2012年8月10日

古田史学会報

111号

1、太宰府出土「戸籍」木簡
多利思北弧まぼろしの戸籍か!
 大下隆司

2、神功皇后と盗まれた神松
 正木 裕

3、「百済禰軍墓誌」について 
「劉徳高」らの来倭との関連
 阿部周一

4、続・越智国にあった
「紫宸殿」地名の考察
 合田洋一

5、書評
古田万葉論三部作
『古代史の十字路』復刻
(洛中洛外日記より転載)

古田史学会報一覧

百済人祢軍墓誌の考察(会報108号) 古賀達也

「百済禰軍墓誌」について

「劉徳高」らの来倭との関連において

札幌市 阿部周一

 「二〇一一年」に「中国」で「百済禰軍」の「墓誌」というものが(「拓本」が)発見されました。(注一) 以下はその「墓誌」についての若干の考察です。

 「百済禰軍」とは「書紀」と「三国史記」に登場する人物であり、元「百済」の人物であったと考えられますが、「百済」滅亡後「唐」側の立場で「熊津都督府」に所在して行動していたようです。
 彼は「百済」において「佐平」という位階を持っていたと「墓誌」に書かれていますが、「六六〇年」「唐」「新羅」の連合軍により「百済王」達が捕虜になった際に一緒に投降したものと考えられ、その後「唐」側の人物として活躍していたものと考えられます。
 また彼は「三国史記」中にも出てきます。それによれば「司馬禰軍」は「文武王十年」(六七〇年)に「熊津都督府」から「新羅」に派遣された人物であり、「文武王」によりそのまま「新羅」に「留められ」ていたもので、つまり、一種の「人質」(ないしは「捕虜」)のように扱われていたものです。それは「熊津都督府」と「新羅」の「利害」が対立するようになっていたからであり、旧「百済」の勢力と「唐」が(「熊津都督府」が)「結託」しているように見えたからでしょう。
 その後「文武王十二年」(六七二年)になり、「新羅」と「唐」が本格的に戦闘状態に入るなど「不和」が拡大し、「唐」から「罪」を問われることとなったため、「文武王」は「謝罪」のためもあり、「熊津都督府」の要人達を「唐」へ送還していますが、これらの中にこの「司馬禰軍」がいます。
 今回発見された「墓誌」については、その中に「日本」という国号が見られ、そのことについての議論が多く起きているようです。また「僭帝」という人物も見え、それらについても関心が持たれていますが、それとは別に気になる部分があります。それについて述べたいと思います。

(1) 「去顕慶五年 官軍平本藩日 見機/識変 杖剣知帰 似由余之出戎 如金・子之入漢(二文字空け)(注二) 聖上嘉嘆擢以榮班 授右/武衛[シ産]川府折沖都尉。」
(2) 「于時日夲餘[口焦] 拠扶桑以逋誅 風谷遺[田亡] 負盤桃而阻/固 萬騎亘野 與蓋馬以驚塵 千艘横波 援原[虫也]而縦濔 以公格謨海左 亀鏡瀛/東 特在簡帝 往尸招慰」
(3) 「公[イ旬]臣節而投命 歌(二文字空け)皇華以載馳 飛汎海之蒼鷹/[者/羽]凌山之赤雀 決河眦而天呉静 鑑風隧而雲路通 驚鳧失侶 済不終夕 遂能/説暢(二文字空け)天威 喩以禍福千秋 僭帝一旦称臣 仍領大首望数十人将入朝謁/特蒙(二文字空け)恩 詔授左戎衛郎将 少選遷右領軍衛中郎将兼検校熊津都督府/司馬。
     [シ産]は、三水編に産。第4水準ユニコード6EFB
     [口焦]は、口編に焦。
     [田亡]は、田編に亡。
     [虫也]は虫編に也。人偏に牟。第3水準ユニコード8675
     [イ旬]は、人偏に旬。第4水準ユニコード4F9A
     [者/羽]は、者の下に羽。第4水準ユニコード7FE5

