2011年12月10日

古田史学会報

107号

1、古代大阪湾の新しい地図
 難波(津)はなかった
 大下隆司

2、「大歳庚寅」
 象嵌鉄刀銘の考察
 古賀達也

3,中大兄は
 なぜ入鹿を殺したか
 斎藤里喜代

4、元岡古墳出土太刀の銘文
 正木 裕

5、磐井の冤罪 II
 正木 裕

6、朝鮮通信使饗応
『七五三図』絵巻物
 合田洋一

 編集後記

 

古田史学会報一覧

磐井の冤罪 I II IIIIV


磐井の冤罪 II

川西市 正木 裕

一、「磐井の乱」は「近江毛野臣の乱」

 前号では、『書紀』に記す「磐井の非行・悪行」は、本来毛野臣の悪行であり、磐井にとっては全くの冤罪であることを述べた。
 本号では半島における近江毛野臣の記事から、『書紀』の「磐井の乱」そのものが、新羅と通じた毛野臣の倭国への謀反記事を盗用したうえ、毛野臣と磐井をすり替えたものである事を述べる。

1、すり替えられた毛野臣謀反

 前号で、『書紀』継体二四年の阿利斯等の謀反発心記事(後掲記事【エ】)は、記事【ア】に記すとおり帰国拒否に伴う懲罰を恐れた「毛野臣」の謀反発心記事であり、記事【イ】【ウ】は謀反を阿利斯等にすり替えるため【ア】【エ】の間に挿入された記事だと述べた。
 その根拠は、『書紀』の記述順に反して(1) 毛野臣の非行・悪行→(2) (【ウ】)任那王阿利斯等の帰朝勧告と毛野臣の拒否→(3) 任那による倭国天子への奏上→(4) 天子による召還命令及び調吉士派遣→(5) (【ア】)毛野臣の拒否と懲罰への恐れ→(6) (【エ】)懲罰を恐れての謀反企画→(7) (【イ】)謀反に対抗した調吉士の伊斯枳牟羅城防衛、という流れが自然だからだ。

 念のため再度継体二四年九月の記事を示しておく。
■『書紀』継体二四年(五三〇)九月。(【ア】以前は前号に記したので略載)
(1) 「任那の使奏して云さく」以下=任那が毛野臣の非行を倭国天子に奏上。
(2) 「是に、天皇、其の行状を聞きて、人を遣はして徴し入る。而に来肯(まうきか)へず」以下=天子は毛野臣召還のための使者(調吉士)を派遣。毛野臣は帰国を拒否し、天子に弁明の使いを送る。

【ア】(毛野臣は)使を奉し後に、更自ら謨(はか)りて曰はく、「其れ調吉士は、亦是皇華の使なり。若し吾より先だちて取帰(かへ)りて、依実(あるまま)に奏聞せば、吾が罪過、必ず重からむものぞ」といふ。
【イ】乃ち調吉士を遣して、衆を率て伊斯枳牟羅城を守らしむ(註1)。
【ウ】是に、阿利斯等、其の細しく砕しきことを事として、期(ちぎり)し所を務めざることを知り、頻(しきり)に帰朝(かへりまう)でねと勧むれども、尚し還ること聴かず。
【エ】是に由りて、悉に行迹を知りて、心に翻背(そむ)くことを生す。乃ち久礼斯己母を遣して、新羅に使して兵を請はしむ。奴須久利を、百済に使して兵を請はしむ。

 『書紀』編者は巧妙に「切り張り」を行い、記事の順序を入れ替え、「毛野臣謀反」を「阿利斯等謀反」にすり替えているのだ。

2、加羅擾乱の真相

i 、新羅・百済の派兵
 『書紀』では記事【エ】の直後から、「加羅擾乱」とされる記事が続く。
 そして、この謀反(翻背)発心記事の主語が阿利斯等ではなく、毛野臣であれば、その騒乱の真相が判明する。
【オ】毛野臣、百済の兵来ると聞きて、背評に迎へ討つ。〈背評は地の名なり。亦の名は能備己富里なり。〉傷れ死ぬる者半なり。
【カ】百済、奴須久利を捉て、?・械・枷・鎖して、新羅と共に城を囲む。
【キ】阿利斯等を責め罵りて曰はく、「毛野臣を出すべし」といふ。毛野臣、城に嬰(よ)りて自ら固む。勢擒(と)りうべからず。
【ク】是に、二つの国、便(たより)の地を図度(はか)りて、淹留(へとどまる)こと弦晦(ひとつき)になりぬ。城を筑きて還る。号けて久礼牟羅城と曰ふ。還る時に触路(みちなら)しに、騰利枳牟羅・布那牟羅・牟雌枳牟羅・阿夫羅・久知波多枳、五つの城を抜きとる。

