2013年12月10日

古田史学会報

119号

1、続・古田史学の真実
    切言
   古田武彦

2、観世音寺考
観世音寺と観音寺
  古賀達也

3、『管子』における里数値
  古谷弘美

4、すり替えられた九州王朝
  の南方諸島支配
  正木裕

5,「天朝」と「本朝」
「大伴部博麻」を顕彰する「持統天皇」の「詔」からの解析
  阿部周一

6、“「実地踏査」であることを踏まえた『倭人伝』の行程について“を読んで
  中村通敏

7,文字史料による「評」論
「評制」の施行時期について
  古賀達也

8.トラベル・レポート --
讃岐への史跡チョイ巡り
  萩野秀公

9.「春過ぎて夏来るらし」考
  正木裕

10,独楽の記紀
なぜ、「熊曾国」なのか
  西井健一郎

 

古田史学会報一覧

「古田史学の会」新年賀詞交換会 -- 古田武彦講演会・要旨 文責・古賀達也(会報120号)

古田史学の真実 -- 西村論稿批判(古田武彦会報118号)
続・古田史学の真実 -- 切言 古田武彦(古田史学会報119号)

古田先生にお応えする 西村秀己(会報117号)


続・古田史学の真実

切言

古田武彦

    一
 学問研究の発表は自由である。何人にもこれをさまたげることはできない。
 自分の主張に相反する研究への尊重、これこそ貴重だ。 村岡典嗣先生にとって、これは「学問の根幹」に属している。 青年の日、わたしはこれを学んだ。東北大学日本思想史科時代である。
 今回、先号(No.117)に掲載された西村秀己氏の論稿「古田先生にお応えする」は貴重であった。基本をなす「学問の方法」が異なっていたからである。「古田史学の真実--西村論稿批判」として、あえて「再批判」させていただいた。
 「学問の方法」の「ズレ」を正すためである。寛恕されたい。

 

    二

 西村論稿には、わたしにとって「看過できぬ」テーマが語られている。わたしが『多元』(多元的古代研究会)に三十五回以上書きつづけてきた「学問の方法」に対し、バッサリと「一刀両断」的に「否(ノウ)」の判断を示したのである。しかもその連載全体に対して「まずは『言素論』の有用性を検討してみたい。」と言われた上での「判断」だというのであるから、重大だ。
 だが、残念ながら、その論拠そのものはあくまで「一般論」であり、「抽象論」である。
 しかも、わたしの『言素論』誕生“以前”の「旧説」の立場から一歩も出ていない。そういう「一般論」に終わっていたのである。

 

    三

 わたしにとって『言素論』誕生のキイ・ワードは「死ぬ」の一語だった。
 それまでわたしは「死」というのは「中国語」(漢語)として“疑って”いなかった。何しろ、わたしにとって永年愛好の古典『論語』にも、愛弟子・顔回に対して、この「死す」という表現が深い思い入れをこめて使われているからである。
 ところが、さらに「考えて」みると疑問が生じた。もしこの「死ぬ」という、日本語の中の基本語を「中国語」の『死』プラス、日本語の接尾語『ぬ』という形で成立しているとすれば、この対立語として「生(せい)ぬ」とか、「生(しょう)ぬ」とかいう言葉が、日本語の中に存在するはずだ。だが、それは古代語にも現代語にも全く存在しない。
 しかもそれに当る日本語は「生きる」「生く(文語)」であり、それは「いきをする」という意味だ。ピッタリと対応している。文字通り、「基本語」である。この動詞なしの「日本語」など、考えがたいのである。

 

    四

 一方、先述の「中国語」としての『死』も基本語だ。しかも『論語』という周代の後半期に成立した書物に出現している。その上、日本語の「死ぬ」と『論語』の「死」との両方が「無関係」とか、「偶然の一致」とかはありにくい。
というよりありえない。なぜなら、「中国本土」と「日本列島(西岸部)」とは、それこそ「一衣帯水」の間だからである。
 とすれば、「答」は何か。日本語が淵源であり、中国語の方が「派生語」である?。この帰結なのではないか。
 しかし、「静思」すれば、これは必ずしも“意外”ではない。なぜなら、中国語と漢文という、偉大なる一大文明現象は、決して一夜にして誕生したのではない。何千年、何万年という長年月の間に、「四囲の近隣言語を吸収しつつ成立していった」のではあるまいか。それなしに「先ず、偉大なる文明ありき」と考え、周辺の言語群をもって、その「伝播」として理解する、あるいは説明する。?その方法が実は“あやまって”いたのではないか。
 中国語には「死」以外にも「亡」とか「滅」とか「崩」とか、各種の"dead"を意味する言葉と文字がある。いずれも中国周辺の民族の基本語だったのではないか。
 それらを「吸収」して、いわゆる「中国語」そして「漢文」が成立していったのではないか。
 これがわたしの「言素論」成立の動機である。
 このような、わたしの「学問の方法」は間断なく。進展しつづけた。その一端は「南米における日本語地名」の発見(「南米の日本語地名」『なかった?真実の歴史学』第四号、ミネルヴァ書房刊、等参照)において結実した。さらに最近「チクシ」の地名がシベリア海のレナ川河口に存在することが、日本側とロシア側の研究者から報告されている(『多元』No.117,118 参照)。

 

    五

 以上は、私の学問研究が進展しつつある姿、現在進行形の収穫である。当然ながら、わたしにとっては「古田史学」の先端部と言ってよい。もちろん、これに対する批判は自由だ。大歓迎の一語に尽きる。 けれどもそのさい不可欠のもの、それは「批判対象」の“熟読”ではあるまいか。今回の論点は、奇しくも最近“書いた”ばかりだ。今年(2013)『多元』No.113,115 に「言素論の本質」、「『言素論』の理論的考察」として“まとめ”て記載したところなのである。「死ぬ」問題に対してわたしがなぜ関心をもったか。「言素論」の初回には詳述した。これらのわたしの論稿を熟読した上で存分の「批判」を寄せてほしい。率直に、遠慮なき「古田批判」を、十分な時間をとったうえで、お寄せ下さることをわたしは切望したい。永らく、わたしと同じ街(京都府向日市)に住み、時折顔を見せて下さっていた西村さんに対してこの一事を深く期待するのは果して無理なお願いであろうか。重ねて切言したい。

〈補〉

 本年(2013)九月に公刊した『研究自伝 -- 真実に悔いなし』(ミネルヴァ書房刊)において、最近の諸問題を「書き切った」後、新たな「大きなテーマ」に対し、改めて報告させていただく機を楽しみとしている。

     二〇一三、十一月二日、記了


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