2022年10月12日

古田史学会報

172号

1,『漢書』地理志・「倭人」項の臣瓚注
谷本茂

2,室見川銘板はやはり清朝の文鎮
大原重雄

3,官僚たちの王朝交代
律令制官人登用の母体
古賀達也

4,倭国の女帝は如何にして
仏教を受け入れたか

服部静尚

5,乙巳の変は九州王朝による
蘇我本宗家からの権力奪還の戦いだった

満田正賢

6,「二倍年暦」研究 の思い出
古田先生の遺訓と遺命
古賀達也

7,「壹」から始める古田史学・三十八
九州万葉歌巡り
古田史学の会事務局長 正木 裕

古田史学会報一覧
ホームページ

「聃牟羅国=済州島」説への疑問と 「聃牟羅国=フィリピン(ルソン島)」仮説 (会報169号)

常世国と非時香菓について 谷本茂(会報175号)


『漢書』地理志・「倭人」項の臣瓚注について

神戸市 谷本茂

一.はじめに

 初期倭人の史料として、周知のように、『漢書』地理志第八下・燕地の条(班固の著述:西暦八〇年頃成立)に次の記載があり、時代の異なる三種類の注記が添えられている。
[本文]樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云
[注①]如淳曰 如墨委面 在帯方東南萬里 [如淳ジョジュンは魏の人]
[注②]臣瓚曰 倭是國名 不謂用墨 故謂之委也 [臣瓚シンサンは西晋の人]
[注③]師古曰 如淳云如墨委面 蓋音委字耳 此音非也 倭音一戈反 今猶有倭國 魏略云 倭在帯方東南大海中 依山島爲國 度海千里 復有國 皆倭種 [師古/顔師古ガンシコは唐・七世紀前半の人]

 ちなみに、顔師古が引用する『魏略』の文面は、『三国志』に類似の記事が存在する。
[参考]『三国志』三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳第三十 倭人傳:「倭在帯方東南大海中 依山㠀爲國 … (女王國東)渡海千里 復有國 皆倭種 … 」

 これら三者の注は、文意が難解なことで著名であるが、本稿は、従来の解釈で最も妥当と思われる西嶋定生氏の説を紹介し、それへの幾つかの疑問点を述べ、主として臣瓚注[注②]について、別の視点からの新解釈を提示する。

二.先行諸説の概要

 西嶋定生『倭国の出現』(東京大学出版会 一九九九年)第四章 『漢書』地理志倭人条注の「如墨委面」について―如淳・臣瓚・顔師古三注の解釈―(初出:『東アジアの古代文化』九六号 一九九八年)に要領よく纏めた先行研究の経緯が記されている。
 ①「如墨委面」国名説[内藤湖南、志田不動麿、藤田元春などの諸説]
 ②増村宏説の紹介/「如墨委面」
 国名説から離脱したが、「委面」を「黥面」とは無関係という内藤説に引きずられて賛同し、解読をより晦渋なものへと導き、原文のままでの解読を放棄して、迷路に落ち込んだ、とする。

 西嶋氏の論で注目すべきは、〝増村氏はさらに続稿[注1]において、「如墨委面」に関する古田武彦、泉隆弐[注2]両氏の諸説を論評し、ともにそれらの諸説が荒唐無稽に属する暴論であることを指摘しているが、その指摘はいずれも肯綮こうけいに当って正当であり、そこには厳正なる注釈者の姿勢が窺われる〟と、増村氏の論考を部分的に高く評価していることである。しかし、史料批判の事実は、少し西嶋氏の記述するものとは異なるのみならず、示されている西嶋氏の新見解が、実質的には、「荒唐無稽に属する暴論である」はずの古田武彦氏の見解によく似たものになっているのである。

[注1]:増村宏『遣唐使の研究』(同朋舎出版 一九八八年)附編 「漢書地理志注の如墨委面」(一九七七年五月四日稿了・五月七日補記)「續・漢書地理志注の如墨委面」(一九七八年四月二八日稿了)の二論文のうちの後者を指す。

