七世紀初頭(九州年号「倭京元年」六一八年)の頃に土器生産が急増したことを示しており、これは太宰府(倭京)建都の考古学的痕跡です。
 七世紀中頃になると牛頸での土器生産は減少しますが、前期難波宮の造営に伴う工人(陶工・番匠)らの移動の結果と思われます。そして、消費財である土器の生産・供給が減少していることは、太宰府条坊都市の人口減少を示唆し、太宰府官僚群が前期難波宮(難波京)へ移動した痕跡ではないでしょうか。
 このように太宰府への土器供給体制の縮小と前期難波宮造営時期とが対応しており、七世紀前半に太宰府(倭京)で整備拡充された律令制中央官僚群が、七世紀中頃の前期難波宮創建に伴って難波京へ移動し、そして大和朝廷への王朝交替直前の七世紀末には藤原京へ官僚群は移動したと考えられます。すなわち、太宰府(倭京)こそが官人登用の真の母体だったのです。なお、律令制統治の開始に伴う、机上で執務(行政文書の執筆・管理)する官僚群の誕生と、同じく食卓上に置いて使用する須恵器杯Bの発生が深く関係していると考えられます(注⑥)

三、太宰府の高級官僚「筑紫史益」

 九州王朝による律令官制の成立は太宰府(倭京)に遷都した倭京元年(六一八)から始まり、その後、官僚機構も拡充され、前期難波宮(難波京)や大和朝廷の藤原京へと受け継がれたとする仮説をわたしは提起しました(注⑦)。その高級官僚の一人、筑紫史益ちくしのふひとまさるについて紹介します。
 『日本書紀』持統五年正月条に次の詔が見えます。
 「詔して曰のたまはく、直広肆筑紫史益、筑紫大宰府典ふびとに拝されしより以来、今に二十九年。清白き忠誠を以て、敢へて怠惰たゆまず。是の故に、食封五十戸・絁ふとぎぬ十五匹・綿二十五屯・布五十端・稲五千束を賜う。」

 この記事によれば、持統五年(六九一)の二九年前に筑紫史益が筑紫大宰府典に任命されたのですから、六六二年(白鳳二年)には筑紫に大宰府があり、律令制官職(注⑧)「大宰府典」があったことを示しています。これは大宰府政庁Ⅰ期と条坊都市の造営時期に相当し、当時の九州王朝に律令と律令官僚が存在していたことの史料根拠の一つです。
 筑紫史益について、九州王朝説の視点から考察した論文があります。前田博司さん(故人、下関市)の「九州王朝の落日」(一九八四年、注⑨)です。一部引用します。

〝筑紫史益に与えられていた位階は直広肆でありこれは後の従五位下にあたる。当時筑紫大宰であった河内王は西暦六八六年には浄広肆の位にありこれは後の従五位下にあたる。西暦六九四年に筑紫大宰率に任じられた三野王も同じく浄広肆であり、『日本書紀』天武天皇十四年正月の条に「浄」は諸王以上に与えられる位であり、「直」は諸臣に与えられる位であるとされていることから、王族と諸臣の違いこそあれ筑紫大宰府の長官にも比すべき位階を筑紫史益が有して居ることは注目すべきことと考えられる。筑紫の大宰は次々に替っても、その下にあって、しかも位階では長官と対等のランクにあり、大宰府典として事実上九州の行政の実務に永年携わっている在地の有力な人物の像を思い浮かべていただきたい。(中略)
 典の職はのちの養老職員令によれぱ、大宰府には大典二人、少典二人を置く事になっていて、その相当の官位は大典が正七位上、少典が正八位上であり、三十年程へだたった後代に比して、大宰府典の職位がかなり高いのは何故だろうか。〟

 前田さんは「古田史学の会」創設時からの全国世話人で、三十年ほど前に古田先生と二人で長門国鋳銭司跡を訪問した時、ご案内いただきました。一九八四年段階で前田さんが筑紫史益に注目されていたことには驚きです。
 筑紫史益の位階や姓かばね「史」の他に筑紫という名前も注目されます。九州王朝の天子が筑紫君磐井や筑紫君薩野馬のように筑紫を名のったことを考えれば、同じく筑紫史益も九州王朝王族の一人と思われます。そのため、前期難波宮創建後も高級官僚として太宰府に残ったのではないでしょうか。なお、王朝交代後も「筑紫公ちくしのきみ」を名のる官人の存在を「九州王朝の末裔たち 『続日本後紀』にいた筑紫の君」(注⑩)で紹介しています。ご参照下さい。〈令和四年(二〇二二)八月二十日、改訂筆了〉

(注)
①「発掘調査成果からみた前期難波宮の歴史的位置づけ」講師 佐藤隆氏(大阪市教育委員会文化財保護課副主幹)。令和四年一月十五日、アイサイトなんばで開催。主催:古田史学の会・他。

②服部静尚「古代の都城 ―宮域に官僚約八千人―」『古田史学会報』一三六号、二〇一六年。『発見された倭京 ―太宰府都城と官道―』(『古代に真実を求めて』二一集)所収。

③古賀達也「洛中洛外日記」一九七五話(2019/08/29)〝大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証(9)〟

④同「洛中洛外日記」一三六三話(2017/04/05)〝牛頸窯跡出土土器と太宰府条坊都市〟

⑤石木秀哲「西海道北部の土器生産 ~牛頸窯跡群を中心として~」『徹底追及! 大宰府と古代山城の誕生 ―発表資料集―』二〇一七年、「九州国立博物館『大宰府学研究』事業、熊本県『古代山城に関する研究会』事業、合同シンポジウム」資料集。

⑥古賀達也「太宰府出土須恵器杯Bと律令官制 ―九州王朝史と須恵器の進化―」『多元』一六七号、二〇二一年。
同「洛中洛外日記」二五三六~二五四七話(2021/08/13~22)〝太宰府出土、須恵器と土師器の話(1)~(7)〟

⑦同「洛中洛外日記」二六六六話(2022/01/21)〝太宰府(倭京)「官人登用の母体」説〟

⑧『養老律令』職員令に「大宰府典」が見える。

⑨前田博司「九州王朝の落日」『市民の古代』六集、市民の古代研究会編、一九八四年。

⑩古賀達也「九州王朝の末裔たち 『続日本後紀』にいた筑紫の君」『市民の古代』十二集、市民の古代研究会編、一九九〇年。


 これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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