2012年8月10日

古田史学会報

111号

1、太宰府出土「戸籍」木簡
多利思北弧まぼろしの戸籍か!
 大下隆司

2、神功皇后と盗まれた神松
 正木 裕

3、「百済禰軍墓誌」について 
「劉徳高」らの来倭との関連
 阿部周一

4、続・越智国にあった
「紫宸殿」地名の考察
 合田洋一

5、書評
古田万葉論三部作
『古代史の十字路』復刻
(洛中洛外日記より転載)

古田史学会報一覧

磐井の冤罪 I II IIIIV 正木裕
九州王朝の女王たち -- 神功皇后一人にまとめられた卑弥呼・壱予・玉垂命(会報112号) 正木裕

 


神功皇后と盗まれた神松

川西市 正木 裕

一、盗まれた九州王朝の神松信仰・伝承

本稿では、能楽「老松」「高砂」を例に、筑紫における神功皇后などに由来する「神松」信仰や伝承が、或いは菅原道真に関する説話に改変され、或いは場所を近畿に移され今日に伝えられている事を述べる。
 また筑紫の「三種の神器」が近江に運ばれたという『扶桑略記』の記事についても併せて紹介する。
 まず、筑紫の神松信仰のルーツである神功皇后と九州王朝の女王の関係について述べよう。

 

二、神功皇后と九州王朝の女王

 『書紀』「神功皇后紀」では神功皇后が摂政として九州を平定し、更に新羅や半島諸国を征討し、応神を筑紫で生んだと記す。『書紀』で神功は、開化天皇の曾孫で仲哀の皇后、即ち当然ながら近畿天皇家の祖とされている。
 しかし、その活躍の舞台は主に九州であって、古田武彦氏は、古くは九州一円を平定した「まへつきみ」や卑弥呼・壱与など九州王朝の歴代の女王を集めて「神功紀」が新設されたと述べている。(註1)
 更に、半島征討譚に於いては、四世紀の九州王朝の女王たる初代の高良玉垂命が神功皇后に擬せられていると考えられるのだ。

 

1、神功皇后に擬せられた高良玉垂命

 卑弥呼・壱与が神功皇后に擬されているのは『書紀』が魏志倭人伝を引用している事で明らかだが (註2) 、玉垂命(初代)も神功に擬せられているのだ。それは次の事から分る。

I、七支刀と神功皇后・玉垂命
 『書紀』で七支刀の記事は神功五二年(書紀紀年で二五二年、二運下げれば三七二年)九月条に見える。
 一方、石上神社の七支刀は、泰和四年(三六九)に造られ、百済王から倭王に贈られたと銘文に記される。従って、七支刀はじめ新羅・百済関係記事の神功実年代は、四世紀半ばから後半と考えられる。
 そして、大善寺玉垂宮の由緒書では、高良玉垂命(初代)の三潴遷都は仁徳五七年(三六九)で、玉垂命は神功皇后と同年代の人物となる。
 更に七支刀銘文と三潴遷都は共に三六九年で同年だ。『書紀』神功四七年(書紀紀年で二四九・同三六九年)には百済と約し新羅と戦端を開く記事がある。対新羅戦遂行と戦場の半島から離れた有明海沿岸への遷都は一体の事業と考えられ、神功皇后の事績とされる新羅征討も、本来は三潴遷都を行った玉垂命の事績となろう。
 七支刀も、三六九年という製作年から、百済と倭国の盟約成立と遷都祝賀の意味を込めて製作されたと考えられ、贈り先は、当然「倭国王玉垂命」となろう。ちなみに、七支刀の伝承した石上神社は物部氏が祭祀するが、高良大社もまた物部の神なのだ。

 