 『書紀』が記す事件の経緯は、
(1) 【エ】阿利斯等が謀反を企図し、新羅・百済に支援要請の使者派遣
(2) 【オ】百済は要請に応え派兵し、毛野臣と交戦
(3) 【カ】百済は阿利斯等からの使者を捕らえて「毛野臣」を攻める
(4) 【キ】阿利斯等に対し「毛野臣を出せ」と責める→毛野臣が防御を固める、というものだ。

 しかしこれは矛盾もはなはだしい記事だ。
 井上光貞氏は「阿利斯等は毛野に帰国をすすめたがききいれないので、使いを新羅と百済につかわして、実力で追いだそうとした」とするが(註2)、阿利斯等の要請で百済が毛野臣を攻めたなら、阿利斯等の使者を捕らえ枷鎖するはずはないし、百済が「毛野臣を出せ」と阿利斯等を責めるのもおかしいのだ。

ii 、百済は毛野臣を攻めた
 一方、謀反を企てたのは毛野臣で、彼が新羅・百済に使者を派遣し謀反加担・支援を求めたのだが、百済は拒否したとすれば、「百済は毛野臣の使者奴須久利を虜にして毛野臣を攻めた」という記事は極めて理にかなう事となる。
 考えてみれば、『書紀』継体二三年三月条に
■【A】近江毛野臣を遣して、安羅に使はす。勅して新羅を勧めて、更に南加羅・喙己呑を建つ(略)百済の使将軍君等、堂の下に在り。凡て数月、再三、堂の上に謨謀(はか)る。将軍君等、庭に在ることを恨む。
 「勧める」とは奨励・激励・献上・推薦の意だから、毛野臣は百済の要望を無視し新羅を「勧め」南加羅を領有させた張本人ということになる。従って新羅と対立する百済が「恨む」毛野臣に加担するはずも無いのだ。
 つまり、【オ】「毛野臣、百済の兵来ると聞きて、背評に迎へ討つ」とは百済が毛野臣からの要請を拒否し、任那の阿利斯等と共に毛野臣を攻めたという記事なのだ。

iii、「阿利斯等を責め罵りて」ではなく「阿利斯等が責め罵りて」
 百済が【キ】「阿利斯等を責め罵りて曰はく、『毛野臣を出すべし』といふ」のもおかしい。阿利斯等の要請で毛野臣を攻める百済が、何故阿利斯等に対し毛野臣を出せと責めるのか。
 この不可解さを解く解釈はただひとつ、
 『書記』では阿利斯等を責罵したように書かれている(「責罵阿利斯等曰、可出毛野臣。毛野臣嬰城自固。勢不可擒」)が、本来は阿利斯等が毛野臣を責罵した(「阿利斯等責罵曰、可出毛野臣」)文だったとする事だ。
 即ち「毛野臣を出せ」ではなく「毛野臣出て来い」であり、「阿利斯等は百済とともに毛野臣出て来いと責め罵ったが、毛野臣は城に籠って固く守ったので、攻略できなかった」という記事となる。「城に嬰(よ)りて自ら固む」即ち「篭城」する毛野臣に対する言葉として「毛野臣出て来い」というのは真にふさわしいのだ。

iv、新羅は毛野臣を支援
 一方、新羅への使者「久礼斯己母」については、彼が捕らえられたという記事もなく、使命を果たし、新羅は毛野臣支援に応じたとしか考えられない。
 その証左として、「新羅の兵を迎へ討つ」とは書かれておらず、「毛野臣を出せ(可出毛野臣)」と言ったのも新羅ではなく、具体的に毛野臣を攻めた記事があるのは百済だけなのだ。これも毛野臣が新羅に南加羅を割譲していることから当然の事と言えよう。

v 、新羅・百済は篭城する毛野臣を挟んで対峙
 また、百済が【カ】「新羅と共に城を囲む」とあるが、任那・加羅をめぐり対立関係にある新羅・百済が同盟して城を囲むのも不自然で、これは「毛野臣の籠もる城を囲んで新羅・百済が対峙した」というものだろう。
 その後の記事は、「一月間城を挟んで毛野臣を支援する新羅と百済・任那が対峙したが決着がつかず、双方陣を築いていったん引き上げた。その際新羅は加羅北境の五城を陥落させた」と解釈出来よう。
 岩波注でも「(この五城は)二三年三月条に見えている(新羅が抜いた)北境の五城と同じか」とするから、五城を抜き取ったのは当然新羅となるのだ。

