禅譲・放伐 木村賢司{会報98号)
「禅譲・放伐」論考 正木裕{会報100号)
禅譲・放伐論争シンポジウム・要旨
・倭国から日本国へ政権交代はどのような形で行われたのか
・何故、『日本書紀』は今のような内容になったのか(西村命題)
「古田史学の会」 文責:大下隆司
お断り:本会のホームページは、丸数字や半角カタカナは使用できません。一部改訂
A)日時:2010年6月20日(日) 午後1時30分~4時15分
B)場所:大阪市立生涯学習センター第一研修室
・大阪市北区梅田1-2-2-500 (駅前第二ビル 5階)
      司会:   不二井伸平(当会全国世話人)
      パネリスト 西村秀己(当会会計兼編集担当)
            正木 裕(当会会員)
            水野孝夫(当会代表)
            古賀達也(当会編集長)
C)基調講演
1)西村秀己。「日本書紀」(ヤマト朝廷)は何故九州王朝史を抹殺したのか?
 (1). 701年の政権交代は「禅譲」である。
         ・「放伐」とは成功した反逆である。そしてそれを天下にまた後世に伝えるために、前王朝を倒した大義名分が必要である。そのために真っ先に九州王朝史をつくらねばならない。
       ⇒九州王朝史が作られていないことは、「放伐」ではなかったことを意味する。
 (2). 政権交代が「禅譲」であった根拠。
        イ、701年時点でのヤマト朝廷の首都は「飛鳥浄御原」。「藤原京」ではない。
          ・慶雲元年十一月に始めて”藤原宮の地を定む”(続紀)とある。
        ロ、701年まで「藤原宮」は九州王朝の宮であった。
         a) 乙巳の変の起きたのは「藤原宮」。
         ・大化元年(695年)書紀の記述の舞台に12の門がある。当時12の門をもった宮は藤原宮のみ。
         b) 改新の詔勅。(大化2年(696年)正月に九州王朝が発布したもの)
          ・畿内を名墾の横川、紀伊の背山、明石の櫛淵、近江の逢坂山としている。その中心は藤原宮。
         c) 古事記序文の飛鳥清原の大宮の天皇は天武でなくて文武。(西村持論)
         ・文武の即位(697年)は「藤原宮」ではなく「飛鳥浄御原」で行なわれている。
        ハ、九州王朝の臣下がヤマト政権下でも継続して重要なポストにいる。
          ・会報96号の西村論文「橘諸兄考」など
       藤原宮は九州王朝の作った宮都、そこに九州王朝の天子がいた。ヤマト政権は、九州王朝の天子を「藤原宮」に一種の軟禁状態において管理していた。(中国での禅譲の事例と同じ)そして701年に天子の位を文武に譲らせた。
 (3). 何故九州王朝史を抹殺したのか?
        イ、中国での政権交代は「禅譲」の連鎖である。
          ・資料P-2の右側に記載。
        ロ、「禅譲」のデメリット。
          ・自分の力が弱くなると部下がとって替わる権利も正当化するものであり、危険である。
自分たちの政権を永久にするために、時の権力は永遠に代わらない(放伐も禅譲もない)とする歴史を作りあげた。このために九州王朝史を抹殺、これを”なかった”ものとした。
2)正木 裕「禅譲・放伐」論争 -- 九州王朝から近畿天皇家への権力移行について
   ・書紀、続紀には「禅譲・放伐」という中国の概念は持ち込まれなかった。すべて近畿天皇家の事として描いている。
      ?九州年号から見た権力移行
       (1). 700年以前(九州年号大化期):九州王朝から近畿天皇家への実質的権力移譲が進む(?で詳述)
       (2). 701~703年:(大化・大宝並存)二王朝並立。(実質的支配は近畿天皇家だが、形式的には九州王朝も並存)
        イ、近畿天皇家
         ・701年に天皇のもと大宝年号をそして律令を制定し統治機構や官僚制度を掌握。日本国の実権を握る。
        ロ、九州王朝
         ・形式的に九州王朝・大化年号は続いたが、九州王朝の天子は近畿天皇家への実質的な統治主体の委譲を認めていた。
         ・この間、全国的な騒乱は起きていない。九州の一地方の反乱も太宰府は鎮圧の立場に回っている。
      これを「禅譲」と定義するなら「禅譲」はあった。仮に「日本的(多元的)禅譲」と言う。
 (3). 704年: 近畿天皇家の形式的・実質的支配権の確立。
        イ、近畿天皇家
         a)年号を「慶雲」に改元。九州王朝年号の名前をひきずっていた「大宝」から決別。唐の承認をうけ外交的にも認められ、名実ともに日本国の支配者となる。
