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市民の古代 第16集 ●1994年 市民の古代研究会編
 ●古代史講演会講演録

『古事記』と遊ぶ

ーー古代音の歌

中山千夏

「古代史講演会」
一九九三年十一月七日 於 毎日新聞大阪本社ビル

『古事記』との出会い

 どうもこんにちは。中山でございます。
 私はですね、古代史についてそんなに知っているわけでもないし、古代史ファンの方と比べると、それほどのファンでもないんです。ただ、たまたま古田武彦さんの著書に出会って、それがたいへん読み物としても物の考え方としてもおもしろかったということがありまして、たまたまそのころ山田宗睦さんですとか、他の古代史のファンの方で、古代史とは関係のない分野の学者さんと、古代史とは関係のない分野でお知り合いになったんですよね。で、そういう人を介して、古田さんの別の著書に出会うというようなことがあって、そのうちだんだん『古事記』に興味を持つようになって、それで『古事記』って何が書いてあるんだろうな、どんなふうに書いてあるんだろうなっていうのが、ごく単純な疑問として出てきたんですね。
 ていうのは、私たちの年代は戦後教育ですから、『古事記』や『日本書紀』っていうのは名前しか知りませんで、内容がこう書いてある、ああ書いてあるっていうようなことは、ほとんどと言うか、まるっきり習っていなかったわけです。で、古田さんのご本なんかを読んでいるうちに、『古事記』のここにはこう書いてある、ああ書いてあるというのが出てくるから、へぇ、こんな面白いことが書いてあるのかと思ったのが切っ掛けで、それで『古事記』を読みはじめました。
 ところが、この『新・古事記伝』(築地書館刊)にも書きましたけど、難しくて難しくて、古典の素養も何もないわけですから、最初は何が書いてあるのかチンプンカンプンなんですね。一応、原文とされているものは、もちろん漢字しか書いてありませんし、それから読み下し文と言いまして、本居宣長さん以来の、漢字ばかりのをこう読むんじゃないかというひとつの読み方の見本といいますか、基本的な読み方が今日まで続いているわけですけれども、そちらの方を読んでも、たしかに平仮名は混じっていますが、これがまたたいへんな古文なので、読めるけど何を言いたいのか分からない、私にとってはそういう本だったんです。
 それで、こりゃまいったなと思ったんですけど、だいたい私は本を読んで何でもやるっていう主義なんですね。まず第一に、人間が書いたものは一所懸命読めばいつか分かるだろうという気持ちをもって、書き物には面と向うんです。それで、たとえば編み物であっても、料理であっても、全部私が覚えたのは本で覚えたんですね。本読めばできるっていうのが私の確信なので、『古事記』を読んで分からなかった時に、非常にしゃくにさわって、人間が書いたんだから、読んで分からないってのはどういうことなんだと思いまして、それで私必死になって注を読んだりして、一所懸命一所懸命読んでいるうちに、だんだんだんだん、なんとなく読んですぐ頭に、あっ、こういうこと、言いたいのかって分かるようになってきたんですね。そうしたらおもしろくなりまして、その読み下し文とそれから原文の漢字ばっかりのところを、「へぇーこんなふうに読んでいるのか」とか、それから、思っていたよりもずっと『古事記』の女の人たちが、元気で生き生きとしているとこなんか、同性として非常に面白く思いましたし、それから、ちょっとしたこと、たとえば三種の神器なんかは、母なんかから聞いていた『古事記』や『日本書紀』に書いてあるという話とはずいぶん違っていまして、『古事記』を読みますと、どうも三種の神器っていうものもよく分からなくて、ぼんやりとしか書いていない。『日本書紀』というものも照らし合わせて読む間に、一般にざっと『古事記』や『日本書紀』には、三種の神器について母たちの世代で言われていたことが、ずいぶんインチキなんだなということも、実際に読んでみて分かりました。

『新・古事記伝』

 『古事記』は、私たちの持っている一番古い記録なわけですから、もうちょっと一般の人が近づけてもいいんじゃないかなと思ったんですよね。私自身が近づくのに非常に時間がかかったものですから、いきなりこれにいくと、もうこれを見てイヤになっちゃう人が多いかもしれないから、この一段階前になるようなものがあったら良かったのになと思いました。もちろん『古事記』の現代語訳っていうものもいくつかあって、図書館で調べたりしたんですけれども、たいていあまりにも素人向けっていうか、素人が読みやすいように、たとえば『古事記』そのものでは非常に齟齬のあるようなところも、なんとなく読めてしまうように書いてあったり、それから、とても親切に、読んでもつまらない名前ばっかりの羅列のところは、ちょっとはずしてあったりとか、するんですね。
 そうすると、私が感じた『古事記』本来のおもしろさっていうのがどうもない気がして、もっと原文に忠実に、原文が持っている荒々しさであるとか、これは後に今日のテーマで話すつもりですけれども、私にはもう『古事記』を読んでびっくりしたことの一つは、実につぎはぎの粗雑なというか、編集の様子がね、荒っぽい本なんだなあということが、非常にびっくりしたんですね。だからそのことが翻訳の仕方によっては、一連の、非常に整ったつるんとした書物に見えちゃうわけですよ。これは本当の『古事記』の有り様というのを伝えている翻訳ではないなという気がしまして、私はなるべくそこを伝えたいと。そこを伝えると今度は読む人がつまんなくなるかなという気もしたんですけれども、本当の『古事記』ってこんなものなんだっていうのを、できるだけ現代語に訳す中で伝えたいと思いまして、なるべく原文に忠実に、表記なんかはもちろん別ですけれども、原文の雰囲気を残すにはどうしたらいいだろうというので、今から振り返りますと、もっとこうすれば良かった、ああすれば良かったというのが出てくるんですが、一応の努力をしてやってみました。それでこの『新・古事記伝』ができたんですね。
 これしかないんですよ、私。とにかく『古事記』はおもしろくて一所懸命読みましたし、古田さんのご本、それから森浩一さんのご本なども興味のあるところは読んでいますけど、そんなに詳しいわけじゃありませんし。本当に『古事記』っていう書物を通して、『古事記』に書かれている範囲内のこと、むしろ一切いろんな知識を廃しまして、もし私の前に『古事記』っていう本があったらどうだろうか、これだけがあったらどうだろうかっていう、そういう接し方で『古事記』に接してきたんです。だって一番最初に『古事記』を読んだ人たちは、たぶんそんなふうに読んだろうと思うんですね。中国からの本も何にもなくって、ただ『古事記』があったと。『古事記』の研究書も何もなかった。本居宣長のももちろんなかった。そういう時の『古事記』っていうものに肉薄してみたいなというような気持ちもあって、できるだけそういうふうにしたつもりです。
 だけど、えらい仕事をしてしまった、たいへんなことやっちゃったなと思うのは、本当にこういうことに詳しい方がいらして、古代史ファンの方の中に、実に詳しくいろいろ勉強してらっしゃる方がいらっしゃるでしょ。それで、読後感なんかいただくと、いろいろ勉強してらっしゃる上に校正の専門家みたいな方もいらつしゃいまして、これは誤字ではないかっていうのをたくさん拾いだしてね、送ってくださるんですよ。私は、これ専門的な校正の方にしてもらったわけじゃなくって、私と、私よりももっと若くて『古事記』のコの字も知らないような編集の男の子と、それからうちの私と一緒に仕事をしている、彼女も私よりもうんと若い、『古事記』のコの字も分かんない人ですが、その彼女とね、一所懸命校正をしたもので、誤字・脱字とかその他勘違いとか、ないとは思ったんですけど、やっぱりあるんですね。そうやって指摘されるとゴロゴロあるんです。それで、もう嫌になっちゃっているんですけれど。でもまあおおむねというか、ざっと全体としては、私が言いたかったことや、論を立てたかったことを根底から覆すような間違いというのは、今のところ指摘されていないので、まぁまぁいいかというふうに思って、神代の巻はもう何刷りかになっているんですけど、その何刷りかになる度に教えていただくところは、ありがたくですね、誤字や脱字を直すというような作業をして、今日に至っています。

文化としての『古事記』を楽しむ

 それで、お手伝いぐらいだったらいいんですが、こんな会にきて話すのイヤなんですよね、私。誤字や脱字どころじゃなくって、何を言うとるんだあれは、という話になるんじゃないかと。だけどどうしても来いというふうに言われましたんで、一回行っとけば、しばらく逃れられるだろうという気持ちで、今日は参りました。本当にもっとちゃんと知識をもった方のお話を聴かれたら、皆さんにタシになりますのに、私なんぞが出てきて申し訳ないと思います。だけど『古事記』を、これは本当に命懸けでやっておられる方には、怒られてしまうかもしれませんけど、ひとつの私たちの財産として楽しむというところが非常に大事だと思うんですね。そういう『古事記』との付き合い方があっていい。で、これは文化を比較して思うんですが、たとえばイギリスなんかのね、イギリスに住んだことも何もありませんけれども、たとえば小説なんか読んでいましても、ごく一般の人がシェークスピアのセリフを引用して、ふつうの日常会話の中で引用してしゃべったりするんですよね。それから、たいていやっぱりとても古くて題名が有名な書物の内容なんかについては、その国の人たちは庶民に至るまで良く知っています。だけど日本の場合、『古事記』や『日本書紀』が、軍部に不幸な利用のされ方をしたということがありまして、戦後はすっかり嫌われてしまって、そういう書物があるらしいなということぐらいしか、学校では知ることができません。だけど、やっぱりこれは、考えてみれば、ひとつの王様のおうちの家伝ではありますけれども、紛れもなく私たちが持っている非常に古い、すばらしい文化なわけですから、庶民がそれを知るのはいいことだと思うんですね。しかも、それに近づいていく時に、いろんなこと知ってなきゃいけないとかって言われると、私たちは身がすくんで近づきにくいですから、どう解釈してもいいんだ、どう読んでもいいんだ、この『古事記』でうんと遊んでみようよっていう、そういう近づき方っていうほうを私は受け持ちたいと思っているんです。

二つのテーマ

 さて、それでは私の話に入りたいと思いますが、今日私がもくろんでおりますのはですね、一つは、『古事記』がかなりつぎはぎだということが、どこいらあたりに表れているか。これ所々、方々に表れているんですけれども、一つの例として、12代景行のことを書いた景行記という、これを読むとですね、とてもつぎはぎだということがよく分かると、素人が読んでも分かるんじゃないかなと私なんかは思います。それをどういうところで私がそんなふうに考えたか、それからつぎはぎであるがゆえに、『古事記』の文脈の中ではですね、景行という天皇の、まだ景行という天皇名はついてませんよね、大帯日子倣*斯呂和気という天皇が出てくるわけですけれども、その天皇さんの息子、小碓という名前の息子さんが、別の名前がヤマトタケル。その倭建という人の子供が、14代目の仲哀という天皇なんだという文脈に、『古事記』の中ではなっているんです。だけどこれはどうも私にはそうは思えないんです。で、どういうところからそうは思えないのかっていうのは、そのズタズタに切れているということと同じことなんですけれども、そこらあたりをちょっと細かく、『新・古事記伝』の中でも書いていますけれども、今日はできるかぎり説明してみたいなというのが一つです。

