2009年10月10日

古田史学会報

94号

1,韓国・扶余出土
 木簡の衝撃
  正木裕

2,観世音寺出土の
 川原寺式軒丸瓦
 伊藤義彰

3,娜大津の長津宮考
  合田洋一

4,防人について
 今井敏圀

5,天武九年の
「病したまふ天皇」
 正木裕

6,淡路島考(その2)
 国生み神話の「淡路州」
 は九州にあった
 野田利郎

7,弔辞
力石 巌さんの
御逝去を悼む
 古賀達也

平仮名と片仮名
 西村

 

古田史学会報一覧

熟田津の石湯の実態と其の真実(其の一)  今井久(会報92号)
「温湯碑」建立の地はいずこに 合田洋一(会報90号)

「娜大津の長津宮考」

斉明紀・天智紀の長津宮は、宇摩国津根・長津の村山神社だった

松山市 合田洋一

はじめに

 『日本書紀』斉明紀に「娜大津の長津」があり、また天智紀に「長津宮」が出現する。そしてこれら比定地の通説は、博多湾岸にあったとされている。ところで、拙書『新説伊予の古代』(1) を上梓後、伊予の古代を飾る越智国についての研究が更に発展をみて、「<温湯碑>建立の地はいずこに」(2) を発表したのであるが、そこでは私も右の通説を容認していた。しかしこれまでうかつにも、『釈日本紀』(3) に「娜大津の長津宮は伊予国宇麻郡也」の記述があって、更に郷土史にもそこは「宇摩国津根・長津の村山神社(現・四国中央市)」であった、ということを知らなかったのである。(4) そこで、これらを検証した結果、通説は大きな間違いであり、これにより「斉明天皇の実像」がより一層不可思議なものとなって、従来像とはかけ離れたものとなってきた。このことは、わが国の古代史を根底から覆す要因になると確信するに到ったのである。従って、当然のことながら、伊予の古代史も更にまた見直しが迫られることになろう。そのようなことから、まだ途中経過ではあるが、ここに小論を提示し、ご批判を仰ぐことにした。
 注
(1),『新説伊予の古代』 二〇〇八年十一月 創風社出版
(2),「<温湯碑>建立の地はいずこに」 『古田史学会報』No.90所収 二〇〇九年二月 古田史学の会
(3),『釈日本紀』 卜部兼方編 鎌倉時代中期成立 『日本書記』の注釈書 国史大系第八巻所収 吉川弘文館
(4) 古田史学の会会員で松山市在住の山田裕氏にご教示戴いた。

 

一、史料の検証

 まず史料を掲げる。
(イ)『日本書紀』斉明天皇七年(『岩波文庫』六冊本より。傍点筆者)
春正月丁酉朔丙寅、御船西征、始就于海路。(中略)庚戌御船、泊于伊豫熟田津石湯行宮。熟田津、此云?枳柁豆。三月丙申朔庚申、御船還至于娜大津。居于磐瀬行宮。天皇改此、名曰長津。
(七年の春正月の丁酉の朔丙寅に、御船西に征きて、始めて海路に就く。<中略>
庚戌に御船、伊豫の熟田津の石湯行宮に泊つ。熟田津、此をば[イ爾]枳柁豆といふ。三月の丙申の朔庚申に、御船、還りて娜大津に至る。磐瀬行宮に居ます。天皇、此を改めて、名をば長津と曰ふ。)
     [イ爾]枳柁豆の[イ爾]は、人偏に爾。JIS第3水準ユニコード511E

(ロ)『日本書紀』天智天皇即位前紀
  七年七月(中略)皇太子遷居于長津宮。(皇太子長津宮に遷り居します。)
(ハ)九月、皇太子御長津宮。以織冠、授於百濟王子豐璋。復以多臣将*敷之妹妻之焉。乃遣大山下狭井連檳榔・小山下秦造田來津。率軍五千餘。衛送本郷。於是、豐璋入國之時、福*信迎來、稽首奉國朝政、皆悉委焉。(九月に、皇太子長津宮に御す。織冠を以て、百濟の王子豐璋に授けたまふ。復多臣将*敷の妹を妻す。乃ち大山下狭井連檳榔・小山下秦造田來津を遣して。軍五千餘を率て。本郷に衛り送らしむ。是に、豐璋が國に入る時に、福*信迎へ來、稽首みて國朝の政を奉て、皆悉に委ねたてまつる。) 以上である。
     将*敷の将*は、将の別字。JIS第3水準ユニコード8523
     福*信の福*は、福の別字。JIS第3水準ユニコードFA1B