         b)文武は始めて「藤原の宮」の主となる。 (資料1)
        イ、九州王朝
         a)天子は九州に遷り、「大長」と改元。 (「大長」は命名方法から「大化」の延長であることは明らか)
         ・開聞古事縁起に”大長元年に天子が太宰府に帰還した”記事がある。(資料2)
       (4). 712年: 九州王朝の消滅
        イ、大長年号の消滅(712年)
         ・年号の消滅はその王朝の終焉を意味する。
        ロ、九州王朝討伐の征隼人戦は712年にあったと推定される。(資料2)
         ・『続日本紀』713年に大隅国設置(九州王朝最後の領地)と征隼人将軍らへの恩賞記事がある。
    これを「放伐」と定義するなら「放伐」はあった。
 ?『日本書紀』から見た権力移行
       (1). 7世紀末の権力移行の詳細は『書紀』大化期(645~649)を見ればわかる。
         ・九州年号大化(695~703)の記事は、50年ズラされて『書紀』孝徳大化に移されている。
        イ、乙巳の変に描かれている宮は「板蓋宮」ではなくて「藤原宮(694末完成)」。(資料4)
         a)記事にある12の門のある宮は「藤原宮」のみ。大極殿も衛門府も同様。
         ⇒ 645年に「藤原宮」はなかった。乙巳の変は695年に始まる九州王朝年号大化年間の出来事の可能性が高い。
         b)天皇家はこの入鹿誅殺で九州王朝の実権を握る蘇我氏を滅ぼした。
         ⇒ すでに九州王朝天子は傀儡化していたので、これにより近畿天皇家の実質支配が確立した。
        ロ、九州王朝⇒近畿天皇家へ”政権委譲の奏請”文(資料5)
         ・中大兄皇子の奏請文とされているが、内容は九州王朝の天子(皇太子)の権力の移行の同意と資産の献上を記したもの。
        ハ、九州王朝官僚群の取り込み(P10.資料改??)
         ・『書紀』の「東国国司条」に”賞罰や恫喝により、九州王朝の官僚群を取り込んでいった”過程が描かれている。時期は九州年号大化年間。
 ?何故、『日本書紀』は今のような内容になったのか
         ・『書紀』は「『天皇』を長とする近畿天皇家が過去から倭国を統治してきた」という立場にたって書かれた。
         ⇒唐が”南朝を偽王朝”としたのと同じように”九州王朝を偽王朝”とし、日本の歴史から抹殺した。
3)水野孝夫日本国は倭国(九州王朝)の横すべりである。
・伊勢神宮は九州から近畿に移されている。この宮を祀る天皇家も九州から近畿に横滑りしてやってきたものである。
 (1). 最初の伊勢神宮は九州八代海付近にあった。
        イ、『倭姫命世記注釈』 (資料P14右上)
         ・倭姫命がご神饌の奉納地を定めたところは塩味の淡い「淡海浦」。合致する場所は熊本県球磨川河口のみ。
        ロ、中国史書による証明(武備誌の地図。資料P14左上)
         ・明代に作られた『武備志』の日本地図。続きページの写真。いずれにも「伊勢」「近江」の字が読める。
         a)	左図の「伊勢」「近江」
         ・これは律令制時代の、三重県と滋賀県の地と考えられる。「近江」がふたつあるはずはないのに右図にも。
         b)右図の「淡水湖」、そこに近い「伊勢穴津」、「近江」
         ・外海に続く「淡水湖」はあり得ない。もとの字は「淡海」だったはず。倭姫命の「淡海」は中国に知られていた。
        ハ、大宮姫伝説にある伊勢国 (資料P14右下)
         ・”伊勢国阿濃津より海に浮び・・・・薩摩国につく”との記事がある。これは八代海の「伊勢穴津」を出港したのだ。
    伊勢神宮は八代海から三重県に東遷した。
 (2). 乙巳の変は695年に起きた。(資料P13右下)
         ・二中歴大化元年の注に”大化元年は皇極天皇4年”云々とある。皇極紀4年は「入鹿を殺す」クーデターの年。
         ⇒乙巳の変は皇極4年=大化元年(695)に起きたもの。
 (3). 九州の地名の全国各地への展開 (資料P14左、長谷川修氏著) 
         ・記紀の天皇事跡はすべて九州での事件。九州の地名を全国にばら撒き、全国の事件とみせかけた。大ヒントである。
4)古賀達也 権力「習合」の思想 -- 王朝交代の日本思想史的考察
   ・歴史的事実がどうであったか、後世にこの事実を史書に編纂するときにどのような思想で記述されたか?
