2010年12月1日

古田史学会報

101号

1,白鳳年号をめぐって
 古田武彦

2,「漢代の音韻」と
 「日本漢音」
 古賀達也

3,「東国国司詔」
 の真実
 正木裕
編集後記

4,「磐井の乱」を考える
 野田利郎

5,星の子2
  深津栄美

6,伊倉 十四
天子宮は誰を祀るか
  古川清久

 

古田史学会報一覧

九州王朝から近畿天皇家へ -- 『公地公民』と『昔在の天皇』(会報99号)
「禅譲・放伐」論考 正木裕{会報100号)

「斉明」の虚構 正木裕(会報102号)
「筑紫なる飛鳥宮」を探る 正木裕(会報103号)


 

「東国国司詔」の真実

川西市 正木裕

 私は『古田史学会報』九九号で、『書紀』に記す「大化改新」は、七世紀末から八世紀初頭の、九州年号(以下【九】と略す)大化期における九州王朝から近畿天皇家への権力移行に関する記事を移植したもので、「皇太子奏請」は、近畿天皇家による九州王朝の資産の収奪を示すことを述べた。(註1)
 本稿では、【九】大化期に、近畿天皇家が九州王朝の官僚、国宰・評督ほかの任命権を奪い、彼らを厳しく考査したうえ、賞罰により恫喝し、近畿天皇家の支配下に取り込む経過が「東国国司詔」に記されている事を述べる。

一、大化元年「東国国司召集詔」の実年代と内容

  I 「召集詔」の内容は七世紀末に相応しい

 『書記』大化元年(六四五)八月に、「東国国司召集の詔」(以下「召集詔」)が記されている。

■大化元年八月庚子(五日)に東国等の国司を拝す。仍りて国司等に詔して曰はく、「天神の奉け寄せたまひし随に、方に今始めて万国を修めむとす。凡そ国家の所有る公民、大きに小きに領れる人衆を、汝等任に之りて、皆戸籍を作り、及また田畝を校へよ。其れ薗池水陸の利は、百姓と倶にせよ。又、国司等、国に在りて罪を判ること得じ。他の貨賂まひなひを取りて、民を貧苦に致すこと得じ。京に上らむ時には、多に百姓を己に従ふること得じ。唯国造・郡領のみを従はしむること得む。但し公事を以て往来はむ時は、部内の馬に騎ることを得、部内の飯食*ふこと得。(以下介・判官他についての規定・略)若し名を求むる人有りて、元より国造・伴造・県稲置に非ずして、輙たやすく詐り訴へて言さまく、『我が祖の時より、此の官家を領り、是の郡県を治む』とまうさむは、汝等国司、詐いつはりの随に便たやすく朝に牒まうすことを得じ。審に実の状を得て後に申すべし。又、閑曠いたずらなる所に、兵庫を起造りて、国郡の刀・甲・弓・矢を収め聚め、辺国の近く蝦夷と境接る処には、尽に其の兵を数へ集めて、猶本主に仮け授たまふべし。其れ倭国の六県に遣はさる使者、戸籍を造り、并せて田畝を校ふべし。〈墾田の頃畝及び民の戸口の年紀を検覈るを謂ふ。〉汝等国司、明に聴りて退るべし」とのたまふ。即ち帛布賜ふこと各差有り。
     食*は、二水編に食。[冫食]498E1

 この詔は六四五年の近畿天皇家による国司制度の創設、或いは全国的な国司の任命を記すものと考えられている。
 しかしこの詔は、以下の通りその内容や文体から早くとも七世紀末以降のものと考えられるのだ。

(1) 「校田・造籍」は公地公民・班田収受制の前提であり、武器庫の整備は令制にある軍団制に類似するとされる。これらの制が確実に施行されたのは律令制定以後だ。(註2)
(2) また、裁判権の国司からの剥奪は、これら権限の中央への集中を意味し、この実施には、律令の整備が前提となる事は言うまでもない。
(3) 更に「天神の所奉け寄せたまひし・・」以下の語は文武即位の宣命と類似し、こうした宣命体の成立は早くとも七世紀後半以降とされている。
 しかも、「召集詔」は戸籍・校田や馬・武器などの記述において、大化二年の改新詔「其の二」と極めて類似しているが、この詔は、六九四年遷都の藤原京から始まる「条坊制」を前提としており、古賀達也氏により、五〇年後の【九】大化二年(六九六)から移された持統による「廃評建郡の詔勅」だと指摘されているのだ。(註3)