大帯日子倣*斯呂和気の倣*は、人偏の代わりに、三水編。

 それからもうひとつは、この景行記はとってもたくさん歌が出てくる「記」なんですね。これは仁徳さんのところも歌がたくさん出てきますけれども、『古事記』は、これも一つのつぎはぎの証拠だと思うんですけれども、歌の出方が全然平均していませんで、とても歌が出てくるところがあるかと思うと、この辺で、まぁミュージカルなら歌がほしいなと思うようなところが全然歌がなかったりするんですね。だからどうも書き方が歌謡物語として書かれた部分と、それからそうじゃなくて、歌謡の入らない記録的に書かれた部分と、それから歌謡無しの物語として書かれた部分と、というふうにずいぶんバラバラなんです。で、一人の人というか、一つの集団が一つの編集方針を持って書いたものとはずいぶん違うという感じが、私はします。たとえば『日本書紀』ですと、ずいぶんたくさんの人たちが関わって作ったということになっていますけど、あれは神様の話のところの作り方はこうと、それから人間の時代に入ってからの作り方は非常に資料をたくさん人れて、「何月何日ああしたこうした、何月何日ああしたこうした」っていうふうに書いていくということで、編集方針が、ほぼ初めから終りまで、一貫しているんですよね。ところが『古事記』というのは、見ていきますと、どうもその編集が私にはバラバラにみえます。
 で、歌の多いこの中でですね、私のとても好きな歌もこの景行記の中に入っているんですが、たまたま『古事記』などを翻訳したために、それ以後、他の古代史関係の学者さんともお知り合いになることができまして、森博達さんという音韻学者と友達になったんですね。たまたまこの方が私の子供の頃からのファンだったんですね。それで歳は同じくらいなんですけれども、同じくらいの歳の人まではわりと中山千夏っていう名前は威力があるそうですから、その先生も「中山千夏、うわぁつ」ていう感じで、仲良くなったんです。森浩一さんに紹介されたんですが、彼が大変な有能な音韻学者でして、『日本書紀』を分析して、『日本書紀』のどこらあたりが中国人が書いたんじゃないかというような、とても難しくて私なんかせっかく本をもらっても、3ぺージぐらい読むとなんか眠くなっちゃうんですけれど、だけど一所懸命読んでいくと、とってもドラマチックなすごく着眼の新しい分析をしていらっしゃって。で、森浩一さんの言ですと、あれだけ中国語に精通した音韻学者というのは日本でも珍しいだろう、ということです。
 その方が中国語から、日本語の古代音というものを推定しているんですね。だから『古事記』や『日本書紀』中に歌なんかが出てくると、その歌はたとえばこういうふうに読まれていただろうという、古代の音というのを推定しているんです。で、それを教えてくれましてね。いくつかやれるようになったんですよ。それがまたおもしろいんでね。あちこちでちょっと、まあ二、三回公演したりなんかして、わりとおもしろがられたので、古代史を非常に好きでいらっしゃる皆さんにはおもしろいかなと思って、その音韻の話と合わせて、今日はできるところまでやってみようと、それを後の方にやってみようかなと思っています。

『古事記』の文体

 それでは、最初の方にいきたいと思いますが、もしかしますと『古事記』なんかは、すでに熟知しているという方がおいでになるのではないかと思うんですが、でももう一度ここの部分だけおさらいする感じで、私のみちすじに一緒についてきていただければと思います。で、資料の「資料1、12代景行記の構成と倭建の登場態様」ですけれども、これは景行記というものがどういう構成になっていて、何がどういう順番でどの程度の量で書いてあるかということを、ざつとまとめてみたものです。
 それをまず最初にざっとたどって、頭に入れていただきたいと思います。で、この変なカッコ〔 〕の中は、話に必要な部分を抜き出したもので、私が読み下したものです。だから必ずしも岩波の読み下しと一緒ではありません。
 皆さんももうご承知だと思いますけれど、『古事記』の文章というのはすべて漢字である。しかしながら、非常に漢文として整った句もあるかと思えば、とても中国人が読んだのでは分からないというような文法になっている漢文風なところもある。それから、あるいは一音一語あてて漢字を仮名として使って、あたかも平仮名を使うようにして書いた部分もある。歌なんかは全部その一音一語で書かれています。それからときどき、そうですね、印象的な例をあげますと、最初の方の国生みのところで有名なクラゲナスタダヨヘルという文句がありますね。クラゲのようにプカプカとただよっていたという形容があります。これなんかは「久羅下那州多陀用幣流」と一音一字で書いてあるんですね。それから、あとは天降(くだ)りのシーンなんかでもですね、非常に印象的な何語かはそういうふうに書いてある。ところどころそうやって、漢字を一音一語に使って平仮名を使うみたいにして書いてあります。
 だからここがまた『古事記』がね、素人にとっつきやすいところだと私は思うんですけれども、つまり完全な漢文だったら専門家じゃないと、漢文に詳しい専門家と私の問には非常に大きな開きが出てしまうわけですね。けれども、『古事記』そのものが完全な漢文じゃありませんから、こちらもあまり完全に漢文が分かっていなくてもですね、だいたい読めてしまうと。だいたい読んでもそうはずれにはならないだろうと。で、それはもちろん、古語を研究して書かれた本居宣長さん以来の読み方は、おそらく一番日本の分かっているかぎりの古い言葉というものを活かしてある読み下しだとは思うんです。だけれども、『古事記』そのものは、もっと古いわけですから。だから必ずしもその本居さんが読んだように読んでいたかどうかというのは、疑問をはさむ余地がね、あるわけですね。完全な漢文じゃないだけに。
 で、それが私の本にも書きました『古事記』の中の月経という字をですね、この景行記に出てくるんですが、月経という字をふつうはツキノサハリというふうに本居宣長さん以来読むんですけれど、これは訓読みですよね。意味をとって読んでるわけですよね。だけど月経という字がツキノサハリを漢字に直したとは私には思えない。ツキノサハリって書きたいんだったら、たぶん『古事記』を書いた人、ここの部分を記した人は違う漢字を使ったろう。だから月を経るというふうに書いたということは、ツキノサハリではない言い方が、本居宣長さんが知っている古代よりさらに古い『古事記』の古代にはあったに違いない。そういうことで偉い先生方が読んでいる読み方にクレームをつけたり、できるわけです。権威は私の方には全然ありませんけれども、でもそういう読み方だってしたかもしれないよということで言えば、まったく偉い学者の先生が読むのと同じだけの重みを、私たちが読むのも持つわけですね。そこが『古事記』はすごくおもしろいなと私なんかは思うわけです。で、読み下しもですね、勇気を持って、私自身が一番読んで分かりやすいなと思う読み下しをするようにしています。それがカッコの中に書いてあります。

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◎資料1、12代景行記の構成と倭建の登場態様

〔 〕は中山の一読み下し。( )は中山注。
行数は岩波古典文学大系『古事記祝詞』の読み下しによる。(以下、同様)
(1) 冒頭后子記事 18行
 〔大帯日子オシロワケ天皇、纏向之日代宮に坐して、天下を治む。是の天皇、吉備臣等の祖、若建吉備津日子の女、名は針間之イナビノ大郎女を娶り、生みし御子は、櫛角別王。次に大碓命。次に小碓命、亦の名は倭男具那命。次に・・・。〕
 〔又、八尺入日子命の女、八坂之入日売命を娶り、生みし御子は、若帯日子命。次に五百木之入日子命。次・・・〕
 〔又、倭建命の曾孫、名はスメイロ大中日子王の女、訶具漏比賣を娶り、生みし御子は、大枝王。凡そ此の大帯日子天皇の御子等、録す所は廿一王、記し入れざるは五十九王、併せて八十王の中、若帯日子命と倭建命と、亦五百木之入日子命と、此の三王は、太子の名を負へり。・・・故、若帯日子命は、天下を治む。小碓命は、東西の荒神、及び、伏さざる人等を平らぐ。次に櫛角別王は 茨田下連等の祖。 次に・・・〕

(2) 大碓の事跡  9行
 (天皇が召した女、美濃国の兄ヒメ弟ヒメを大碓が横取りする)〔故に其の大碓命、兄比賣を娶り生みし子は、・・・。此の御世に、田部を定め、亦、東の淡の水門を定む。又、膳の大伴部を定む。又、倭屯家を定む、又、坂手池を作りて、即ち其の堤に竹を植える。〕

(3) 小碓の大碓殺し  7行
〔天皇、小碓命に詔るに「何に汝が兄は、朝夕の大御食に参り出来ざるや」と。・・・爾に天皇、小碓命に問い賜ふに・・・〕

(4) 小碓の熊曽退治 24行
〔・・・爾に小碓命、其の姨、倭比賣命の御衣御裳を給はり・・・。爾に其の熊曽建の言ひて曰く「・・・汝が命は誰ぞ」と。爾に詔るに「・・・大帯日子オシロワケ天皇の御子、名は倭ヲグナ王なり。・・・」と。爾に其の熊曽建の建じて曰はく、「・・・然るに大倭国に、吾が二人に益して、建き男の坐けり。是を以ちて、御名を献らむ。今より後は、倭建御子と称すべし」と・・・。故に、其の時より御名を倭建命と称す。・・・〕

(5) 倭建の出雲建退治  9行(歌謡1行)
 即ち出雲国に入り坐して、・・・。爾に倭建命・・・。倭建命の刀を・・・。是に倭建命・・・。即ち倭建命、・・・御歌に曰く・・・.〕

(6) 倭建の事跡 103行「倭建命」の「東方十二道」の征服と死。 14歌を含む。
 1). 出発の経緯 11行
 2). 尾張から東国へ 3行
 3). 相武国造を征伐 7行
 4). 弟橘ヒメの人柱物語(走水=浦賀水道) 9行(歌謡 1行)
 5). 足柄の神退治とアズマの名の由来 6行
 6). 酒折宮の老人に東国造をさずける  6行 (歌謡 2行)
 7). 尾張のミヤズ比賣との交流 13行 (歌謡 6行)
 8). イブキ山の神の逆襲 7行
 9). 発病と死 23行(歌謡 7行)
 10).葬儀と埋葬 18行(歌謡 4行)

(7) 倭建の后子記事 15行
〔此の倭建命、イクメ天皇の女、フタヂノイリビメ命を娶り、生みし御子は、帯中津日子命。又、其の海に入りし弟橘比賣命を娶り、生みし子は、若建王。又・・・。又、一妻の子は、息長田別王。凡そ是の倭建命の御子等は、併せて六柱。故、帯中津日子命は、天下を治む。次・・・。〕
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『古事記』の構成

 それから「冒頭后子記事」とか、「小碓の事跡」とか、見出しをつけて構成を分けたんですが、その下に行、何行か書いてあります。これは『古事記祝詞』という私がテキストにした岩波の本の右ページに原文の漢字ばっかりのが書いてあって、左ぺージにその読み下し文というのが書いてあります。で、私の資料に書いてある行といいますのは、読み下し文を勘定して、何行が、たとえば「后子記事」にあてられているか、「小碓の事跡」という記事は何行分あるかということを書いてあるわけです。
 で、さっと見てですね、この景行記の特徴というのが、まず(4)の途中までは、倭建というのは出てきません。というか倭建という名前を持った人物というのは出てこないんです。(4)自体がなぜ小碓が倭建と呼ばれるようになったか、という物語なんですね。ですから、(4)の後半からはじめてその人物は倭建と呼ばれるようになるわけです。で、倭建の物語が始まるわけです。それが(4)以降なんですけれども、
圧倒的に(5)以降が量が多いんですね。そして、景行天皇の事跡はほとんどというか、まるっきりないんですよ。これは『日本書紀』とも大いに違っている点です。見ていただけば分かるように、最初の(1)は、私は「后子記事」って言いならわしてるんですが、『古事記』の書き方、一つの形式として、ある天皇のことを書く時に、まず一番最初に「后子記事」を置きます。神武はいくぶんか神代の物語から繋がった形になっていますから、神武天皇のところは別ですけれども、二代目以降はですね、まずその天皇がどこで、つまりどこに居を据えて政治をしたかということ。それからどういう王妃さまをもらって、どういう子供を生んだかということ。それから時にはそこに続けて、この時代にした土木工事とか、それから行政区間の区割りを、部とかそういうものをどういうふうに作ったか、というようなことがちょっと書いてあります。それから物語がドヤドヤドヤとありまして、それで一番最後に、この天皇が死んだ、死んだ時はいくつだった、お墓はどこにある、これが典型的な『古事記』の代々の王様のことを書く書き方なんです。で、一応この景行記もその形をとっています。けれどもそれが、最初の出だしだけなんですね、ほとんど。

