2013年12月10日

古田史学会報

119号

1、続・古田史学の真実
    切言
   古田武彦

2、観世音寺考
観世音寺と観音寺
  古賀達也

3、『管子』における里数値
  古谷弘美

4、すり替えられた九州王朝
  の南方諸島支配
  正木裕

5,「天朝」と「本朝」
「大伴部博麻」を顕彰する「持統天皇」の「詔」からの解析
  阿部周一

6、“「実地踏査」であることを踏まえた『倭人伝』の行程について“を読んで
  中村通敏

7,文字史料による「評」論
「評制」の施行時期について
  古賀達也

8.トラベル・レポート --
讃岐への史跡チョイ巡り
  萩野秀公

9.「春過ぎて夏来るらし」考
  正木裕

10,独楽の記紀
なぜ、「熊曾国」なのか
  西井健一郎

 

古田史学会報一覧

「天朝」と「本朝」 -- 「大伴部博麻」を顕彰する 「持統天皇」の「詔」からの解析 下 阿部周一(会報120号)

「廣瀬」「龍田」記事について -- 「灌仏会」、「盂蘭盆会」との関係において 阿部周一(118号)


「天朝」と「本朝」

「大伴部博麻」を顕彰する「持統天皇」の「詔」からの解析 上

札幌市 阿部周一

 ここでは「書紀」の「大伴部博麻」を「顕彰」する「持統天皇」の「詔」の中の「天朝」と「本朝」について考えます。

(一)「書紀」の「本朝」と「天朝」の例

 「書紀」の「持統四年」条には「斉明七年」(六六一年)に行なわれた「百済を救う役」で「唐」「新羅」連合軍に「捕虜」になり、その後「三十年間」帰国できずにいた「筑紫國上陽郡」の「軍丁」である(あった)「大伴部博麻」が「新羅」からの使者に同行して「持統四年」(六九〇年)に帰国した記事と、その直後に「持統天皇」からその「大伴部博麻」を顕彰する詔が出されたことが書かれています。
 以下に「書紀」の「持統紀」の「該当部分」を書き出します。(以下全ての書き下し文は「岩波」の「古典文学体系『日本書紀』」に準拠しました)

「持統四年(六九〇)九月丁酉 大唐學問僧智宗 義徳 淨願 軍丁筑紫の國上陽[口/羊]郡の大伴部博麻 新羅の送使大奈末金高訓等に從ひて筑紫に還り至る。」

「(持統四年(六九〇)冬十月乙丑(二十二日)に、軍丁筑後国の上陽[口/羊](かみつやめ)の郡の人、大伴部博麻(はかま)に詔して曰く「天豊財重日足姫の天皇(斉明)の七年に、百済を救う役(えだち)に、汝、唐軍に虜(とりこ)にせられたり。天命開別天皇(天智)の三年に泊*(およ)びて、土師連富杼(はじのむらじほど)・氷連(ひのむらじ)老・筑紫君薩夜麻(さちやま)・弓削連(ゆげのむらじ)元宝の児、四人、唐人の計る所を奏聞(きこえもう)さむと思欲(おも)へども、衣粮無きに縁りて、達すること能はざるを憂ふ。是に、博麻、土師富杼等に謂(かた)りて曰く、『我、汝と共に、本朝(もとつみかど)に還り向(おもむ)かむと欲すれども、衣粮無きに縁(よ)りて、倶*(とも)に去(ゆ)くこと能はず。願(こ)ふ、我が身を売りて、以て衣食に充てよ』と。富杼等、博麻の計(はかりごと)に依(まま)に、「王朝みかど」に通(とづ)ずること得たり。汝、独他界に淹(ひさ)しく滞(とどま)ること、今に三十年なり。朕、厥(そ)の「朝みかど」を尊び、国を愛(おも)ひて、己(おのがみ)を売りて忠(まめなるこころ)を顕すことを嘉ぶ。故に務大肆、并(あは)せて施*(ふとぎぬ)五匹・綿一十屯・布三十端・稲一千束・水田四町を賜ふ。其の水田は曾孫に乃至(いた)せ。三族の課役を免(ゆる)して、其の功を顕さむ」と。」
     郭務宗*(かくむそう)の宗*(そう)は立心編に宗。JIS第4水準ユニコード68D5
     上陽[口/羊](かみつやめ)の[口/羊]は、口の下に羊。JIS第3水準ユニコード54A9
     泊*は、白の代わりに自。JIS第3水準ユニコード54A9
     施*(ふとぎぬ)は、方偏の代わり糸偏。JIS第3水準ユニコード7D41
     倶*(とも)は、倶の異体字。JIS第3水準ユニコード4FF1

