2006年 2月 8日

古田史学会報

72号

「天香山」から
 銅が採れるか
 冨川ケイ子

和田家文書による
『天皇記』『国記』
及び日本の古代史考察2
 藤本光幸

「ダ・ヴィンチ・コード」
  を読んで
 木村賢司

4連載小説『 彩神』
第十一話 杉神 5
 深津栄美

5私考・彦島物語II
國譲り(前編)
 西井健一郎

隅田八幡伝来
「人物画像鏡銘文」に就いて
 飯田満麿

7洛外洛中日記
石走る淡海
佐賀県の「中央」碑
 古賀達也

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私考・彦島物語II 國譲り(後編)


私考・彦島物語 II 國譲り(前編)

大阪市 西井健一郎

一、壱岐と大国、繰り返された闘争

1.天孫降臨説話への疑問
 記紀の神代巻の主舞台は「筑紫日向」の地。前稿「彦島物語 I・筑紫日向の探索」では、その該当地は九州ではなく本州最西端、山口県下関市の彦島であること。その形状から「土筆の彦島」と呼ばれていた地名に、上品に筑紫の日向(島)と当て字したものと推察した。
 神代巻は、彦島の歴史をもとにして書かれている。この視点に立てば、イザナキ王の国生みに続くイベント、天孫降臨と国譲りもまた彦島が主舞台の筈。記紀を読み直し、その原姿を探索した。
 結論からいえば、記の天照大御神の、紀では高皇産靈尊の宣言から開始される「国譲り」から「天孫降臨」に至る神代の大事件は、少なくとも三つの別事件から構成されている。
 第一の事件は、天照大神による「ホの国(=大国)」への統治官(総督)の派遣である。第二は大国主の妃間の相続争そい、第三はホの国出身の王子の速日侵略である。記紀はそれぞれ、これら三つの事件の主宰神に同一神名を使うことにより、元々は時代の異なる事件を一連の説話のように仕立てあげている。
 今稿では、そのうち大国が舞台となる第一と第二の事件について、彦島史観に基づく私見を紹介する。

2.壱岐勢の大国侵略
 第一の事件は、天照御大神(記)や高皇産靈(紀)の思いつきで始まったのではない。
 天照大御神が唐突に「葦原中国はわが子天忍穂耳の統治する国である」(記)といいだしたのには訳がある。それは天国勢、特に壱岐勢力の大国への侵略や敗退の過去を受けているからだ。
 神代巻の大国は出雲(島根県)ではない。山口県最西部、下関市から豊浦郡にかけての響灘沿岸の地であることは前稿で述べた。再録すると、大国は宇都志(顕)国でもある。この顕(ウツシ)は建(ケン)の替字である。建、つまり建日(タケヒ)の国は火ヒ、豊、クシヒとも呼ばれていた。それは国生み記に“肥國謂建日・向・日・豐・久士比泥別”、つまり「ヒの国は、建日(タケヒ)・向(コウ)・日(イ)・豊(トヨ浦郡)・串(櫛)日の根分け(元は同根)」とあるからだ。これら呼び名は、(時代と種族によって異なるが)同じ地を指すと云っている。以後、その地を、主に建日と呼ぶ。大国と書くと島根県を思い浮かべる人が多いから。
 一方、三世紀の魏志倭人伝には、一大国は“田地耕田猶不足食亦南北市糴”とある。その前に載る對海国と同じく“自活乗船”して市糴していた筈だ。これら壱岐や対馬は、ずっと以前から本州や九州の沿岸部をあるいは交易、或いは侵犯していた。これら天国勢が力を蓄えたのは、隠岐島の黒曜石の運搬にあたったからという。当然、安全な寄港補給地を出雲と九州との間の沿岸部に必要としただろう。三世紀には壱岐勢力が本州最西部(大国)の占拠を完了していたから、魏に「(壱岐+大国=)一大国」と名乗った、とみる。
 だが、それら当該地の人達(国神)には、他国者(天ツ神)による武力侵略以外の何物でもなかった。