 ところで、これら比定地の通説は、「岩波文庫」の注釈に示されている。即ち、
『日本書紀』岩波文庫六冊本の四 - 三、二三一頁
那津 ー 博多大津の古名。和名抄に筑前国那珂郡中島郷(今、福岡市博多)。斉明七年三月条に娜大津を長津と改めたことが見えている。
また、同 四 - 四、三六九頁
娜大津 ー 博多港。那津。
長津 ー 那珂津に好字を宛てたものか。那珂津・娜大津・那津、みな同じ。
磐瀬行宮 ー 延喜兵部式の筑前国の駅名に石瀬がある。とあり、娜大津は那津で、長津は那珂津であり、磐瀬は石瀬であったとしている。

 今に考えれば、那津がなぜ娜大津となり、また那珂津が長津になったのか、これは無理しての単なる語呂合わせとしか思えなくなったのである。
 ところが、『釈日本紀』に、
(ニ)皇太子遷居于長津宮。
斎明天皇紀曰。七年三月。御船還至于娜大津。居于磐瀬行宮。天皇改此名曰長津。兼方案之。于娜者。伊豫國宇麻郡也。長津宮者。伊豫國也。

 とあって、卜部兼方は娜大津・長津宮の比定地を伊予国宇摩郡であるとしている。拙書『新説伊予の古代』でも論じているように、兼方の古書に対する取り組む姿勢は、数多の史料を客観的に集大成しており、その「史料性格」「史料価値」に見るべきものが多く、古代史研究にはなくてはならないものである。そのようなことから、宇摩郡に比定したのは、後述する『村山神社記』や、他の史料を検証した上でのものと類推する。また、『日本書紀通證』(1) で谷川士清は、
(ホ)至于娜大津
娜作娜恐誤娜當訓那可即筑前國那珂郡神功紀引儺河ノ水儺亦訓那可宣化紀所謂那津蓋同○釈曰于娜者伊豫國宇麻郡也長津宮在伊豫磐瀬行宮
延喜式曰筑前國驛馬石瀬五疋属遠賀郡

娜は那可、筑前国那珂郡、神功紀の儺河、宣化紀の那津と同じであるとしながら、『釈日本紀』の兼方の注釈をそのまま載せている。

 そして、天智紀の長津宮については
(ヘ)子長津宮
子是于之誤冩長津宮見斎明七年紀
 谷川は、この記事は斉明紀七年にあるので、この天智紀の記事は誤写である

としている。
 これは百済の王子・豊璋に関するものであるが、斉明紀六年十月の条は天智紀よりも克明に記述されている。そして、この時点では長津宮はまだない。また、斉明紀の記事は古田武彦氏や正木裕氏によっても明らかにされていることでもあるが、一年から数年ずれており、遡らなければならないという。従って、そのことからも谷川の注釈“誤写”の記述は、結果的には間違っていない。長津宮は斉明紀だけに存在し、天智紀は全くの“はめ込み記事”であったのだ。

 注
(1),『日本書紀通證』 谷川士清著 明和三年(一七六六) 昭和五三年十一月 臨川書店


二、郷土史に見る「娜大津の長津」

 1,『萬年山保国禪寺・代畧記』

 西条市の保国寺(ほうこくじ)に伝わる『萬年山保国禪寺・代畧記』(1) に、南北朝時代の貞治六年(一三六七)、伊予を守る南朝方河野通直と、攻め寄せる北朝方の讃岐の細川典厩との合戦模様が克明に記されている。そこに、次の記事がある。

越關川、猶相追至于長津宮之邊

 ここに長津宮が出現する。ここでいう関川は土居町(現・四国中央市)を流れる川であり、長津宮に比定されている津根の村山神社に近い。

 2、『西条誌』

 次に、『西条誌』( (2) 儒学者日野暖太郎和煦遍述)に

 津根村 ー 宇摩郡・津根郷・大津庄・土居組
当辺を、昔は大津の庄と言いしという。当村は、津の根本という義にて、津根と名づく、津は難波津、安濃乃津の津の如し。
村山神社(延喜式内名神大社)
当社の林、昔は八町四方に広がり、一の鳥居は、ここより二里東なる中之庄村にありしという。右等慥なるよりどころ無けれども、社家の持てる怪しげなる伝記の内より、その概略を抜き書き出すなり。当所を椿の森と称うるは、誤りにて、津の傍らにあるを以て、津脇(つわき)の森なりという。又伊和世(いわっせ)の宮ともいう。後 長津の宮と、斉明帝の時、改めらるるともいう。もっとも後に村山神社と新たむ。往事悠々として、誰かその真を知らん。ただ聞こゆるを録して、後人の是正をまつ。そして、『社伝』に記されていた『釈日本紀』の兼方の注釈を載せ、更に『日本書紀』斉明紀七年の記事、及び『保国寺縁起』にある記事を載せた次に、
村内に皇子塚というあり。
天智天皇駐●(馬+畢)(ちゅうひつ)の時、皇子の薨じ給いたるありて、その陵墓の墟(あと)なりという。また東宮という地あり。是も天智の太子の宮居の跡なりという。これ等牽合附会かも知れざれども、村山社伝のままを記す。その余空々として、水中の影の如く、奇怪仏説に似たるものは、省(はぶ)きて載せず。