 ここでは、「大伴部博麻」らは「唐人」の「計」を「奏聞」しようとしたものであり、そのために「大伴部博麻」が自分の身を売って「衣糧(食料と衣料)」を作ったとされています。
 ここで彼らが伝えようとしていた「唐人所計」というものが何を意味するかは不明ですが、目的は達したものと推察され、そのことは文中で「富杼等は博麻の計るところに依り「天朝」に通どくを得たり。」と書かれている事でも解ります。
 ところで、ここで「博麻」の言葉として「本朝」と言い、「持統」の言葉として「天朝」と言っている事について考えてみます。これは、今までは「疑い」もなく、「天皇」の朝廷(近畿王権)を意味するものとされていました。しかし、この「詔」を子細に検討すると別の考えもあってしかるべきではないかと考えます。
 まず、「持統」の詔の中に出てくる「大伴部博麻」の「本朝」について考えてみます。
 「書紀」の中では「本朝」はこの部分にしか出現しませんから、その用法・意味などについて他の例から帰納することは出来ず、あくまでもこの使用された部分の論理性から判断することとなります。
 「辞書」(大辞林)によれば「本朝」とは「我が国の朝廷。また、我が国。国朝」をいうとされています。これは常識的に考えてもうなずけるものです。
 「博麻」は「我欲共汝還向本朝」という言い方をしていますから、彼は、彼にとっての「我が国の朝廷」がある場所へ「還向」したいと言っていることとなります。
 「博麻」はそもそも「筑後」の「軍丁」であり、「筑紫」の人間でした。彼が「還り向う」と欲しているなら、その場所は「筑紫」以外には考えられず、そこには「我が国の朝廷」がある、という事とならざるを得ません。
 また彼は、同じく捕囚の身となっていた目前の「筑紫の君」である「薩耶麻」の部下であり、「本朝」とは彼の「口」から出た言葉なのですから、ここでいう「我が国の朝廷」とは「我が君」である「薩耶麻」が統治していた「筑紫朝廷」を指すものと考えるべきでしょう。
 また、「博麻」は「本朝」に「汝共」に「還向」と言っていますから、この「筑紫朝廷」が、彼にとってと言うよりそこにいる「富杼」達全員が「属している」「朝廷」であったものと考えられるものです。
 そして、「持統」はその「本朝」である「筑紫」へ還った(と考えられる)「富杼」達について「天朝」という表現をしているわけです。
 「正木裕氏」は『「薩夜麻の『冤罪』I」古田史学会報八十一号』の中で、この「天朝」について「唐朝廷」を指すとされていますが、ここで「持統」が言う「天朝」と「博麻」の言う「本朝」は一致するはずですから、「本朝」と同様「筑紫朝廷」を指す言葉として使用されているのではないかと考えられるものです。
 現在の辞書では「天朝」については、「朝廷・天子を敬って言う語」というような一種「美称」「敬称」であるとされています。
 しかし、上で見たように「本朝」という用語の使用の状況から考えると、「天朝」という語義は、特に「筑紫朝廷」について使用されているのではないかと考えられるところです。
 ただし、「天朝」という語は「書紀」の中に多数使用されているものであり、「書紀」中ではどのような使用法になっているのかという「解析」が必要と考えられます。それらの例から「帰納」して考える必要があると思われ、その結果が上で仮に出した推論に合致するか判断することとします。
 「国外」の人間から見た使用例として「書紀」には「八例」数えられます。それは「神功皇后紀」二例、「応神紀」二例、「欽明紀」一例、「敏達紀」一例、「舒明紀一例」、「斉明紀一例」です。これらの例を分析しましたが、その「天朝」という用語からは、それが「筑紫」の「朝廷」を指すものかは不明でした。(引用は省略します)
 また「国内」の人間による使用例は「五例」あります。これらについては以下に当該部分を抜粋して表記してみます。