3.大氣津比売と保食神
 この壱岐勢による一番古い侵略の形跡を、速須佐之男が食物を求めて大氣津比売を殺す話(記)、月夜見命が保食神を殺す話(紀)として記紀は記す。
 大氣津比売は、国生み記に“粟國謂大宜都比賣”とある。もともとは淡の地の首長、「大の齧(ゲツ。おそらく称号『オホ・ガ(=の)・チ』への当て字)」とみる。スサノヲは、ここでは姉の対馬の天照大神に対する弟の壱岐神の意に使われている。
 紀にも同源の話が載る。こちらは食(オス=押・忍=壱岐)国をイザナキからまかされた月夜見命が、「ホの食(クイ=称号『咋』)」、または「宇迦の毋知(ムチ=貴)」を殺す。ホと宇迦は先述の火・番の国、建日、大国の地である。オシが壱岐の首長を示す姓であることは、顕宗紀十二年二月条“壹伎縣主先祖押見宿禰”から推測した。
 紀は続けて、保食神の屍に生じた五穀を集め、それを育成する天邑君を定めた、と記す。これは宋史外国伝日本国条の王年代紀“凡二十三世。並都於筑紫日向宮”の初主天御中主に次ぐ第二代王の天村雲尊のこととみる。彦島の宮に収奪する総督を派遣したのだ。

4.国神イザナキの失地回復・・・国生み
 この壱岐勢の植民地を、彦島出身の国神イザナキ(私見ではアワナミ。機会をみて別稿で)が取り戻す。記の国生みは、その過程を示唆する。
 国生みの国名は、イザナキ達が取り戻していった順番で記載されている。その国名と謂名は、もともと彦島周辺の地名説明である。その地名に、記紀の編者は近畿王朝の人達が知る国名に近い漢字を当て、あたかも西日本各国の古代名のようにミスリードした。
 記の記載順に従うと、まず郷里の淡道の穂狭別島、私見では彦島全島の制圧から始まっている。次に攻略したのが、四国に見せかけている響灘に浮かぶ島々と植民地の本拠である。それが、伊豫二名島(伊與の浮棚島)こと天之浮橋こと蓋井(フタオイ)島、藍島(伊與の愛比売)、そして彦島の海峡部、加えてこれらの島の対岸、豊浦郡の浜にあったとおぼしきヒトツ柱の騰宮(壱岐の東宮)がある菟狭(トサ)の地を攻略した。次に隠岐と書くから彦島の沖にあった三つ子島(六連島?)を、である。なお、讃岐に当てられた飯依比古の地だけは比定地が掴めない。
 第三段階は筑紫の四面と書く地域、響灘沿岸の内陸部、後の大国となる地域、当時は建日や熊野(ユヤ)、豊(浦)、火・番などの「ヒ・ホ」と呼ばれていた地域、を征服する。
 そして、第四段階として壱岐と対馬が占拠され、最後に関門海峡(秋津=開津)の沿岸部(速日)が服属する。
 いわば、当時の火と豊の地をおおうイザナキ王国が生まれたのである。そして、彼が彦島の生んだ偉人の第一号となり、記紀に名を残した。

 

二、天照大神の勝利と総督派遣

1.スサノヲ、ウケヒで敗退
 このイザナキが確保した大国を天国勢に取り返されるのが、その後裔のスサノヲである。
 記紀のスサノヲは、大国主と同様、いろいろな神の代名詞として使われている。だが、スサノヲが初出する場面では、記は建速須佐之男命ときちんと表記する。建日と速日の主、これが天照大神に負けた時のスサノヲの称号であり、イザナキの後裔王の地位を伝える。
 スサノヲは天照大神が武装して待つ地へ出向き、互いの持ち物を噛み砕いて神を吹き出すというウケヒとしてカリカチュアされている闘いに負け、部下を召し上げられる。それら部下があらためて天照大神からスサノヲの元領地に派遣されてくるのが、降臨の始まりである。ウケヒ(紀)でスサノヲは天忍穂耳(オシホミミ)・天穂日(ホヒ)・天津彦根・活津(イクツ)彦根・熊野?樟日(クスヒ)の五男神を吹き出す。?(ヒ)速日(ハヤヒ)を追加して六男神とする紀一書もある。
 このうちの穂のつく二神、天忍穂耳・天穂日が第一陣として派遣される。おそらく、熊野クスヒも櫛日の地に派遣されたとみられるが、彦島には関係がなかったからか記述はない。なお、これらの神名は派遣先着任後の称号だろう。

