2012年 2月10日

古田史学会報

108号

1、「国県制」と
「六十六国分国」上
 阿部周一

2、前期難波宮の考古学(3)
ここに九州王朝の副都ありき
 古賀達也

3、古代日本ハイウェーは
九州王朝が建設した軍用道路
 肥沼孝治

4、筑紫なる「伊勢」と
「山邊乃 五十師乃原」
 正木 裕

5、百済人祢軍墓誌の考察
京都市 古賀達也

6、新潮
 卑弥呼の鏡の新証拠
 青木英利

 新年のご挨拶
 水野孝夫

 

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古代日本ハイウェーは九州王朝が建設した軍用道路か?

所沢市 肥沼孝治

はじめに

 私が参加している「たのしい授業ML」の横山稔さんの情報からNHK・BS2で2年前に放送された「古代日本のハイウェー -- 1300年前の“列島改造”」という番組を観ることができた。良さそうな番組だったので、BSを受信できない環境の私は念には念を入れ3人の方に録画をお願いした。番組はよく取材されていて、なかなか興味深いものだった。そして、この古代日本ハイウェーの建設を命じたのが天智天皇か天武天皇かといったくだりで、私はまず最初のひらめきが来たのだった。

 

太宰府と吉野ヶ里をつなぐ高速道路

 というのも、かつて古田武彦氏を案内役に北部九州を旅行した際、太宰府と吉野ヶ里は高速道路で結ばれていて、軍隊を素早く大量に移動することができたと聞いていたからだった。それを思い出した私は番組の「誰が作ったかは不明だが、このような6300キロにわたる長いハイウェーを作るということは、何か緊急性のある事情があったのでは・・・」というヒントをもとに、「これは九州王朝が建設した古代日本ハイウェーではないか」という仮説がむくむくと膨れ上がってきたのだった。

古代ハイウェーは廃棄された? 吉野ヶ里遺跡の建設と廃棄

 続いて番組を観ていると「その古代日本ハイウェーは100年後には廃棄された」という情報が入った。ここで私の体の「アドレナリン」は最大限となった。かつて栄えた遺跡が数百年後に廃棄された例を私は他に知っていたからだった。その名は吉野ヶ里遺跡!これも古田武彦氏から学んだテーマだが、卑弥呼は「親魏倭王」という金印をもらったというが、これはある意味「反呉倭王」だというのだ。
 三国志の時代、内陸部の蜀が襲来する心配はないが、中国南部の呉とは海を隔ててひとつながりという状況。すなわち有明海からの侵入に備えるために、吉野ヶ里遺跡は作られたのだった。幸いその後呉は滅んで平和が訪れた。
 しかし、かつて建設した軍事施設は、平和の時代には逆に不要なものだ。いや、魏に仕える倭国としては、魏にあらぬ疑いをかけられ「おとりつぶし」ということにもなりかねない。だから「軍事施設としての吉野ヶ里は廃棄されたのだ」と。

白村江の戦いと唐の占領軍の来日

 それは、数百年後再び現実となった。7世紀後半の白村江の戦いの敗北とその後の唐の占領である。
 唐の司令官の立場に立って考えてみてほしい。せっかく戦争に勝って倭国に来てみたら、太宰府の前に水城はあるし、山上には神籠石の籠城用施設はあるし、全国に張り巡らされた6300キロにも及ぶ軍事用の古代日本ハイウェーがあった。
 さて,あなたならどうするだろうか。そのままにしておくだろうか。私なら「これは何事だ。まだ我が唐に逆らう気か。一日もはやく取り壊せ」と廃棄を命じるだろう。でなければ、また倭国は息を吹き返し、戦いを挑んでくるだろうから・・・。
 実際に動いたのが唐の占領軍だったのか、その後の日本の舵取りをまかされた大和政権だったのか、それはわからない。しかし,神籠石遺跡や石人・石馬の破壊ぶりを見るに付け、きっと古代日本ハイウェーも同じ運命をたどったと思えてならなかった。
 実際、7世紀の第3四半期(651?675年)に建設したと考えられる東山道武蔵路は、8世紀半ば(750年)には使われなくなったり、道幅も縮小されたり、ルート変更されたりして、歴史の闇に葬り去れたようである。まさにこの時期の歴史とピッタリだ。