【「膳臣」が「倭国」を天朝と称した例】

 これは「膳臣」が「新羅」に行き、そこで「新羅」に(「新羅王」に)向かっていった言葉の中の例です。
『日本書紀』巻十四雄略天皇八年(甲辰四六四)二月条
 八年春二月(中略)膳臣等新羅に謂りて曰わく「汝至りて弱きを以て、至りて強きに當れり。官軍救わざらましかば、必ず乘れなまし。人の地に成らむこと、此の役に殆なり。今より以後、豈に「天朝」に背きたてまつらむや。」といふ。(以下略)

【「小鹿火宿禰」が「倭国」を「天朝」と称した例】

 これは「新羅」に派遣した将軍「紀小弓宿禰」が死去した後、同じく「新羅」に向かった彼の子息である「紀大磐宿禰」が傍若無人の素行を行い、それを怨んだ「子鹿火宿禰」との間に起きた確執を記した文に登場する「天朝」の例です。
 ここでは「小鹿火宿禰」は「紀大磐宿禰」と同じ場所で仕事したくない、という事で「角國」という詳細不明ではあるものの「?」ではない場所で「奉事天朝」することとなったというわけです。

『日本書紀』巻十四雄略天皇九年(乙巳四六五)五月条
 夏五月 紀大磐宿禰、父既に薨りぬることを聞きて、乃ち新羅に向きて、小鹿火宿禰の掌れる兵馬・船官及び諸の小官を執りて、専用威命ちぬ。是に、小鹿火宿禰、深く大磐宿禰を怨む。(中略)別に小鹿火宿禰、紀小弓宿禰の喪に從りて來つ。時に獨り角國に留る。倭子連(連、未だ何の姓の人なるかを詳にせず)をして八咫鏡を大伴大連に奉りて、祈み請さしめて曰わく「僕、紀卿と共に『天朝』に奉事るに堪へじ。故請う、角國に留住らむ」とまうす。是を以て大連、天皇に奏して、角國に留り居ましむ。(以下略)

【「田道間守」が「倭国」(垂仁天皇)の朝廷をさして「天朝」と称した例】

 「田道間守」の場合は、彼は当時「但馬国」にいたと考えられ、その彼に「朝廷」から「非時香菓」を取ってくるよう命令が出て、「常世」の国まで取りに行き戻ってきた際の「田道間守」の言葉として、「垂仁」の朝廷のことについて「天朝」という用語を使用している例です。

『日本書紀』巻六垂仁天皇九九年(庚午七十)十二月条
 冬十二月癸卯朔壬子 葬於菅原伏見陵 明年(景行天皇元年辛未七一)春三月辛未朔壬午(十二)に田道間守、常世國より至れり。則ち賚る物は非時の香菓八竿八縵なり。田道間守 是に泣ち悲歎きて曰さく「命を『天朝』の受けたまはりて遠くより絶域へ往る。萬里く浪を蹈みて、遥かに弱水を度る。是の常世の國は、神仙の秘區、俗)の臻らむ所に非ず。是を以って往來ふ間に、自からに十年に經りぬ。豈に期ひきや、獨り峻き瀾を凌ぎて、更た本土に向むといふことを。然るに聖帝の神靈に頼りて、僅かに還り來ること得たり。今天皇既に崩りましぬ。復命得ず。臣は生けりと雖も亦何の益かあらむ。」とまうす。(以下略)