[注2]泉隆弐『邪馬壹国の原点 倭ヰ』(講談社 一九七九年)という書籍が刊行されているが、筆者は未見。

三.如淳注「如墨委面」の理解について

 西嶋定生氏の「如墨委面」の理解は、王仲殊氏の論考[「論所謂〝倭面土国〟之存在与否」:『北京大学学報』一九九四年第四期 八八頁]を端緒とするという。
〝この王氏の読解は「如墨委面」が『漢書』本文の「倭人」の注解でなければならぬとする増村氏の指摘に合致する。増村氏はそのことを正しく指摘しながらも、「墨」字は入墨すなわち黥面とは関係がないという内藤氏の見解に束縛されて、「如墨委面」を正しく解読することができなかったのであった。〟

 西嶋氏の読解試案:墨モテ面ニ委スルガゴトシ/(『漢書』地理志の「倭人」の「倭」という意味は)墨をもって人面に委する(=積む)ということであろう。
〝すなわち如淳は「倭人」という名称の意味を模索して、「倭人」の「倭」は「委」と同じであり、この「委」には王氏の示すように「委積」すなわち「積み上げる」という意味があるから、「倭人」とは「墨を顔面に積み上げた人」という意味であろう、と述べているのである。このばあい「如墨委面」の「如」字は「同様である」、もしくは断定を避けて推測にとどめておく、という意味であろう。「委」字にはまた「捼」字に通じて、「なでつける」という用法もあるので、あるいはそのような使用法であったかもしれない。〟
〝如淳が「倭人」に対してなぜこのような注解を試みたかということは、すでに如淳が倭人の習俗としてその黥面文身のことを知っていたからにほかならない。〟

という。
 西嶋氏の本件への見解は概ね妥当であり、大過ないと思われる。しかし、その見解の趣旨は、既に古田武彦氏が示していた見解によく似ているのであり、何故、古田氏の見解を「荒唐無稽に属する暴論である」とする増村氏の評価に賛同し、研究史上の有力な一説として詳しく触れなかったのか不可解である。
 古田武彦『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社 一九七一年)三二二頁~三二九頁において、古田氏は、「如墨委面」を〝墨の如く委面して〟と訓読し、〝たしかに、如淳注は、『漢書』本文の「倭」を「ゐ」と読み、「委」と通じ用いた、と解されるのである。〟としている。さらに、〝「墨」とは「墨刑」のことだ。顔に「いれずみ」を刻し、「黥面」とする刑罰である。〟と指摘し、「黥面した倭人」という概念を如淳注は示していると解釈した。[注3]
 つまり、西嶋氏の論考が出る四半世紀以上前に、古田武彦氏が、ほぼ似たような理解に達していたことは、研究史上の事実として、注意されるべきである。古田氏の論拠について西嶋氏から見て幾つかの欠陥や不備があったとしても、「如墨委面」に関する理解は、王仲殊氏の論考を待つまでもなく、既に端緒が現れていたのであるから。

[注3]古田氏は、上掲書三二八頁において更に、「委面」には三つの意味があるとして、第一に「異面」(「黥面」に同じ)、第二に「倭人の面」(「倭面」の意)、第三に「礼物を君前に致して臣となること」[袁宏『三国名臣序賛』に用例あり]を挙げている。(※筆者の再検討では、{「委面」=「異面」}の説は、増村宏氏が詳細に批判している通り妥当でない。これは、古田氏が、『三国志』東夷伝の「長老」を中国本土の長老と解したことに起因している。東夷伝の「長老」は東夷の日本海沿岸部にいる長老であり、「異面」が「委面」と直接結びつく根拠は非常に乏しい。この点については、吉田堯躬よしだかたみ氏の『『三国志』と九州王朝』(新泉社 一九九七年)でも既に指摘されている。