冒頭后子記事

 出だしは、18行の「后子記事」というのがあります.その一部が(1)にあります。〔大帯日子オシロワケ天皇、纏向之日代宮に坐して、天下を治む。是の天皇、吉備臣等の祖、若建吉備津日子の女、名は針間之イナビノ大郎女を娶り、生みし御子は櫛角別王。次に大碓命。次に小碓命、亦の名は倭男具那命〕。傍線を引いてあるのは、ここは、ちょっと後で重要なんだよ、覚えておいて、という意味です。(インターネットでは赤色表示) で、〔次に〕という調子で、いろいろこういう人をもらって、こういう人を生んだというのがあります。
 それから、だいたいその、これも『古事記』の中の多くの書き方なんですが、(1)の三つ目〔又、倭建命の曾孫、名はスメイロ大中日子王の女、訶具漏比賣を娶り、生みし御子は〕というのがありまして、その後に〔凡そ此の大帯日子天皇の御子等、録す所は廿一王、記し入れざるは五十九王、併せて八十王の中、若帯日子命と倭建命と、亦五百木之入日子命と、此の三王は、太子の名を負へり〕。こういう調子で、この子供の中からどれが次の天皇になったかということを書きます。それからその後には、その天皇の子供のうち、主に誰の祖先になったということですが、誰だれはどうである、誰だれはこうであるという、これ典型的な書き方でよね。
 その中で、〔若帯日子命は、天下を治む〕。それから〔小碓命は東西の荒神、及び、伏さざる人等を平らぐ。次に櫛角別王は〕と書いて、その下のは本文の注として小さく書いてあるんですよね。ここの書き方は私もよく分からないんですが、本文を見ますと、〔次に櫛角別王は〕の“は”っていうのは「者」という字を書くことが多いんですが、「者」と書いてその下になぜか突然ちっちゃい注になって、「誰だれの祖」ってなことが書いてあります。これはもしかすると、いつの時代かは知らないけれども、本当は違うことが書いてあったんだけれども、その注みたいなものと、いつかの時代に入れ替えたのかなというふうに私は見ています。ともかく、まずこういう「后子記事」があります。これは一応は景行天皇に関する記事だと言えるでしょう。

大碓の事跡

続く(2)。これは「大碓の事跡」、先程読みましたように、大帯日子オシロワケ天皇が伊那毘能大郎女という人を娶って、そうして櫛角別王と大碓命と小碓命を生んだ。で、その内の大碓命の事跡がこの後に9行書かれています。ざっとした話をしますと、天皇が美濃国の兄比賣・弟比賣という人を召すわけですね。自分の宮に入れてお嫁さんの一人にしよう、というので召すわけです。これを大碓命が見まして、非常に気に入って横取りをしてしまう。それで、お父さんのオシロワケ天皇としては不愉快だった、というような話がここにあります。
 その話があった後で、これもとても重要なことだと思うんですが、〔故に其の大碓命、兄比賣を娶り、生みし子は〕というので、景行天皇の「后子記事」を書いた同じ書き方で、大碓命の「后子記事」がここに続いて出てきています。こんなふうに、天皇になっていない人について、「后子記事」があるというのは、これはもうたいへん『古事記』の中で異例なことです。それから、なお、さらに続けてですね、〔此の御世に田部を定め、亦、東の淡の水門を定む。又、膳の大伴部を定む。又、倭の屯家を定む。又、坂手池を作りて、即ち其の堤に竹を植える〕。これもさっきお話したように、普通は天皇の事跡記事としてこういうことが書かれます。これは『風土記』なんかでも一緒ですけど、「その御世に」っていう書き方は天皇の御世ってことですから、この天皇さんの時にこういうことをしましたよということを書く。それは他の天皇記(『古事記』の中の他の天皇の話のところ)でもあるんですね。けれども、大碓さんのところにこれをくっつけて、「この御世に」って書いてある。『古事記』を通読して非常にこれは希有なことです。ふつう学問的にはですね、本当は天皇の事跡のところに書くべきことが先に大碓についてのエピソードを書いたために、こういう書き方になったのだろうというふうにとらえるのかもしれませんが、私はそうは思っていないんです。で、どう思っているのかは後で話しますが、ここはとても大事なところです。これもあまりというか、ほとんど景行天皇の話ではないんですね。大碓という景行天皇の皇子についての話です。ここでも景行天皇の事跡って全然ないんです。

小碓の大碓殺し

 その次、(3)。天皇が出てきますが、これもやはり天皇そのものというよりは、大碓の弟の小碓の話なんです。これが7行あります。ざっと話をしますと、どうも先にあった(2)の事件と連絡があるようなんですけれども、天皇が弟息子の小碓に「大碓がこの頃朝夕、顔見せに出てこない。どうしたんだ。おまえが兄さんに出てくるように言ってやれ」というふうに言います。そうすると小碓が「わかりました」と言うんですが、何日たってもお兄さんが出てこない。そこでお父さんがまた、「どうしたんだ、出てくるように言ったのか」って言うと、小碓は、「言いました」と。「どんなふうに言ったんだ」と聞いたら、「便所から出てくるのを待ち受けて、こもに包んで殺して捨てた」と言うんですね。なんてまぁ乱暴な男なんですね、この子は。それでお父さん、びっくり仰天しまして。はっきりとは書かれていないけれども、お兄さんが天皇に盾をついたというようなことを、先取りしてですね、弟がお兄さんを殺すことで懲らしめたんだ、という話の筋立てになっているわけです。
 とにかくまぁ、こうやって兄を殺してしまったんで、天皇はびっくりしたというような話がこの(3)なんです。それが7行あります。これもやはり天皇が出てきはしますけれども、天皇自身の話というよりは息子の小碓の話です。それからここまではすべて小碓という名前で詔られています。全然、倭建という名前は出てきません。また、これ以後、景行さんというのは全然出てこないんですね、もう、だから景行天皇の記にはなっていて、大帯日子オシロワケ天皇は、というふうに始まってはいますけれども、内容を読んでみると、景行天皇というのは『古事記』を読んだかぎり、本当に夢みたいな人物なんですね。ほとんど居たかいないか分からない。お父さんとしての役割しか果たしていない、そういう感じです。

小碓の熊曽退治

 問題は残しておいて、先にどういうことが書かれているかを続けます。で、その「小碓の大碓殺し」に続いてですね、(4)に「小碓の熊曽退治」というのが24行あります。今までの中で一番長いですね。これはざつとどういう話かといいますと、まあご存知でしょうけれども、お父さんのオシロワケ天皇があんまり息子の小碓が乱暴なので恐れまして、ちょっと遠くへやろうというので、熊曽退治に行ってこいと、こう言うわけですね。それで息子は、おばさんのところへ行きまして、おばさんから着物を借りまして、女装をして熊曽のところへ行って、その宴会に入り込んで、熊曽が油断したところをやっつけるわけですね。これも小碓の特徴として、非常に残虐なやっつけ方をしています。
 これはもう本当に最近のホラー映画でもないような凄い場面だと思うんですけれども、お尻から刀をズバッと突き入れたんです。そしたらその熊曽が、「その刀を動かすな」と、「私は今あなたに言うことがあるから、動かして殺すな」と言うんですね。そこで小碓はその刀を動かさないで、突き刺したまんま、「何だ」と言いますと、熊曽が「私は日本でも一番強いと思っていたら、もっと強い人がいたんでびっくりしているんだ。あんたはいったい誰なんだ」というふうなことを言います。そうすると、「私は大帯日子オシロワケ天皇の息子小碓なんだ」と。私の訳で言いますとね、セリフが啖呵ですね、もうこれは。本当に勢いのいいタンカ。「あたしは、纏向の日代宮にいなさって大八島国を治めていなさる、大タラシ日子オシロ和気天皇の御子、名は倭ヲグナ王じゃ。てめえら熊曽タケル二人は、服従せず無礼だと聞きなさって、てめえを取り殺せとお告げなされて、あたしを遣わされたんじゃ」。こういうふうに小碓は言います。ここでは倭男具那という、ヤマトヲグナというふうに名乗っているんですね。そうするとそれを聞いて熊曽建が、「いやぁ自分よりこんな強い人がいるとは恐れ人った。だからあなたはこれから倭建というふうに名乗るがよろしい」と名前を差し上げるわけです。
 これは確か古田さんの著書で読んだんですけれども、名前をあげるというのは、偉い人が下の人にあげる行為であると。だから、ここでは熊曽が下のように大和朝廷の立場に立って、熊曽を非常に下のように書いてあるけれども、実は熊曽建というのは、倭国の中で非常に力を持っていた偉い王様だったんだ。だからこそ、倭建という名前をもっと下のチンピラにあげたんだ。で、チンピラの方は自分より下の者から名前をもらったって喜ぶわけはないんで、上の人から名前をいただいたんで、うれしくて、それから倭建という名前を名乗るようになったんだというようなこと、たしか古田さんの文章で読んだ覚えがあります。私もなるほどとその時思いましたし、それからいろいろ考古学やらなんやらの話で、九州の方の遺跡の分布とか見ますと、熊曽といわれている地帯は、『記・紀』に書かれているような未開の地ではなくて、むしろ下手をすると大和なんかよりは先に、非常に独特な優れた文化を持ったところだというふうに、考古学の方でも聞いていますので、たぶんその古田さんがおっしゃっているようなことが、この話の本当だったんだろうな。それを近畿の方を中心にして、纏向の天皇の方が熊曽よりも偉かったんだという意識で、ちょつと書き直したのが、この話なのかなというふうに思います。

ヤマトタケル登場の謎

 まあその話があります。で、初めてここに〔故に、其の時より御名を倭建命と称す〕と「称す」というのが出てくるわけなんです。私、『古事記』を読んで、まぁいろいろ驚いたり、へぇーっと思ったりしたことがあるんですが、一番なんだか肩透かしというか、「何なんだ何なんだ」と思ったのは、この倭建の登場の仕方なんですよね。ていうのは、私でも知っているぐらい倭建というのは有名でしたから、いつ出てくるのかなぁ、天皇になった人じゃないそうだから、天皇ではないわけだけれども、いつどんなふうにして出てくるのかなぁということで、非常に楽しみにして読んでいたんですよ。
 で、まだ出てこないな、まだ出てこないな、というふろにして読んでおりましたら、これは資料の「3、フタヂノイリ毘賣(後方参照)というのがありますね。その(1)。これは11代垂仁記の冒頭記事からの読み下しなんですけれども、そこにですね、この天皇さんが、山代大国の淵という人の娘、苅羽田刀辮という人を娶って、布多遅能伊理毘賣という子を生んだという記事があります。で、この11代の天皇の子供たちが誰だれの祖先であるとかって書いてある中に、〔次にフタヂノイリ比賣は〕と書いて、それからちっちゃく〔倭建の后と為る〕って書いてあったんですね本文じゃなくて小さな注記です。これを読んだ時に、「おっ、やっと出てきた、倭建というのが出てきた」と。だけど、ここまで倭建っていうのは全然ないわけですから、そいじゃ、ここで生まれた女の人が后となる倭建というのはどこから出てくるのだろうと思いながら、どんどんどんどん読んでいくわけですね。で、11代記には全然出てこない。そして12代景行記に入りますと、さっき最初に説明した「冒頭后子記事」っていうところにですね、いきなり「又、倭建命の曾孫」うんぬんっていうのが出てくるんです。ここで私、大いに面食らったんですね。なぜかと言うと、全然、倭建っていう人が生まれてないんですよ。天皇の子供として。生まれたって書いてないんですね。にもかかわらず、その子供たちの説明のところに入ったら、いきなり何の説明もなしにですね、倭建命の曾孫とかですね、それからあろうことか、この倭建命というのが太子になったと書いてあるわけですよ。ところが、それまでの私の知識、『古事記』を普通に、頭から順繰りに読んできた知識ではですね、倭建が何者だか全然わからない。こういう出方をしてくる人物っていうのは一人もいません。『古事記』の中では。他の人たちはみんな明らかに出てくる前に素性が知れています。他の『古事記』のところの書き方でいえば、たとえば冒頭の「后子記事」のところで、「次に小碓命、小の名は倭男具那命」これに続けて、「亦の名は倭建命」とあるはずです。あるのが『古事記』の普通の書き方なんですね。そうすると、「あっ、あの小碓命というのが、あの倭男具那であり、倭建なんだな」ということが最初に分かりますから、その次に倭建命の曾孫がどうしたとかですね、それから倭建は太子になったと書いてあっても、あっ、これはあの小碓という人のことなんだな、景行の子供のことなんだなということが分かります。けれどもそれが全然書いていないから、いきなり出てくる倭建というのは何なんだろうとしか分からない。
 で、何なんだろうな、何なんだろうなと思っているうちに、やっと小碓の熊曽退治というところまで読んだ時に初めて、熊曽がこの名前をあげたというのを読んで、「あっ、そうなのか、なあんだぁ、倭建っていうのは小碓のことだったのか」と、やっとここまできて初めて分かるわけです。これはとっても不思議な書き方だと私は思います。
 ともかくこういう熊曽退治の話がありまして、それから続いて今度は、それとそっくりの(5)「倭建の出雲建退治」というのが9行あります。これには歌謡が1行含まれています。これは出雲建という人を小碓が騙し討ちをしたと。で、だまし討ちをする時に、こういう歌をうたったというだけの話です。なにか政治的な理由があったのかもしれませんが、(4)(5)は一連の記事のように良く似ていまして、熊曽建を退治する、それから出雲建を退治しました、ということで、小碓イコール倭建の武勇伝はここでもう完結したように見えます。