2、没年と女王であることの共通点

 また、由緒書では玉垂命の没年は仁徳七八年(三九〇)とされる。一方、『書紀』では神功の次代応神十六年に百済の阿花王死亡が記されるが、『三国史記』によれば四〇五年。従って、応神元年は三九〇年で玉垂命の没年と一致する。
 かつ高良の神は「玉垂媛神」つまり卑弥呼・壱与と同様に、神功皇后と同じ「女性」であると伝えられている。こうしたことから、
 「四世紀後半高良玉垂命は、百済と盟約し新羅と激闘を繰り広げた。そして、戦禍を避け博多湾岸より三潴に遷都した。百済王はこれを祝し、半島七か国平定に因んだ「七支刀」を送った。『書紀』はこれを神功皇后、即ち近畿天皇家の事績に取り込んだ」
 と考えられる。そして、その玉垂命の活躍が九州北部に神功皇后伝承や信仰となって今に伝えられているのだ。

 

三、筑紫と神松

 その一つが、筑紫各地の神功皇后にちなむ「神松」の伝承・信仰だ。幾つか例を挙げると、
 (1) 中間市の埴生(はぶ)神社の「唐の松(渡海の松)」(由緒)熊襲平定後渡海の安全祈願に植えた松。
 (2) 福岡市西区下山門の壱岐神社の「逆松(生の松とも)」(由緒)逆さに植え、「神恵あるなら生きよ」と戦勝祈願した松。
 (3) 遠賀町住吉神社の「若松」(由緒)三韓征伐後に住吉神に感謝して植えた松。
 (4) 福岡市東区箱崎の筥崎宮の「筥松」(由緒)応神の胞衣を埋めた印に植えた松等がある。

 何れも「皇后のお手植え伝承」により、「神松」として信仰の対象となっている。(註3)
 また、宮地嶽不動神社(福津市)、高良下宮社(久留米市)、古田氏が飛鳥とされる小郡井上地区の松崎天満宮、先述の壱岐神社等の神紋に「三階松」がみられる。


四、能楽「老松」と「筑紫の神松」伝承

 こうした筑紫の神松信仰が、能楽「老松」「高砂」の中に取り入れられていると考えられる。
 まず「老松」から紹介しよう。

1、能楽「老松」とは

 能楽「老松」は、筑紫の伝承と「北野縁起」などを題材に、筑紫の神松と紅梅の神徳を讃える曲であり、世阿弥の作といわれている。粗筋は次の通りだ。
◆天神の霊夢により筑紫安楽寺(現在の太宰府天満宮の位置にあった)に参詣した都人梅津某に、紅梅と老松(神松)が舞楽を振る舞い、有難き神託を授け、目出度き春を寿ぐ。

2、なぜ「松」が神木か

 「天神」の告げというが、菅原道真は登場せず、神聖な梅と松を中心に曲が展開する。「老松」という曲名から当然だが、主役(シテ)は梅ではなく松の精だ。 ただ、道真を慕い都から飛来した「飛び梅」ではなく、何故「松」が主役で、かつ「老松」と称し「神木」とされるのかは判然としない。
 曲では老松の謂われについて、「梅を追って飛んできた松だから追い松(=老松)という」と狂言方に語らせるが、当然一種の「洒落」だ。この説明では主役の松が梅の「添え物」となってしまう。 こうした無理な「こじつけ」は、本来の筑紫の「老松」の神徳を讃える物語を、梅に事寄せて菅原道真信仰に所以する物語に改作した証しといえよう。

