2010年10月8日

古田史学会報

100号

1,忘れられた真実
一〇〇号記念に寄せて
 古田武彦

2,禅譲・放伐
論争シンポジウム

3,地名研究
 と古田史学
 古賀達也

4,古代の大動脈・
太宰府道を歩く
 岩永芳明

5,「禅譲・放伐」論考
 正木裕

6,長屋王のタタリ
 水野孝夫

7,越智国にあった
「紫宸殿」地名の考察
 合田洋一

8,漢音と呉音
 内倉武久

9,新羅本紀
「阿麻來服」と
倭天皇天智帝
 西井健一郎

 

 

 

 

古田史学会報一覧

九州王朝から近畿天皇家へ -- 『公地公民』と『昔在の天皇』(会報99号)
「東国国司詔」の真実 正木裕(会報101号)

禅譲・放伐論争シンポジウム・要旨「古田史学の会」 文責:大下隆司{会報100号)

禅譲・放伐 木村賢司{会報98号)


「禅譲・放伐」論考

川西市 正木裕

一、禅譲・放伐の定義

 易姓革命観にもとづく禅譲・放伐では「天命は一王朝・一天子に降る」事が前提となっている。逆に言えば「一国に複数の王朝と複数の天子の並存を許す」と云う概念は無い。九州王朝と近畿天皇家の関係では、こうした意味での禅譲も放伐も無かったと言える。その根拠は九州年号だ。

二、禅譲・放伐と九州年号

1、継続する九州年号

 以前の九州年号の研究水準では、七〇〇年までは九州王朝の年号である「九州年号大化(六九五~七〇〇)」があり、七〇一年から近畿天皇家の年号「大宝」にすっかり代わると考えられていた。そうなら九州王朝の天子も禅譲したり放伐されたりした事が十分考えられる。しかし、近年古賀氏の研究により「大化」は七〇三年まで続き、更に「大長」が七〇四年から七一二年まで続くことが分かってきた。
 (註)古賀達也「最後の九州年号 -- 大長年号の資料批判」『古田史学会報』No.七七号・二〇〇六年十二月)

2、大化・大宝の並存

 九州年号が存続するからには、九州王朝も何らかの形で存続した事になる。注目すべきは七〇一から七〇三までの「大化」と「大宝」の並存だ。禅譲にせよ放伐にせよ、天子が変われば当然年号が変わる。従って九州王朝の天子は、この間変わらなかったと考えられる。
 その反面、七〇一年には近畿天皇家により律令が制定され、九州王朝の制度「評」が、全国的に近畿天皇家の制度「郡」に切り替わった事は事実であり、全国的な統治の主体が近畿天皇家に変わった事は疑いない。
 そこからは「二王朝並列の中で、統治の実権が天子を推戴する九州王朝から天皇を推戴する近畿天皇家に変わった」という結論が導かれる。

3、全国的騒乱はなかった

 全国的な制度改正だから、九州王朝がこれに真っ向から抵抗したなら、全土に及ぶ騒乱があってしかるべきだが、諸資料からはその様な形跡は無い。
 「続日本紀」では文武四年(七〇〇)六月に、薩摩や肥後の反抗が見られるが、これは地方的なものであるうえ、九州王朝の中枢の筑紫は「是に於て竺志惣領に勅して犯を決罰せしむ」とあるとおり「決罰」する側に立っている。
■文武四年(七〇〇)六月庚辰(三日)薩末比売、久売、波豆。衣評督衣君県、助督衣君弖自美、又、肝衝難波。肥人等に從ひ、兵を持して覓国使刑部真木等を剽劫す。是に於て竺志惣領に勅して犯を決罰せしむ。
 大宝二年(七〇二)八月の薩摩・多執*の叛乱についても、「薩摩の隼人を征する時、大宰の所部の神九処を祷み祈る」とある様にその鎮圧に協力している。
     多執*の執*は、[ネ?丸]JIS第3水準、ユニコード8939