 (1) については、これは「顕慶五年」(六六〇年)という年次の表記から考えても、「百済」滅亡の時のことを記したものと考えられます。

「(旧唐書百済伝)顯慶五年、命左衛大將軍蘇定方統兵討之、大破其國。虜義慈及太子隆、小王孝演、偽將五十八人等送於京師,上責而宥之。」

 また、ここでは「金・子」の故事(注三) を踏まえた文章となっているようであり、自分を「金・子」(金日・)になぞらえていると考えられます。(彼のように「奴隷」まで身を落としたかは不明ですが)
 そして、この文章の直後の(2) について細かく見てみると、「餘[口焦]」といい「遺[田亡]」というような「用語」を使用していますから、これらはいずれも「主君」や「指導者」がいなくなった後の「残存勢力」、という捉え方であることが分かります。そして、その文章の中には「拠『扶桑』」といい「負『盤桃』」と言い方を使用していますが、いずれも「伝説」の地であり、「東の果て、日の出るところの地」であるとされている場所のことです。そこに「残存勢力」は隠れているというわけです。
 この文章から受けるニュアンスとしては、それが「近畿」であれ、「筑紫」であれ、「本来の首都に倭国王がいる」とすると似つかわしくない表現であると考えられ、「本来の首都ではない地域」に「残存勢力」が移動(逃亡)しているというように受け取られるものです。
 ところで、「海東諸国記」によれば「六六一年」に「近江」へ遷都したこととなっています。しかし「書紀」によればそれは「六六八年」のことであったとされており、大きく食い違っています。
 「倭国中枢」が本拠(首都)にいるのであるなら、この「墓誌」にあるような「逋誅」(罰から「逃げている」)という表現や「居扶桑」という表現は似つかわしくないと考えられます。
 つまり、この「描写」時にはすでに「扶桑」にいたことを示すものと考えられ、「扶桑」が「日の出るところに近い東方の地」を意味するわけですから、「近江」遷都がこの時点「以前」に行なわれたことを強く示唆するものであり、「海東諸国記」の言う「六六一年遷都」という考え方が正しいことを意味するものと思われます。
 逆に言うとそれ以前はかなり「半島」に近い地域(たとえば「九州」)に「都域」があったことを示唆しているようです。
 さらにそれに引き続き、「萬騎亘野,與蓋馬以驚塵 千艘横波,援原[虫也]而縦濔。」という文章が続きますが、この部分は、「萬騎」と「千艘」、「與」と「援」、「蓋馬」と「原[虫也]」、「驚塵」と「縦濔」というように全てが見事な対句構成の「四六駢儷文」となっています。
 ここでは「萬騎野に亘り」と「千の船が波に横たわり」とが対応していると考えられ、また「蓋馬」が「蓋馬山」や「蓋馬高原」という土地の名前に関連していると考えられものであり、これが「高句麗の地」(朝鮮半島北部の高原地帯)を指すものと考えられることから、その前の「萬騎」が「亘った」という「野」もまた「高句麗の地」を指すと考えられます。
 そして、下の句の「千艘」以下は「三国史記」に「倭船」が「千艘」いたと書かれた「白村江の戦い」を想起させるものであり、「百済」の地での出来事をさすと考えられるものです。
 つまり、ここでは総じて「半島」の出来事について書いていると思われるものです。
 ところで、ここまでの文章の流れは「書紀」や「旧唐書」に書かれている事と少し異なっていると感じられます。
 「書紀」や「旧唐書」などで、戦いの当事者はあくまでも「唐」「新羅」対「百済」(+高句麗)であったと思われることに対して、この「墓誌」の文章を素直に理解すると、「唐」は「百済」が滅びた段階ですぐに「倭国」に対し「残存勢力」の追求をしようとしているように見えます。
 このことから「実際」には「六六〇年八月」とされる「百済滅亡」の戦いの時点ですでに「倭国」は軍を派遣しているのではないか、という疑いが生じます。
 つまり、「百済」と「倭国」は最初から連合してこの「戦い」に臨んだのではないかと考えられるものです。
 「書紀」によれば「救援軍派遣」は「百済滅亡」の一年後である「六六一年八月」であり、また「倭国」に「人質」となっていた「扶余豊」を「百済国王」に据えるべく派遣したのが翌九月とされています。
 しかし、この記事自体がすでに「旧唐書」や「資治通鑑」とも食い違っていると考えられるのです。

「資治通鑑」
「龍朔元年(六六一年)(辛酉)三月初,蘇定方即平百濟,留郎將劉仁願鎭守百濟府城,又以左衞中郎將王文度爲熊津都督,撫其餘衆。文度濟海而卒,百濟僧道探、故將福信聚衆據周留城,迎故王子豐於倭國而立之,引兵圍仁願於府城。」