3、筑紫の老松神社

 先述の神功皇后由来の「松」のみならず、筑紫を中心に「松」を社名とする「老松神社」が多数存在する。そして、初元の祭神は皆が菅原道真というわけではない。
 道真と関係しない老松神社としては、(1) みやま市瀬高町の老松神社(景行天皇)、(2) 長崎県新上五島町若松郷の老松神社(素盞嗚尊、伊邪那伎命、伊邪那美命)、(3) 小郡市稲吉の老松宮(犬飼神・牽牛)等がある。
 後に道真と合された神社もある。
 例えば、嘉穂郡桂川町の老松神社(大国主命・ 大物主命・事代主命)(合祀・菅原道真)は、古代の神たちの信仰の上に道真が重ねられたのが歴然としている。
 また、由緒と道真が合わない神社もある。
 朝倉市下渕の老松神社は皇后説話の地でありつつ祭神を菅原大神、合祀を神功皇后・吉祥女とする。小郡市上岩田の老松宮も神功皇后の行在所としつつ、菅原眷族神・高良玉垂命・住吉大神等を祀る。神功皇后や高良玉垂命は道真より遥かに古いから、これも後代道真が重ねられている例だ。
 このように「老松」神社の祭神に道真と神功・景行等の近畿天皇家の天皇、さらに素盞嗚や伊邪那伎といった天孫系の神、高良玉垂命等の九州王朝由縁の神が混在する事は、
 (1).九州王朝の「天つ神」を意味する「天神」が、近畿天皇家の祖の神とされ、後代「道真」の別称にされた事、
 (2).玉垂命など九州王朝の天子が近畿天皇家の天皇に変えられた事、
 (3).天神の道真への潤色と軌を一にして、九州王朝の信仰対象の「神松」が道真の梅の「添え物」に貶められていった経緯を示すものではないか。

4、隠された「倭国の中心は筑紫」

 この能が九州王朝の伝承を受け継ぐ証拠が「道行(旅路の経路を謡う部分)」に見える。
 上掛の流派(観世・宝生)は、
 「国豊なる秋津洲の、波も音無き四つの海。高麗唐土も残りなき、み調の道の末ここに、安楽寺にも着きにけり」と謡う。
 これは筑紫が半島や唐からの「み調の道の末」即ち往来の拠点・終点で「東アジアで覇権を争った倭国の中心は筑紫である」事を示している。
 しかし、下掛(金剛・金春・喜多)では、
 「音も吹飯の 浦づたひ、明石のとより かくよりて げに定めなき 旅の空 なほ遥かなる 播磨潟 室の友君 きぬぎぬの 浅妻舟や 不知火の 筑紫の地にもつきにけり」と謡い、大和中心に変えられている。(註4)
 また、梅は華やかに現れるが、松は「守るわれさへに 老いが身の 影古びたる 待つ人の 翁淋しき 木のもとを 老松と ご覧ぜぬ、神慮もいかが 恐ろしや」と、松は忘れられ、打ち捨てられているという。これは、九州王朝の信仰が消されかけているという事態の反映なのではないか。

5、神松の舞楽は筑紫発祥

 最後に松の精が「これは老木の、神松の、千代に八千代に、細石の、巌となりて 苔のむすまで」 と舞い謡うが、この「君が代」の句は志賀海神社の「山ほめ祭」の台詞にあり、盛 り込まれた地名から筑紫発祥と考えられる。なにしろ志賀島対岸筥崎宮の境内は千代の松原(別名箱崎松原)と呼ばれ、そこに先述の「筥松(神松)」があるのだから。
 ちなみに能楽「高砂」でも住吉の松の精は、「西の海、檍が原の波間より。現はれ出でし、神松の」と「檍原」から現れる。「筑紫の日向の橘の小戸の檍原」の「檍原」だ。そしてその古蹟が同じく志賀島対岸姪浜住吉神郷社といわれているのだ。(註5)
 これも、松の精の舞楽には、九州王朝の舞楽が取り込まれている事を示しているといえよう。

6、君が代の更なる原型

 なお、「君」を讃える「君が代は千代に八千代に」の句が、「神松の千代に八千代に」と松を讃える句となっている。
 後述の能楽「高砂」では、松は「その景色とこしなへにして花葉時を分かず。四つの時至りても、一千年の色雪のうちに深く、または松花の色十回(かえ)りとも言へり」といい、「老松」にも「十廻深き緑かな」の句があって、この意味は「松の花は千年に一度咲き、それを十度繰り返すとも言われている。(註6) つまり、松は千年・万年の命を有するというのだ。
 博多湾岸の「神松信仰」に根差した「神松は、千代に八千代に、細石の、巌となりて 苔のむすまで」が、「君が代(あるいは我君)」より古い形・原型であって、それが九州王朝で「君が代」の長久を願う歌に変化していったのではないか。
 磐や松といった「自然物」への信仰が「君=人」への信仰より古いと考えられるからだ。