■大宝二年(七〇二)三月甲午(二七日)信濃国、梓弓一千廿張を献る。以て大宰府に充つ。丁酉(三〇日)大宰府に、専に所部の国の掾已下と郡司等とを銓擬することを聴す。八月丙甲(一日)薩摩・多執*、化を隔て、命に逆ふ。ここに於いて、兵を発し征討し、遂に戸を校し、吏を置く。九月戊寅(十四日)薩摩の隼人を討ちし軍士に、勲を授くること各差有り。十月丁酉(三日)是より先、薩摩の隼人を征する時、大宰の所部の神九処を祷み祈るに、実に神威に頼りて遂に荒ぶる賊を平げき。爰に幣帛を奉りて、其の祷を賽す。唱更の国司等〈今の薩摩国なり。〉言さく、「於内の要害の地に柵を建てて、戍を置きて守らむ」とまうす。許す。
 また、結果として律令が制定され、郡制が施行された事は、九州王朝の敗北を意味する。もし九州王朝の天子が武力で抵抗していたなら、その段階(七〇一年)で無事であるはずはない。しかし大化年号の継続から見て九州王朝の天子の交代もない。
 こうした事から、九州王朝は近畿天皇家への権力移譲を容認した、あるいは承認した事が伺える。
 これを禅譲というなら禅譲はあったと考える。ただし天子の交代という中国的・一元的禅譲ではなく、事実上の統治・支配主体の交替を容認したという日本的・多元的禅譲といえよう。

4、大長・慶雲への改元

 九州年号の分析から次に注目されるのは、七〇四年に「大化」と「大宝」の両年号が終了し、「大長」「慶雲」にそれぞれ改元されている事だ。これは七〇四年に九州王朝・近畿天皇家双方に質的変化が起ったことを示す。
(1) 近畿天皇家=唐による「日本国」承認
 近畿天皇家では、慶雲元年(七〇四)七月に、七〇二年六月に唐に派遣された粟田朝臣真人が帰国。唐の則天武后から「日本国」として近畿天皇家が承認され、これに先立って五月に「慶雲」と改元する。

■『続日本紀』慶雲元年五月甲午(十日)。備前国神馬を献ず。西楼の上に慶雲見ゆ。詔して、天下に大赦し、慶雲元年と改元す。
■(『史記』夏本紀、正義)倭国。武皇后(則天武后)改めて日本国と日う。
(『旧唐書』日本国伝)長安三年(七〇三)、其の大臣、朝臣真人來りて、方物を貢ず。(略)則天、之を麟徳*殿に宴し、司膳卿を授け、本国に放還す。
     徳*は、徳の異体字。JIS第3水準、ユニコード5FB7

 「慶雲」は瑞兆の雲を示すから、吉祥改元とされるが、唐による日本国の承認と無関係のはずはない。古田氏も、『失われた九州王朝』第五章「九州王朝の領域と消滅」の中で、この遣唐使に関し、「則天武后による九州王朝否認、近畿天皇家の公認があった。『倭国から日本国へ』の国号の変更という形で、日本列島を代表する王者が近畿天皇家であることが、国際的にも認められたのである」とされる。
 同時に、『続日本紀』では慶雲元年(七〇四)十一月二〇日に、「始めて藤原宮の地を定む。宅の宮中に入れる百姓一千五百五烟に布賜ふこと差あり」と記しており、西村氏は、文武がこの時点で「始めて藤原宮の主」となった事を示す記事だとされている。
 (註)西村秀己「削偽定実の真相 -- 古事記序文の史料批判」古田史学会報六八号・二〇〇五年六月)