 

II 「国司」の存在を前提とした詔

 加えて「東国等の国司を拝す」とある通り、詔の内容は国司の招集と訓示に止まり、国司制度の創設や国司の具体的な任命には触れていない。
また、制度創設にあたっては、先ず国司の職権(何を行なうべきか)「付与」が述べられるべきだが、校田・造籍や武器の収納等律令に関連する新施策以外は、1) 裁判権の剥奪 2) 徴税権の制限 3) 馬・飯等公財産の私的利用禁止 4) 国造等の恣意的任命禁止等、従来保持していた職権の「制限・剥奪」が主題となっている。

 職の新設にあたり禁止事項を専ら規定するのは不自然で、既にその職にある者、即ち現職の国司に対し、権限を制限・剥奪する詔として相応しい。
 要するに「召集詔」では、「既に国司が存在している」事を前提とし、『書紀』大化元年に国司制度を「創設」した詔とは考え難い。そして近畿天皇家が、【九】大化期に、九州王朝が任命していた「国宰(『書紀』には「国司」とある)」の権限を剥奪すると同時に、律令の施行に向け新たな職務を指令したと考えればよく理解出来るのだ。(註4)

二、大化二年「東国国司賞罰詔」の真実

 同様に、『書記』大化二年(六四六)三月の東国国司賞罰の詔(三月甲子二日及び辛巳十九日の詔。以下「賞罰詔」という)は、【九】大化期に、近畿天皇家の立場から「国宰」の考査を行なった上で再度召集し、新政権に不服従の「国宰」に対し処罰を行なった記事と考えられる。
■大化二年(六四六)三月癸亥朔甲子(二日)に、東国の国司等に詔して曰はく、「集侍る群卿大夫及び臣・連・国造・伴造、并て諸の百姓等、咸ことごとくに聴るべし。夫れ天地の間に君として万民を宰むることは、独り制むべからず。要かならず臣の翼たすけを須もちゐる。是に由りて代々の我が皇祖等、卿が祖考と倶に治めたまひき。朕も神の護の力を蒙こうぶりて、卿等と共に治めむと思欲ふ。故、前に良家の大夫を以て、東の方の八道を治めしむ。既にして国司任に之りて、六人は法を奉り、二人は令に違へり。毀誉各聞ゆ。朕便ち厥の法奉るを美めて、斯の令に違へるを疾にくむ。凡そ治めむとおもはむ者は、君も臣も、先づ当に己を正しくして、後に他を正せ。如し自ら正しくあらずは、何ぞ能く人を正さむ。是を以て、自ら正しくあらざる者は、君臣と択ばず、乃ち殃わざはひを受くべし。豈慎まざらむや。汝率ひて正しくは、孰たれか敢へて正しくあらざらむ。今前の勅に随ひて処ひ断めよ」とのたまふ。
三月辛巳(十九日)に、東国の朝集使等に詔して曰はく、「集侍る群卿大夫、及び国造・伴造・并て諸の百姓等、咸ことごとくに聴うけたまはるべし。去年八月を以て、朕親ら誨おしへて曰ひしく『官の勢に因りて、公私の物を取ること莫。部内の食を喫ふべし。部内の馬に騎るべし。若し誨ふる所に違はば、次官より以上をば、其の爵位を降し、主典より以下をば、笞杖を決めむ。己に入れむ物をば、倍あつつかへて徴れ』とのたまひき。詔既に斯の若し。今朝集使及び諸国造等に問ふ。国司任に至りて、誨ふる所を奉るや不やと。是に、朝集使等、具に其の状を陳さく(以下具体の国司の処罰略)
念ふこと是の若しと雖も、始めて新しき宮に処りて、将に諸の神に幣たてまつらむとおもふこと、今歳に属あたれり。又、農の月にして、民を使ふべからざれども、新しき宮を造るに縁りて、固に已むを獲ず。深く二つの途を感けて、天下に大赦す。今より以後、国司・郡司・勉め勗つとめよ。放逸すること勿。使者を遣はして、諸国の流人、及び獄中の囚、一に皆放捨ゆるせ。

 