 これによれば「三月初」という区切りの書き方で旧「百済」の将である「鬼室福信」などが「扶余豊」を王に迎えて、百済に居残っていた唐の将軍「劉仁願」の城を包囲したと書かれています。
 このことは上に挙げた「書紀」の「六六一年九月」の「扶余豊」帰国記事と大きく食い違うものです。
 従来の考え方では、滅亡した百済の残存勢力の代表である「鬼室福信」から「百済再興」の計画を持ちかけられ、「倭国」に人質となっていた「扶余豊」を「百済国王」に据えることとして、軍を添えて送ったのが「六六一年九月」のことであり、この時点以降、「唐」「新羅」と戦いになったというように理解されてきましたが、この墓誌によれば(資治通鑑によっても)異なっていることとなります。
 そもそも「百済」滅亡という「緊急事態」に対して、すぐに行動せず、「一年後」の軍の派遣というのでは「遅きに失する」と思われます。「危急」の事態に対する対応として、はなはだ「不自然」ではないかと思われるわけです。
 また、「百済を救う役」という名称も「百済滅亡の瀬戸際」でこそ意味があると考えられ、すでに敗北し、国王、王子らが国外に連れ去られた後、「一年後」の軍の派遣に際しての命名としてはいささか「不審」と言うべきであり、「そぐわない」ものと考えられます。
 しかも「墓誌」ではすでに「餘[口焦]」といい「遺[田亡]」と言う表現を使用しているわけですから、彼ら「日本」(倭国軍)の本来の指導的立場の人間は既に「いない」こととなってしまっていることとなると考えられます。
 「墓誌」では、さらに「以公格謨海左,亀鏡瀛/東,特在簡帝,往尸招慰。」という文章につながるわけです。
 この中で使用されている用語はいずれも難解なものが多いのですが、推定すると「格謨」が高位の人が立てた計画のことをさすと考えられます。(ただし、「皇帝」ではないと考えられます。皇帝の場合は「聖謨」と言うようです。)
 また、「亀鏡」というのは、ものごとの善悪を図る基準になるものを言い、「瀛東」とは広い海の東のことの意から、一見「日本」のことのようですが、この場合はその前の「白村江の戦い」の描写と関連のある対句構成となっており、ここも「高句麗」および「百済」など「半島」諸国を意味すると考えられ、それらに関連する事柄について書いていると考えられます。
 また、「往尸」は「死体」のことを意味すると考えられ、「特在簡(門構えの中が月)帝」の「簡帝」とは本来、「簡」が「選ぶ」という意味と考えられることから、「簡帝」とは「選ばれた」「帝」を指す言葉であり、「百済」の太子「扶余隆*」のことではないかと考えられます。(彼は「唐皇帝」により「百済王」に「選ばれて」います)(注四)
     隆*の別字。近似表示。阜偏に攵の下に生。

 以上を含んで考えると、大略は以下の通りと思われます。
 「『公』(百済禰軍)は高位の官の計画により海を越え「半島」(百済)に来て、彼等に物事の基準となることを示しました。そして「太子隆*」が「唐」により「百済国王」として選ばれ、戦いで亡くなった人たちの霊を慰めました。」

 また、(3) については大変難解ですが、この部分では再び「倭国」のことに戻っていると考えられます。「首望」は「酋望」に同じであり、蛮族の有力者の意であると思われます。つまり、「僭帝」は「臣」を称し(つまり投降し)、配下の将軍達数十名を「皇帝」の元に送ったとされています。そして「皇帝」は恩を以てこれに答えたというわけです。
 この部分は一見すると「百済」の降伏の際のことと考えがちですが、それはすでに「冒頭」で触れており、ここに書かれている事はそれとは「年次」が異なると考えられるものです。
 そして「公[イ旬]臣節而投命 歌(二文字空け)皇華以載馳」という部分は「公」つまり「百済禰軍」が「臣」としての「節」を「命」を投げ出しても達成する、という事を「詩経」の「載馳」になぞらえて「皇華」(皇帝)に「歌」ったという事を意味すると考えられます。
     [イ旬]は、人偏に旬。第4水準ユニコード4F9A

 ここでいう「載馳」は「亡国の嘆き」を歌った歌であり、(注五) 「祖国」である「百済」を亡くした「百済禰軍」が今後は「唐」皇帝の臣下として命を投げ出す覚悟を示した事を示すもの推察されます。
 そして、上の文章に以下の文章が続きます。