現代の高速道路と古代日本ハイウェー

 ところで,現代高速道路は、総延長が6500キロだそうである。これと古代日本ハイウェーの6300キロは、まことに「瓜二つ」の数字だ。いや、似ているのは長さだけではない。土を段階的につき固めていく版築工法や土の下に落ち葉や木の枝をしいて土の重みで道路が崩れないようにする方法(現在は敷網工法という似たやり方をとっている)など、高い建設技術の結晶が古代日本ハイウェーなのであった。(同様の方法は太宰府を守る水城でもすでに使われていたようだから、きっと九州王朝の持っていた技術だったのだろう)

研究前史その1〜狭山市に食い込んだ奇妙な土地の話

 社会科教員として「身近な地域」の単元で活躍してくれる所沢市の地図。かつて「地図さがしっこ」などを楽しんだ2万5000分のその地図には、実に不思議な地形が載っていた。数10m×1キロで、所沢市が狭山市に食い込んでいるのだった。自宅に近いこともあって自転車で訪問したところ、そこはフラワーヒルと呼ばれる昔の高級住宅街があった。うわさに聞いていた高級住宅街を「発見」した私は、その時それで満足してしまい、それ以上に追求しなかった。「なぜフラワーヒルが,南北に一列で並んで建てられているのか」という疑問が当然湧いていいはずだったのに・・・。そしてそれは、木本雅康著『古代官道の歴史地理』(同成社)によると「東山道武蔵路」の一部だったのだったのだった。

研究前史その2〜灯台もと暗しの「東山道武蔵路」の授業

 上に書いたように、わが所沢市には「東山道武蔵路」という古代日本ハイウェーが通っていた。今のように東海道から入ってくるルートではなく、東山道の群馬方面から南下してくる道である。その東山道武蔵路について、私はかつて同じ所沢市内の玉田厚先生の授業プランで授業したことがある。道幅12mの古代の道路が20年ほど前に、所沢市内の南陵中学校の校庭から発掘されていて、当時だいぶ話題を呼んだのを知っていたからだ。その授業はなかなか楽しいものだったが「どうせ大和政権が奈良時代に作った道だ」と思い自分の研究している古田武彦氏の九州王朝説と結びつけられなかったのが、返す返すも残念であった。

20年以上前から研究に参加した古田武彦氏の九州王朝説

 ところで、私は20数年ほど前に『吉野ヶ里の秘密』という本で古田氏に再会した。(高校生の時『「邪馬台国」はなかった』にチャレンジしたが、あえなく「討ち死に」していらいの再会である)『吉野ヶ里の秘密』以降は、まさにその遅れを取り戻すかのような渉猟ぶりで、本屋に表彰してもらいたいぐらい著書を読み、講演会に出席し、旅行の企画に参加した。飽きっぽい私にしては、仮説実験授業(今年度実践30年を迎えた)につぐ長い取り組みである。

 

「古代日本ハイウェーの建設と廃棄」の仮説

 ということで、もうおわかりだと思うが、私の仮説は以下のようなものである。
(1)唐との「本土決戦」に備えて、九州王朝は全国に軍用道路である「古代日本ハイウェー」の建設を命じた。(7世紀半ば)

(2)662年か663年、白村江の戦いで倭国(九州王朝)が大敗北。

(3)唐の占領軍またはその意をていした大和政権が古代日本ハイウェーの廃棄を指示した。(神籠石の破壊はもちろん同時に、あるいは優先して行われただろう)

おわりに

 こうして、古代日本ハイウェーは地下に埋もれ、今日に至ることになった。昨今古代道が各地で発掘され、注目されるなかで、誰が建設し誰が廃棄させたのか、謎のまま「こういう大事業を行えるのは大和政権のみ」のような流れになることを心配し、また一方こちらの方が大切だが、九州王朝説の大事な試金石としてこの古代日本ハイウェーに挑戦してみた。
 みなさんの叱咤をお待ちしている。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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