四.臣瓚注の理解について

 古田氏は臣瓚注について『「邪馬台国」はなかった』の中では直接触れていないので、その見解は不明である。(※後の論考のどこかで触れていた場合、御教示頂ければ幸いである。)
 西嶋定生氏は、従来の訓点は妥当でないとする。従来、「臣瓚曰 倭是國名 不謂用墨 故謂之委也」と区切って理解してきたが、「故」字を下句に付けて「ゆえに」と解すると、文義がよく分からなくなる。更に、二度使われている「謂」字をともに「いう」と訓じたことも、明解さを失う要因である。この後者の一文は、臣瓚がその前句として指摘した「倭是国名」の一文を説明するものであるということが前提とされなければならない。西嶋氏の私見によると、〝まず文中の「故」字は上句に属すべきであり、下句中の「之」とは上文をうけて「倭人」の「倭」字を示すものと考えられる。するとこの臣瓚注後半九字[不謂用墨故謂之委也]は次の如くに訓読されよう。不レ謂三用墨故謂二之委一也〟(用墨ノ故ニ之ヲ委ト謂ウハ謂アタラザルナリ。)〟その理由は、「謂」字の本義は「報」であり、「報」とは人を論じ事を論じてその実を得ることである。「謂」字の本義がそうであれば「不謂」とはその否定型であり、人を論じ事を論じてその実を得ざるの意にほかならない。文頭の「不謂」の二字を「あたらず」と解するならば※、文意が甚だ明解となる。〝すなわち臣瓚はその上文において「倭は国名である」と喝破して如淳注を否定し、それに続けて「用墨の故に倭人を委と謂ったという議論はその実を得たものでない」と、如淳注の内容に言及してこれを否定したものである。以上のごとく読解すると、臣瓚注は如淳注の内容を全面的に否定したものとして、その文義きわめて明解なものとなるのである。〟
 西嶋氏の読解はそれなりに説得力があり、大筋で臣瓚注の意図する義に近いと思われるが、文章構成上は若干の疑問が残る。それは、『漢書』標点本(中華書局 一九六二年刊)の中では、「臣瓚曰:是國名,不謂用墨,故謂之委也。」と区切っていて、中国の研究者達の区切り方(読み方)が、従来の日本の研究者達と同じであり、西嶋氏のような「故」字を上句に付ける読み方をしていないことである。中国の研究者達の読み方だからそちらの方が正しいとは必ずしも言えないわけであるが、中国語に堪能な研究者達の標点作業から生まれた読み方を軽視するのも躊躇される。また、「倭」の説明(由来/起源)に動詞用法の「委」を対応させている、という見解には、素朴な疑問を禁じ得ない。「倭」と対応させる対象であるならば、「委」は名詞または名詞用法の語でなければ釣り合いがとれないのではなかろうか。
 従来の諸解読は、「故」字を「ゆえに」という説明/理由を表す用法と理解しようとする前提から、不明瞭化の混乱を招いていたのではないか、と筆者は思うのである。「故」字には、「もと」「もとより」(以前から知っている、以前は、以前から)という形容詞・副詞の用法がある。筆者の解読試案として「不謂用墨 故謂之委也」は、「用墨ヲ謂アタラズ(用墨ハ謂ラズ)、モト(モトヨリ)之ヲ委トイウナリ」(墨を用いることをいうのではなく、以前からこれ[倭]を委というのである。)という訓みを提起したい。つまり、臣瓚注は、倭は国の名であって、[如淳がいうような](倭人が)墨を用いることをいうのではない、以前はこれ[倭]を委といった(以前からこれ[倭]を委という)のである、と述べていることになる。「以前は倭を委といった」という解読結果は、志賀島出土とされている「漢委奴國王」金印の文字使いにも整合すると思われる。
 西嶋氏の解読試案では、臣瓚注は如淳注を全面的に否定する記述と理解せざるを得ないことになるが、拙論の解読試案においては、臣瓚注は如淳注を部分的には(「倭」の「用墨」起因説については)否定しているものの、「倭」と「委」の関係については肯定的に認める内容になっている、と理解することになる。そうであれば、顔師古注は「倭」と「委」の関係を〝音だけで結び付けた説〟として、前二者の注を批判し、音韻すらも合致しない謬説であると退けていることになる。

※謂:動詞用法「いう」(話しかける、あることをめぐって話す/批評する、そう名づける、そう思う/考える)の他に、名詞用法「いい」(よび名)、「いわれ」(理由、わけ)がある。「謂」に(西嶋氏の訓読の)「アタル」の古訓は存在しないようである。古訓に無いからそう訓読すべきではないとは言えないが、「不謂」を「アタラズ」と訓じるのは少し意訳し過ぎている気もする。

