2009年12月7日

古田史学会報

95号

1,時の止まった歴史学
 岩波書店に告ぐ
 古田武彦

2,九州年号の改元
 (前編)
 正木 裕

3,四人の倭建
 西井健一郎

4,彩神(カリスマ)
 梔子(くちなし)
  深津栄美

5,エクアドル
「文化の家博物館」
館報
 大下隆司

6,伊倉 十一
天子宮は誰を祀るか
  古川清久

 

古田史学会報一覧


誰がいつ、伊勢神宮を創ったか(1) 一、倭・笠縫邑のヒモロギ (会報80号)へ

『古事記』と遊ぶ -- 古代音の歌 中山千夏(『市民の古代』第16集)


四人の倭建

大阪市 西井健一郎

一.訶具漏比売の不思議

 景行記には不思議な系譜が載る。景行帝が倭建の六代目にあたる訶具漏(カグロ)比売を娶り、大枝王をなした、とある。これまでの通念では、倭建は同帝の息子の小碓命のことと思ってきたのだが。なぜ、その息子の玄孫の子が親の妃に。
 もっとも、同譜では「この天皇。吉備臣等の祖、若建吉備津日子の女、名は針間の伊那毘能大郎女を娶して、生みませる御子、櫛角別王。次に大碓命。次に小碓(ヲウス)命、亦の名は倭男具那(ヤマトオグナ)命。次に神櫛王。五柱」とあり、ここには倭建との名称は記されていない。倭建との名は後の熊曾建を退治する際に、熊曾建から「倭建御子と称えるべし」と献上され、この時をもって倭建と名乗ったと記す。この倭建御子との記述の疑点は後述。その場面でも本人は事前には「我は倭男具那命」と名乗っている。
 カグロ媛の系図は同じ景行記中の倭建の系譜に載る。同媛は走水で倭建の身代わりになって入水した弟橘媛との子・若建(ワカタケル)王が飯野真黒比売を娶り生んだ須売伊呂(スメイロ)大中日子王の娘である。が、その飯野真黒比売の祖父は息長田別王、この祖父は倭建と一妻(アルツマ)との子とも記す。となると、カグロ媛が六代孫と記す倭建は、この一妻を娶った倭建である。ならば、この一妻を娶った倭建は、カグロ媛の祖父である若建王の親で弟橘媛の夫の倭建、つまり媛から三代前の倭建とは異世代の人物なのだ。
 さらに、このカグロ媛から四代後の忍熊王と闘う応神帝(実際に戦ったのは母親の神功皇后だが)の祖父になる倭建は、カグロ媛より一世代下の人物になり、前出の二人の倭建とも別世代の第三の人物ということになる。
 また、ご存知のように、記には二箇所、紀には三箇所の倭建の墓陵地名が載る。もとはそれぞれ別人の倭建のものだったと考えうる。記の倭建の記事は多人数のものなのだ。

 