「汎海之蒼鷹/[者/羽]凌山之赤雀 決河眦而天呉静 鑑風隧而雲路通 驚鳧失侶 済不終夕 遂能/説暢(二文字空け)天威 喩以禍福千秋」
     [者/羽]は、者の下に羽。第4水準ユニコード7FE5

 これらの文章は「鳥」のように「使命」を帯びて「直ぐに」(時間を掛けずに)「倭国」に来たという事を意味していると考えられ、さらに「倭国王」を「説得」或いは「威嚇」して、「投降させた」と言うことを書いていると考えられます。
 彼は「百済」にいた際に「新羅」や「倭国」などの事情に明るかったものと推察され、「唐」側に立場が変わってからはその点を評価され「情報収集」と「折衝」を行うような職責にあったものと思慮されます。
 このような人物が「倭国」との「折衝」のために「派遣」されていたとしても不思議ではありません。
 この時の来倭記事とおぼしきものが「書紀」と「善隣国宝記」に引用する「海外国記」に出ています。
「天智紀」の「天智三年」(六六四年)には「熊津都督府」から「使者」として「郭務宗*」等が来倭したことが記されています。
「「天智三年」(六六四年)夏五月 戊申朔甲子 百濟鎮將劉仁願 遣朝散大夫郭務宗*等進表函與獻物
冬十月 乙亥朔 宣發遣郭務宗*等敕是日 中臣・臣遣沙門智祥 賜物於郭務宗*。
戊寅 饗賜郭務宗*等」

 この件に関しては「善隣国宝記」に引用された「海外国記」の情報の方が詳しいようであり、以下が記録されています。

「海外国記曰、天智三年四月、大唐客来朝。大使朝散大夫上柱国郭務宗*等三十人・百済佐平禰軍等百余人、到対馬島。遣大山中采女通信侶・僧智弁等来。喚客於別館。於是智弁問曰、有表書并献物以不。使人答曰、有将軍牒書一函并献物。乃授牒書一函於智弁等、而奏上。但献物宗*看而不将也。
 九月、大山中津守連吉祥・大乙中伊岐史博徳・僧智弁等、称筑紫太宰辞、実是勅旨、告客等。今見客等来状者、非是天子使人、百済鎮将私使。亦復所賚文牒、送上執事私辞。是以使人(不)得入国、書亦不上朝廷。故客等自事者、略以言辞奏上耳。
 一二月、博徳授客等牒書一函。函上著鎮西将軍。日本鎮西筑紫大将軍牒在百済国大唐行軍總管。使人朝散大夫郭務宗*等至。披覧来牒、尋省意趣、既非天子使、又無天子書。唯是總管使、乃為執事牒。牒又私意、唯須口奏、人非公使、不令入京云々。」

 これによればこの時の「倭国」はこの使者を「唐皇帝」の使者ではない、として「門前払い」したとされています。そして、「書紀」にはその翌年「劉徳高」の来倭記事があります。
 記事をまとめて並べると以下のようになります。

「「天智四年」(六六五年)九月庚午朔壬辰。唐國遣朝散大夫沂州司馬馬上柱國劉徳高等 (等謂右戎衛郎將上柱國百濟禰軍、朝散大夫上柱國郭務宗*)。凡二百五十四人。七月廿八日至于對馬。九月廿日至于筑紫。廿二日進表函焉。
冬十月己亥朔己酉。大閲于菟道。
十一月己巳朔辛巳。十三饗賜劉徳高等。
十二月戊戌朔辛亥。賜物於劉徳高等。
是月。劉徳高等罷歸。
是歳。遣小錦守君大石等於大唐云々。等謂小山坂合部連石積。大小乙吉士岐彌。吉士針間。盖送唐使人乎。」