【「日本武尊」が「倭国」(景行天皇)の朝廷をさして「天朝」と称した例】

 この「景行紀」の用例は「日本武尊」が死の間際に「能褒野」で発せられた言葉の中に出て来る「天朝」の例です。(体系はここの訓を「みかど」としています。)

『日本書紀』巻七景行天皇四〇年(庚戌一一〇)是歳
 是歳 (中略)能褒野に逮りて痛みなり。則ち俘にせる蝦夷等を以て神宮に獻る。因りて吉備武彦を遣して天皇に奏して曰したまわく「臣は命を『天朝』に受りて遠く東の夷征つ。則ち神の恩を被り、皇の威に頼りて而叛く者、罪に伏ひ、 荒ぶる神、自づからに調ひぬ。是を以って甲を巻き戈を戝*めて、[小豈]悌けて還れり。冀はくは曷れの曰曷れの時にか『天朝』に復命さむと。然るに天命忽ちに至りて、隙駟停まり難し。是を以って獨り曠野に臥す。誰にも語るもの無し、豈に身の亡びることを惜しまむや。唯愁ふらくは不面なりぬることのみ。」とまうしたまふ。既にして能褒野に崩りましぬ。時に年卅。(以下略)
     戝*は、近似表示。JIS第3水準ユニコード6222
     [小豈]は、立心偏に豈。JIS第3水準ユニコード6137

 

【「持統朝廷」のことを「天朝」と言っているように見える例】

 これは「新羅」からの「弔使」に対しての「土師宿禰根麻呂」が「勅」を伝える場面で「天朝」が使用されている例です。(ここでも「体系」は「みかど」と訓をつけています)

『日本書紀』巻三〇持統三年(六八九)五月甲戌廿二
五月癸丑朔甲戌。土師宿禰根麻呂に命せて、新羅弔使級餐金道那等に詔して曰わく「太政官卿等が敕を奉りて奉宣はく、二年に田中朝臣法麻呂等を遣わして、大行天皇の喪を相告げしめき。時に新羅が言ししく、「新羅の敕を奉る人は元來蘇判の位を用てす、今復た爾せむと將ふ。」とまうしき。是に由りて法麻呂等、赴げ告ぐる詔を奉宣ふこと得ざりき。若し前の事を言はば、在昔難波宮治天下天皇の崩りましし時に、巨勢稻持等を遣わして 喪を告げる日に、翳餐今春秋、敕を奉りき。而るに蘇判を用て敕を奉ると言すは、即ち前の事に違へり。又近江宮治天下天皇崩りましし時に 一吉餐金薩儒等を遣わして弔ひ奉らしめき。而るを今級餐を以て弔ひ奉るは 亦た前の事に違へり。又新羅元來奏して云さく、『我國は日本の遠つ皇祖の代より、舳を並べて楫を干さず奉仕れる國なり』而るを今は一艘のみあること、亦た故き典に乖へり。又奏して云さく『日本の遠つ皇祖の代より、以って清白き心で仕へ奉れり。』とまうす。而るを竭忠りて本職を宣べ揚ぐることを惟はず。而も清白きことを傷りて、詐りて幸き媚ぶることを求む。是の故に調賦)と別に獻れるとを、並びに封めて以って還す。然れども、我が国家は遠つ皇祖の代より 廣く汝等を慈みたまひし徳*、絶ゆべからず。故、彌勤め彌謹み、戰戰兢兢りて、其の職任を脩めて、法度に尊がひ奉つらむ者をば、『天朝』、復た廣く慈みたまはまくのみ。汝道那等、斯の敕したまふ所を奉りて、汝が王に奉宣べよ」とのたまふ。
   徳*は、徳の異体字。 JIS第3水準ユニコード5FB7

