2012年 2月10日

古田史学会報

108号

1、「国県制」と
「六十六国分国」上
 阿部周一

2、前期難波宮の考古学(3)
ここに九州王朝の副都ありき
 古賀達也

3、古代日本ハイウェーは
九州王朝が建設した軍用道路
 肥沼孝治

4、筑紫なる「伊勢」と
「山邊乃 五十師乃原」
 正木 裕

5、百済人祢軍墓誌の考察
京都市 古賀達也

6、新潮
 卑弥呼の鏡の新証拠
 青木英利

 新年のご挨拶
 水野孝夫

 

古田史学会報一覧

資料大唐故右威衛将軍上柱国祢公墓誌銘并序(ユニコード版と画像です)

「百済禰軍墓誌」について -- 「劉徳高」らの来倭との関連において(会報111号) 阿部周一

百済人祢軍墓誌の考察

京都市 古賀達也

百済人祢軍墓誌の「日本」

 昨年十一月の関西例会で水野さんから紹介された「百済人祢軍墓誌」ですが、どうやらこの墓誌は九州王朝説に大変有利な内容を含んでいるようです。現在、墓誌拓本のコピー入手を試みていますが、新聞発表などでわかる範囲で、見解を述べてみたいと思います。
 この墓誌は百済人の祢軍(でいぐん・ねぐん)という人物の墓誌で、六七八年二月に長安で没して同年十に埋葬されたと記されています。残念ながら墓誌そのものは行方不明ですが、その拓本が中国の学者から紹介されました。王連竜さん(吉林大学古籍研究所副教授)が「社会科学戦線」七月号で発表された「百済人祢軍墓誌論考」という論文です。中国在住の青木さん(「古田史学の会」会員)のご協力により、同論文を読むことができました。この場をお借りして御礼申し上げます。
 墓誌の中に「日本」という表記があり、これは現存最古の「日本」ということで、マスコミは取り上げています。これはこれですばらしい史料なのですが、実はそれ以外に大変興味深い記事が記されています。
 たとえば「僣帝一旦称臣」という記事です。くわしい解説は拓本コピーで確認した後にしたいと思いますが、この「僣帝」とは誰なのか、百済王なのか、倭王なのかというテーマです。関西例会後の懇親会でも喧々囂々の論争を行いました。墓誌の文脈から判断しなければなりませんが、倭王の可能性も高く、もしそうであれば九州王朝の天子、薩野馬のことではないでしょうか。
 白村江戦で敗北し、捕らわれの身となった薩野馬であれば、「僭帝一旦称臣」という表現がぴったりです。少なくとも大和朝廷にはこのような天皇がいた記録はありません。
 この他にも、「日本余?、据扶桑以逋誅」という記事がありますが、朝日新聞(2011/10/23)によれば、白村江戦で敗れた「生き残った日本は、扶桑(日本の別称)に閉じこもり、罰を逃れている」と解説されています。
 唐代において扶桑は東方にある国と認識されており、「日本の別称」という説明は必ずしも正確ではありません。従って、ここは日本の残存勢力が日本(倭国)の更に東に籠もって抵抗を続けていると解すべきではないでしょうか。そすると、扶桑とされた地域は近畿、あるいは東海か関東のいずれかと思われます。
 九州王朝説の立場から見れば、倭国・九州王朝の中枢領域である九州の更に東ということになりそうです。以前、わたしは「九州王朝の近江遷都」という論文で、白鳳元年(六六一)に九州王朝は近江遷都したのではないかという説を発表しました。すなわち、白村江戦の直前に九州王朝は近江に遷都したと理解したのです。こうした視点からすると、日本残存勢力が籠もったとする扶桑とは、近江宮か前期難波宮ということになります。
 墓誌拓本そのものを見ていませんので、まだアイデア(思いつき)の段階ですが、この墓誌の内容のすごさが予感されるのです。今後、拓本精査の上、詳論したいと考えています。