vi、阿利斯等の立場は「反新羅」
 先に「百済は任那の阿利斯等と共に毛野臣を攻めた」と述べたが、阿利斯等は一貫して反新羅であり、百済と利害を共にしていた。
 『書紀』で、阿利斯等は新羅の侵略につき、継体二三年大伴金村を通じ、次のように救助を依頼している。
■『書紀』継体二三年(五二九)四月戊子(七日)。「今新羅、元より賜へる封の限りに違へて、数(しばしば)境を越えて来り侵す。請ふ、天皇に奏して、臣が国を救助ひたまへ」とまうす。
 また、加羅王が新羅の王女を娶った際、新羅の衣冠を着した「従者」を各地に配したことに怒り、彼らの召還を要請している。王女の従者が各地に配属されるとは考えがたく、これは加羅王が新羅の官人・軍人の駐留を認めたことを意味するのだろう。
■『書紀』継体二三年(五二九)三月。加羅王、新羅の王の女を娶りて、遂に児息あり。新羅、初、女を送る時に、并て百人を遣はして、女の従となす。女の従とす。受けて、諸懸に散置きて、新羅の衣冠をしむ。阿利斯等、其の服変へたることを嗔(いきどほ)りて、使を遣して徴し還す。

 つまり、阿利斯等は反新羅の強固な立場にある人物で、これは任那王としては当然のことだ。その彼が新羅に派兵を求めるのは不可解。ましてや百済にも同時に派兵を求めるとは意味不明としか言いようが無い。
 繰り返すが、帰国拒否に伴う懲罰を恐れ謀反を企図した毛野臣が、新羅・百済に加担を求めたのだと考えれば何ら不思議はないのだ。

3、目頬子の派遣と斃された毛野臣

 そしていよいよ目頬子の派遣となる。
■『書紀』継体二四年(五三〇)冬十月。調吉士、任那より至りて、奏して言さく、「毛野臣、人と為り傲(もと)り恨(いすか)はしくして治体(まつりごと)を閑(なら)はず。竟(つひ)に和解(あまなふ)こと無くして、加羅を擾乱(さわが)しつ。?儻(たかほ)に意の任にして、思ひて患を防がず」とまうす。故に目頬子を遣して徴召す。〈目頬子は未だ詳ならず。〉(略)
 二四年一〇月に「任那より至り」とあるから、調吉士は任那の阿利斯等とともに居た事になる。そして前掲の二四年九月【オ】以降の毛野臣謀反事件を体験し「加羅擾乱」と奏上したのだ。

 その結果目頬子の派遣となるのだが、『書紀』では目頬子が半島に派遣された時の任那の民の歌が記されている。
■目頬子、初めて任那に到る時に、彼に在る郷家等、歌を贈りて曰はく、
 韓国を 如何に言ことそ 目頬子来る むかさくる 壱岐の渡を 目頬子来る

 単なる毛野臣召還なら「韓国を 如何に言ことそ」すなわち「半島をどうしようと言うのか」との歌は余りにも大仰。かえって、「戦乱を予感した民衆の危惧」の現れと考えれば自然だ。

 その結果は次の『書紀』記事により明白だ。毛野臣は敗北し、「疾に逢ひて死ぬ」とある。
■『書紀』継体二四年、是の歳。毛野臣召されて、対馬に到りて、疾に逢ひて死ぬ。
 しかし、毛野臣が「調吉士が奏聞すれば、吾が罪過、必ず重からむ」と思い、調吉士は実際に奏上したのだから、毛野臣は重罰を受けたはず。謀反は勿論、王命背違も死罪は免れ得ないから、戦乱で死亡したか、あるいは殺害されたのではないかと思われる。

4、「磐井の乱」の真実は「毛野臣の乱」

 この毛野臣召還の為の目頬子派遣と、その後の経過が大伴金村・物部麁鹿火らによる磐井の乱鎮圧譚とすり替えられているのではないか。何故なら、

(1).六万人を要するという毛野臣が、磐井鎮圧に参加していない。また渡海譚もない。半島への渡海譚のあるのは目頬子である。
(2).「筑紫の磐井反き掩ひ」とあるが、謀反は「磐井」ではなく、処罰を恐れ「心に翻背くことを生した」毛野臣にふさわしい。
(3).また、毛野臣は南加羅・喙己呑を新羅に割譲しており(次の記事【A】)、その毛野臣が新羅と結び謀反をおこしたのなら「西の戎の地を有つ」の表現にあてはまる。