I 「賞罰詔」の年代と「召集詔」との関係

 「召集詔」と「賞罰詔」は相呼応するものだから、「召集詔」の実年代が先述の通り七世紀末なら「賞罰詔」も又その時代となろう。
 また、『書紀』では大化元年八月に「召集詔」、翌大化二年三月に早くも「賞罰詔」と、その間僅か七ヶ月とされている。しかし、遠隔の任地への往復に加え、任地での任務遂行と実績の評価には相当な期間を要し、物理的に七ヶ月では到底実現不可能で、実際は数年離れた事実と考えざるを得ない。
 山尾幸久氏は任地との距離のみならず戸籍、校田、兵庫整備等の事業の困難さを指摘し「こんな一大権力事業を、北陸の他に静岡・長野から福島までの広域において、八グループが四、五ヶ月程度で完遂できるか。とんでもないことだと思う。『孝徳紀』の編成デイトは、証明なしには信用できないのである」とし、更に召集詔や「処罰詔の本来の年次は『書紀』の記年にかかわらず、その内容に即して検討されるべきだろう」とする。この見解は至極もっともである。(註5)

 

II 「賞罰詔」の「新しき宮」

 それでは、まず「賞罰詔」の実年について検討する。
 「賞罰詔」に、「始めて新しき宮に処りて」とあり、この「宮」は『書紀』大化元年(六四五)末に「都を難波長柄豊崎宮に遷す」とあることから難波宮とされている。しかし、難波宮本体の完成は六五二年であり、六年も前に「始めて新しき宮に処」れるはずはない。
 また『書紀』によると難波宮完成まで、子代離宮(大化二年正月)、蝦蟇行宮(同二年九月)、小郡宮(同三年是歳)、武庫行宮(同三年十二月)、難波碕宮(同四年正月)、味経宮(白雉元年正月)、大郡宮(同三年正月)など難波諸宮を転々としていた事が知られる。
 難波宮本体ではなくこれら一時暮らしの行宮に遷ったのを「始めて新しき宮に処りて」と表現し、大赦の理由としたというのは余りにも不自然だ。
 このように難波宮も難波諸宮も「新しき宮」には不合格なのだ。
 しかし、【九】大化期なら、文武二年(六九八)正月に、文武が始めて藤原宮の大極殿で朝を受けており、「始めて新しき宮に処」たとする記事と整合する。■『続紀』文武二年(六九八)春正月壬戌朔。天皇、大極殿に御して朝を受く。文武百寮及び新羅朝貢使拝賀す。其の儀常の如し。

 

III 詔中の「大嘗祭」は文武即位の大嘗祭

 同じく詔中に「諸の神に幣たてまつらむとおもふこと、今歳に属れり」とあり、岩波注は、これを「孝徳天皇即位の大嘗祭か」とする。しかし、この歳大嘗祭が挙行された記事は無い。
 そして同じく文武二年には文武即位の大嘗祭が記されているのだ。
■『続紀』文武二年(六九八)十一月癸亥(七日)。使を諸国に遣して大祓せしむ。己夘(二十三日)、大嘗す。直廣肆榎井朝臣倭麻呂、大楯を竪て、直廣肆大伴宿祢手拍、楯桙を竪つ。神祇官人と、事に供れる尾張・美濃二国の郡司百姓等とに物賜ふこと各差有り。
 こうした事から「賞罰詔」の実年は文武二年(六九八)と推定される。

 

IV 「去年八月」の詔は文武即位の宣命

 ちなみに、「賞罰詔(大化二年三月十九日)」中に、「去年八月」に、『官の勢に因りて・・』以下の詔を発したとあり、これは当然大化元年八月の「召集詔」と読めるようになっている。
 しかし、「召集詔」から「賞罰詔」までの七ヶ月が短期に過ぎ物理的に有り得ないとすれば、「去年八月」は大化元年八月の「召集詔」で無い事となる。
 そして「賞罰詔」が文武二年であれば、その「去年」である文武元年八月にも法令順守の詔があるのだ。それは文武元年八月十七日の文武即位の宣命だ。ここには「国々の宰等に至るまでに」とあり、全国の国宰に、国法を遵守し天皇に誠心誠意仕えよとの命が下されている。
■『続紀』文武元年(六九七)八月庚辰(十七日)(略)是を以て、天皇が朝庭の敷き賜ひ行ひ賜へる百官人等、四方の食国を治め奉れと任け賜へる国々の宰等に至るまでに、国の法を過ち犯す事無く、明き淨き直き誠の心を以て、御稱稱りて、緩び怠る事無く、務め結りて仕へ奉れと詔りたまふ大命を、諸聞きたまへと詔る。 この「即位の宣命」を「去年八月」の詔と見れば、
(1).元年八月即位時に包括的に「国法遵守」を命じ、
(2).二年三月に「去年八月」の「即位の宣命」にのっとり、「前の勅」即ち「召集詔」で示した具体的禁令に基づき国宰の考査を行う旨を詔した事となる。
 なお、天皇が「召集詔」の詳細な内容を再度そっくり繰り返して詔したとは考えづらく、「詔」中に「詔」を引用するという記述の体裁からも、『書紀』編者が「賞罰詔」の記述にあたって「召集詔」を要約・再掲し付加したものと考えるのが自然だろう。