 

五、『扶桑略記』の松と近江

1、近江比良宮に天神の神託

 なお、九州王朝の神松が菅原道真に仮託されている興味深い例に、『扶桑略記』の老松の話がある。
◆『扶桑略記』巻二五(村上天皇)天歴九年(九五五)三月十二日。酉時。天満天神託宣記に云ふ。近江國比良宮にして禰宜神良種が男太郎丸。年七歳なる童に託して宣く、「我云ふ可き事有り。良種等聞け。我が像(カタチ)を作めるを、笏は我が昔持りし有り。其を取らしめよと仰せ給ふ。良種等申さく、「何處にか候らむ」とまうす。答仰せ給はく、
【A】「我が物具どもは此に來住せし始め皆置けり。佛舍利玉帶銀造太刀尺鏡なども有り。我が從者に老松・富部と云ふ者二人有り。笏は老松に持たせ、佛舍利は富部に持しめたり。是皆筑紫より我が共に來れる者どもなり。若宮の前に小し高き所に地下三尺計り入て有り。此二人のやつどもは甚だ不調の者どもぞ。心仕ひせよ。我が居たる左右にて置きたれ言はじと思ふとも、笏に依りて云ふ。此年來は像も無く有たれば告げずして有たるぞ。老松は久く我に随ひて成ぬる者也。是なむ至る所毎に松の種は蒔く。
【B】我昔大臣と在し時に、夢に松身に生れて即ち折れぬとなむ見しは、流さるべき相なりけり。松は我像の物也。
 これは、菅原道真が北野天満宮に祀られる所以を記したものとされ、「老松」が「佛舍利玉帶銀造太刀尺鏡」と共に筑紫から近江に来た事になっている。

2、天神=道真ではない

 ちなみに「近江国比良宮」とは、志賀で最も古く天武が「比良明神」の号を授けたとする白鬚神社が有力とされる。(註7)
 「白鬚神社(別名比良明神)」(高島市鵜川)の祭神は猿田彦命。境内社は若宮神社・天照皇大神宮社・天満宮・豊受大神宮社・八幡三所・ 稲荷神社・岩戸社神等。
 社記では創建は垂仁二五年。白鳳二年(六六二年、天武元年を白鳳元年とする歴なら六七四年)天武(天智とも)が比良明神号を授けたという。(註8)
 菅原道真より遥か以前の由緒で、本来は天照以下の「天つ神」が祀られていたと考えられ、菅原道真が、何故彼と無縁の「近江」に神託を下したのか不可解だ。従って、この神託の「天神」とは、【B】の文が付加され道真に仮託されてはいるが、天照や天孫を意味する「天つ神」だったのではないか。