二.「倭建」は職位名

 なぜ、倭建が多数いたのか。
 それはそもそも倭建なる名称が役職名であり、何代も何人もの人物が交替してその職位についていたから、だろう。
 なぜ、倭建を役職名とみたのか。
 それは倭建と古事記が記す人物を、日本書紀が日本武尊と書き換えているからである。
 なぜ、書き換えたか。それは倭建の「倭」が国号だったからだ。
 倭建とは「倭朝が地方を治めるため派遣した武将」の称号である、と私は解する。“(倭建が亡くなった時)於是、坐倭后等及御子等、諸下到而、作御陵”とある「坐ました倭」は倭朝域のことだったから、(地方へ)下ると記されている、と読む。
 つまり、日本書紀を編纂した天武系新政府の人達は自分達が名乗った新国号「日本」を史書の表題に用いるとともに、記にあった旧国号の「倭」の使用部分を書き改めた。そして、国号を日本としていない古事記を廃したのである。紀が日本に置き換えたのは、倭建のほかは全て天皇の諡中の倭だけだ。崇神記紀の倭彦命や垂仁記紀の伊勢神宮を定めたとされる倭姫は倭のまま、こちらは現地の地名「ヤマト」へのあて字だからである。
 倭建の事績を一人のものにまとめ上げねばならなかったのは、倭建の業績を消去できなかったからだろう。それは倭建の血統なのに天津日嗣をした応神帝を飾るためであり、一人分にまとめたのは倭建の事績の矮小化を図るためだ。それら倭建職の人達の業績を当該する各時代に配置すると、弱小氏族に過ぎなかったその時の天皇家の姿がバレ、神武東遷の虚構が崩れるからでは。だから、倭建の事績や系譜を一人分に寄せ集め、景行帝の子の事績に置き換えて天皇家内の歴史に押し込めた。この一人分に圧縮する手法は天照大神や大国主の事績でもみられる。
 では、記には何人の倭建が載るかを、系譜から作った相関図からみてみよう。

四人の倭健・別表 -- 系図(古事記)-


三.倭建の系図化

 この相関図(付図)は第十五代応神帝を末尾に配して、その祖系列を表わしたものである。図上では、少なくとも四人の倭建が区別できる。
 一番古い倭建は、図の左上部に記す、ある妻を娶った「倭建A」である。その系列はカグロ媛を先後に結ぶー○1ーで示している。
 仲哀帝の相続権を争った応神帝と忍熊王を比較基準世代に設定すると、倭建Aはその世代より八世代前の人にあたる。勿論、応神帝と忍熊王とではその年齢差が十年以上あろうことは想像がつく。そこには目をつぶっての基準だ。倭建Aは、記紀の天皇名でいえば、七代孝霊帝世代の人物である。この初代倭建の事績は後に推察する。
 第二の倭建は弟橘媛を娶った、基準世代より六代前の「倭建B」である。彼等の子・若建王は倭建Aの曾孫にあたる飯野真黒媛を娶っているから、倭建Bは同Aの孫世代にあたる。いわば、九代開化帝の世代である。そして、子の若建王がおそらく次の倭建Cである。ただ、問題点は景行紀に弟橘媛は穂積氏忍山宿禰の娘とあるに対し、次代の成務記にも「この天皇、穂積臣等の祖。建忍山垂根の女、名は弟財郎女を娶り、生む御子、和訶奴気ワカヌ王」とあることだ。同じ穂積氏ではあるが、忍山宿禰と建忍山垂根とは別年代の別人物だとみる。後者のほうが古形を保つのが面白い。忍山氏の娘達の名につく弟は、妹ではなく、弟国のオトでオ地出身かも。記紀では、オチは太古の忍の地か。


四.若建王は倭建C

 第三の「倭建C」は、天皇家系譜の人物と縁戚関係が記されていない人物である。父母名は当然だが、妻二人も ー○3ー の天皇家系にはつながっていない。妻の一人・布多遅比売の親は淡海安国造意富多牟和気とある。この親の祖は不記載。彼女は倭建Cの妃ではなく五人目の倭建C‘の妃ともとれる。この姫は淡海の人だから、倭建がいたかもしれない豊浦宮はその近所かも。もう一人が大吉備建比売で、吉備臣建日子の妹と記す。この吉備臣建日子は、倭建Bの東国征伐の際に同行した御[金且]友耳建日子のこととみる。紀には吉備武彦とある。後代の応神紀に吉備に幸した際、迎えた御友別が饗応したので、その一族に吉備の各地を賜ったとの記事(廿二年九月)が載る。御友とは、吉備臣の族長の自称号らしい。建日子が戦いに妹を連れて行く筈がなく、郷里に残っていたと想像できる。その妹を娶ったのがやはり残っていた若建王で、彼が倭建Bより一世代若い倭建Cだろう。
 この倭建Cと記紀のテーゼである万世一系の天皇家とのつながりが記されなかったのは、彼が若建王として別途記載されていたからだ。それを解く鍵が前述の熊曾建が云った「倭建の御子」なる称号ではなかったか。○○の御子とは○○なる人物の子供であって、○○当人ではない。記の神代巻にあっての「天神の御子」とは、一般的に天照大神ではなく、その子孫の忍穂耳や邇邇芸命、山幸彦の火遠理命を指す。だから、熊曾建が若建王にあなたが倭建職位を継ぎなさいと云った意味に解されなくもない。その逸話がなくても、倭建の息子だから、若い建(ワカイタテ)なのだ。その若建王が倭建Cならば、基準世代から五代前にあたり、十代崇神帝世代になる。