とあって、何ともはや儒学者ならではの几帳面な論述である。津根の往古は大津の庄であり、村山神社は当初伊和世宮(いわせのみや)といわれ、のち長津宮に改名したといっている。
 ここでいう『社伝』いわゆる『村山神社記』には、不思議な記録が多々あったようであるが、現在は行方知れずになっており、『西条誌』に記されている以外は知ることはできない。誠に残念極まりない。『西条誌』は天保十三年(一八四二)成立なので、『村山神社記』は幕末近くまでは在ったことは確かである。もしかすると、明治以降の支配的な「皇国史観」に相容れられない記述があったので、そのため権力に没収されたか、あるいはどこかに隠されてしまったように思えてならない。現宮司さんは、失われた経緯については知らない、とのことである。
 ところで、娜は「ナ」、つまり水辺の意である。それも「おんなへん」が付いていることから、女性らしく“たおやか”で優雅な水辺を連想するので、『諸橋大漢和辞典』をひもといて見たら、やはり娜は“たをやか”の意であった。そして大津の「ツ」は港の意であり、大津は大きい港を意味する。ここ土居町津根の古代は、海岸線が現在の陸地に深く入りくんでいて、「娜」の字を形容する如く、“たおやか”に湾曲した大きな湾だったようである。
 また、長津の地名については、『土居町誌』(3) に、昭和十五年に津根村と野田村が合併して長津村となったとあるが、津根村の小字地名に「長津坂」があった。この隣接地が村山神社となっていることから、ここは村山神社に到る坂のようである。小字地名は古くからのものと考えたい。

3,長津宮

 そこで、村山神社がなぜ長津宮であったのか、これについて論じたい。
 当初私は、『日本書紀』天智紀の長津宮の記事は“はめ込み記事”だったとは思いも寄らずに、長津宮が宇摩国にあるならば、百済王子豊璋に織冠を授けるような行事ができるはずはない、あり得える話ではないと考えた。また斉明天皇が何故にここ宇摩国(当時は九州王朝の評制が施行されていたので、実際は宇摩評である)に来て行宮を定めたのか、不思議でならなかった。単に郷土史を飾るための地名合わせに過ぎなかったのでは、との想いがよぎったのである。
 そもそも「宇摩国」(七〇一年以降は宇摩郡)は、拙書『新説伊予の古代』で論じているが、「宇摩評」(「馬評」と書かれた須恵器出土 ーー 岡山県立博物館所蔵)があった所である。領域内に前方後円墳もあることなどから、評以前は国、つまり「宇摩王国」があったことを私は疑わない(但し、「国造本紀(4) 」には“クニ”の王であったと考えられる「宇摩国造」は出現しない。古田武彦氏は「国造」とは、宮のある海岸・津の長官であると言っている)。(5) しかしながら、宇摩国(評)は隣の越智国(評)から見れば極めて小国である。その小国に何のために立ち寄ったのか、不可解だったのである。
 現在の村山神社のパンフレット(長津宮 ーー 伊豫国宇摩郡大津長津鎮座とある)に次のように記されている。

 斉明天皇は御代の七年正月丁酉の朔壬寅の日(正月六日)難波の港をご出発海路西に向われ、庚戌の日(正月十四日)九日目に伊予の熟田津の石湯の行宮に御到着、温泉に御入浴御休養をとらえ、朝廷の命を受けて宇摩郡津根(常)の里に派遣され砂金の採集に活躍中の阿部小殿小鎌を訪ねられるため、三月丙申朔庚申の二十五日伊予の石湯の行宮(道後温泉)より御船を東にお還えしになられ、宇摩郡津根の里即ち娜の大津の磐瀬の行宮(村山神社の神域)に行幸遊され地名を長津と改められ、しばしこの地に御滞在の後筑紫に向われたと推察される。

 とあり、砂金の採集に活躍中の阿部小殿小鎌を訪ねられるため、当地へ行幸したと言っている。
 ところが、これについて『朝倉村誌』(6) では、

孝謙天皇二年(七五〇)三月の『続日本紀』(7) によれば、「難波長柄朝廷(なにわながえのおおみかど 孝徳天皇)、大山下(だいさんげ)阿部小殿小鎌を伊予の国に遣わして、朱砂を採らしめた。小鎌はそこで、秦の首(はたのおびと 朝倉村古谷に、秦の長者屋敷、及びそのほか、玉川町畑寺などの地名の遺跡残っている。)の娘を娶り、子、伊予麻呂を生む(後略)。