 これは半島の新羅に連なる地のことだ。筑紫は倭国の一部であり「西戎の地」と蔑称で呼ぶのは相応しくない。そう呼ぶなら神武=近畿天皇家の出自は「西戎の地」となってしまうのだ。

vii、時間が逆転する毛野臣の半島関連記事
 前述の記事【A】のとおり継体二三年(五二九)三月には新羅に南加羅・喙己呑を割譲している。
 しかし、一方『書紀』継体二一年には、
■【B】『書紀』継体二一年(五二七)六月甲午(三日)近江毛野臣、衆六万を率て、任那に往きて、新羅に破られし南加羅・喙己呑を為復し興建てて、任那に合せむとす。(*新羅の領有する南加羅・喙己呑の奪還の意味)
 とあって、これでは二三年に新羅が領有した南加羅を二一年に復興することになって、次のとおり時間が逆転してしまう。
 (1)二一年(五二七)六月継体【記事B】南加羅復興の為毛野臣派遣・派兵指示
   ↓(磐井が妨げる)
 (2)二二年(五二八)磐井鎮圧
   ↓(毛野臣派遣)
 (3)二三年(五二九)三月【記事A】新羅、毛野臣の差配で南加羅を割譲

 『書記』では「南加羅復興のための派兵を磐井が妨げた」事を「磐井の乱」の前提としているから、こうした時間の逆転がおきると考えられるのだ。
 この点、岩波も【記事A】の注に「新羅が南加羅を奪ったのは毛野の渡海以後のことで、ここの記述には誤りがあり、不正確な国内史料を修飾したによるのであろう」と記す。

viii、派遣した人物は毛野臣ではない
 どんな誤りか岩波はあえて詳しくは記さないが、「二三年三月に毛野臣の関与で新羅に割譲した南加羅の復興のため、二一年六月に毛野臣を派遣する」という記事の矛盾なのだ。ここには二重の矛盾がある。
 (1)【時間の逆転】南加羅の新羅への割譲以前に、この復興(奪還)を指示するという矛盾。
 この「時間の逆転」の矛盾を解消するには二一年の「南加羅復興のための派遣」を二三年の「南加羅の割譲以後」に訂正する必要がある。しかしそれでも依然「人物の矛盾」が残ってしまう。

 (2)【人物の矛盾】毛野臣が割譲した南加羅を、毛野臣を派兵して復興させる
 という矛盾だ。

 毛野臣は【記事A】のとおり二三年三月に安羅に派遣され南加羅を割譲したあと、二四年「是年」に召還され死去するまで安羅に留まっている。半島にいる毛野臣を倭国から半島に派遣することはできないからだ。
 従って二三年三月以降に南加羅復興のために派遣された人物がいるとすれば、それは毛野臣以外の人物となる。
 即ち(1),(2) 二つの矛盾を正すとすれば、二一年の毛野臣派遣【記事B】を二三年三月以降に移すだけではなく、南加羅復興のため派遣されたのは「毛野臣でない別人物」とする必要がある。
 そもそも、毛野臣が「派遣され」割譲した南加羅について、毛野臣を「派遣して」復興させるとは矛盾極まりない記事なのだ。

ix、南加羅復興のための派兵は二四年以降
 二三年の毛野臣の安羅派遣のあとには、毛野臣の新羅優遇への百済の不満や、新羅による金官・背伐・安多・委陀四村(岩波注によれば、四村は南加羅を意味するといわれている)占領記事が続く。
■『書紀』継体二三年三月是の月。(略)(新羅の)上臣、四つの村を抄き掠め、尽に人物を将て、其の本国に入りぬ。或の人の曰はく、「多多良の四つの村の掠められしは、毛野臣の過なり」といふ。
 この時は、継体二四年九月の謀反発心以前で、まだ毛野臣は新羅と共謀こそしなかったが、新羅の軍事攻勢(「衆(いくさ)三千を率て、来りて勅を聴かむと請す」)に抗することができず四村の占領・略奪を看過している。
 調吉士の奏上にある「加羅擾乱」は、二三年三月から二四年九月までの間の、毛野臣の差配による新羅の南加羅割譲と、それに続く百済・新羅を巻き込んだ戦や、毛野臣に起因する一連の事件を指すのは明白だ。
 従って、「南加羅復興のための派遣・派兵」とは必然的に二四年十月以降の事実と考えるべきであり、「毛野臣の引き起こした擾乱を鎮め南加羅を奪還する」意味目的を持つものとなる。そして天子の帰還命令に背き非行を続ける毛野臣への懲罰も含むのは当然なのだ。

