2009年10月10日

古田史学会報

94号

1,韓国・扶余出土
 木簡の衝撃
  正木裕

2,観世音寺出土の
 川原寺式軒丸瓦
 伊藤義彰

3,娜大津の長津宮考
  合田洋一

4,防人について
 今井敏圀

5,天武九年の
「病したまふ天皇」
 正木裕

6,淡路島考(その2)
 国生み神話の「淡路州」
 は九州にあった
 野田利郎

7,弔辞
力石 巌さんの
御逝去を悼む
 古賀達也

平仮名と片仮名
 西村

 

古田史学会報一覧

淡路島考(その一) 国生み神話の「淡路洲」は瀬戸内海の淡路島ではない 野田利郎(会報92号)へ

天孫降臨の「笠沙」の所在地 -- 「笠沙」は志摩郡「今宿」である 野田利郎(会報97号)へ


淡路島考(その2)

国生み神話の「淡路州」は九州にあった

姫路市 野田利郎

はじめに

 淡路島考(その1)で「淡路洲」が「兵庫・淡路島」と異なること、そして、滅ほされたことを述べた。
 本稿では「淡路洲」を探すことにする。滅亡した国を地名から探求するのは困難である。ただ、「淡路洲」は「淡道之穂之狭別島」の古名がある。類似する「天之忍許呂別」が「天」+「忍許呂別」であることから、「淡道」+「穂之狭別島」と区分し、「別」と「島」は重複するので、「島」は省略し「穂之狭別」を探求する。

 

「別」の用例

 「穂之狭別」の「別」を岩波体系本は、「地方に別け封ぜられた者の意」とある。「国生み神話」は国が生まれる神話であり、国の分割神話ではない。疑問である。
 国生み神話以外で記紀に登場する「別」は、それぞれを合計すると八十例がある。八十例のうち、七十四例は人又は神の名である。残り6例も皇子が始祖となった国に「別」を付加した名前であり、皇族の名に関連し使用される。書紀に「別」の説明がある。「七十余の子は、皆国郡に封させて、各其の国に如かしむ。故、今の時に當りて、諸国の別と謂へるは、即ち其の別王の苗裔なり。」(景行天皇四年)この内容は、「別」の使用例を的確に表現している。つまり、「別」は神代に使用されたが、一旦中断して、人名として復活した。人名の使用例から、神代の用法を推測するのは適切でないことが判る。

 

国生み神話の「別」

 国生み神話の亦の名の「別」は十例である。この僅かな例から、用法を読み取ることになる。島国名の場合には二段地名は、たとえば、「伊豫之二名島」は伊予(大領域)+二名(小領域)である。「穂之狭別」もそのような読み方であろうか。
 具体的な例で考えてみる。「豊日別」は「豊国」である。「日」が小領域であれば「豊国」では「日」を特定できない。逆に「日」が大領域であれば省略しても、小領域の「豊国」を表示できる。豊(小領域)+日(大領域)別である。別の直前は大領域の地名となる。現代の東日本や北九州などである。(古賀達也氏から「耶馬一国」も語尾が大領域と指摘を得る。)
 したがって、「穂之狭別」は「穂(小領域)」+「狭(大領域)別 」と考える。語尾を大領域とするのが「別」の用法であり、「穂之狭別」の「狭」は大領域であるから、語尾が「狭」の地名の中に「穂」がある地域を探すことになる。

 

「さ別」の領域

 「狭」は、狭くの意味もあるが、弓矢の矢を「さ」という。記紀の地名で「さ」を語尾とするのは、次の十六例である。なお、「狭」と同字「峡」を語尾し、音が「お」の「長峡」「松峡」「柏峡」「活田長峡」「曲峡」は除外した。
九州地域「笠狭かさか」「菟狭うさ」「膽狭いさ
四国地域「土佐とさ」
山陰地域「五十狭狭いささ」「若狭わかさ」「餘社よさ」「訶沙かさ
近畿地域 「出浅いでさ」「伊那嵯いなさ」「身狭みさ」「羽狭はさ」「来狭狭きささ
朝鮮半島「滞沙たさ」「久嵯こさ」「古沙こさ
 この地域にある「さ」のいずれが「さ別」の領域を形成していたかを検証する。この領域を考える上で、「土左」は、亦の名が「建依別」であり、「さ別」ではない。また、近畿地域も国生み神話以降の「神武の侵攻」から神話世界に登場するため「さ別」から除外することができる。朝鮮半島は「さ別」の範囲の可能性があるが、神話世界の周辺部であり、「淡路洲」の探求上は除外することにする。すると、残るのは九州地域と山陰地域である。この二つの地域は天孫降臨の舞台であり、天孫降臨と大八洲国の誕生は、「さ別」の領域に関連していることが想定される。そこで、天孫降臨説話から「さ別」の領域を考えることにする。
 記紀は天孫族が出雲で「葦原中国」のすべての統治権を収めたと書かれている。しかし、以下の書紀の記事から九州地域は依然とし、旧勢力のままであったと考えられる。
(その1)天照は「葦原中国」を自分の領土にすると宣言した。侵略する方が、対象国を呼んだ名である。天孫族は、出雲の「五十狭狭」で武力を背景に権力を奪い取った。その後に、九州に進出する。「笠狭」の御前にある日向の高千穂の峰を占拠する。攻略の重要な地点は「笠狭」である。つまり、「笠狭」は「葦原中国」となる。
(その2)ニニギ尊が降臨後に「笠狭」の国王と会った記事がある。
A.吾田の長屋の笠狭碕に到ります。其の地に一人有り。自ら事勝国勝長狭と号る。皇孫問ひて曰はく「国在りや以不や」とのたまふ。対して曰さく、「此に国有り。請ほくは任意に遊せ」とまうす。故、皇孫就きて留任ります。」(書記神代下第九段本文)