とあって、砂金ではなく朱砂を採るとなっている。そもそもこの『続日本紀』の記事は、孝謙天皇二年ではなく、称徳天皇の天平神*護二年にあるので、これについては『朝倉村誌』の記事は天皇代を間違っている。しかしながら、朱砂については、朝倉近辺の壬生川(にゅうがわ)・丹原などは丹生土(にぶど 朱砂を含んだ水銀朱を持つ赤土)の採掘地として知られ、それに伴って秦氏・丹氏などが住していたこともまた知られているので、この記事は的をえている。そこで、村山神社のパンフレットに記されている事柄については、砂金も朱砂も関係ないことと思われるので、間違っているのではなかろうか。
 それにしても、大山下とは『日本書紀』孝徳天皇大化五年二月の条に書かれている官位十九階(大和朝廷が制したものではない、九州王朝の制度)のうちの十二番目の位なので、このような身分の者に会うために、天皇がわざわざ来るとは、とても考えられない。
 ところで、村山神社の宮司榊田嘉津雄氏にお目にかかり、次のようなお話を伺った。

 実は違う伝承もあった。それは、近畿の難波を出航した斉明天皇のご座船が、夜間に島影の一つもない燧灘で嵐に遭い難破した。ところが、そこへ真南にある高い山(赤星山<一四五三>)から一条の明かりが差し込み、それに導かれて娜大津に入港することができた。ちなみに娜大津から村山神社それに赤星山は、真南に一直線上にある。船の修理のためか、しばらく村山神社に滞在した。

 と。
 なるほど、“一条の明かり”云々はさておき(これが『西条誌』にいうところの“奇怪仏説”の類か)、難破ならば納得できる。これが事実としたら宇摩国行幸は全く偶然の出来事だったのである。正木裕氏が「九州年号で見直す斉明紀」(8) で論述した牟呂温泉行幸の帰りだった可能性もあるのではなかろうか。
 そうなると、『日本書紀』の斉明天皇七年春正月の記事中の「還」が問題となる。「再び娜大津に還る」ということなのか。
 そこで、山田裕氏が『日本書紀』にある「還」の用法について調査してくれた。紙面の都合上、事例検証の詳細は省くとして、それを要約すると次のようである。
 『日本書紀』の記事中に、一六五例の「還」があった。その「還」の意味は、
1). 帰る、元に戻る、復帰(生還)。2). 返す、元に戻す(返還)。3). かえって、あべこべに、反対に。4). めぐる。5). めぐらす。6). また。7). 転ずる、まわる。8). 動作がはやい。9). すなわち、すぐに、などがある(『漢和中辞典』三省堂)。それで、一六五例を右の意味に当てはめて分類すれば、概ね次のようになる。1).は一二七、2).は十三、3).は八、4).は三、6).は四、9).は十例があった。
という。
大変なご苦労をおかけした。深甚の謝意を表したい。ところで、この「斉明紀」七年の記事についてであるが、これはどうみても1).の帰るの意となろう。そうであるならば二度津根へ来たことになる。
 これは全くの推論に過ぎないが、一度目は難破により滞在した。そこが磐瀬宮(伊和世宮)であり、そして二度目は、後述の宝塚築造のための行幸によるものとも考えられる。それに加えて、熟田津の石湯(石風呂?)が気に入ったため、再度の行幸になったのではなかろうか、と思ったりしている。
 そのようなことから、このあと越智国熟田津石湯行宮へ行幸し、そこから朝倉へ赴いたと考えたい。そこで斉明天皇は崩御された(これについては後述する)。
 『日本書紀』斉明紀の記事は、数年の「ズレ」が指摘されている。そして、伊予滞在三ヶ月の間に、行宮を朝倉に二ヵ所、西条に二ヵ所、そしてこの宇摩国津根も含めると五ヵ所も設宮している。この行宮伝承地の全てが真実であったなどとは勿論言えないが、それにしても五ヵ所は多すぎる。となると、二度ないし三度と当地へ来ていると考えることもできる。瀬戸内海航路の中心地・越智国へ。
 正木裕氏や古賀達也氏が披瀝している「福岡八幡神社」(9) 所有の「白雉二年銘奉納面」(四月四日、筆者も拝観)、それに今井久氏調査による『道前平野の寺社に見る九州年号』(10) には、福岡八幡のほか法安寺(法興六年創建とある)・実報寺・長桂寺・横峰寺(いずれも白雉二年)・光明寺(白雉四年)・無量寺(白鳳元年)・極楽寺(白鳳八年)・十地院(白鳳十三年)・長福寺(大化五年)・西山興隆寺(大化年間)などに「九州年号」が数多く遺存している。何れも古いお寺で、九州王朝との密接な関係が忍ばれる。行幸は「一度」だけ、などとは到底思えないのである。そのことからも、『日本書紀』斉明紀の「朝倉行宮」の記事は、筑前の朝倉に、朝倉関係の記事を一つにまとめて放り込んだのではなかろうか、と思っている。