 

V 「召集詔」から「賞罰詔」までの経緯

 以上を古賀氏の大化二年改新詔は五〇年後の【九】大化二年から移されたとの説を踏まえ、大化元年の「召集詔」を【九】大化元年から移されたと見て、「賞罰詔」までの経緯を整理すれば、
(1).「召集詔」は、持統九年(【九】大化元年・六九五)に、九州王朝任命の国宰を召集し、近畿天皇家による政権掌握を宣言した上、国宰の権限を剥奪・縮小、律令施行に向け新職務指令を与えたもの。
(2).『続紀』文武元年(【九】大化三年・六九七)の「文武即位の宣命」は、国宰等に対し改めて「文武」への忠誠と、国法遵守を包括的に命じるもの。
(3).「賞罰詔」は、文武二年(【九】大化四年・六九八)に、既に提示済みの「召集詔」による具体的な基準で国宰を考査し賞罰を行う旨を表明したものとなろう。そして、以下具体の国司の処罰に続くのだ。
 こう考えれば国宰の「召集・指令 ーー 任地への派遣 ーー 職務遂行 ーー 実績評価 ーー 再召集 ーー 考査・賞罰」に六九五~六九八と三年余要した事となり、「召集詔」から「賞罰詔」までが余りにも短期に過ぎるとの疑問も解消される。
 『書紀』編者は、両詔を【九】大化期から孝徳大化期に移すのみならず、「賞罰詔」中の「去年八月」の詔を文武即位の宣命ではなく、三年前の「召集詔」の様に見せる事で、大化期の短期間に近畿天皇家が国司制度を整えたと装ったのだ。 
 しかもこの時期は九州王朝から近畿天皇家への権力移行の初期にあたる。近畿天皇家は、まず自らの勢力圏である畿内以東の国宰からその取り込み・再編を図ったと考えれば、何故西国を除外し「東国国司」に限定したのかも明瞭になるのだ。


三、『続日本紀』に見る国宰・在地勢力の懲罰

I 巡察使派遣と考査・懲罰

 大化改新詔の国司賞罰が、【九】大化期の事件である事を裏付ける様に、『続紀』には【九】大化期に地方官僚・在地勢力に対し、巡察使を派遣、厳しい考査を行い、武力を行使して懲罰していった経過が克明に記されている。
 以下『続紀』にもとづき順を追って示そう。
(1) 文武三年三月に巡察使を畿内に派遣する。
■文武三年(六九九)三月壬午(二七日)巡察使を畿内に遣して、非違を検へ察しむ
 これは本来文武二年の「賞罰詔」による考査を踏まえ、抵抗する国宰等の処罰を示すものだろう。校田は土地所有の変更を、造籍は身分の変更を意味するから、その際相当の抵抗があって当然だ。そして、「畿内」の語は「賞罰詔」が「東国」すなわち近畿天皇家の勢力範囲の国司に対するものである事と良く対応するのだ。

(2) 九月に武器・兵馬装備を指示する。これは「召集詔」の「国郡の刀・甲・弓・矢を収め聚め」とも対応する内容となっている。「京畿、同じく亦」とは武器装備の主要対象地域、すなわち抵抗の激しい事が予想される地域が京畿の外である事を示すものだ。
■同年九月辛未(二十日)詔したまはく、「正大弐已下無位已上の者をして、人別に弓・矢・甲・桙と兵馬とを備ふること、各差有らしめよ」、又、勅したまはく「京畿、同じく亦これを儲けよ」とのたまふ。

(3) 十月に「十悪」処罰を宣言する。
■同年冬十月甲午(十三日)詔したまはく「天下の罪有る者を赦す。但し十惡・強窃の二盜は赦の限に在らず」とのたまふ。
 この処罰と巡察使の派遣は決して無縁ではありえない。詔中「十悪」は赦さずとあるが、「十悪」とは唐の律の用語で、わが国の律令では「八虐(はちぎやく)」にあたり「謀反・謀大逆・謀叛・悪逆・不道・大不敬・不孝・不義」をいい、最も重い犯罪として貴族といえど死罪を免れなかった。
 この中の「謀反」や「謀叛」は一般的な意味ではなく、権力を握った天子・天皇に対する叛乱・不服従を意味するものだ。