 これで見ると「劉徳高」の来倭に「郭務宗*」と「百済禰軍」が同行しているのが分かります。
 また、「百済禰軍」の墓誌の文章からは、「当初」の「日夲餘[口焦]」「風谷遺[田亡]」という中から「僭帝」が発生したように見受けられ、これに対応するために「急遽」来倭したようにも考えられ、このような感覚で来ているとすると、そもそも最初の段階の来倭で「門前払い」を食わされてそのまま帰るものか疑わしいことと、そのような門前払いが当時の「倭国」に出来たかどうかを考えると、実際には当初の「郭務宗*」来倭の段階で「百済禰軍」達の要求を受け入れることとなったと思料され、この記事の「ソース」となった資料そのものに「作為」や「潤色」などがあったのではないかという疑いが生じるものです。
 このような「説得」と「脅迫」に対して「倭国」側は、その対応を巡って紛糾したものと考えられますが、結局は「公式」な「謝罪」とそれなりのペナルティーを受け入れることとなったものと推量されます。それが「僭帝」以下の文章であると考えられるものです。
 つまり、その「ペナルティー」とは「捕囚」の身である「薩耶麻」に対して「泰山封膳」に連行するというものであったと考えられ、「唐皇帝」に対し直接「謝罪」すべきとされたのではないでしょうか。
 また、この「墓誌」に出てくる「僭帝」については、中国の用例は全て「臣下の身でありながら、皇帝を名乗った」という場合に使用されています。つまり、本来は「王統」などに連なる血筋ではなく、正当な継承権を有していない人物が、実力により時の政権を打倒したか、君主の座を簒奪した場合などに使用される用語とされています。このことからこれは「天智」を指すものではないかと思料されるものです。
「書紀」では「天智天皇」の「近江遷都」という行動および即位について「天命が及んだ」という書き方をしています。

「天智七年(六六八年)秋七月。于時近江國講武。又多置牧而放馬。又越國獻燃土與燃水。又於濱臺之下諸魚覆水而至。又饗夷。又命舍人等爲宴於所々。時人曰。天皇天命將及乎。」

 ここで「天皇天命將及乎」と言われている根拠、というのがその前に列挙されている事柄ですが、(「講武」など)いずれも「瑞祥」であり、「天子の徳」を示す事柄と判断されます。決して「命運」が尽きかかっている前兆などではありません。

 このようなことを書き連ね、「天命」の正当性を記述しているわけです。しかし、この「天命」という用語は「遣隋使」の記事の「十二年」の「ずれ」という「古田氏」の考察で明らかになったように、「初代」の王が使用するのにふさわしい言葉なのです。つまり、正当な権利(理由)なしに「皇位」に付いた際の言い訳に使用される言葉なのです。
 そして、「天命」を受けた、と言われるからには、彼が「倭国王」に「直接」つながる血筋ではないことを示しているようです。
 また、「中村幸雄氏」の論考でも指摘されているように(注六) 「天智」には「皇祖」という称号が使用されていると考えられます。これは「新王朝」の開祖を意味するものであり、このことは「唐」の立場から見て「僭帝」という用語を使用する十分な動機となると考えられます。

「天智称制四年(六六五年)是歳。遣小錦守君大石等於大唐云々。等謂小山坂合部連石積。大小乙吉士岐彌。吉士針間。盖送唐使人乎。」

 この記事は「墓誌」に書かれたように「僭帝」が「臣」を称し(つまり投降し)、「皇帝」の元に配下の将軍達数十名を送ったと言う記事と関連していると考えられ、この中に「守君大石」達が含まれていたものと推量します。彼らは「墓誌」に「将入朝謁/特蒙(二文字空け)恩」とあるように「公」(百済禰軍)により「引率」して「皇帝」の元に連れて行ったものと推量します。
 「倭国」との折衝を通じて「倭国王」捕囚の情報を得たと考えられる「百済禰軍」達はその後旧「百済」内某所と推察される場所で「捕囚」の身であった「倭国王」に面会し、引き連れてきた「守君大石」達と合流した後、「倭国王」を「劉仁軌」に引き渡したものと推量します。
 その後「劉仁軌」により「倭国王」以下「百済王」「耽羅国王」などを「船」で「泰山」の麓まで運んでいます。

「旧唐書劉仁軌伝」
麟徳*二年(六六五年) 封泰山 仁軌領新羅及百濟・耽羅・倭四國酋長赴會 高宗甚悦* 擢拜大司憲
     徳*の別字。JIS第3水準ユニコード5FB7
     悦*の別字。立心偏に兌。ユニコード6085

「冊府元龜」
「高宗麟徳二(六六五)年八月条)仁軌領新羅・百済・耽羅・倭人四國使、浮海西還、以赴太山之下。」

 この時「劉仁軌」は占領軍司令官として「百済」(熊津都督府)に滞在していましたから、「百済王」はもちろん「倭国王」もこの時点まで「百済国内」の某所で「捕囚」となっていたものと思料します。「劉仁軌」は彼らを船に乗せて「黄海」を横切り、「泰山」の麓の港まで「連行」した、というわけです。
 ここで「高宗」は間近に「東夷」の国王達を見て、「東夷」が平定されたことを実感して、大変喜んだものと思われます。