4,宝塚

 次に、村山神社の社前にある宝塚について述べたい。前掲『西条誌』に、

社前に宝塚というものあり。方五間位に小高く築く。これはかの天皇、祭事終わりて、神器を埋めたる跡なりという。一柳家の時、掘らしめたるに、怪異あるに怖れて、その事止みぬという。その時少々出たるなりとて、左に図せるが如きもの数多本社に蔵む。この外古鞍・古鐙・高麗犬の類、朽敗して、千幾百年外の物という事を知らざるあり。皆ここに図して、当社の古きを顕わす。

 とある。
 宝塚は、二の鳥居をくぐると神社本殿の真ん前にある立派な塚である。私は、このような神社の構図は、他に見たことがない。また、神域に入ると、その趣は何とも言えぬ荘厳なたたずまいで、身が引き締まる思いがする。さすが式内大社だけのことはある。
 幸いにも、榊田宮司さんからこの塚の由縁をお聞きし、発掘されたお宝を拝見、カメラに収めることができた。それによると、
 二度の発掘が行われたが、現在遺っているお宝は、鉄剣・槍の穂先など十二本、鏡一面、香合七個であり、『西条誌』に記載されていた古鞍・古鐙・高麗犬などは、朽ち果てたものかは定かではないが、失われてしまっていた。また、宝塚は斉明天皇陵との伝承もあるようであるが、ここからは石棺・木棺・人骨などは発見されていない。真のお宝を埋めた塚であった、という。

 思うに、この塚があるのは、ご座船が難破したにも関わらず、無事上陸できたことへのお礼のため、再度来て、神事を執り行い、お宝を奉納したものではないのか。

5,磐瀬宮

 さて、斉明天皇行幸の行宮になったという磐瀬宮(伊和世宮)について考察を試みたい。
 言うまでもないが、「宮」とは天子または天皇が居する宮殿のことである。
 ところが、『日本書紀』にはこの宮の築造年の記述がない。不審である。そこで思うに、初めから「宮」の名が付いていたとは考えられないが、ここ「磐瀬(伊和世)」は当初宇摩王国の王の居する所であり、その後宇摩評の評督が居た評衙だったのではなかろうか、と。何故なら、村山神社の神域が広大であったこと、また土居町津根は宇摩国の中心域と考えられること、などからである。
 この「磐瀬宮」は前述のように、一度目は斉明天皇の御座船難破による行在所となり、二度目は「宝塚」築造のための行幸で、長津宮に改名した。そして大宝律令(七〇一年施行)により、この評衙も廃止されて、新制度の郡衙が別の場所に造られたのではなかろうか。由緒ある場所でもあるので、その後ここが村山神社となったと考えたい。なお、この近辺の考古学的遺構の発掘調査が待たれる。
 以上論じてきたが、娜大津の長津宮、また磐瀬宮は、通説の博多湾岸ではなかった。そこは宇摩国津根・長津、現在の村山神社だったのである。

6、皇子塚・東宮

 また、『西条誌』に記されていた皇子塚・東宮は、土居町野田にあった。皇子塚は小さな塚で現存しており、東宮は集落名として遺っている。(9)
 同書ではこの遺跡について、天智天皇の皇太子時代(中大兄皇子)にまつわる伝承としているが、皇子は斉明天皇と一緒に来たのか、単独かは定かでない。
 なお、東宮は西条市内にもあった。『西条誌』の荒川山村の項に東宮がある。現在の西条市大保木字松之木であるが、ここには東宮神社が鎮座している。創建は延文二年(一三五七)と新しく、地名の起こりについては明らかではない。また、西条市飯岡に皇子池もあった。(10)
 これらについては、本題から外れるのでこれ以上は立ち入らない。


(1),『萬年山保国禪寺・代畧記』 『保国寺縁起』ともいう 淵九峰叟著 享保一六年(一七三二)
(2),『西条誌』 天保一三年(一八四二)西条藩主松平頼学の命により、同藩儒学者日野暖太郎和煦遍述。当該書は『注釈西條誌』で見ることができる。矢野益治著 昭和五十七年七月 新居浜郷土史談会編
(3),『土居町誌』 昭和五十九年二月 土居町教育委員会
(4),「国造本紀」『先代旧事本紀』所収 国史大系 黒板勝美編 吉川弘文館
(5),「九州王朝論の独創と孤立について」 古田武彦論稿 『古代に真実を求めて』第十二集所収 二〇〇九年三月明石書店
(6),『朝倉村誌』 朝倉村誌編さん委員会 昭和六十一年 朝倉村
(7),『続日本紀』 六国史の一つ 文武天皇の六九七年から桓武天皇の延暦十年(七九一)まで九十五年間のわが国の歴史書 宇治谷孟 講談社学術文庫
(8),『古田史学会報』No.80所収 古田史学の会編 二〇〇七年六月
(9),四国中央市教育委員会文化図書課野村尚明氏による。
(10),西条史談会会員萬條克己氏による。