(4) 十月に巡察使を諸国に派遣し処罰をおこなう。
■同年冬十月戊申(二七日)巡察使を諸国に遣して、非違を検へ察しむ。

(5) 文武四年(七〇〇)二月に巡察使を東山道に派遣し処罰をおこなう。
■文武四年二月壬寅(二二日)巡察使を東山道に遣して、非違を検へ察しむ。

(6) 同月に重ねて戎具(武器)の装備を詔す。
■同年二月丁未(二七日)累ねて王臣・京畿に勅して、戎具を備へしめたまふ。
 この一連の記事は、九州王朝から近畿天皇家への権力移行のリアルな経緯でもある。文武即位と律令施行が円満なものであれば、このような再三にわたる武器装備指令や度重なる巡察使の派遣と処罰は不要のはずだ。
 これらにあわせて、「十悪」への徹底した処罰の姿勢表明は、この間の武力行使による弾圧の厳しさを表すものだ。

 

II 「薩摩比売等の反乱」記事が示す地方の抵抗

 こうした弾圧に対する九州王朝側の抵抗も、『続紀』文武四年六月の薩末比売らの「剽劫」以下の記事で知られる。
■文武四年六月庚辰(三日)。薩末比売・久売・波豆、衣評督衣君縣、助督衣君弖自美、又、肝衝難波、肥人等を從へて兵(武器)を持ちて覓国使刑部眞木等を剽劫おびやかす。是に竺志惣領に勅して、犯に准へて决罸せしめたまふ。
 『続紀』文武二年四月条では、「覓国使」に戎器(武器)が給付されているから、双方武器を持っての衝突となる。そしてこれら評督・助督・惣領は九州の人物達だから、近畿天皇家と九州王朝の一部勢力との間で大規模な武力衝突があった事は明らかだ。(註6)
 なお、「召集詔」中の国郡の武器(兵)収納記事は、こうした文武紀の巡察使による一連の処罰や武器装備の指令、薩摩等の武器を持っての叛乱からも、本来【九】大化期の事件だったと考えられるのだ。
 近畿天皇家はこのような抵抗を排除しつつ、武力衝突後の文武四年八月に、「反乱鎮圧」を祝し大赦を挙行すると共に、「国宰」らの賞罰を行ない、新体制に隨う者には位階・封授与を進めた。
■文武四年八月丁夘(二二日)。天下に赦す。但し十悪・盜人は赦の限に在らず。高年に物賜ふ。又、巡察使の奏状に依りて、諸国司等、その治能に隨ひて、階を進め封賜ふこと各差有り。阿倍朝臣御主人・大伴宿祢御行に並に正廣參を授く。(略)並に善き政を褒めればなり。
 そして、十月には筑紫・周防・吉備など「九州王朝の拠点地域」に新たな総領を任命する。
■同年冬十月己未(十五日)、直大壹石上朝臣麻呂を筑紫総領とす。直廣參小野朝臣毛野を大弐。直廣參波多朝臣牟後閇を周防総領、直廣參上毛野朝臣小足を吉備総領、直廣參百濟王遠宝を常陸守。