(2) 九州王朝=大宰府への帰還
 薩摩『開聞古事縁起』には、大長元年(七〇四)に天智が大宰府に帰還し、開聞嶽の麓に離宮を営み、九州諸司に宣旨したとの記事がある。古賀氏は「これは天智であるはずもなく、九州王朝の天子だ」とされているが、古賀説通り、これは九州王朝朝の天子が九州・大宰府に遷り「大長」と改元した事を示すのではないか。
 (註)古賀達也「よみがえる古伝承・最後の九州王朝・鹿児島県『大宮姫伝説』の分析」市民の古代第一〇集。市民の古代研究会編特集二・一九八八年)
■「同十年辛未冬十二月三日〈大長元年尤(もっとも)歴代書年号〉帝帯一宝剣、騎一白馬潜行幸山階山、終无還御。凌舟波路嶮難、如馳虚空、遂而臨着太宰府、御在于彼。越月奥於当神嶽麓欲営構離宮。故宣旨九州諸司也。」(大長元年は大化十年)

5、九州年号の終焉と「武力討伐」

 そして、九州年号は「大長(~七一二)」で終焉する。九州年号の終焉は、同時に年号を建てうる権力という意味で「国」としての九州王朝の最終的滅亡を意味する。
 『続日本紀』では、和銅六年(七一三)に大隅国の設置(=九州王朝の支配領域の消滅を示す)と隼人を征つ将軍らへの恩賞記事がある。「征隼人」とあるが、大長年号の終了と時を同じくし、また南九州の事件であるから、これが九州王朝への「武力討伐」を示すことは疑い得ないだろう。

■『続日本紀』和銅六年(七一三)夏四月乙未(三日)、(略)日向国の肝坏、贈於、大隅、姶羅の四郡を割きて、始めて大隅国を置く。大倭国疫す。薬を給ひて救はしむ。(略)
秋七月丙寅(五日)、詔して曰はく、「授くるに勲級を以てするは、本、功有るに拠る。若し優異せずは、何を以てか勧獎めむ。今、隼の賊を討つ将軍、并せて士卒等、戦陣に功有る者一千二百八十余人に、並びに労に随ひて勲を授くべし」とのたまふ。
 『続日本紀』から見れば「武力討伐」により九州王朝は最終的に滅亡したと考えられる。
 これを「放伐」と定義するなら「放伐」はあった。但し、もはや「一地方政権・地方勢力」を駆逐したに過ぎず、天子や王朝の交替との位置づけは無くなっているから、中国的禅譲放伐概念は適用できないと考える。

 

三、『書紀』大化と九州年号大化の五〇年ずれ

1、『書紀』改新記事は九州年号大化期から

 また、七世紀末の権力移行の詳細は『書紀』の分析により明らかに出来る。ポイントは「大化」の五〇年ずれ、すなわち、『書紀』に記す大化(六四五~六四九)改新記事は、九州年号大化期(六九五~七〇三)から持ち込まれたという考えだ。
 古賀氏は、大化二年正月の「改新の詔」の条坊制の創設記事は、六九四年十二月遷居の「藤原宮」についての記事であり、持統天皇の九州年号大化二年(六九六)に発した「建郡」の詔勅が、書紀の大化二年(六四六)に移されたものとされた。
(註)古賀達也「大化二年改新詔の考察」『古田史学会報』八九号・二〇〇八年十一月)
 また、私も「東門・朱雀門」等の記述から改新記事中の「宮」は「難波宮」ではなく「藤原宮」でしかありえないと指摘してきた。
 (註)拙稿「『藤原宮』と大化の改新」『古田史学会報』八七・八八・八九号・二〇〇八年)

 大化改新記事の信憑性については、律令制を前提とした記述や、七世紀末に完成する宣命体による詔の存在、「薄葬令」は持統に至り始めて実施された等から、多数の学者が疑義を唱えている。しかも『書紀』では「大化改新」により「郡」制が創設されたと記すが、実際創設されたのは「評」であり、『書紀』はこれを全て「郡」と書き換えていることが判明している。従って「大化改新」に関する『書紀』の信憑性は失われているといわざるを得ない。
 逆に、改新記事が六九五年を元年とする九州年号大化から移されたとすれば、時代的に何の不思議もなくなり、様々な疑問も一気に解消する。
 (註)中村幸雄「新『大化改新』論争の提唱」(『新・古代学』第三集・一九九八年七月)