倭建の事跡

 ところがですね、またその後に(6)、今度は大々的に「倭建の事跡」というのが始まります。で、始まり方は(4)の熊曽建退治の始まり方と一緒でして、またもやお父さんの天皇さんが、今度は東方十二道を成敗してこい、というふうに命令をするわけです。けれどもこれが、同じ倭建の事跡でも(4)(5)とたいへん違うと思いますのは、(4)(5)の方は話が非常に簡単なんですね。ところが(6)は同じ形をとっていながら話が非常に緻密です。で、おばさんに何かを、道具をもらいにいくっていうか、おばさんの助けを得るところもですね、伊勢に行っておばさんに会ったと、そして草薙の剣をもらったと、非常に具体的に細かく書かれています。ところが、熊曽建退治の時には、おばさんに衣裳を借りたと、それから剣を持って出掛けたとしか書いてありません。だからおばさんがどこにいたものやら、なんでこのおばさんのところへ行ったものやら、剣だって何の剣だかさっぱり分からない。(4)はそういう書き方です。ところが(6)は非常にそれが詳しく詳しく書いてあります。(4)は 103行、内容は東方十二道を征服して、死ぬまで。十四の歌を含んでいます。歌物語の形式です。
 まず1).、出発の経緯。お父さんからこう言われて、伊勢へ出掛けて、おばさんのところで、「またもやお父さん、私に行けというのは私のことを嫌いなんだろうか。私なんか死んでしまったらいいと思っているんだろうか」というふうにおばさんに泣き言をいって、で、おばさんに不思議な宝、袋とそれから草薙の剣をいただいて、それで出発しました。というのが11行あります。
 続きまして2).、尾張に行って、ミヤズ比賣という人のところに寄るんだけれども、この人と性的交渉をするのは征服が終わってからにしようということで、東の国へ出掛けました、という次第が 3行あります。
 続きまして3).、相武国造というのをテーマにした話が 7行あります。
 それから今度は4).、走水、浦賀水道にあたるというのが妥当なのかと思いますけれども、その浦賀水道を渡りましたという話が、主として一緒に連れて行っていた妻の弟橘姫が、水の神様を鎮めるために人柱となったという、その話に力点を置いて、1 行の歌謡を含めて9行、美しい物語として描かれています。
 続いて5).、足柄の神を退治しました。そして山に登って「あづまはや」というふうにため息をついたと。それでこのあたりをアヅマというようになったんですよ、というアヅマの名の由来が6行書かれています。
 続いて6).、酒折宮の老人、これは甲斐ですよね。酒折宮の老人と歌のやりとりをしまして、うまいこと歌をうたったというので、その人を東国造にしてやりました。という話が6行、歌謡が2行入ってあります。
 それから7).、尾張の美夜受姫との交流。これは私が非常に好きで大きく扱っている部分なんですけど、これが歌謡が6行、たくさん入っていまして、尾張のミヤズ姫と結婚した次第が書かれています。それから尾張のミヤズ姫のところを出発しまして、
 8).、イブキ山の神をとろうと登山したけれども、逆にやられて下山しました、という話が7行。
 次に9).、旅の途中、具合が悪くなり、三重の能煩野というところで、ついに死にましたという次第が23行、死ぬ間際にいろいろ歌った歌を7行含んであります。
 それで10).、この死を悲しんだ家族、妻とか子供が、タケルの倒れた地にやってきて、それからタケルが白鳥になって飛んでいって、それを追っていって、そして河内に、もう一度御陵を造ったという次第が、歌謡4行を含めて18行書かれています。

倭建の后子記事

 以上があったのに続けまして、(7)に、倭建の「后子記事」というのが15行あります。これは行数で比べていただいてそんなに的外れにならないと思うんですが、冒頭の「后子記事」、天皇自身の「后子記事」が18行でした。それと見劣りしない長々しい后子記録が倭建の場合にはついているわけです。天皇にもならなかった人の后子記事がこんなに載っているというのも異例なことです。この理由はひとつには明らかでして、この倭建、『古事記』や『日本書紀』の文脈の中では天皇にはならずに死んだこの皇子の息子が、次の次の天皇になるわけですね。この景行さんが12代。13代目が成務という景行さんの息子がなって、そして14代目には、この倭建の息子が天皇位に即くわけです。その関係から、ここに長々とこの倭建という人の后と、子供が記されています。

小碓の資料と倭建の資料は別物

 以上が、いわゆる景行記、大帯日子オシロワケ天皇について書いた『古事記』の全体の構成なんです。
 さて、先程ご説明しました景行記、話の筋を説明する問に、私が不思議だと思った箇所なども説明したので、だいたい予測はおつきかとも思います。第一に、〔亦の名〕っていうのをですね、〔亦の名〕が誰だれであると、ただそれが書いてある時は、そんなに別段怪しむ根拠もなにもないんですが、しかし、こんなふうに〔亦の名〕で続けることによって、ふたつの人物の在り方がつながっているような時には、これはもうほぼ間違いなく、関係ない資料から持ってきて繋げたものだというふうに考えるわけです。関係ないというのは、元の資料を見たわけではありませんから、もしかしたら小碓という人の異伝としてですね、倭建の物語があったのかもしれない。それは分かりません。まあ、私の推測ではほぼ別人なんですけれどもね。でも間違いなく言えることは、大碓・小碓の、たとえば(2)(3)などという話ですね。この(2)(3)に書かれているような大碓・小碓という人たちのことと、その親である天皇との関わりということを書いた資料とですね。それから倭建という人の物語を書いた資料とは、間違いなく別の資料であったろうと、いうふうに私は思うわけです。この景行記というのを書いた人はですね、この資料に書いてある大碓・小碓の小碓という人は、こっちの資料に書いてあるこの倭建なんだと、何か根拠があったんでしょう。その人なりの根拠が。そういう根拠があって、〔亦の名〕は倭建であるというふうにして、これをつないでしまったに違いないと私は今思っています.
 そのわけは、さっき一度お話した倭建の出て来かたがすごく変であると。小碓というのが幼名で、それから大きくなってからは倭建になったんだという、そのことを一連の続きで書いてある資料があったとしたならば、こういう変てこな出て来かたはしないと思うんですね。くり返しますが、最初には倭建は何者だか全然わからない。やっと熊曽退治のところまでいって分かるようになる。
 こういう出て来かたは、これもどういうふうにして『古事記』というものが書かれたかっていうのが私の大きな興味なんですけれども、どなたに聞いてもちょっと分からないんですが、私の受けた感じでは、紙や墨というものが非常に貴重だったのかどうか、まるでノリとハサミで、必要なものを切り貼りしたような印象をうけるんです。もし私が二つの資料を元に小碓というのは倭建であるというふうな論を立てたとします。そうしてこの景行記というものを書いたとしたならば、もつとスムーズに、頭からあの小碓は倭建なんだよってことが誰が読んでも分かるように、きちんと整理された形で書いたと思うんですね。けれどもそれがなされていない。大帯日子オシロワケ天皇の子供として、〔小碓命、亦の名倭男具那命〕、そこまでの資料はあったんだけれども、その倭男具那が倭建なんですよ、というふうに続いている資料というのはなかったということが、この冒頭の后子記事の書き方を見ると十分に推測できると思うわけです。

異常な結婚

 倭建のこういう出て来かたは、先程も言ったように、『古事記』の中でも異例で異常なことです。それから異例で異常なことは他にもありまして、私の資料の2、に「倭建の后子記事の図示」というのがあります。(a)(b)(c)はそれぞれ別の后の子です。これを見ていただくとよく分かると思うんですが、ここにはとんでもない歪みというか、信じられないような結婚が行なわれているんですね。ひとつには、景行(大帯日子オシロワケ天皇)がですね、(a)の方から勘定すると、倭建の曾孫と結婚しているわけです。これは確かに天皇さんというのは、ずいぶん離れた結婚もするし、現代の常識からするとだいぶん若い奥さんをもらったり、それから近い関係の、お母さんの違う兄弟と結婚したりすることもあるみたいですけれども、しかし、『古事記』という世界を見回した時に、これが異常なんですよ。古代はどうだったかは知りませんよ。だけど『古事記』の世界の中では、こんなに飛び離れた結婚というのは、ここにしかないんですね。
 それからここにはもうひとつ、(b)との関係もあるわけです。(b)はある妻としか書いてない、これも非常に異常なことなんですけれども、妻の名が明かされていないんですね。ある妻の子として、息長田別王という方が生まれた。この人からたどっていきますと、これが倭建の子ですから、景行さんは、曾々々々孫と結婚しているんですよね。これはね、『古事記』の世界の中で見て、異常なことなんですよ、そりゃ、異常なことなのが、景行の特色であって、古代にはこういう結婚もあったんだとか言われると、そうかなっていう話になってしまいますが、私はそういうのはちょっとおかしいと思います。やっぱり『古事記』というのはひとつの書き物ですし、『古事記』が成立した時代から考えても古い時代のことを書いているわけですから、あんまり突拍子もない婚姻関係というのは、おそらく避けただろうと思うんですね。だからおかしいと思って検討をし直して、あまりおかしい資料というのは、たぶん信憑性をもたせるために、『古事記』を成立させた時代の人も取り入れなかったろうと。こういう記録を書いた人もね。そんな気がして仕方がないんです。
 だから、『古事記』を作る時に、もうすでにこういう系図があったんだろうとは思うんですが、これはとっても異常なことだ。この異常は、たぶんどっかで生まれたに違いない。それはたとえば、ある妻の子というのが、とてもこれがおかしいわけですよね。なんで名前が書いていないんだろうと。ということを考えていくと、これはたぶん名前を明かしてしまうとですね、それがこの倭建という人の妻ではなかったということが、その当時としてはバレてしまうとかですね。何かそういうのっぴきならない事情があって、ある妻の子というふうに名前を伏せたんだろうと私は思うわけです。これが、ある妻の子というのが、こういう不自然な系図につながっていなければね、他の可能性もそりゃ考えられますよね。たまたま名前が抜けてたんだろうとか。だけれども、ある妻の子としてあげられた系図を、この景行記の文脈の中に並べると、こんなに異常な系図になってしまう。このことはとてもおかしいなと思うわけです。
 それからどこでおかしくなってるかと考えてみると、倭建を景行の子供に置いたからなんじゃないかと。倭建が景行の子供でなければですね、少なくとも倭建が景行よりもずっと上の方に年代が上がるとすればですね、その曾孫だか曾々孫だか、なんだか知らないけれども、そのずっと下の方の子孫と景行が結婚したという話も、全然おかしくなくなるわけですね。そうするとこれはまったくの推測でしかありませんですけれども、たとえばの話が景行よりもずっと前に倭建という人がいて、その倭建の下にいろいろ子孫がいて、その子孫の一人と景行、大帯日子オシロワケという天皇が結婚しましたという資料がひとつあったと。しかしながら、なんらかの事情でこの倭建というのをですね、景行よりも新しくしたかったと。そいじゃ、何でも子供にくっつけるのが得意ですからね、じゃこれ景行より子供にしたらどうだろうというような考えが働いて、子供だという解釈ができてしまったために、あるいはもう少し政治的な理由で景行とどうしても仲哀をつなげなきゃならないというような政治的な理由があっために、倭建の時代を景行よりも下にしてしまった。そのために系図が歪んでしまったのだろうと。そういうふうに考えると、まあ系図の歪みというのは納得できるわけですね。
 同時に、景行の子の小碓が倭建というのは怪しいな、ということも非常に納得できるわけです。ああ、やっぱりそういうふうに歪めてくっつけちゃったからであって、もともとの一連の資料としては、「倭建=景行の子」ということではなかったんではないだろうか。そう思うわけです.