 

五.倭建Dの訶志比宮

 第四の「倭建D」が仲哀帝の父、応神帝の祖父で十二代景行帝世代の人である。
 古事記の記事から推定するに、倭建としての業績は不明。また、他の倭建との血縁関係も不詳だ。記紀から察して、孫で別血統から入り天皇家系を継ぐ応神帝の、単に祖系を飾るための存在とみる。倭建Dも倭朝の役人であったから、その息子である仲哀帝も親の本領にいてその倭建職のみを継ぎ、派遣先にも行った。だから、それまでの天皇の都域とは異なる筑紫の訶志比宮と穴門の豊浦宮とで冶天下したと記された。訶志比宮は本国の領地、穴門の豊浦宮は倭建の派遣先の根拠地だろう。
 さらに空想を逞しくすると、親の倭建Dや仲哀帝が生きている時代はよかったが、嫡子ではなかった仲哀帝が亡くなった後、派遣先から伴われてきていた息長帯比売は訶志比宮に居所がなくなり、仲哀帝の子供と稱する緑児を抱いて郷里に帰還し、同地での居場所を求め、息子を押し立てて同地の治政権奪取の戦いを在地のボスの忍熊王に挑み、勝利し、息子の大鞆和気命をその地位につけることに成功した、と描ける。紀は景行帝の子・稚足彦(成務)天皇には男の子がいなかったから仲哀帝を立てたと書くが、記の成務帝には和訶奴気王との子供がいたとある。帰郷した息長帯比売は大中媛の子の忍熊王と闘うのだから、彼が郷里の実権を握っていたわけであり、ワカヌケ王はすでに早世して景行帝の血統が切れていた可能性がある。
 とはいえ、祖父景行帝には八十人の御子がいたと記にはある。それらの子孫が継がなかったのは、彼等は何代もの景行帝達の各子孫だった可能性がある。同帝は百三十七歳で崩じたとあるから、二倍年暦説はさておき、景行帝朝が何代にも亘りその年数の間、続いていたのでは。沢山の妃は景行帝各代の各后だったとの想像も湧く。
 私見では、仲哀帝が天津日嗣の一員として名を残したのは、息子とする応神帝が帝位についたからである。また、息長帯比売を神功皇后と号させたのは、太古に新羅か、ひょっとするとシラギではなく“筑紫國謂白日別”と記・国生みにある白日国に攻め入った同名の女王の伝承を母親の業績に組み入れたためであり、これもその子・応神帝に箔をつけるためのものであろう。

 