III 地方統制の成就と支配体制確立の宣言 こうした一連の地方統制を終えた翌大宝元年正月に、文武は大極殿に於いて諸外国使節(蕃夷の使者)を招いた盛大な式典を催し、近畿天皇家による支配体制の確立を内外に示した。
■『続紀』大宝元年(七〇一)春正月乙亥朔、天皇、大極殿に御しまして朝を受けたまふ。其の儀、正門に烏形の幢を樹つ。左は日像・青龍・朱雀の幡、右は月像・玄武・白虎の幡なり。蕃夷の使者、左右に陳列す。文物の儀、是に備れり。
 「蕃夷の使者」とあるが、粟田真人らを式典終了後直ちに唐に派遣している。これは「答礼」、即ち帰国する使節への同行を意味すると考えられ、式典に唐の使節も参加していた可能性が高い。
 唐による政権の承認も確実になり、式典以降同年三月に天皇家の年号「大宝」建元、天皇家の新令である「大宝律令」発布と続き、内外ともに近畿天皇家の支配が確立することとなった。
 『続紀』には近畿天皇家による旧来の九州王朝の主要領域を含む国土の実効支配の実現と律令・年号等の統治法令・制度の確立が誇らしげに記されている。「文物の儀、是に備われり」と。
 そして、海外文献に記す国名も「倭国」から「日本国」に変わる。遣唐使粟田真人は唐で「何処の使人ぞ」と問われ「日本国の使いなり」と答えたと『続紀』は記す。そして、『旧唐書』日本国伝もこれを受けてこう記す。
 「或いは云う。日本は元小国。倭国の地を併せたり」と。(註7)
 但し、大隈等九州南端と東北蝦夷領域は未だ支配が及んでいない。これは『続紀』では以降も隼人・蝦夷の反乱が記述されている事、九州年号「大長(七〇四~七一二)」が続く事等で知られる。(註8)
 そして最後の九州年号「大長」の終焉と共に、和銅六年(七一三)近畿天皇家は「大隈国」の設置を宣言し、ここに九州王朝は、僅かに大隈国・薩摩国の出水・高城を除く「隼人十一郡」(『薩摩国正税帳』による)の「隼人」として勢力を残すばかりで、国家としての命脈を絶たれる事となる。
■『続紀』和銅六年(七一三)夏四月乙未。(略)日向国の肝坏、贈於、大隅、姶羅四郡を割き、始めて大隅国を置く

(註1)拙論「九州王朝から近畿天皇家へ -- 『公地公民』と『昔在むかしの天皇』」(古田史学会報』九九号二〇一〇年八月)

(註2)岩波注釈では、「令制では、兵士は人別に、一定の食料、弓箭など一定の武器を自弁し、軍団の庫に預けておく(軍防令の兵士備糒条・備戎具条)。軍団制は後のものであるが、武器を蔵におさめる点、類似の処置か」とする。

(註3)古賀氏は、大化二年(六四六)の改新詔について、「改新詔を出した都を特定できる記述がある。第一に、畿内の四至として東は名墾、南は紀伊、西は赤石、北は近江とあり、都はそれらの内側中心部分にある。第二に、京に坊長・坊令を置けと命じており、その都は条坊制都市であることが前提となる。第三に「初めて京師を修め」とあり、大和朝廷にとって初めての本格的都城である事がわかり、これら三条件を満たす都は、藤原京しかない。以上から、孝徳紀に記された大化二年改新詔は、九州年号大化二年(六九六)に藤原宮で出されたもので、『書紀』編纂者は九州年号大化を五十年遡らせて盗用しただけではなく、大化二年改新詔を五十年遡らせていた」と指摘している。(筆者要約)

(註4)「『書紀』には『国司』とあり、『国宰』とは記されない。しかし『国宰』は木簡や『続紀』『風土記』ほかの文書に現れる。こうした資料状況は、郡・評論争における「郡」と「評」(『続紀』では先述の薩摩比売記事に「評」)の関係と極めて類似している。従って「評」同様に七世紀末までの制度は「国宰」であり、『書紀』は「国宰」を「国司」と書き直した事が確実と思われる。
古賀達也「大化二年改新詔」の真実(古賀事務局長の洛中洛外日記第一八九話二〇〇八年九月十四日)

(註5)山尾幸久『「大化改新」の資料批判』(塙書房二〇〇六年)

(註6)薩末比売らの抵抗については「古賀事務局長の洛中洛外日記」第一九二話「評から郡への移行」(二〇〇八年十月十一日)参照

(註7)『旧唐書』日本国伝
■日本国は倭国の別種なり。その国日辺に有るをもって日本国を名とす。或いは曰う。倭国自ら、その名雅ならざるを悪み、改めて日本と為す。或いは云う。日本は元小国。倭国の地を併せたり。

(註8)古賀達也「最後の九州年号 -- 『大長』年号の史料批判」(『古田史学会報』七七号・二〇〇六年十二月八日)、同「最後の九州王朝・鹿児島県『大宮姫伝説』の分析」(『市民の古代第十集』一九八八年市民の古代研究会編)


編集後記

 先号に引き続き今号にも古田先生から原稿を戴いた。ミネルヴァからの出版も快調、八王子の大学セミナーハウスにおける古代史セミナーも大好評だったようで、いつまでもお元気なご活躍を期待したい。正木さんも相変わらず好調。どなたか正木批判に挑戦しませんか?(西)


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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