三、袁智天皇とは

 『日本書紀』孝徳紀白雉元年十月の条に、
 是月、始造丈六繍像・[イ夾]侍・八部等卅六像。
(是の月に、始めて丈六の繍像・[イ夾]侍・八部等の卅六像を造る。)
     [イ夾] は、人編に夾。JIS第3水準ユニコード4FE0

 とあり、この注に次のようにあった(「岩波文庫本より」〜線筆者)。
 天平十九年大安寺資財帳に、「合繍仏像参帳<一帳高二丈二尺七寸、広二丈二尺四寸、二帳並高各二丈、広一丈八尺>」とあり、そのうち、はじめの一帳について「一帳、像具脇侍菩薩八部等卅六像、右、袁智(斉明)天皇、坐難波宮而、庚戌年(白雉元年)冬十月、始、辛亥年(同二年)春三月造畢、即請者」とある。本文これと合致する。

 と。
 「岩波注」では、『日本書紀』孝徳紀白雉元年の記事と『大安寺伽藍縁起並流記資財帳』((1) 略して「資財帳」という)にある丈六繍像の記事は一致しており、また「後岡基宮」(斉明天皇)がこの寺の創立に関わっていることから、「資財帳」に出現する「袁智天皇」は斉明天皇のこと、としているようである。
 これは「オチ」と読むのであろうか。天智紀七年二月条に蘇我山田石川麻呂の女・遠智娘(おちのいらつめ)が出ている。また、私は『古田史学会報』No.90で「遠土宮」を「オチノミヤ」と読むことを論じているが、岩波ではこの「袁」はしんにゅう編がなくとも「遠」と同じとしている。斉明天皇は飛鳥の「小市岡おちのおか」に葬られたという説もあることから、袁智天皇と言われたのであろうか。
 なお、「小市岡」は越智国朝倉にもあることを付言しておきたい(朝倉ふるさと古墳美術館の所在地)。
 また、「資財帳」に「仲天皇」が出現する。これは天智天皇のことを指してい
るようであるが、どうも「中皇命」のことが気にかかる。『万葉集』に散見する「中皇命」について、古田武彦氏はその著『壬申大乱』(2) で「九州王朝の天子」であるとしている。これについては今後の研究課題としたい。
 話は変わるが、孝徳紀大化二年三月条に「朝倉君」が数カ所に出現する。これに対する「岩波注」は、

在地豪族。和名抄に、上野国那波郡朝倉郷(今、前橋市朝倉)があり、朝倉君は、上毛野公の一族か。万葉集四四〇五に上野防人朝倉益人、続紀、延暦六年十二月条に朝倉公家長が陸奥に軍粮を送るとある。

としている。
『日本書紀』では在地豪族の王に対しても「君・公」称号を付けているようであるが、そうなると越智国朝倉にある『無量寺由来』(3) に出来する「朝倉天皇」が気になる。越智国は斉明天皇伝承が頻出していることから、「袁智天皇」が「斉明天皇」であるならば、「朝倉天皇」や右の「朝倉君」はどうなるのか、という疑問も生じてくる。
 さて、古田武彦氏は、「天皇」とは「天子」の下位称号であると論じている。それに従えば、これは突飛な発想と思われるむきもあろうが、各地に天皇が居ても不思議ではないと思ったのある。「天皇多元説」である。その考え方から「朝倉天皇」は「越智国王」のことではないかとも論じた。そこで、「袁智天皇」の出現により、同じく『無量寺由来』に登場する「長坂天皇」「長沢天皇」あるいは須賀神社にまつわる「中河天皇」などがあることから、この地は「天皇多元説」が一段と色濃く映し出されている場所のようにも思えて来るのである。
 このような観点に立つと、斉明天皇は以前にも増して不可解な天皇と言わざるを得なくなった。その人物像は益々混迷の度を深めてきたのである。拙書『新説伊予の古代』で論じているが、斉明女帝は大和王朝の天皇ではなく九州王朝の天子だった可能性も更に高くなってきたのである。
 鑑みると、当時の大和王朝と越智王国は規模の違いはあれ、日本列島の宗主国である九州王朝の支配下で対等の国である。つまり“個別独立に存在”していたのに、斉明天皇が大和王朝の女帝としたならば、前述しているが、伊予滞在期間足かけ三ヶ月の間に、行宮五ヵ所も他人の領土に設営することなど到底考えられないからである。これが宗主国・九州王朝の天子であるならば納得できる。
 また、『日本書紀』の皇極紀と斉明紀の記述の違いも九州王朝天子説の要因となる。それは、通説は皇極天皇が重祚(ちょうそ)して斉明天皇になったとされているが、その記述から推すととても同じ人物とは考えられないのである。皇極紀はごく普通の穏やかな人物の治世の記述となっているが、方や斉明紀は「恐心の溝たぶれごころのみぞ」で象徴される“狂人”扱いの記述であるからである。これは、『日本書紀』編纂における時代の整合性を図るために、むりやり皇極天皇に合体させたとしか思えないのである。そして、越智の朝倉に「斉明」と言う地名があることから、古田氏が暗に示された当時実在していた斉明と言う名前の九州王朝の女帝が越智国に行幸したことが濃厚になってきたと考える(大和王朝の天皇諡号は後世の命名。因みに、皇極天皇の名は「宝皇女、天豊財重日足姫」であり、皇極・斉明諡号は奈良時代末か平安時代初期ではなかろうか)。
 いずれにしても、「岩波注」で示されたように、斉明天皇が「袁智天皇」であるならば、“斉明なる人物”と越智国は、密接な繋がりがあったことの証左である。それ故に、“亦の名”が付けられたのではなかろうか、とも考えたい。