       (1). 歴史的事実
        イ、九州年号が712年まで続いている。
        ロ、『続紀』に712年に大規模は軍事作戦が南九州で行なわれたことを類推させる記述がある。
         ⇒	これらから、歴史的事実としては軍による九州王朝の殲滅が行なわれたと考えられる。しかしこれは中国の易姓革命の「放伐」の概念にあてはまるものではない。
       (2). 史書にこの政権交代はどのように描かれたか。
         ・日本には古代から列島をつらぬく「権力習合の思想」というものがあった。
        イ、神仏習合  神と仏の習合。 (神も仏も一緒だった) 
        ロ、神神習合  出雲神話における習合。 (”大国主命と大己貴命”など) 
        ハ、人人集合 日本書紀における習合。(”神功皇后と卑弥呼・壹与”、 ”聖徳太子と多利思北狐・利歌弥多弗利”など)
        ニ、王朝習合 天孫族と銅鐸族、神武東征の習合。(”アマテラスと須佐之男”、”神武と長髄彦・饒速日命”など)
         ⇒	継体天皇も応神天皇の子孫・同じ王朝の系統の人としての習合が行われている。
      習合の思想:日本民族はこれにより、宗教戦争=多大な流血を避けてきた。賢明な思想である。
      書紀はこの思想により、九州王朝も近畿王朝もすべては天孫降臨族の子孫として、みんな一緒だという考えで書かれた。
D)質疑応答
1)冨川氏質問
       (1). 九州王朝横すべりとのことだが、近畿には何もなかったのか?
      <水野回答>
        イ、ヤマトにいた勢力(王朝)は書紀には「蘇我氏」として描かれていた。
        ロ、九州王朝は695年のクーデターで入鹿を殺し、ヤマトに東遷した。
      ハ、『書紀』で天智天皇があいまいな内容で描かれている。これは白村江の責任者であることを隠そうとしたため。
(2). 九州王朝の臣下が近畿王朝に取り込まれたとのことだが、本来の近畿王朝の家臣団との関係はどうなったか?
<西村回答>
        イ、九州王朝には粛清された臣下もいた(入鹿など)
        ロ、基本的に官僚は政権交代しても新しい政権につく。 (五代の”馮道”は多くの政権に使えた)
<正木回答>
        ハ、九州王朝の皇族は粛清されたと思う。古人大兄皇子などはそうだと思う。
        ニ、壬申の乱の功臣蘇我安麻呂などそれ以降書紀に出てこない人たち、また反乱に関して書かれている人は粛清された可能性がある。
        ホ、地方官僚は、資料の「東国国司条」にあるように、恫喝で従わせる、従わないものは粛清、左遷された。
 (3). 古賀氏の「習合の思想」
       ・日本人の”なあなあの思想”が古代からのものだったことがよくわかった。
2)意見(竹内氏)
         ・『続紀』699年正月の坂合部王女の死にはじまり一年間に皇子・皇女が7人も死んだとの記述がある。
    この中に日向王、春日王、など出自不明の皇子が含まれている。これは九州王朝関係の人々と考えている。
3)政権交代時の考え方(古賀氏説明)
       (1). 「習合の思想」導入による同化。
        イ、権力交代で臣下・官僚などが新しい政権に移動する場合、「習合の思想」を取り入れることにより、裏切りなどの精神的重圧から逃れられ、安心して新政権に仕えることができる。
      ロ、記紀には孝元・孝霊天皇の子孫とする部族がやたらと多い。これは、先祖を同じにすることによって、新しく配下にはいってきた部族を安堵し、安心させる手法と考える。
 (2). 壬申の乱について。
        イ、政権交代時の戦闘としては、700年代初頭の九州での反乱を先ほど指摘したが、もっと大きいものは「壬申の乱」と考える。これはヤマト朝廷内部の内乱ではなく、九州王朝からの政権交代の争いである。
      ロ、壬申の年に九州王朝の徹底抗戦派と、唐と連合した天武とそれにつく九州王朝の恭順派との、西日本一帯を巻き込んだ、大規模かつ熾烈な戦いであった。
  ハ、不改の常典
         ・続紀のこの常典を研究する必要がある。
        ニ、藤原宮
         ・藤原宮を九州王朝が作ったとするまではまだ言い切れない。
         ・後期難波宮は藤原宮と同じ条坊である。 (前期難波宮の上に後期難波宮の条坊を作った可能がある)
         ⇒前期難波宮が九州王朝の副都とするなら、藤原宮は九州王朝のものと考えられ得る。
        ホ、乙巳の変
         ・50年時代を遅らせるのは魅力的な考えである。
         ・ただ書紀、続紀に「乙巳の年」におこったとの記述があるので、これを簡単に無視することは出来ない。
4)西村氏説明
         ・禅譲説否定の理由として、701年以降も九州王朝年号が使われていることが挙げられている。