B.乃ち国主事勝国勝長狭を召して訪ひたまふ。対して曰さく「是に国有り、取捨勅の随に」とまうす。(同段一書第二)

C.吾田の長屋の笠狭の御碕に到ります。時に彼處に一の神有り、名を事勝国勝長狭と曰ふ。故、天孫、其の神に問ひて曰はく、「国在りや」とのたまふ。対へて曰さく、「在り」とまうす。因りて曰さく、「勅の随に奉らむ」とまうす。故、天孫、彼處に留住りたまふ。其の事勝国勝神は、是伊奘諾尊の子なり。亦の名は塩*土老翁。(同段一書第四)
     塩*は、鹽の別字。JIS第4水準ユニコード76EC。

この会見記事から次のことがいえる。
 まず初めに「笠狭」の王は「事勝国勝長狭」である。「事勝国勝」は連勝の称号である。一方、天孫族は、忍穂耳尊を「葦原中国」の王にする思惑から、忍穂耳尊に「正勝吾勝勝速日」の称号を与えた。「事勝国勝」の称号への対抗である。したがって、「事勝国勝長狭」が「葦原中国」の大王と考える。このことは、「事勝国勝長狭」はAでは「国主」とあり、Cで「伊奘諾尊の子」とある。その地を統治する正当な系譜にあり、単なる湾岸の王ではない。
 次に、九州では武力の威嚇や行使の記事がない。国の有無を問い、答えも「任意に遊べ」または「差し上げる」である。、ニニギ尊は王権の簒奪を目的に九州に進出したが、「国を自分のものとした」との記事が一切ない。九州では、ニニギ尊は「日向の高千穂」占拠と「葦原中国」の人との婚姻の話で終了する。天孫降臨後も「葦原中国」の九州部分は残ったと考える。
 以上の通り、天孫降臨の説話から山陰は消滅し九州が残った。このことから「さ別」の領域は九州地区の笠狭、菟狭、膽狭となる。更に、記紀には登場しないが、周防灘の山口県に「厚狭」がある。この笠狭(博多湾)から菟狭(国東半島北西端)、膽狭(菟狭と厚狭の中間地点。)と厚狭(関門海峡の北西)そして笠狭を結ぶ、三角形の地帯を「さ別」と考える。


「さ別」の「穂」

 「穂」とは稲穂を必ずしも意味しない。高くぬきん出て人目に立つものの意とある。「さ別」の地帯にある「穂」とは旧穂波郡である。旧穂波郡はこの三角形の「さ別」の中心にも位置している。旧穂波郡は、安閑天皇二年(五三五年)「筑紫の穂波屯倉・鎌屯倉・・・・を置く」と「穂波」があり、現在でも、「穂波川」が嘉穂盆地を流れ、「穂波町」、「筑穂町」がある。
 また、嘉穂盆地の飯塚には「合屋」の地名がある。筑前国続風土記に「この郡の、庄内、中村、津島、柳橋の四村すべてを合屋という。中村の内、鼓打権現、笛吹権現の社あり。山高き所にあり。是合屋の四村及び河袋村の惣社也。古老云傳ふるは、神功皇后三韓を討たまふ時、志賀の濱にして神樂を奏せられし時、笛鼓を司どりし神也といへり。」とある。「アワジ」の語源の「祭祀の神」を連想させる伝承である。旧穂波郡を「穂」の地と考える。

 

「穂之狭別」

 穂の中心は旧穂波郡であるが、「穂狭別」はどの範囲までであろうか。遠賀川川流域は五つの旧郡から成る。上流域に東から旧田川郡、旧嘉麻郡、旧穂波郡があり、この三郡を流れる川は、中流域の旧鞍手郡で合流する。下流の旧遠賀郡は大河なった遠賀川が流れ響灘へと注ぐ。旧穂波郡と旧嘉麻郡とは嘉穂盆地内であり、文化と地理面でも一体と考えられる。また、旧鞍手郡の多賀神社には、「淡路洲」と関連する伝承もある。したがって、嘉穂盆地から流れる遠賀川が英彦山川が合流する旧鞍手郡までを「穂之狭別」と想定し、旧郡表示では、旧嘉麻郡、旧穂波郡、旧鞍手郡の三郡がその領域と考える。

 

「淡道之穂之狭別島」の結論

 「淡道之穂之狭別島」の「淡路」は「阿波への道」とも読める。しかし、古田先生は「淡路」を次のように説明する。
 「淡路を淡への道と考えるのは誤りで、アワヂのアは接頭語、ワは祭りの場、チは古い段階の神様の表現で、祭祀の場に居られた神様がアワヂであると云う。」(「釈迦三尊」はなかった『古田史学論集第9集』古田史学の会二〇〇六年三月)
 この見解からも、「淡路」とは「穂之狭別」の冠辞で場所を左右しないと考えられる。したがって、「淡道之穂之狭別島」は、「穂之狭別」と同じ地域の旧嘉麻郡、旧穂波郡、旧鞍手郡となる。
 しかし、九州北部の三角形「さ別」の地は、その後、筑前国と豊前国となっていることから、その中心の「淡道之穂之狭別島」も当然に滅ぼされたと考えられる。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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