 百済人祢軍墓誌の「僭帝」

 この二週間ほど、毎日のように百済人祢軍墓誌のことを考えています。幸い同墓誌の拓本コピーを水野さんから送って
いただき(古田先生から入手されたもの)、その難解な漢文と悪戦苦闘しているのですが、中でもそこに記された「僭帝」とは百済王のことなのか倭王のことなのかが、今一番の検討課題となっています。
 この「僭帝」という言葉は墓誌の中程(全三一行中の十四行目)に「僭帝一旦称臣」という記事で一回だけ出現します。その六行前には「顕慶五年(六六〇)官軍平本藩」と官軍(唐)が本藩(百済)を征服した記事があり、四行前には「「日本余?、据扶桑以逋誅」という記事があります。そして「萬騎亘野」「千艘横波」という陸戦や海戦を思わせる記事(白村江戦か)があり、「僭帝一旦称臣」に続いています。次に年次表記が現れるのは「咸亨三年(六七二)」の授位記事(十七行目)ですから、「僭帝一旦称臣」はその間の出来事となります。更にいえば白村江戦(六六三)以後でしょう。
 従って、六六〇年に捕虜となった百済王ではないようです。しかも「日本」記事の後ですから、やはり倭王と考えるのがもっとも無理のない解釈と思われます。そうすると、大和朝廷は天智の時代ですが、『日本書紀』には天智が唐の天子に対して臣を称したなどという記事はありませんから、この「僭帝」は大和朝廷の天皇ではなく、九州王朝の天子、おそらく薩野馬である可能性が大きいのではないでしょうか。
 しかも『隋書』によれば、九州王朝の多利思北弧は天子を自称していますから、唐の大義名分から見て倭王は「僭帝」、すなわち「身分を越えて自称した帝」という表現もぴったりです。また、墓誌には何の説明もなく「僭帝」という表記をしていることから、七世紀末の唐の人々にとっても、「僭帝」というだけで誰のことかわかる有名な人物と理解されます。すなわち、『隋書』に特筆大書された「日出ずる処の天子」を自称した倭王以外に、それらしい人物は東アジアにはいないのです。
 以上のような理由から、墓誌の「僭帝」は九州王朝の天子、おそらく薩野馬のことと推定していますが、まだ断定は避けながら、墓誌の検討を続行中です。

南郷村神門神社の綾布墨書

 百済人祢軍墓誌の「僭帝」が誰なのかという考察を続けていますが、倭王筑紫君薩野馬とする見解に魅力を感じながらも断定できない理由があります。それは、百済王も年号を持ち、「帝」を自称していた痕跡があるからです。
 百済王漂着伝承を持つ宮崎県南郷村の神門(みかど)神社に伝わる綾布墨書に「帝皇」という表記があり、これが七世紀末の百済王のことらしいのです。「明雲廿六年」「白雲元年」という年号表記もあり、百済王が「帝皇」を名乗り、年号を持っていた痕跡を示しています(『古田史学会報』二〇号「百済年号の発見」で紹介しました)。
 また、金石文でも「建興五年歳在丙辰」(五三六年あるいは五九六年とされる)の銘を持つ金銅釈迦如来像光背銘が知られており、百済年号が実在したことを疑えません。こうした実例もあり、百済王が「帝」を自称した可能性も高く、百済人祢軍墓誌の「僭帝」が百済王とする可能性を完全に排除できないのです。
 学問の方法として、自説に不利な史料やデータを最も重視しなければならないという原則があります。従って、百済人祢軍墓誌の「僭帝」を百済王とする可能性が有る限り、どんなに魅力的であっても「僭帝」を倭王とする仮説を、現時点では「断定」してはならないと思っています。

祢軍墓誌研究のすすめ

 残念ながら、これだけ貴重な墓誌でありながら、研究はまだまだ不十分と言わざるを得ません。たとえば、「僭帝」と同様に墓誌に見える「簡帝」についても有力な仮説は未提示です。関西例会でも十分な論議検討は尽くされていません。
 とはいえ、水野さんからは墓誌の修飾文に『文選』所収「海賦」の影響を受けたと思われる類似の文が散見されるとの指摘もあり、研究の糸口はありそうです。多元史観に基づいた多くの研究発表が期待されます。
 ※本稿は古田史学の会ホームページ掲載「洛中洛外日記」より一部加筆訂正し、転載したものです。(古賀達也)