六.竹の水門と高尾張邑

 ところで、倭建AやBの事績の断片が、景行紀に残る蝦夷征伐譚ではないか。
 倭建Aの事績は景行紀四十年是歳に載るもので、私訳すると「(日本武尊、上総から陸奥に入る)時に大鏡を王船に懸け、海路をとって葦浦を廻り、玉浦に横渡り、蝦夷境に至る。蝦夷賊首の嶋津神・国津神などが竹の水門で迎え撃とうとしたが、王船の大鏡を見て怖気づき、弓矢を捨てて降参した」とある。王船に大鏡を懸けていたことは、平原や三雲などの遺跡に残る鏡王国、倭国の影をほうふつとさせる。
 ここからは私見だが、この蝦夷は東北のエミシ族ではない。えび(蝦)のように背中を丸めた夷(「{解字}背丈の低い人」漢字源、学研刊)の体形の人へのあて字である。それは神武紀に載る「高尾張邑に土蜘蛛あり。その人姿、身は短く、手足が長い。侏儒と似る。皇軍、葛網を編んで覆い被せ、これを殺す。よってその邑の名を葛城に改めた」(即位前己未年二月)と記す姿と酷似する。葛城は原伝承のクズキへのあて字である。そこの住民はクズ(国栖)族とも記されているからだ。ついでに、神武紀戊午年九月条に「倭国の磯城邑に磯城の八十梟帥あり、又高尾張邑に赤銅八十梟帥あり」とあり、神武記には「忍坂の大室に到ると、生尾の土雲八十建その室にいて待ちいなる」ともある。高尾張邑にいた土蜘蛛はヤソとも呼ばれた氏族なのだ。倭建が征伐した蝦夷の本姿は、ヤソタケルの率いていたヤソ族である。なお、生尾人は有尾人ではなく、「ウムビ(畝傍)の人」へのあて字だ。
 一方、「竹」は「たか(高)・たけ(丈)と同源」と広辞苑に載る。蝦夷のいた水門の「竹」は原伝承の地名「タケ」へのあて字で、他に高や武や建があてられている。原伝承の地名は音声だけだから後世、多様な漢字があてられても不思議ではない。私見では、「タケのアマのバル(村)」へのあて字である高天原も、前出の高尾張邑や建忍山垂根、建日子も同じく「タケ」との地名を負う。タケにつづく名称が異なるのは、タケがそれらの小地名を包む広域地名だったことを示す。で、その高(タケ)域の尾張邑はヤソ族の地なのだ。
 そのヤソ族は、海幸彦のホスセリ命の後裔でもある。海幸彦の火酢芹命は弟ホホデミ尊に降伏し、「わが子孫の八十の連属(ツヅキ。後裔)は汝の俳人・狗人になる」(紀第2一書)とあるからだ。紀本文には「其、火蘭降命は即、吾田君小椅の本祖」ともある。吾田君小椅は八十族でアタの地のボスであったと解せる。小椅は、尾張邑のオバに邑の意の語尾シがついた形。これらは同じ地からの伝承を造作し、別地のものにみせかけたものだ。
 記紀を記紀の内に読むとの立場でいえば、竹水門とは神武紀にみる「速吸之門に至った時、出迎える珍彦が釣をしていた曲浦(アタのウラ)」のこととみる。倭建は葦原中国とも記す淡海の葦浦から、太古に羽明玉がいて垂仁帝の珠城宮が置かれる玉の地へ寄り、タケの水門こと曲浦へ軍船を進めた、と解せる。なお、賊首の頭にある嶋も国も地名である。国津神は宋史日本王年代紀の汲津丹尊に音が似る。
 降伏したのにもかかわらず再度の蝦夷叛乱が景行紀五十六年八月条に載る。「時に蝦夷、騒動す。即挙兵して撃つ。蝦夷の首帥、足振辺・大羽振辺・遠津闇男辺は降参し、その地を献上した」相手が倭建Bの事績とみたのだが。だが、ここでは足振辺が賊に参加しており、前出の葦浦の主とも解せるのでこちらの話の方が古い可能性がある。
 記紀の古戦闘譚の多くは、これら丘陵部のヤソ族や国栖族と平地部のいわば天皇族とのいさかいである。どれが誰の事績・征服譚かは不詳の点が多い。これら倭建の征伐譚からみて、平地部の連中は派遣されてきた倭建に協力し、丘陵部の連中は反抗したらしい。が、記紀は天皇を主人公とする平地族側に立つ伝承だから、本当のところはわからない。
 〔依拠資料、岩波文庫「古事記」「日本書紀」〕


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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