2009年10月10日

古田史学会報

94号

1,韓国・扶余出土
 木簡の衝撃
  正木裕

2,観世音寺出土の
 川原寺式軒丸瓦
 伊藤義彰

3,娜大津の長津宮考
  合田洋一

4,防人について
 今井敏圀

5,天武九年の
「病したまふ天皇」
 正木裕

6,淡路島考(その2)
 国生み神話の「淡路州」
 は九州にあった
 野田利郎

7,弔辞
力石 巌さんの
御逝去を悼む
 古賀達也

平仮名と片仮名
 西村

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弔辞 力石 巌さんの御逝去を悼む 割付担当の穴埋めヨタ話1 平仮名と片仮名


弔辞

力石 巌さんの御逝去を悼む

古田史学の会 古賀達也

 古田史学の会・九州の代表であった力石巌(ちからいし いわお)さんが、八月八日に御逝去されました(享年六七歳)。謹んで哀悼の意を捧げます。
 力石さんは市民の古代研究会時代からの古田ファンであり、古田史学の会へは一九九七年三月に入会されました。以来、本会全国世話人にもなっていただき、古田先生や本会に対して多大なご協力、ご支援をいただきました。古田先生の福岡市での講演会では中心になってお世話いただきましたし、二〇〇七年には古田先生とともにエクアドル調査旅行にも行かれました。
 力石さんは高知県のご出身で、鰹漁の漁師をされたり、その後は建築家として数々の大型プロジェクトにて設計を担当されました。そうした建築技師の視点から、万葉八番歌の「熟田津」論争にも参加され、その論文「万葉八番歌」は『新・古代学』7集(二〇〇四年、新泉社刊。初出『古田史学会報』五三号)に掲載されました。
 その温厚で朴訥なお人柄から多くの人に慕われ、力石さんのお店「味の朋友」は古田史学の会内部では有名で、全国の会員が福岡市を訪れた際に寄られたと聞いています。わたし自身も御馳走になったこともありますし、古田先生も福岡へ行かれたときは力石さんのご自宅にお泊まりになることが常でした。
 悲しみは絶えませんが、力石さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。

 

 


割付担当の穴埋めヨタ話1

平仮名と片仮名

西村秀己

 日本語には平仮名と片仮名という、優れた簡易文字が存在する。これある故に日本人の識字率は世界でも有数のものとなった。何しろ漢字の本国である中国の児童たちは「百家姓」等でいきなり漢字を学ばざるを得ず、そのハードルの高さは日本の児童の比ではないのだ。
 その偉大な仮名の発明に対し、我等がご先祖様に敬意を表せざるを得ないのだが、ここでひとつの疑問が生ずる。何故二種類を必要としたのかと。
 その成立については、平仮名は漢字の崩しから、片仮名は漢字の省略からと説明されていること周知であるが、それは字形を見れば明らかであり、特に平仮名には草書等の中間形が存在するので納得することは容易である。
 ただ問題は何故その二種類の方法が採られたかということだ。特にほぼ同時期に発明されたとすれば、優れた方のみが生き残るのではあるまいか? このことは、この二種類の発生が遠く時代を隔てているか、或いは地域が離れていることを暗示する。
 紙や布帛が無く若しくは貴重であった時代、文字は木や竹に記された。その方法は墨で書くか、刃物で刻むかの二種類である。平仮名は曲線的であり、片仮名は直線的であることを考えれば、墨書からは平仮名が刻字からは片仮名が生まれたと考えて、差し支えの無いようにも思われる。
 墨書には墨と硯と筆という工業製品を要し、刀子一本でこと足りる刻字よりは遥かに後代的である。そして、九州王朝は近畿に比して、遼か以前に漢字を受容した。とすれば、当初九州での漢字は木か竹に刻まれたのではあるまいか。つまり平仮名は近畿王朝下に発生したが、片仮名は更に昔九州王朝にて造形されたのではないだろうか?
 さて、ここまでヨタ話を展開すると、必ず古賀編集長から突っ込みが入ることになる。「その史料根拠は?」と。ご期待に添える答えかどうかはあまり自信が無いのだが、二中歴に記された「刻木結縄」は墨書ではなく、九州王朝に刻字の盛行したことを意味するのではないだろうか。(西村)


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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