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◎資料2、倭建の后子記事の図示

『古事記』と遊ぶ◎資料2、倭建の后子記事の図示 中山千夏

参考
若建王 (a) 弟比賣橘の子
息長田別王 (b) 一妻の子
帯中津日子命(仲哀) (c) イクメ天皇の娘フタジノイリ比賣の子

二人のカリハタトベ

 実は、倭建という人が景行の、子供ではない世代のところにある資料、それが他にあったのではないかという片鱗が『古事記』にいくつかあるんですね。その片鱗のひとつが資料3、に書いた布多遅能伊理毘賣という人なんです。


◎資料3、フタヂノイリ毘賣

(1) 11代垂仁記冒頭の后子記事より
〔イクメイリビコイサチ命、・・・。又、丹波ヒコタタスミチウシ王の女、氷羽州比賣命を娶り、生みし御子は.・・・。次に大帯日子オシロワケ命。次・・・〕
〔亦、山代大国の淵の娘、苅羽田トベを娶り、生みし御子は、落別王。次・・・。又、其の大国の淵の女、苅羽田トベを娶り、生みし御子は、石衝別王。次に石衝毘賣命、亦の名はフタヂノイリ毘賣命。・・・〕
〔凡そ此の天皇の御子等は十六王。・・・次に石衝別王は羽咋君、三尾君の祖。次にフタヂノイリ毘賣は倭建命の后と為る。〕

(2) 9代開化記(説話無し)
〔若倭根子日子大ビビ命、・・・。又、丸邇臣の祖、日子国オケツ命の妹、オケツ比賣命を娶り、生みし御子は、日子坐王。・・・此の天皇の御子等は、併せて五柱なり。・・・次に日子坐王、山代の荏名津比賣、亦の名を苅幡トベを娶り、生みし御子は、大俣王。次・・・〕

(3) 苅羽田トベを11代垂仁世代に合わせた(1) (2) の図示

『古事記』と遊ぶ ◎資料3、フタヂノイリ毘賣 中山千夏

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 このフタヂノイリビメという人は倭建の后の(c)ですが、11代の伊久米天皇の娘です。11代天皇の娘というのと、倭建が結婚をするわけです。フタヂノイリ毘費という人は、11代天皇とどういう関係で生まれてきたかと言いますと、資料3の(1)の二つめの〔 〕に書いてありますように、山代大国の淵の娘苅羽田トベ(刀辮)を11代の天皇さんが娶りまして、いろいろ、子を生みます。それからその同じ大国の淵の娘、弟苅羽田トベ、これは苅羽田トベの妹という意味ですね。その弟苅羽田トベを嬰って生んだ子が、〔石衝別王、次に石衝毘賣命、亦の名は 〕、これがまたね、またここで「亦の名」が出てくるんですね。でもまあ一応亦の名はフタヂノイリ(布多遅能伊理)毘賣である。で、この人が倭建と結婚をして、帯中津日子を生む、これが仲哀になる、という形になっているわけです。
 ところがですね、『古事記』の中には時折、まったく同じ名前が違う表現で、あたかも違う人物であるかのように出てくる場合があるんですね。これ、私ちょっとあることで気がついてから輿味をもって、あらゆる『古事記』の中の人物の名前を年代順に書くっていうのをやってみたんですよ。で、そこで発見したことがいろいろあって、これもそれと非常に関係の深いひとつなんですけれども、9代天皇の開化の記録にですね、こういう一節があるんですね。資料3、の(2)です。〔次に日子坐王、山代の荏名津比賣、亦の名を苅幡トベを娶り、生みし御子は、大俣王。次・・・〕と。こういう記録があるんです。この日子坐王とは何者かといいますと、9代開化の息子なんですね。これも異例のひとつなんですが、9代開化の息子というだけで天皇にも何もなっていません。名前がここに出てきて、次の10代目の天皇のところで、誰かをやっつけたというようなちょっとした事跡が、1、2行出てくる、それだけの人物です。それが膨大な、その当時の8代目、9代目あたりの天皇と比べても見劣しないほどの「后子記事」をもっているんですね、なぜか。で、その中のひとつに苅幡トベというのが出てくるわけです。
 片一方、11代の后は「山代大国の淵の女苅羽田トベ」、片一方、日子坐王の后は「山代の荏名津比賣、亦の名苅幡トベ」なんですよね。山代が共通していること、それからカリハタトベというまったく同じ名前であること、『古事記』の中でね、関係が無さそうなところに、まったく同じ名前が出てくるっていうのはね、私が調べたところでは、例もないんです。飛び離れて、『古事記』の文脈の中では関係が無さそうだけれども、あるんじゃないかなと思って疑ってみるとね、かならず同じ名前は同じ人物として通用する解釈がありうるんですね。で、それを発見していたものですから、これは同じ人なんじゃないかと。カリハタトベというのを、こちらの「山代の荏名津比賣の亦の名苅幡トベ」として記した記録とですね、それからもうひとつ「山代大国の淵の女苅羽田トベ」というふうにして記した記録と、同じ人物について二様の記録があったんじゃないかなというふうに思ったわけです。その二様の記録の片方を9代開化記の方に載せてですね、そのもう片方が倭建命の后子記事の方に表れているんじゃないか、実はこれは同じ人物なんじゃないかというふうに思ったんです。
 で、資料3、の(3)に、この両者の系図を、カリハタトベが同じ人だとして、並べて考えてみたものがあります。右側が倭建の系図に出てきている山代大国の淵の二人の娘、苅羽出トベと弟苅羽田トベです。左側が9代開化記、日子坐王の系図に山てきている、山代の荏名津比賣、亦の名苅幡トベの系図です。そしてこの日子坐王の左の方に点線で書いてありますが、これは私の推測です。つまり日子坐王の方にも弟苅幡トベの記録があったんじゃないかと。その弟苅幡トベの記録があったんじゃないかと思う一つの理由は、こうやって並べてみるとなおさら類似点が目立つんですけれども、カリハタトベという人は、11代垂仁のところに出てくる苅羽田トベという人も、落別王以下三人の王と名のつく人を生んでいるわけです。で、日子坐王の方の山代の荏名津比賣、亦の名苅幡トベもですね、大俣王と名は違いますけれども、大俣王以下三王を生んでいるわけです。このカリハタトベという者は、全体の形からして、名前がそっくりであるだけでなく、三人の王と名のつく子供を持っていたという点においても非常によく似ています。そこから類推して、弟苅幡トベというのが、たぶん日、日子坐王の妻として書かれていた記録があったのではないかと私は考えたわけです。そうするとフタヂノイリ毘賣は、日子坐王の子供世代、開化の孫世代の人にあたります。それが倭建と結婚するとしますとですね、今の『古事記』の年代にあてはめると、開化が9代ですから、倭建は11代世代になるわけです。こういう系図から持ってきて、11代世代倭建を12代世代の子供として置いてしまったというあたりがですね、非常な歪みを系図の中にもたらしたのではないかと私は考えるわけですね。

二人のカグロヒメ

 それからもう一つはですね。カグロ比賣っていう人が出てくるんですよね。系図っていうのは、ややこしくて頭がおかしくなっちゃうんですけれども、この詞具漏比賣っていうのがまた不思議でして、私の資料1、の最初の東行の「后子記事」がありますね。この中にマークがつけてある詞具漏比賣。〔倭建の曾孫、名はスメイロ大中日子王の女、詞具漏比賣を娶り、生みし御子は〕というふうに書いてあります。資料2、にそれを図示してあります。景行記の中で、倭建の系譜と合わせて景行記がいわんとしているカグロ比賣の位置というのはここです。倭建の、子供に若建王、その子供に須賣伊呂大中日子王、その子供にカグロ比賣命。これと景行さんが結婚したというんですね。
 ところがところが、カグロヒメというのが実はもう一人いるっていうのを、『古事記』の中でみつけたわけです。それはどこかと、言いますと、資料4、「カグロ比賣」のーの (1)に書いておきましたが、15代応神記、その冒頭の「后子記事」にあるんです。この応神、ホムダワケ命がいろいろお嫁さん娶って、子供を生んだという最後の方にですね、〔又、迦具漏比賣を娶り、生みし、子は、川原田郎女〕ってたった1行あるんです。この迦具漏比賣っていうのは、さっぱり素性が分からないんですよ、母子とも。なあんかどっかからね、持ってきて取ってつけたみたいに、ここに迦具漏比賣ってのがあるわけで、素性が全然わからない。だいたい応神の后子というのは、他の世代とスライドさせると良く似た形をしていることもあって、私はこれをめっけたんですけれども。こういう同じ名前があった時には、私は単純に同じ人だと思うんですね。字はやや違っていますけれども。カグロ比賣というのが、応神世代、応神が結婚してもおかしくないところに、このカグロ比賣という人がある、そういう記録があったんじゃないかと、私は考えるわけです。
 そうしますと、カグロという人が、応神と結婚していい世代の人だとしますと、応神っていうのは『古事記』の中では15代ですから、15代を基準にしてカグロから逆にたどると、倭建という人は10代世代にあたるわけですよね。そうすると当然これも12代の景行の子供ではありえない世代にあたる。他にもいろいろな点を考えて私はそういう結論を出したのですけれども、おそらく、倭建の、子孫のカグロ比賣が応神の后であったという資料があったに違いないと。で、そんな資料を寄せ集めて、倭建という人を無理矢理景行天皇の子供とイコールに結んでしまったのが今の『古事記』の姿なんだ。その無理が、とんでもない系図を生んでいるし、それから倭建の登場の仕方が大変おかしいということを生んでいると、そんなふうに思います。

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◎資料4、カグロ比賣

(1) 15代応神記冒頭の后子記事より
〔品陀ワケ命・・・又、迦具漏比賣を娶り、生みし子は、川原出郎女。次は・・・〕

(2) カグロ比賣を15代応神と合わせた図示
 『古事記』と遊ぶ◎資料4、カグロ比賣 中山千夏

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倭建は倭王武?