3、三種の神器が筑紫から近江に運ばれた

 重要なのは、【A】「佛舍利玉帶銀造太刀尺鏡等の宝物は近江に来た時には持っていた。これらは筑紫から来たものだ。今は比良宮の地中に埋もれている」という記述だ。
 「玉・剣・鏡」は言わずと知れた三種の神器。これは天子の象徴・宝物であり、道真が持つべき物でないのは明らかだ。(註9) また、これらの神器は筑紫から近江に齎されたとする。
 筑紫から三種の神器を運ぶ理由としては天子が遷る、つまり「遷都」しかないから、これは「筑紫から近江への遷都」を意味しているのだ。
 先に白鬚神社が比良明神号を授かったのは白鳳二年と述べたが、これは実質上の比良宮創建(或は改名)を意味する。そして「白鳳二年」は「近江遷都」に大きく関係するのだ。
 本来の九州年号では白鳳二年は天智元年(六六二)で、『海東諸国紀』に「(斉明)七年辛酉(六六一)、白鳳と改元し、都を近江州に遷す」とある翌年だ。そして、遷都に伴う寺社の移転・創建は必然なのだ。
 また、仮に白鳳二年を天武二年(六七四)だとすれば(*天武元年を白鳳元年とする九州年号の改変型)、壬申の乱の翌年で近江朝滅亡直後にあたる。
 三種の神器が失われる契機としては、王朝滅亡か天子の交代、廃都・廃宮が考えられる。天武二年の「天武」による比良明神号授与は、天智に代わる天武の近江支配を意味し、それは天子交代・近江朝滅亡・近江廃都の時期にあたるのだ。それは、同時に、近江から神器が失われた時期ともなろう。
 結論として、『扶桑略記』の天神託宣記は、菅原道真と松の話に潤色されているが、本来「九州王朝の近江遷都」に伴い筑紫から近江に三種の神器が齎されたが、近江朝の滅亡と共に失われて久しい事を述べたものと言えるのではないか。

 

(註1)古田武彦『盗まれた神話』第四章「蔽われた王朝発展史」に詳しい。

(註2)「神功皇后紀」の倭人伝「卑弥呼」記事からの引用は神功三九年(「魏志云。明帝景初三年六月」以下)、四〇年(「魏志云。正始元年」以下)、四三年(「魏志云。正始四年」以下)にある。壱与からは六六年(「是年。晋武帝泰初二年晋起居注云」以下)に見られる。

(註3)神功皇后ゆかりの筑紫の松や老松神社に関しては、ブログ「ひもろぎ逍遥」で公開されている綾杉るな氏の現地取材を参考とさせて頂いた。但し、筆者の調査・見解を加えて記したものであるから、文責は全て筆者にある。

(註4)「吹飯の浦」は大阪府泉南郡深日。「室」は「室津」で兵庫県たつの市御津町。「友君」は木曽義仲の愛妾だった山吹御前。室津に流着し舞いを見せ、遊女の元祖とされる。「室の友君」で室津の遊女をさす。「浅妻舟」は遊女の流し舟。浅=朝と掛けたもの。

(註5)『福岡県神社誌』による。古田武彦氏が『盗まれた神話』で紹介されている。

(註6)岩波日本古典文学大系『謡曲集』上の高砂解説による。なお、藤原基俊の歌に「松の花十廻り咲ける君が代に何を争ふ鶴のよはひぞ」とある。

(註7)他の説としては「樹下神社」(大津市志賀南比良。祭神玉依姫命。創建開化四十二年又は文徳二年八五二)或は同一敷地内の「比良天満宮」(大津市志賀北比良。祭神菅原道真)ともいうが、後者の創建はこの神託により天暦元年(九四七)というので除外すべきだろう。(延喜十六年九一六ともいうが、道真信仰の端緒となった清涼殿落雷事件は九三〇年であるので、疑わしい)

(註8)唐崎神社(滋賀県大津市唐崎)の社伝では天智天皇が白鳳二年三月同地に臨幸とあるので、天武でなく天智が本来か。唐崎の松は「霊松」として著名。しかも神紋は三階松という。また、佐久奈度神社(大津市大石中。祭神瀬織津比?)も天智天皇の命で天智八年(六六九)に社殿を創建とあるように、この地域には天智縁の神社が多い。
なお白鬚神社は全国に分布する。猿田彦を祭神とするものが多いが、福岡能古島の「白鬚神社」(福岡県福岡市西区能古島)の祭神は猿田彦ではなく住吉大神、神功皇后、志賀明神などだ。創建は不明で、奈良時代ともいうが神功皇后由来ということからより古い由緒があると思われる。

(註9)古賀達也氏は太刀が金ではなく銀造であることから、皇族のナンバー二が持つ物ではないかとされる。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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