(1),『大安寺伽藍縁起並流記資財帳』『寧楽遺文』所収 竹内理三編 一九六二年九月 東京堂 古田史学の会・関西正木裕氏よりご教示を得た。
(2),『壬申大乱』 古田武彦著 二〇〇一年十月 東洋書林
(3),『両足山安養院無量寺由来』(略して『無量寺由来』とも言う) 成立年代は不明 今治市朝倉にある無量寺所蔵


四、斉明天皇崩御の地

 『釈日本紀』「巻十五・述義十一・天武下」に次の記述がある。
「天皇幸於越智。拜後岡本天皇稜。」
 天武天皇が越智に行幸して後岡本天皇(斉明天皇)稜を拝した、と言う記事なのである。この斉明天皇陵については、山田裕氏の『斉明天皇陵考』(1) に詳しいので、その一部を引用させて戴く。

 通説の斉明天皇陵は、宮内庁の『陵墓要覧』によると、奈良県高市郡高取町車木にある車木ケンノウ古墳(円墳・四十五メートル)が「越智崗上陵おちのおかのえのみささぎ」として指定されている(蒲生君平の『山陵誌』を参考に明治政府が認定)。

 ところで、『日本書紀』の記述は「天智天皇六年二月の条に、斉明天皇と間人皇女を小市崗上陵に合葬した」とある。ところが、ここには合葬の形態はなく、間人皇女の墓は、近くの別の場所にある。また、『記』は「小市崗」であるが、現地名は「越智岡」である(一九五四年までは高取町越智は越智岡村の大字地名)。このようなことからも、研究者の間では、斉明天皇陵として、明日香村村越の岩屋山古墳、同村越塚前牽午子(けんごし)塚古墳、橿原市の小谷古墳などを挙げている(フリー百科事典「ウィキペデイア」による)。そして、九州の朝倉市には、恵蘇宿所在の恵蘇八幡宮地内にある「御陵山」が、斉明天皇陵であるとの伝承がある(『恵蘇八幡宮由来記』)。
 このように各所の古墳が斉明天皇陵として取り沙汰されているようである。なお、前述しているが、越智国朝倉には「伝・斉明天皇陵」の近くに「小市崗」がある。
 そこで私は、冒頭の『釈日本紀』の僅か十三文字の記事に着目した。断片的で極めて簡単、しかもその行幸時期も不明であるが、これには極めて重要な内容が秘められている、と思ったからである。それは、越智国の朝倉にある「伝・斉明天皇陵」を拝したということではないのか、と。
 斉明天皇にまつわる越智国についての私の研究は、これまで主に地元に伝わる史料や遺構・遺物、そして伝承などから論じてきた。一方『釈日本紀』は鎌倉時代の文献とは言え史料価値は極めて高いと考えられていることから(多くの「風土記」逸文が収録されている)、たとえ僅かな記事でも無視できないもののであり、しかもこの史料は中央で書かれたものなので、斉明女帝越智国行幸説の裏付けにもなることを意味していたからである。また、このことから越智国朝倉にある「伝・斉明天皇陵」は真実の女帝の陵墓であったのか否かに突き当たる。この墓について、古田氏からは斉明天皇の供養塚であった可能性もあるとご教示戴いていた。

 ところが、この記事でいう「越智」が越智国であるならば、天武天皇が遠路はるばる越智国に行幸して墓参したことになるので、本物の陵墓であったということになるのではなかろうか。
 ところで、橘新宮神社にある『橘新宮神社由書記』「高外樹城家傳之事」(2) に次の記述がある。