 じゃ倭建という人は何だったのかと言いますと、これはとっても私のまた飛躍した想像なんですけれども、倭国の王様だったんじゃないかと思うんですね。というのは、『常陸国風土記』っていうのにね、倭武天皇っていうのが出てくるんです。これは、もちろん研究者の問では有名なことのようですけど。で、私もその『風土記』を読んだんですけれども、実に倭武天皇ってのは、具体的に『風土記』のなかではほうぼう歩き回って、いろんな事跡を残しているんですね。で、大橘比賣っていう奥さんも出てくるんですよ。これは普通、「記・紀」の倭建のことだって言われてます。だけど私が読んだかぎりでは、天皇になってない人を天皇と呼ぶことは、『風土記』ではないんですよね。たしかに神功皇后、息長帯比賣のことを「息長帯比賣天皇」と書いてあるところがあるんです。だけどこれ、よく見ますとね、時期的に夫の天皇が死ぬ時までは皇后と書いてあって、死んだ後のことだなと思われるところではじめて天皇って出てくるんですよね。だからそういう意味では『風土記』というのは、とても正確に天皇というのを使っている、それから他の『風土記』では宇治天皇とか、『古事記』にはない天皇が出てきますよね。でもそれは考えようによっては天皇であった時期がありうる人なんですよね。宇治天皇なんかは、仁徳と天皇を譲り合って、その譲り合う間に貢物を持っていく人がどっちに持っていったら良いものか迷ったというような記事があります。だからその迷ったというのはひとつの見方であって、実は宇治の方がその時天皇さんだったんだという見方もあり得る。『古事記』に書いてあるままでいくと空位時代ができてしまいますから、その空位時代が実は宇治天皇の時代だったんだっていう解釈ができるわけですよ。
 けれども倭建に関しては、絶対できないわけ。『古事記』にはいつ景行が死んだか、書いていないわけですよね。で、どうもこの『古事記』の文脈でいきますと、景行がいて、景行が生きている間に倭建がいろいろと冒険をして死んで、それから景行が死んだ後に、その息予の成務が皇位に即くわけです。その間に何のもめごともないわけですね。『古事記』をどう解釈してもですね、どう無理に解釈しても倭建を天皇と呼べるような状況はなかった。全然なかった。にもかかわらず、『風土記』が倭武天皇というのを出して、そして、その事跡をこと細かに書いているのは、倭武天皇というのが別にいたに違いない。
 学者のある説では、『古事記』や『日本書紀』のヤマトタケルというのを非常に大きく扱って、その結果それを誇大視して、倭武天皇というようなものを『風土記』は創出したんだという意見もあるみたいですけれども、それは絶対違うと私は思うんですね。なぜかと、言ったら、『古事記』の真似をして創ったとしたら、タケルっていう字が「建」のはずなんですよ。それでもし、『日本書紀』の方を真似したとしたら、「日本武天皇」のはずなんですよ。『日本書紀』は必ず「日本」って書くんですからね。『古事記』が「倭」と書くところ全部「日本」ですから。そうすると「日本武天皇」か、「倭建天皇」なら言えるんです、どっちかの真似したんだなと。「倭武天皇」って独特ですよね、考えてみると。で、これはそういう人が別にいたんだと。
 これはおそらく、あんまり似すぎてて嫌になっちゃうけれども、「倭の五王」に「倭王の武」っていうのがいましたよね、あれとなんか関係があるんじゃないかと。あれそのものっていうのは、時代的にちよっと問題があるかもしれないけれど、もしかすると『古事記』や『日本書紀』の時代が間違っているかもしれないし、倭武天皇っていうのは、あの『宋書』に書かれている倭王武、倭の武という、これにぴったりじゃないかと。朝鮮の史書なんかですと、まったく同じ名前の王様がまた繰り返し、偉い王様が持っていたのを讃えて名前がついたりするみたいですから、そういうこともあったのかもしれないけれど、倭武という書き方そのものが、非常に「倭の五王」を思わせる。これは倭国の王様じゃないかなと、こんなふうに私は思っているわけです。
 とにかく王様に違いないと思うことの一つは、さっき説明した、103行にわたる東方十二道へ行った時の物語、これはおそらくちゃんとした記録よりは物語的になっていると思いますけれども、これがもう何よりも雄弁に語っている。ひとつには、草薙の剣・鏡・伊勢神宮といったようなものと天皇や王子との関わりは、『古事記』の中ではほとんどというかまるでと言っていいぐらいありません。この倭建にだけあるんですね、伊勢神宮へ行って、おばさんから草薙の剣をもらったと。玉は出てきませんけれども、そんな話があるのはこの倭建だけ。草薙の剣というのは王統の象徴ですから、その王統の象徴を持って闘うことができるのは天皇に違いない。だからこの一事をとってみても、あの倭建というのはある権力の天皇であったろう。あの神話、草薙の剣というものが大切にされている三種の神器を大切にしていた、それは私の見たところでは、どうも大和朝廷ではないんですけれども、三種の神器を大切にしていた朝廷の王様であったと。それから、もうひとつは陵を造ったという記事が大々的に倭建のお話の中にあります。天皇にもならない人の、陵を造ったという話はとっても異常です。だから、これは逆にこの人はやっぱり天皇的な人だったに違いない。
 それからとても印象的な問題は、お葬式の間に、お葬式のエピソードの間にいくつかの歌が記されています。こういうふうに書かれているんですね、その一番最後に。「この四つの歌は、みんなそのお葬式に歌ったのだ。それで、今に至るもその歌は、天皇の大いなる御葬式に歌うのだ。」と、これは私の訳ですけれども、そういう、やさしく言えばそんなふうに書いてある。そのお葬式に歌ったのだという「その」というのは、倭建のお葬式に歌ったということです。これ、ふつうに読み過ごすと、ああそうかで済んでしまいますけれども、よく考えたら変ですよね。天皇にもならずに死んで、しかも長男でもなかったわけです。その子のお葬式に歌った歌を、後の世の天皇のお葬式になんで歌うんでしょうね。私はこれはとってもおかしいことだから、やっぱりこのエピソードがもともと含まれていた資料の中では、倭建は天皇だったんだと。だからこそ、この偉人な天皇が死んだ時のお葬式の歌が、後々の世の代々その、子孫の天皇たちが死ぬたびに、そのお葬式の歌が歌われていたんだと。そういう文脈だったと私は思うんです。この倭建というのは、だから非常に天皇的な人物である。で、どこの天皇かといえば、たぶん、古田さんが言うところの、九州倭国の「倭の五王」の一人だったんじゃないかと、いうふうに夢を膨らませているわけです。一度みなさんも景行のところは、読んでですね、私の話が妥当かどうか、なるほどそうも考えられるかとか、バカみたいとか、考えてみて楽しんでいただけたらと思います。

古代の音韻

 さてそこで、えぇ何時まででしたっけ、ああ大変だ、急がなくちゃ。これからは本当のお楽しみです。資料の一番最後に、「古代の音韻」というのがあります。「景行記よりミヤズ比賣の歌」。平仮名で書いてありますが、元の表記は漢字です。漢字を仮名みたいに使って書いてあるわけです。ただし、今の平仮名では書き表わせない字があります。ていうのは、これはもうだいぶ前に発見されていたことなんですけれども、奈良時代にはですね、どうも今の日本語よりもたくさんの音韻があった。で、それが『古事記』の書き方を分類していくと、どうも必ずこの時の「オ」はこの字を使っている、こっちの「オ」はこっちの字を使っている。ちゃんときっちりと書き分けられていたもので、それを細かく研究した学者があって、音がもっとたくさんあったというふうに結論づけて、それがそうだろうということになってきました。今だいたいまとまっている結論では、音節の数が八十八音あった。今よりだいぶ多いわけですね。

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◎資料 古代の音韻「景行記より、ミヤズ比賣の歌」

たかひかる ひのみこ やすみしし わがおほきみ

あらたまの としがきふれば あらたまの つきはきへゆく

うべな うべな うべな

きみまちがたに わがけせる たたなむよ おすひのすそに つきたたなむよ
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 それで、その音自体がどう発音されていたかというのはまあちょっとした推測しかなかったんですけど、それを非常に綿密に考えて推定をしてきたのが、私がお知り介いになった森博達さんという先生なんですね。彼は中国語の方から入りまして、中国語にもなんか難しい古代音というものがあるそうですけれども、ちょうど日本のこういう文字が使われていた時代に、その文字が古代、同じ時代の中国でどのような音で読まれていたかということを非常に詳しく、これもなかなか分からない、発見するのが大変みたいなんですけれども、その推定を事細かにやっていきまして、それから逆に『古事記』や『日本書紀』で使っているこの漢字は、たぶんこういう音ではないだろうかということを出していったわけです。
 今のところ彼の研究が行きついたところを言いますと、「アイウエオ」っていうのは、だいたい今と一緒なんですけど、「エ」っていうのが二重母音っていうんですか、「ウェ」っていうのに近い音だったようです。それから「オ」というのがですね、「ア」っていうような口の形をして喉の奥の方で「オ」って言うんですね。今はもう発音するのも難しいし、聴いてもなんか違いがあんまりよく分かりませんけれども、そんなふうに昔の人はきちんとしゃべり分け、きちんと聞き分けていたようです。それから、「カキクケコ」になりますと、「キ」と「ケ」と「コ」は二つ音があります。「キ」は「キ」という普通の現在に近い「キ」と、奥舌っていうらしいんですが、奥舌で発音する「キ」。それから、「ケ」も普通の「ケ」と、「クェ」というふうに二重母音で発音する「ケ」と二つあった。それから「コ」も、今の普通の「コ」と、さっきお話した奥の方でいう「コ」ですね。だから「カ」行は、八音あったというわけです。これと同じようにして、他の行も音が多くて、今も同じような音でも、少し違ってたりした、らしいですね。聴いたことないんで、本当は学者だって分かんないんですよ。でも彼が言うにはそういうことです.

ミヤズヒメの歌

 私はそれを聞いたときに、やぁもう『古事記』に出てる歌全部それに当てはめて教えてよ、と言ったんですけれども、なかなかどうも学問というのは、学者さんがする時にはそう無責任なことはできないらしくて、本当にこれは確実だと思える歌だけ教えてくださいました。森博達さんは大津に住んでいて、私は東京なので、親切にね、外国語の教育講座みたいなテープを作って送ってくれたの。それを私は一所懸命練習をしまして、それである程度歌えるように、歌えるというか言えるようになったんです。復元は発音よりアクセントの方が難しいんですって。というのは手がかりがないんですね。昔の、なんていう本だったかな、古い本にこういう『古事記』や『日本書紀』の歌をのっけて、それにこう、アクセントをふってある歌の本があるんだそうです。そういうものがある歌に関しては、アクセントをきちんと把握できる。もちろん『古事記』の時代そのアクセントだったかどうかは、ちょっと分かりかねるんだけれども、でもまあまあこうだったんじゃないかというところまで、推定することができるわけです。そういうことで、一番最初にたまたまそのアクセントがある程度明らかになっている、ほとんど全面的に明らかになっている、景行記の中のミヤズ比賣の歌というのを、彼が復元してくれました。
 これはどういう場面かと言いますと、倭建が尾張の、ミヤズ比賣のところに行きますと、ミヤズ比賣が大歓待をしてくれるんですけれども、このミヤズ比賣の着ていた着物の裾に月経がついていたそうです。その月経を見て、倭建がある歌をうたったと、そういう場面です。そこをちょっと私の訳で読みますね。「その国から科野国へと越えて、さて科野の坂の神を説得し、尾張国へと帰って来た。そうして、先の日に約束したミヤズ姫のもとへ入りなさった。ここでたいへんなご馳走をさしあげたが、その時に、ミヤズ姫が立派な御酒杯を捧げてさしあげた。そこでミヤズ姫、そのオスヒの裾に月経が着いていた。それで、その月経を見ての御歌はこうだ」。

ひさかたの あめのかぐやま
とかまに さわたるくび
ひはぼそ たわやがひなを
まかむとは あれはすれど
さねむとは あれはおもへど
ながけせる おすひのすそに
つきたちにけり