x、目頬子派遣の時期と目的
 二一年の【記事B】「南加羅復興の為の派兵」を二四年以降に移して考えれば、二四年一〇月の目頬子の派遣と時期も目的も一致する。
 そして目頬子を妨げる者があるとすれば、それは南加羅を領有した新羅と謀反を企てた毛野臣となるのは必然だ。
 そして、磐井の乱の記事として知られる、
 「是に、筑紫国造磐井、陰に叛逆くことを謨(はか)りて、猶預(うらもひ)して年を経。事の成り難きを恐りて、恒に間隙を伺ふ。新羅、是を知りて、密かに貨賂を磐井が所に行りて、勧むらく、毛野臣の軍を防遏(た)へよ」
 とは、本来
 「近江毛野臣、陰に叛逆くことを謨りて、猶預して年を経。事の成り難きを恐りて、恒に間隙を伺ふ。新羅、是を知りて、密かに貨賂を毛野臣が所に行りて、勧むらく、目頬子の軍を防遏へよ」という記事だったのではないか。

 これは『書紀』で継体二四年九月までに記す毛野臣の非行や「加羅擾乱」の経緯とよく一致するのだ。
 つまり『書紀』では磐井の乱の発端として記される二一年の派兵とは、新羅と毛野臣によって失われた南加羅の復興と、毛野臣懲罰を目的とした目頬子の派遣・派兵で、本来は二四年一〇月以降の事件と考えられるのだ。

 『書紀』では目頬子が半島に派遣された時の任那の民の歌が記されている。
■目頬子、初めて任那に到る時に、彼に在る郷家等、歌を贈りて曰はく、
 韓国を 如何に言ことそ 目頬子来る むかさくる 壱岐の渡を 目頬子来る
 単なる毛野臣召還なら「韓国を 如何に言ことそ」すなわち「半島をどうしようと言うのか」との歌は余りにも大仰。かえって、「戦乱を予感した民衆の危惧」の現れと考えれば自然だ。
 二四年九月に任那・百済連合は、新羅の支援を受けた毛野臣を破れず、「傷れ死ぬる者半なり」とあるとおり大損害を被ったと考えられる。
 そして磐井鎮圧に臨む継体の言葉「社稷(くにいへ)の存亡、是に在り。勗めよ。恭みて天罰を行へ」とは、国内での反乱鎮圧などではなく、半島における新羅・毛野臣連合と倭・百済・任那連合との半島の覇権を賭けた一大決戦にこそ相応しいのだ。

xi、磐井の乱記事の真実
 このように、『書紀』継体二一年以降に記す、
 (1)「磐井の非行・悪行」は「毛野臣の非
 (2)「磐井の謀反や阿利斯等の謀反」も「毛野臣の謀反」
 (3)「加羅擾乱」は新羅とその支援を受けた毛野臣連合と、任那(阿利斯等)・百済連合の戦い
 (4)目頬子派遣は任那・百済連合を支援し、新羅・毛野臣を打破、南加羅を復興させるための派兵であって、『書紀』継体二一年の磐井の乱として記されている記事は、すべて継体二四年以降の半島における新羅からの南加羅奪還、新羅に通じた毛野臣の謀反とその鎮圧からの盗用・転用で、毛野臣を磐井とすり替えた記事だと考えられるのだ。
 (次号では『書紀』記事をもとに、磐井討伐の詔や「「長門より東をば朕制(とら)む。筑紫より西を汝制れ」の意味、物部麁鹿火の決意表明の解釈と近江毛野臣とは何者か、百済本記の「日本の天皇及び太子・皇子、倶に崩薨」の解釈、本来の九州王朝の磐井はどう記されているかについて試案を述べる)

(註1)『書紀』には毛野臣が調吉士を遣して伊斯枳牟羅城を守らせたように記す(遣調吉士、率衆守伊斯枳牟羅城)が、天子から毛野臣召還を命じられた調吉士が、帰国もせず毛野臣の命で従軍するはずもない。これは本来調吉士が毛野臣の謀反に対抗するため、衆を率いて伊斯枳牟羅城を守った(調吉士、率衆守伊斯枳牟羅城)か、あるいは衆卒(一般兵士)を遣して伊斯枳牟羅城を守らせた記事だと考えるのが自然だ。

(註2)井上光貞『飛鳥の朝廷』(講談社芸術文庫


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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