五.顔師古注の理解について

 古田武彦氏は、〝師古曰、如淳の「墨の如く委面す」と云えるは、蓋し、委字を音おんするのみ。この音、非なり。倭の音は「一戈反」。今猶なお倭国あり。魏略に云う~〟と訓読し、顔師古の主張は、〝如淳が「ゐ」としか読めない「委」字をあてて用いているのは不当だ〟としていると理解する。
 西嶋定生氏は、顔師古注の大意を次のように読解する。〝師古曰く、如淳は倭人の倭という意味を墨を顔面に委むという「委」字の意味であろうとしているが、これは「委」字の音を「倭」字の音と同じだとして解釈したものに過ぎない。ところがこの如淳の比定は誤りである。「倭」字の音は一戈反(iwa)であって「委」字の音とは相違する。「倭」字の音が「ワ」であることは、現在「倭国」の「倭」字が「ワ」と呼ばれていることでも明らかである。『魏略』には~[中略]~、倭という国はあるが、委という国はないことが示されている。〟これより西嶋氏は、顔師古は、如淳注を否定した臣瓚注に軍配を挙げているのである、としている。
 ここでも、西嶋氏の解読は、細部には違いがあるものの、実質的に、古田氏の解読趣旨とほぼ同じであり、両者に大きな相違は無いといえよう。そうであれば、ますます、西嶋氏が増村氏の説に賛同して、(自説の解釈とあまり相違しない)古田氏の見解を無視し、その内容に言及しないのは不可解としか言いようがない。

六.まとめ/三者の注に対する全体的な理解

 古田武彦氏は、「壹」の音韻との関連で漢書注を考察したが、(少なくとも『「邪馬台国」はなかった』において)臣瓚注には明示的な解読を示していない。しかし、如淳注と顔師古注に関しては、訓読方法が西嶋定生氏のものとは相違するものの、実質的に、ほぼ似たような理解であった。西嶋氏が(自己の見解に似ている)その先行解読の事実に触れずに、増村氏の古田氏批判を簡略に引用するだけで古田氏の説を一蹴しているのは、先行諸説の客観的な批評という点で、公平性を疑問視されても仕方ないのではなかろうか。
 平野邦雄『邪馬台国の原像』(学生社 二〇〇二年)で、〝「倭面土」の国名について、詳しく論述された〟(二〇七頁)と評価されている西嶋氏の見解については、上述のように、説得力はあるものの、依然として『漢書』地理志の「倭人」項の三者注への訓読に関して少し疑問が残るものでもあると思う。西嶋氏は自説を総括して、〝つまり如淳注が「倭人」の「倭」字を入墨委面の「委」字で注解しようとしたことに対して、臣瓚は「倭」は固有名詞であって入墨委面の「委」字で解釈すべきでないと反論し、顔師古はこの両論に対して、「倭」字と「委」字とは別音であるから如淳説は誤りであるとしたのである〟(上掲書:一二八頁)とする。大枠では妥当な見解であるが、臣瓚注の解釈については疑問もある。前述のように西嶋氏は、〝臣瓚注は如淳注の内容を全面的に否定したものとして、その文義きわめて明解なものとなるのである〟(上掲書:一二七頁)と評価するが、実際には、拙論の試案のようにも解釈する余地があり、臣瓚注は必ずしも如淳注の内容を全面的に否定したものではない可能性があると考えられる。
 『漢書』の当該注記は、顔師古による他者の注記引用文を含む注記であるという性格とも相俟って、相当に難解である。本稿の臣瓚注の解読試案も、どこまで正鵠を得ているか自信は無いのであるが、読み方の可能性の一つとして新しい視点を示唆するものではないかと思い、報告した次第である。既出の説を後追いする論ではないかとも恐れる。会員諸兄から関連情報や賛否の見解が寄せられれば幸いである。(以上)[二〇二二年九月八日稿了]


 これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailはここから

古田史学会報一覧

ホームページ


Created & Maintaince by" Yukio Yokota"