 こんなふうに歌ったと。これを私流に意訳をいたしますとこうなります。「天の香具山をさっと渡りゆく白鳥よ。その白鳥みたいなしなやかな腕を、枕にして寝ようと楽しみにしていたのに、なんとまぁ、おまえの裾にツキタチが見えているよ、ずいぶん月日がたったんだな、ずいぶん待たせてしまったな」。ツキタチというのは、私はおそらく月経という文字は古代はツキタチと読まれていたに違いないというふうに決めているんです。その話には今日は立ち入りませんけれども、ツキノサハリだなんて絶対読まれてなかったといふうに決めているものですから、そういうふうに歌をうたったと。そこでミヤズ姫の答えた御歌、「ミヤズ姫、御歌にこう答えた」。

たかひかる ひのみこ
(高く光る日の御子)
やすみしし わがおほきみ
(やすみしし あたしの大君)
あらたまの としがきふれば
(新玉の 年が来て過ぎれば)
あらたまの つきはきへゆく
(新玉の 月は過ぎてゆく)
うべな うべな うべな
(そうよそうよそうよ)
きみまちがたに わがけせる
(君を待ちがたくて あたしの着ている)
おすひのすそに つきたたなむよ
(オスヒの裾に 月が出るのでしょうよ)

 これを意訳しますと、「私のすばらしい恋人よ。新しい年が過ぎれば、新しい月も過ぎてゆく。そうよそうよ。あんまり待たせるんだもの。ずいぶん月日がたったんでしょ。ついにツキタチになっちゃったわ」。こういうふうに歌った。私はなんてまぁ『古事記』というのは、おおらかな物語を載せているものかと感動をしました。『日本書紀』はなんだか気難しい書物ですから、このすばらしい部分を載せていませんけど、ここはとってもいい場面で、全然こう、ほとんど月経というものに対する見方が、もっといろいろあるんだなぁ、昔にもあったんだなぁということを思わせる。で、このミヤズ姫の御歌の方は、アクセントがはっきり掴めたらしいんですけれども、先の御歌の方はアクセントが掴めないらしくて、いまだに森さんは訳してくれないんですね。だからときどき内緒で自分で勝手にやったりしているんですけれども、知れたら怒られるかもしれませんね。で、いずれにせよ、今日は最後にですね、この歌を二、三度こういう音だったんだそうですよ、ということを皆さんにお聞かせして、終わりたいと思います。

 〔古代の推定音韻で「ミヤズ比賣の歌」を朗読〕

 いかがでしたしょうか。まあこういうふうです。難しいところを言いますとね、月の「キ」っていうのが今の「キ」じゃないんですよね。さっきご説明したあの奥舌の「キ」、英語と同じくらい難しいですね。それから後はもうだいたい何度か練習すると上手になります。皆さんもやってみたらどうですか。私はこれをテープに入れまして、森さんに送ったんです。そしたら彼がもう非常に喜びまして、古代人そのままだって、聞いたこともないのによく言えると思うんですが、非常に上手だって言って誉められました。だから、森さんの思うところでは、私の発音は非常に古代人らしくていいそうなんですよ。
 じゃあもう一回やりましょうか。それでおしまいにしますね。皆さんはなるべく目でも閉じてですね、裳というスカートのような美しいものを着た、髪はどうだったんでしょうね、そういうことの研究っていうか手がかりがなくって、もし絵に描いたらなんて時に困るんですけれども、どんなヘアースタイルをしていたんでしょうね。あっ、もう一つついでに言うと、この尾張のミヤズ姫っていうのは、「尾張国造の祖、美夜受比賣」こういうふうに紹介されているんです。一番最初に。『古事記』は父系制でほとんどは書かれていますから、女性を誰とかの祖と書くことは本当に数えるほどしかないわけです。けれども逆にいうと数えるほどあるってことはね、女系の系譜なり女系の伝承なりが残っていたということですよね。私の祖先は何々というおじいちゃんなのよって言うんじゃなくて、何々というおばあちゃんなのよって言っているわけですから。なんか他のいろいろな史料の研究でも、日本には女系の系図というのがあったんだそうです。ちらっと聞いたことがあります。で、『古事記』の中の系図も詳細に捜し出すとすれぱ、あると私は見ています。この尾張のミヤズ姫というのは、たしか尾張国造だったと思いますが、とにかく祖ミヤズ姫というふうに、この人のお父さんでも兄でもないミヤズ姫そのものを祖とする考え方が出ているんです。だから、この尾張のミヤズ姫というのは、一種の女首長でね、たいへん威容を誇っていた人なんじゃないか。そこに倭国から来た、倭建が行って、その大きな国のお姫さまと結婚をすることで、また政治的な力をですね、名古屋の方にまで拡げて行ったんじゃないかなって思っているんですが、そういうお姫さまだとしたならば、だいぶ唐風なんかも取り人れて、当時は唐風とは言わないんでしょうけれども、なんか中国風の頭なんかをしていたかもしれないななんて思うんですが、まあとにかくそんな女の人を想像して聞いてください。

 〔古代の推定音韻で「ミヤズ比賣の歌」を朗読〕


講義要旨

この「講義要旨」は、中山千夏氏が講演会当日のために準備されたものです。氏から、理解の手助けに、と提供していただきました。(編集部)

A小碓と倭建

●小碓は倭建ではない
手がかり□1ーー「またの名」の不自然(資料1、(1)参照)
1). 原則として「またの名」は別資料をつなぐ時の方法である。
2). 小碓と倭建の場合、「またの名」のつながりが非常に不明瞭で不審。
*冒頭后子記事には、小碓=倭ヲグナとはあるが、小碓=倭建とは書かれない。
*同時に、他の場合の祖を記す時同様に、何の説明も無く倭建の名が登場する。
*特に(1)〔 〕の三つ目は注目に値する。立太子の記事では倭建、東西の神を征服したという記事では小碓と、名称を混用している。先入観無く読む場合、太子の倭建と将軍の小碓とは別人にしか見えない。
*名称の混用は、後には決して無い(熊曽のエピソードまでは小碓、以後は倭建)だけに、この有り様もまた、資料を接続したために生じた不自然と考えるのが妥当。
結論/小碓と倭建は別人(別資料)だが、熊曽退治のエピソードを使って同一とした。

手がかり□2ーー三人の太子の不自然(資料1、(1)参照)
1). 三人の立太子は他に例が無い。その理由が不明である。
2). 三人の内、(倭建=小碓として)二人にしか、冒頭で言及が無い。五百木入日子の動静は不明である。
結論/三人は別々の伝承上の太子であって、それが接合されたためにこの不自然が生じた。

手がかり□3ーー大碓の事跡記事と小碓の大碓殺し(資料1、(2)(3)参照)
1). 大碓の事跡記事は短いながら治世記録の条件を具えている。太子でもない王子について、このような記事があるのは異例。かつて大碓には治世記録があり、これはその名残であろう。
2). 右によれば、続く小碓の大碓殺しの説話は、すでに王位についていた兄を弟が惨殺した説話である。先入観をといて見れば、「天皇」の朝廷とは別に大碓の朝廷があり、「天皇」と大碓とが対立し、大碓の弟が兄を裏切って「天皇」に着いた、と読める。
結論/「天皇」と碓兄弟の関係は、ある資料では親子ではなく、対立勢力であった可能性が高い。碓兄弟そのものが、景行の子として集められた別資料の一部である。

手がかり□4ーー倭比賣登場の不自然(資料1、(4)(6)参照)
1). 一度目が熊曽国と出雲国、二度目が東方、二つの遠征がある。いずれもまず倭比賣の助力を得て出発するが、一度目のほうが二度目より説明が粗雑である。
☆一度目の記事 ーー〔爾に小碓命、其の姨倭比賣命の御衣御裳を給はり、劔を御懐に納めて行幸す〕
☆二度目の記事 ーー〔故、命を受けて罷り行く時、伊勢大御神宮に入り参りて、神朝廷を拝みて、即ち其の姨倭比賣命に曰すに、・・・とて患ひ泣き罷る時、倭比賣命、草ナギ剣を賜ひ、亦御嚢を賜ひて・・・。〕
 順番が逆ならまだわかるが、この順番はとうてい一連の記事とは思えない。
 結論/1度目の遠征記事は小碓を倭建と同人にするための説話であり、2度目の遠征記事は別資料の倭建伝承の冒頭である。

手がかり□5ーー系譜の不自然(資料1、(7) 資料2、参照)
1). 景行は曾曾孫もしくは曾々々々孫と結婚
2). 右は事実ではありえない。作りごとでもありえない。
(それならもっと自然な関係を造ったはず・・・)
結論/この不自然は、景行と仲哀とを祖父・孫としてつないだために生じた不自然である。すなわち、景行の子小碓を、仲哀の父倭建と同一にしたために生じた不自然であると考える。

 

●倭建の本来の系譜を探る
景行との不自然な関係を外して見ると、倭建の本来の系譜が見えてくる。

手がかり□1ーーフタヂノイリ毘賣(資料3、参照)
1). フタヂノイリ毘賣は倭建の妻、帯中津日子の母(資料2、)
2). フタヂは11代垂仁と弟苅羽田トベとの娘だとある(資料3、(1) )
3). ところが右の記事は「又の名」を使うことで、フタヂを垂仁の娘にしている。
4). ところで9代開化の子、日子坐王は「山代のエナツ比賣、又の名苅幡トベ」と結婚している。垂仁の后にも弟苅羽田トベの姉・苅羽田トベがある。(資料3、(1)(2) )
結論/名前が全く同じである点、山代大国淵の娘(垂仁記)と山代のエナツ比責(日子坐王)とが酷似する点、どちらも子が三王である点から、両者は同一人物であり、かつ、いくつもの資料(少なくとも二種類)に記されていた人物である。
1). 日子坐王の后に苅幡トベがある以上、妹も日子坐王と同世代とする。
2). 右によって、日子坐王(弟苅幡トベ)の世代を『記』のとおり10代世代に置くならばその娘フタヂは11代世代。これを后とする倭建も11代世代。子の仲哀は12代世代、すなわち景行と同世代になる。
結論/倭建の子・仲哀と景行をほぼ同世代とした資料があった。そして、仲哀を景行の孫世代に置くため、倭建の妻を垂仁の子に組み込んだのが現状の『記』である。

手がかり□2ーーカグロ比賣(資料4、参照)
1). 景行の后、カグロ比賣(資料1、(1) 資料2)。この結婚は世代が離れすぎていてきわめて不自然である。
2). また冒頭の后子記事(資料1、(1) )倭建命の曾孫、名はスメイロ大中日子王の女、カグロ比賣 ーー は不審である。曾孫は現状ではカグロ比賣にかかるしかないが、普通このような場合スメイロにかかる。
結論/従って、カグロ比賣は景行の后ではないと考える。
3). 応神記にもカグロ比賣という后がある(資料4、(1) )。景行の后子記事にこれを当てはめるとつまり応神とカクロ比賣が同世代とすると、カグロ比賣の父スメイロは14代仲哀世代。スメイロは倭建の曾孫というから、倭建は11代垂神世代。すなわちフタヂ比賣を日子坐王の系譜に合わせた場合と同じ結果が出る。
結論/やっぱり仲哀と景行とを同世代に置いた資料、すなわち倭建を11代世代に置いた資料が存在した。その資料では、倭建の曾曾孫カグロ比賣と結婚したのは、応神だった。