2、七世紀末の権力移行

 こうした視点を仮に徹底して貫くとすれば、七世紀末の九州王朝から近畿天皇家への権力移行は次の様になる。
(1) 「乙巳の変」では、記事中の「大極殿、衛門府、十二通門」等は「板蓋宮」にはなく「藤原宮」であり、六九五年以降の出来事となる。(その場合、近畿天皇家は九州王朝の実力者蘇我氏を滅ぼす事により、九州王朝を弱体化させ、権力移譲を迫った事となろう)
(2) 大化二年の「皇太子奏請条」で、「天に双つの日無し。国に二つの王無し。是の故に、天下を兼并せて、万民を使ひたまふべきところは、唯天皇ならなくのみ」とは「九州王朝の天子ではなく近畿天皇家の天皇が国を治めることの同意となる。
 (註)拙稿「九州王朝から近畿天皇家へ -- 『公地公民』と『昔在の天皇』(「古田史学会報」第九九号・二〇一〇年八月)
 また、「別に入部及び所封る民を以て、仕丁に簡び充てむこと、前の処分に従はむ。自余以外は、私に駈役はむことを恐る。故、入部五百二十四口、屯倉一百八十一所を献る」とは九州王朝の天子・皇族の入部・屯倉の近畿天皇家への献上を記す。これも「自発的」献上という体裁だが、「強要」を潤色したものだろう。
(3) 東国国司の評価と賞罰を記す「東国国司詔」は、九州年号大化期に、近畿天皇家が九州王朝家の官僚、国宰・評督の任命権等を奪い、彼らを賞罰により恫喝し近畿天皇家の支配下への取り込む過程を記す。「東国」とは九州から見た東国、即ち近畿天皇家支配領域をさし、ここから懐柔に着手したものと思われる。
(4) 大化元年の「古人大兄らの謀反」は九州王朝の皇族の粛清、五年の「蘇我倉山田石川麻呂謀反」も九州年号大化期の九州王朝系重臣の粛清ではないか。勿論この部分は大化五〇年ずれを「徹底」した場合の仮説であって、本来の『書紀』大化期の記事の可能性もあり、今後の研究の深化が必要だろう。

四、『書紀』編纂方針と九州王朝

何故『書紀』はこのような形になったのかという西村命題(註)については、

 「禅譲・放伐概念は前王朝の存在を前提とする。近畿天皇家は九州王朝も、その天子も九州年号も知っていたが、『書紀』の名分は『天皇』を長とする近畿天皇家が遥か過去から倭国を統治してきたというもので、九州王朝は『偽王朝』として黙殺する立場をとった。従って、禅譲・放伐を含めて、それ以前に別の最高権力者がいた事を示す痕跡を一切抹消した」と答えたい。

 「皇太子奏」に見られる抹殺の手法例を示そう。九州年号大化期に行った九州王朝の資産の「簒奪」過程を、孝徳期に移した。その際、過去の九州王朝の天子を「昔在の天皇」と記し、あたかも近畿天皇家の祖先の天皇であるかの如く装った。そして、現在(九州年号大化期)の九州王朝の天子(または皇太子)を中大兄と書き換え、「総て近畿天皇家内の資産の献上の話」に改変した。
 九州王朝からの「簒奪」とも「献上」とも書かなかったのは、郡制を「評から変更した」と書かなかったのと同様、前王朝の存在を前提とする記述を一切カットする為で、『書紀』編纂上での九州王朝隠しの重要な手法だったのだ。

 (註)「西村命題」について古賀達也氏は次のように述べる。(『洛中洛外日記』一八四話)
 九州王朝研究において、大和朝廷との王朝交代の実態がどのようなものであったか、例えば禅譲か放伐かなど、重要なテーマとなっています。近年、諸説が出されていますが、その時に避けて通れない説明があります。それは、「何故、日本書紀が今のような内容になったか」という説明です。(略)わたしがこの問いを最初に聞いたのは、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)からでした。次から次へと出てくる珍説・奇説に対して、西村さんはこの問いを発し続けられたのです。大変するどい問いだと感心しました。そこでこの問いを「西村命題」と私は命名しました。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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