 このように「謝罪」を受けた「高宗」は「倭国」が「絶域」(遠距離)であることも考慮し、それ以上の戦線拡大を止める意味でも、彼を「処罰」(流罪など)に処する事は考えていなかったのではないでしょうか。
 こうして「薩耶麻」は帰国することが可能となったのだと思われます。(そう考えると帰国まで年数が経過しているように考えられ、本来の帰国年次はもっと早かったという可能性がありますが、それについては別稿とします。)
 そして「皇帝」は恩を以てこれに答え、さらに「公」(百済禰軍)に対しこの「功績」を認め「墓誌」にあるように「詔授左戎衛郎将」ということとなったと推定されるものです。

結語

「百済禰軍」の「墓誌」によれば「倭国」が「百済滅亡」に至る段階ですでに「百済」と共同戦線を構築していたことが推察され、その戦いの初期段階の戦いですでに「倭国王」が「捕囚」になっていたと考えられること。
「倭国王」捕囚期間中に「倭国内」に「僭帝」が出現したものと考えられ、これは「天智」を指すものと思料され、彼は「来倭」した「百済禰軍」達の「説得」と「脅迫」により「降伏」し、「将軍達」を送って「捕囚」となっていた「倭国王」と共に「恭順の意」を「唐皇帝」に示したと考えられること。

以上について、考察しました。

 

(注)

一.王連竜(吉林大学古籍研究所副教授)「百済人祢軍墓誌論考」(「社会科学戦線」七月号)

二.この墓誌の中では「唐皇帝」に関すること(その称号と動作など)については「前二文字空け」により「敬意」を示しているようです。(上に文字が載ることを避けている)つまり「皇華」「聖上」「天威」「恩詔」「[丹彡]闕」「皇情」などは全て「唐皇帝」(ここでは高宗)に関わることを示していると考えられます。
     [丹彡]は、草冠の下に凡。第3水準ユニコード5F64

三.「匈奴」の太子であった「金・子」(金日・)は「前漢」の時代に「漢」の侵攻を受け捕虜となり、その後「奴隷」まで身分を落としますが、「馬の飼養」の役を与えられ、誠実に仕えている内に「漢」の「武帝」の目に留まり、その後「武帝」の信任を受け出世していったとされています。(漢書列伝(班固)による)「百済禰軍」は彼に自分をなぞらえて考えていたと推察されます。

四.ちにみに、考察を始めた当初はこの「簡帝」を「劉仁軌」とも考えました。彼は「熊津都督」として派遣された後、戦火に遭い、混乱の極みであった旧百済の人々に対して慰撫しています。「資治通鑑」にも、(「旧唐書劉仁軌伝」にもほぼ同文があります)「百濟兵火之餘,比屋凋殘,僵尸滿野。仁軌始命[夾/土]*骸骨,籍戸口,理村聚,署官長,通道塗,立橋梁,補是*堰,復陂塘,課耕桑,賑貧乏,養孤老,立唐社稷,頒正朔及廟諱」
     [夾/土]*は、やまいだれ編に夾の下に土。、第4水準ユニコード761E
     是*は阜偏に是。第三水準ユニコード9684

と書かれた部分があり、この文章はまさに「墓誌」に言う「往尸招慰」という内容と合致しているとも考えたのですが、「熊津都督」である「劉仁軌」に対して「簡帝」という用語(称号)が使用される事があり得るのかについて他の史料等を見ても判断出来ず、考えを変えたものです。
     [夾/土]*は、やまいだれ編に夾の下に土。JIS第4水準ユニコード761E
     是*は阜偏に是。第三水準ユニコード9684

五.「載馳」は「春秋」時代の諸侯の国の一つである「許」の国へ嫁いだ「穆夫人」が作ったとされる「詩」であり、故国の「衛」が滅びたのを知り、「衛」の国の人たちが亡命した「漕」へ自分も行こうとして「許」の国の大臣らに阻まれ、行くことが出来ず、その悲しみを歌にしたものとされており、「亡国の嘆き」がテーマと考えられています。(「詩経」より)

六.中村幸雄「誤読されていた日本書紀 -- 天皇の神格性の意味及びその発生消滅に関する考察」市民の古代第七集(「中村幸雄論集」所収)の中で「皇祖大兄」が「天智」であることを論証されています。

 

拓本

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 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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