●倭建の正体
手がかり□1ーー伊勢神宮とクサナギ剣(資料1、(6) 1). )伊勢神宮建立の記事は『記』には無い。つまり『記』の朝廷とかかわりなく、伊勢神宮は存在した。伊勢神宮はアマテルを祭る。クサナギ剣はスサノヲからアマテルに移り、その後の経緯は不明だが、景行記現在では伊勢神宮の倭比賣が保持している。クサナギ剣はアマテルを祭る勢力の神宝である。それを使うことができるのは、アマテルを祭る勢力の「天皇」だろう。
手がかり□2ーー授号記事(資料1、(6) 6). )号を授けるのは「天皇」の仕事である。
手がかり□3ーー葬儀の歌(資料1、(6) 10). )葬送に際して家族が歌った四歌について〔是の四歌は、皆其の御葬に歌ひき。故に、今に至るまで、其の歌は、天皇の大御葬に歌ふ〕とある。太子のまま死んだ者の葬式の歌を、後の天皇の葬送歌に用いるのは不審である。天皇の葬式に歌ったからこそ、後の天皇の葬送に用いたのだろう。

手がかり□4ーー常陸国風土記
1). 『常陸国風土記』では「倭武天皇」が活躍する。
2). 通常、これは『記』『紀』の倭建、すなわち景行の子小碓のことと解されている。
3). しかし、倭建は太子のまま死亡している。
4). 『常陸国風土記』は息長帯比賣を「天皇」と呼ぶ。しかし、仲哀の存命中は「皇后」になっている。『紀』も息子・応神が成長するまでの間に彼女の摂政期間を置いているので、彼女の天皇時代があったと解釈してもおかしくはない。また、『播磨国風土記』には「宇治天皇」「市辺天皇」が登場する。これもまた『記』『紀』では天皇ではない。しかし説話から、政変の渦中の人であり、彼らの天皇時代を置く解釈があっても不思議は無い。倭建の場合は、『紀』『記』による限り、天皇時代があったと解釈するのは到底無理である。
5). 息長帯比賣、宇治、市辺の例から考えて、『常陸国風土記』の倭武天皇には、相当な根拠があると考える。
6). 倭武という表記は、『記』を真似たものでも『紀』を真似たものでもない。『記』に従えば「倭建」、『紀』に従えば「日本武」となるはずである。倭武は独特の表記である。
7). また、倭建の后は弟橘比賣(『紀』でも同様)、倭武天皇の后は大橘比賣。これからも倭武天皇の独自の伝承の存在が考えられる。
結論/倭建は垂仁時代に存在した一王朝の「天皇」、倭武天皇にまつわる伝承である。伊勢神宮との関係が深いこと、名に倭を冠するところから、アマ倭国の「天皇」である可能性が高い。この名は倭王武(四七八年宋書)にあまりに通じる。『記』が倭建を置くのは景行時代、
また先述の推定による倭建の世代は垂仁時代。いずれも『紀』では4世紀だが、『記』による限り、西暦は不明である。『紀』の編年に百年程度のずれは考えられないのだろうか?
また、朝鮮、中国では、同じ名を持つ王は珍しくない。
これはもう一人の倭王武かもしれない。

B古代の音韻

1、奈良時代の音節数は88音
 本居宣長が万葉仮名の書分けを発見(『古事記伝』)。その後の研究から、上代には「キギヒビミ・ケゲヘベメ/コゴソゾトドノモヨロ」それぞれ甲類と乙類の二種の音があったとされている。
2、森博達氏の音価推定
 材料は『日本書紀』α群(氏の分類による)諸巻の万葉仮名。α群の万葉仮名は、漢字の中国原音によって直接音訳されている。
 アクセントは平安時代と大差ないことを高山倫明氏が発見。


質疑応答

倭建は東海系の説話?

質問
 大阪の西と申します。ずっと前から思ってたんですが、先程の倭建の問題なんですが、東方の方を読みますと、行路記事がありまして、『古事記』の方は伊勢から入って尾張に行って、それから走水ですか、そこからもう途絶えてしまうんですね。東京湾に突入するはずが。そしてすぐに足柄の方に行って、甲斐国に行って、信濃に行って、また尾張に戻ってと、こういう行路をする。伊吹に行ったりして、まずそこで変な動きをするんですよね。これがひとつの問題点。『日本書紀』の場合はですね、尾張が出てこないんですね。もう伊勢からすぐに関東の方へ行く。そして相模湾を入って、千葉県の南部の方を通るような感じですね。そして常陸の方へめざして、また戻ってくるというふうに書いてある。ただし『日本書紀』の場合は、よく読みますとまた尾張に帰るというようにちゃんと書いてあるんですね。というふうに考えますと僕の考えとしては、尾張が中心ではないかと。で、中山さんは、倭にとらわれすぎて、いわゆる筑紫倭国というのを考えられすぎているのではないかと。なぜかと言いますと、今日の話にもありましたように、まず倭武は倭王武と時代があわないということです。それから倭建は垂仁ぐらいですね。一応、今までの推定からいきますと。で、何が言いたいかといいますと、畿内大和の弥生時代の終わりから古墳時代の初めにかけて、東海系の土器が大量に登場するわけです。それは一般的に伊勢湾岸の土器と呼ばれているんです。それの中心が尾張の朝日遺跡という遺跡であることは、もうまず間違いない。倭建が行ったと思われるところに出現期古墳がありまして、そこから大量の東海系土器が出土するわけです。そして、『日本書紀』で言いましたように千葉県にいわゆる市原市がありますが、ここは通っていないんです。市原からは東海系土器はでないんです。で、千葉県の南部の方でしか出ないんですね。先程言いましたように山梨県だとか信州であるとか、やっぱり出るんですね。そういうふうに考えますと、伊勢神宮だとか熱田のことを考えますと、僕はやっぱり東海の人の説話を切り取ったのではないかというふうに思うんですが、その点、ご意見をうかがいたいんです。

回答
 私はもう意見も何もない。そういう考えがあってもいいと思う。ただ、さっきもお話したように、私はあくまで楽しむのが中心なんで、どっちかを黒白をつけるとかね、そういうふうな問題でもないような気がするんですね。で、もちろん私自身が考えているのもひとつの考えだし、それから今聞いたお話をうかがって、そのお説はすごくおもしろいなと思いましたし。私が今までのごく一般にある話の中で異を唱えたいと思うのは、やっぱり大和一国主義といいますかね、大和朝廷しかなかったように『古事記』を読んじゃうというところに不満があって、自分としてはそれではない読み方がどういうふうにしたらできるかっていうようなことを、一例を示したつもりなので。今のお話ももう十分、もし先に知っていたら、それも一緒に書いたなという。そういう話もあるっていうふうに書いたってぐらいなもんだと思います。だから、いろんな、私の場合は考古学についても、そんなに知りませんから、そういう知識がもっと増えたりしたら、『古事記』に書いてある文章だけと言うんじゃなくてね、さっきもおっしやったようにどうしても『古事記』の文脈の中だけでいくと、倭、九州とね、神話の方から来ますでしょう。そうすると、九州とやっぱり大和朝廷と、それから他のものは薄くしか出てこないんですよね。だからおっしゃつたようにやっぱり九州と倭にとらわれすぎという傾向は出てくるんです。

小碓のキャラクターの違い

質問
 大阪の平瀬です。今日は、小碓命と倭建が別人物であって、つぎはぎされたというようなことなんで、私も基本的にはよく理解ができるんですけど、もうひとつ読み返していきますと、小碓命の性格というところで、お兄さんの大碓命を枝を引きかいてこもに入れて殺すという、その猛々しい小碓命が、熊曽退治に行った時には、童女の姿に化けて殺すという、このキャラクターの違いで、これも別人物と考えてもいいんじゃないかなという感じがするんですね。その別人物というのは小碓命≠倭男具那と考えてもいいんじゃないかとお話をお聴きしながら感じたところなんですが、その小碓命の二重のキャラクターについて何かお話していただければと思います。

回答
 キャラクターの面から見ても、たしかに今おっしゃったようにすごく不思議な部分があるんですね。キャラクターだけではなくて、物語の進展の様子自体から言いまして、資料1、でいうと(2)があって(3)がありますよね、(3)の次の(4)というのは別個に書かれたというか別の資料というか別人物なんじゃないかという感じが読んでいてするわけです。それは話の重なり具合だとかね、そういうところから思うわけですけれども。そうすると小碓命=倭建というものが別人物・別資料である可能性があるならば、一番最初の「小碓命、亦の名は倭男具那」というのも、今現状の『古事記』では、そこのいきさつとか、なぜここで亦の名男具那とつけなければいけないのか分かりませんけれども、もうちょっと古い資料の段階では、小碓命について書かれたものと、それから倭男具那について書かれたものと、別の資料としてあって、それをつなげたという可能性も十分にあるわけですね。小碓という人のキャラクターと、倭男具那という人のキャラクターと、それから天皇的な倭建という人のキャラクターと、これが違って見えているのは、資料をつなげたとみれば非常に納得ができると思います。『古事記』を取り扱う時に、私はやっぱりあんまり文学的というか、ここで女装したのはこういう意味があるとか、ああいう意味があるとかっていうのは、私はあんまり好きじゃないというか、読んでも納得できないんですよね。それより書いた人の意識としては、本当に歴史的事実があったんだと思って書いたと思うし、受け取る側としても、少なくとも書いた人はそういうことがあったと思っていたと、小碓=倭男具那としたことにしても、そういうふうに解釈できるんだと、作った人は非常にまじめに考えて作ったんだと私は受け取りたいといつも思っています。

倭という表記は信用できない

質問
 大阪の秦でございます。ちょっと基本的なことをおうかがいしたいんですけど、『日本書紀』の場合はたとえば神武天皇の名前から「日本」と使っている。『古事記』の場合は倭国の「倭」という字を使っている。『古事記』は、二つばかり例外がありまして「意富夜麻登玖遍」「夜麻登登母母曽」は音韻のヤマトを使ってありますけれども、あとは全部、倭国の倭という字を使っている。そう簡単にこの倭という字が信用できないというふうに私は思うんです。当然その中に本来の資料として倭という字が書かれていたものがあっただろうと推定はできるんですが、それがどれであるか、書き替えられた倭というのはどれであるか、非常に判定するのは難しい。したがって、倭と書いてあるから倭国と結びつけるというのは、『古事記』を書いた人たちの策略にはまってしまうんじゃないかと私は思うんですが。そのへんの考えをお聞かせいただきたいと思います。

回答
 おっしゃるとおりの問題があると思いますが、私自身も「倭」をいったいどう読んだものかということについて、ずいぶん悩みまして、読みようによっては、ある場合にはワと読める、ワでいいんじゃないかと思う場合が、たとえば古田さんが『盗まれた神話』なんかで指摘されていた大国主がワヘ上るというような、ワと解釈したら非常に楽しいなという、ワと読んでもおかしくはないなと思うような場所もあるわけですけど、明らかにヤマトのことを倭と書いてあるとしかとれない箇所もあるわけです。それで私は一応の読みということでね、恣意的にある場合はヤマトと読み、ある場合はワと読みではどうにもかっこうがつかないので、そこはとりあえず断って、読みとしては全部倭国とか、ワとかいうふうに読んでしまうということで通したんです。ていうのが、それまではあまりにも疑いなくヤマトと読まれすぎていたということがあるので、自分自身の頭を柔らかくするためにもね、もちろん古田さんの方の学派になりますと、今度は逆のテーゼが出てきて、あまりにも全部ワと読んでしまうために頭が堅くなってしまうことがあるかもしれませんけれども、あれを書いた時点では、もとのテキストを見ても全部があまりにも疑いなくヤマトと読まれてしまっているというあたりに非常に疑問をもったのと、それからさっき例に出された「夜麻登登母母曽毘費」というのと「意富夜麻登玖遍阿礼比賣」というのが「夜麻登」って書いてありますよね。そうすると「夜麻登」と書いた資料もあるのに、なぜそこは倭に直さないのだろうという疑問も出てきて、とにかくあれは訳者泣かせですね。一応はワというふうに本にはしておきました。

テープ起こしーー 石田健彦
構成ーー 丸山晋司
写真提供ーー 西博孝


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