大唐故右威衛将軍上柱国祢公墓誌銘并序

            水野孝夫 翻案

王連竜(吉林大学古籍研究所副教授)氏「百済人祢軍墓誌論考」(「社会科学戦線」7月号発表)より

大唐故右威衛将軍上柱国祢公墓誌銘并序

公諱軍,字温,熊津嵎夷人也。其先與華同祖,永嘉末,避亂適東,因遂家焉。
若夫巍巍鯨山,跨清丘以東峙;水*水*熊水,臨丹渚以南流。
浸烟雲以英,降之于蕩沃;照日月而:,秀之于蔽虧,霊文逸文,高前芳于七子;
汗馬雄武,擅後異于三韓;華構増輝,英材継響,綿圖不絶,奕代有聲。
曽祖福,祖誉,父善,皆是本藩一品,官號佐平。併緝地義以光身,佩天爵而懃國。
忠[イ牟]鉄石,操埒松[竹/均]。笵物者,道徳有成,則士者,文武不堅。公狼輝襲祉,燕*頷生姿。
涯濬澄陂,裕光愛日,干牛斗之逸気,芒照星中;博羊角之英風,影征雲外。

去顕慶五年,官軍平本藩日,見機識変,杖剣知帰,似由余之出戎,如金・子之入漢。
聖上嘉嘆,擢以榮班,授右武衛[シ産]川府折沖都尉。
于時日夲餘[口焦],拠扶桑以逋誅;風谷遺[田亡],負盤桃而阻固。
萬騎亘野,與蓋馬以驚塵;千艘横波,援原[虫也]而縦濔。
以公格謨海左,亀鏡瀛東,特在簡帝,往尸招慰。公[イ旬]臣節而投命,歌皇華以載馳。
飛汎海之蒼鷹,[者/羽]凌山之赤雀。決河眦而天呉静,鑑風隧而雲路通。
驚鳧失侶,済不終夕,遂能説暢天威,喩以禍福千秋。僭帝一旦称臣,仍領大首望数
十人将入朝謁,特蒙恩詔授左戎衛郎将。

少選遷右領軍衛中郎将兼検校熊津都督府司馬。材光千里之足,仁副百城之心。
挙燭霊臺,器標于[サ/凡][木或];懸月神府,芳掩于桂符。衣錦昼行,富貴無革。
灌*蒲夜寝,字育有方。去咸享三年十一月廿一日詔授右威衛将軍。
局影[丹彡]禹闕,飾恭紫陛。亟蒙榮晋,驟暦便繁。方謂克壮清猷,永綏多祐。
豈[早/回]曦馳易往,霜凋馬陵之樹;川閲難留,風驚掠*龍驤之水。
以儀鳳三年歳在戊寅二月朔戊子十九日景午遘疾,薨于雍州長安県之延寿里第。春秋六十有六
     水*は、森の木の代わりに水三個。第3水準ユニコード6DFC
     [イ牟]は、人偏に牟。第3水準ユニコード4F94
     [竹/均]は、竹冠に均。第3水準ユニコード7B60
     燕*はれっかの代わりに鳥。
     [シ産]は、三水編に産。第4水準ユニコード6EFB
     [口焦]は、口編に焦。
     [田亡]は、田編に亡。
     [虫也]は虫編に也。人偏に牟。第3水準ユニコード8675
     [イ旬]は、人偏に旬。第4水準ユニコード4F9A
     [者/羽]は、者の下に羽。第4水準ユニコード7FE5
     [サ/凡]は、草冠の下に凡。第4水準ユニコード8283
     [木或]は、木偏に或。
     灌*は。三水編なし。第4水準ユニコード96DA
     [早/回]は、表示できません。早の日の代わりに口。下に回。
     [丹彡]は、草冠の下に凡。第3水準ユニコード5F64
     掠*は、手偏の代わりに立心偏。文字コードなし。

資料大唐故右威衛将軍上柱国祢公墓誌銘并序
(ユニコード版と画像です)

 


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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