 時ニ天皇當国熟田津之石湯洲之橘新殿神宮ニ行宮シ玉也又是自而越知朝倉宮ニ遷座也爰於テ天皇崩玉也干時先祖等奉人馬而越知之朝倉宮宇广之津袮宮ニ於両宮ニ奉供而當時之公事ヲ勤ル也

 と。
 即ち、斉明天皇崩御の地は越智国朝倉であった。そして、この時“先祖が宇摩の津袮宮と越智朝倉宮で人馬を奉り公事を勤めた”という。
 これにても、女帝崩御の地は九州の朝倉ではなく、越智の朝倉であり、そしてこの地に埋葬されたことになる。
 そうであれば、越智国朝倉にある「伝・斉明天皇陵」(所在地・朝倉上)は真実の陵墓だった、と思えてならない。

 注
(1),『斉明天皇陵考』 二〇〇九年五月二日 古田史学の会・例会での山田裕氏の発表論文
(2),現本は天正の陣で焼失、のちに西条藩の命により享保十二年に口伝として再編纂された。しかし、これも失われて現在は明治写本のみ存在。西条史談会会員の高橋重美氏にご教示戴いた。

 

おわりに

 私は、古田武彦氏の著作に触発され、『日本書紀』や郷土史に語られる通説に対しての「?」から、愚論を提言してきた。『新説伊予の古代』の上梓後、「越智国の盛衰」の続きとなる「<温湯碑>建立の地はいずこに」は、越智国内を舞台として論述した。次いで、この小論は前稿の更なる続きで、主に宇摩国内が舞台となった。そうして見ると、伊予の古代は博多湾岸の難波と大阪の難波、この間に位置する瀬戸内の四国側が主要舞台となっていたことがわかる。
 それだけ越智国は強大で、九州王朝の中でも格別な国であったのではなかろうか。何しろ「永納山古代山城」を築くだけの力があったことは、その証左である。また、越智国王の裔と思われる越智直守興(おちのあたいもりおき)が、伊予国内で兵を募り、秦朴市田来津( (1) はたのえいちたくつ)を大将として「白村江の戦い」に参陣したことでも窺い知ることができる(『日本国現報善悪霊異記』(2) 『予章記』(3) などに散見)。そのことを『朝倉村誌』では『河野家系図』に基づき伊予の将兵五千人出兵と記しているが、それは史料(ハ)の天智紀にある五千人のことを言っているように思われる。従って、その数の真偽は措くとしても、渡鮮した倭国軍二万七千人の中の相当数であったことは想像に難くない。
 ところで、「温湯碑」建立の地、「塾田津」の比定地、舒明天皇・斉明天皇行幸の地などの通説は道後平野であった。しかしながら、拙書『伊予の古代』でも述べたように、道後平野にあった伊余国(「国造本紀」にあり)・久味国(「国造本紀」にあり、また久米評の須恵器出土)、それに和気国(『和気系図』(4) に和気評あり)などは、論述してきた伊予の古代を飾る主要舞台には、本当は登場しなかったのである。
 前述の航路を考えると廻り道であり、遠過ぎたのである。かつまた道後に温泉があるというだけで、この地に地名遺存も遺構も無く、史料も伝承も無いに等しいにもかかわらず、であった。それは、大きな虚構であったと言わざるを得ない。
 ここに、悠遠きわまりない一三〇〇年以上前の郷土史の一端を、「古代に真実を求めて」私なりに論述した。だが、斉明天皇論は、あまりにも不可解なことが多いことから、帰結にはまだ到らないが、とりあえず小論を提示し、ご批判を乞い願いつつ、向後、諸兄の更なる研究を待ち望む次第である。


(1),史料(ハ)に出てくる人物であるが、河野氏の文書『水里玄義』には小市田来津とあり、越智氏の一族の可能性もある。
(2),『日本国現報善悪霊異記』略して『日本霊異記』ともいう 『新日本文学大系30』所収 岩波書店
(3),『予章記』伊予河野氏の記録 応永年間成立 上蔵院本と長福事本がある 景浦勉編 昭和五十七年八月 伊予史談会双書第五集所収
(4),『和気系図』 ー 『円珍系図』ともいう「日本三大古系図」の一つ 滋賀県園城寺所蔵
 当小論研究にあたり、村山神社宮司榊田嘉津雄氏、福岡八幡神社宮司越智義大氏、西条史談会高橋重美氏、同会萬條克己氏、古田史学の会編集長古賀達也氏、古田史学の会関西正木裕氏、古田史学の会四国今井久氏、同会山田裕氏、山野びっき氏にご教示・ご助力を賜りました。
衷心より御礼申し上げます。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailはここから

古田史学会報94号

古田史学会報一覧

ホームページへ


Created & Maintaince by" Yukio Yokota"