 これらの例からも特に「筑紫朝廷」を指しての「呼称」(尊称)であると断定できるものはないようです。しかし、いずれも「本朝」と呼称しても良いと考えられるところで「天朝」と言っているのが注目されます。つまり、「本朝」という呼称が使用されない理由としては「大伴部博麻」がいみじくも「還向」と言う用語を使用したように「還る」という意識があって初めて使用できる言葉であり、それは「我が」朝廷、つまり「自分たちの属している」朝廷という意識があって始めて使える、というものと考えられるものです。
 つまり、「本朝」とは「自分たちが属している」「朝廷」であり、「天朝」とは「自分たちが属していない」「朝廷」を意味すると考えられます。
 「辞書」(大辞林)では「天朝」について「『朝廷』に対する美称」とされていますが、論理的に考えても「自分が」所属する「朝廷」に対して「美称」「敬称」は使用されないものと思われ、それは「自分」に対して「尊称」する事と同意になると考えられることから、「他の朝廷」に対するものであるのは(潜在的に)自明の前提であると考えられます。
 そもそも「朝廷」とは「天子」(皇帝)の政治の中心点を指す言葉ですから、その「天子」の元には「一個所」しかないわけであり、「倭国の朝廷」も同様「一個所」しかなかったものと考えられます。そしてその「一個所」しかない「朝廷」がある場所というのが「倭国」の「本国」であると考えられ、その「本国」にいる(属する)人達の自称が「本朝」であり、「諸国」の者達から見た「倭国」の「朝廷」に対する「敬称」が「天朝」なのだと思われます。
 そして「博麻」に拠れば「本朝」とは「筑紫」の「朝廷」を指すものと考えられるわけです。
 「田道間守」は「但馬」の人間ですし、「小鹿火宿禰」は記事からは不明ですが、元々「新羅」国内に拠点があった「親新羅系」の氏族と考えられます。また「膳臣」は「新羅王」の前で「天朝」と称していますので、これはある意味「新羅王」と立場が異ならないことを示しているようです。「天朝」がどこを指すかを別として「新羅王」が言うのであれば「倭国の王朝」を指して「天朝」という用語を使用するのは、或いは適切かも知れませんが、「膳臣」が言うとすると「本朝」が似つかわしいはずであるのに「天朝」と称している訳です。
 この「膳臣」については、その後の伝承によれば「近畿」周辺の人物と考えられ(若狭に拠点があったというものもあるようです)、少なくとも「九州」にはそのような「膳臣」に関わる伝承もその後の「子孫」もいないものと考えられます。
 そして、同様のことは「日本武尊」についても言えると思われます。彼は、「書紀」では明らかに「近畿王権」に関わる人物として描写されているわけですから、間違いなく「諸国」の人物と考えられます。(遠征に同行した武人も近畿周辺の人物です)
 彼が自分のいた「朝廷」のことを言うならば「博麻」と同様「本朝」という呼称使用するところのはずですが、実際には「膳臣」と同様「天朝」と言っており、この事は「彼らにとって」「倭国朝廷」は「本朝」と言いうるものではないと言うことを意味していると推察され、「田道間守」「小鹿火宿禰」「膳臣」「日本武尊」達の「本拠」と言えるところには「倭国朝廷」がない、という事を示していると考えられます。

 日本は「古いにしえ」から「倭国」と呼ばれていたわけですが、「倭の五王」の頃に対外拡張政策を採り、その結果、以前までの「倭国」と、その後「征」「服」「平」するなどして(「武」の上表文の表現による)「倭国」の勢力下に入った「諸国」に分けられることとなったと考えられます。
 その後は「元々の倭国」の領域に属する立場の人達は「倭国」の朝廷を「本朝」と言うようになり、「諸国」は「畏敬」の念を持って「天朝」と呼ぶようになったものと考えられます。
 彼らの例からは「近畿王権」のことを「倭国朝廷」とは考えていない、あるいは呼称していないと言うことを示しています。
「最後」の「持統」の例も同様と思われますが、この場合「不審」と考えられる点がありました。
       (下に続く・編集部注)


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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