      <西村回答>
         ・資料P2右下に掲載した三国志にあるように、既に魏に禅譲された後にも漢の年号”建安26年”が使われているので、上記は”禅譲説否定”の根拠にはならない。
      三国志では一年紛れ込んだように前王朝の年号が入っているのは史料事実だが、九州王朝の場合は12年にわたって使われている。(古賀氏意見)
    
5)木村氏意見 (「習合の思想」について)
         ・蘇我・物部戦争は徹底的に戦われ最後はだまし討ちのような形で決着がついている。古代においては「習合の思想」というものはまだ存在せず、後々に生じたものを、当時のものとして当てはめているだけかな! という気もする。
    
6)角田氏意見
       (1). 水野代表の伊勢神宮=八代海説。
         ・伊勢神宮は対馬(厳原)⇒?⇒三重(伊勢)に移動したと考え、中間地点を探していた。八代海説はたいへん参考になる。
       (2). 禅譲・放伐について。
        イ、禅譲の場合
         ・壱岐、対馬、伊豆(前原)の神話や一書(一大国の史書)を提出させている。
      一書には矛盾した内容をもつものがたくさんある。これをすべて一大国の歴史書とするのは無理がある。(西村氏意見)
         ⇒禅譲の場合、前政権から引き継ぐわけだから、このようなことは必要ない。
  ロ、放伐の場合
         ・乙巳の変、壬申の乱と騒乱が小規模である。放伐の場合全国を巻き込んだ大規模なものとなる。
         ・高らかに新政権の誕生を歌い上げるはずなのにそれをしていない
         ⇒九州の地名を奈良に移しているがわけのわからないことをしているだけ。
      当時の歴史書は900年ごろまで何回も書き直されている。史書から本当の歴史を浮かび上がらせるのは難しい。
    
7)古賀氏意見 (学問の方法論について)
       (1). 地名の問題
         ・仮説を立てる場合”史料根拠に基ずく、そして関連諸学との整合性をとる”ことが必要である。
         ・地名を歴史学に適用するのには困難な問題がある。
        イ、その地名がいつ頃から使われているのか?
        ロ、どのような目的で名づけられたのか?
        ハ、その史料根拠は何か?
      一般的にこれらを明確にすることは難しく、歴史の時間軸を地名だけから押さえることは難しい。
    
 (2). 傍証としての地名
         ・ある問題が、論証として成立した場合、そこに地名が出てきた場合、それは傍証としては成立する。
         ⇒そのような視点から、伊勢神宮=八代海説は現時点では成立は難しいと考える。
      仮説というのは学問ではない、仮説として発表するのは自由である。それを学問として「古田史学会報」などに掲載するのは別問題である。会報の論文とする場合は、きっちりと論証したものにしてゆく。(水野氏)
    
 (3). 敗者における「習合の思想」について
         ・稲員家は古代に天皇・天子名の系図をもっており、そして701年以降は普通の名前になっていることから、この家系は九州王朝の王統と考えられる。      (初代は孝元天皇)
         ・しかし、稲員家は701年にとくに弾圧された形跡もなく、後世まで安泰に継続している。
         ・これは、初代を孝元天皇とすることにより、時の権力からその家系を保証・安堵してもらったと考えられる。
         ⇒敗者も「習合の思想」のもとに、その生存が保証されたと考えられる。
8)会場
      ・壬申の乱とはなんだったんでしょうか?
       (1). 西村氏意見: 資料P2の東晋の滅亡と同じパターンと考える。(天智は称制の間、禅譲をうけて天皇になっていた)
       (2). 水野氏意見: 資料P4右頁1項にあるように壬申の乱は九州で起きた。
       (3). 正木氏意見: 大津京にいたのは九州王朝の王族。唐に屈服した薩夜馬が帰国し、抗戦派の立て籠もる大津京を攻めた。
       (4). 古賀氏意見: 壬申の乱のあとも九州年号”白鳳”は続く。 釈日本紀によると唐の軍事顧問団が天武軍に従軍している。
9)正木氏
         ・700年前後に九州王朝の天子がどこにいたか?そして、近畿王朝は九州王朝の年号継続を認めたか?
         ⇒正木氏意見: 704年まで近畿天皇家は唐の承認を得られなかった。それで年号の並立が続いた。
      =このシンポジウムを機に「古田史学」にも慶雲が訪れるように=
        以上
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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