2.穂に派遣された穂日と忍穂耳
 穂日はすんなり現地に溶け込み、三年間報告にも来なかったと書く。だが、忍穂耳は天浮橋こと蓋井島までは行ったが、対岸の豊浦郡が騒がしくて入れず、天照大神の所へ舞い戻るとある。そして、大神から一大率のような軍団を率いる媛速秋津師媛をつけて貰って、再度任地の速日に赴き占拠に成功した、らしい。なぜなら、彼の称号は勝速日と明記されている正勝吾勝勝速日天忍穂耳だからだ。記紀が彼の代わりに速秋津師媛との子「ホのニニギ」を差し向けたとするのは、ニニギに天照大神の血統を繋ぐための造作とみる。ニニギは忍穂耳よりも、次の国譲り騒動とも関係のない、ずっと後代の人物がモデルである。
 そして、忍穂耳の派遣完了で、対馬の神と思われる天照大神によるスサノヲ領への総督派遣は終わる。これが第一の事件であり、この仕事を終えた大神を天照大神?(一世)とする。理由は後述する。
 記紀には、天照大神自身が筑紫日向に宮を並べた記述はない。しかし、前出宋史の日本国王年代紀には、“次沫名杵尊。次伊奘諾尊。次素戔烏尊。次天照大神尊。”と天照大神は素戔烏の後にある。この順番で都を並べて彦島を支配したものらしい。

3.帰らなかった穂日
 記では、スサノヲはウケヒ後も天に留まり、天照大神に悪さを重ねたため、怒った大神は天岩戸へ隠れ、世の中は真っ暗になる。思金神や天のウズメ命など天照サロンの神々の活躍で大神を岩戸から連れ出すことに成功、騒ぎの元のスサノヲは追放になる。彼は出雲に降り、八岐の大蛇を退治し、いけにえにされていた娘、櫛名田比売を娶り、宮を建てる。その宮へ兄弟から迫害を受けていた大穴牟遅神が逃げ込み、宮の大神から試練を受ける。その窮状を救ってくれた大神の娘須勢理毘売と駆け落ちし、追っかけた大神が「おれ、大国主となり、宇都志国玉となって、・・・」と叫ぶ。この後、少名毘古那との国造りの説話と大年神の神譜が載る。そして突然に、天照大神が「豊葦原の千秋長五百秋の水穂の国は、わが御子天忍穂耳が知らすところの国である」と記述が続いて出現する。そのお言葉に従い忍穂耳が天降り、前述のように現地はイタク騒やげりとのことで、大神の所へ戻る。
 それら現地の荒振る国神を言い聞かすために、まず菩比(紀は穂日)神が選ばれて現地入りする。だが、“媚附大國主神、至于三年、不復奏”とある。
 そのため第二陣として選ばれ派遣されたのが、天津国玉の子、天若日子(アメのワカヒコ)である。しかし、彼も“於是天若日子、降到其國、即娶大國主神之女、下照比賣、亦慮獲其國、至于八年、不復奏”と記す。下照姫は亦名高姫、母は多紀理媛である。
 そこで、なぜ報告しないのかと雉を使いに出したら、うるさいと若日子が天から授かった弓矢で射る。その矢は天へ上り、不審に思った天神が投げ返すと寝ていた若日子の胸に刺さって死ぬ。そして、第三陣の派遣者が選ばれることになる。

 

三、高比売と天若日子

1.天若日子の婿入り
 若日子は、後述するように、第一陣の忍穂耳や穂日より数世代以上若い王子である。
 彼の親は天津国玉、対馬の首長である。天津国玉は、ウケヒの天津日子根の後裔だろう。単発の神名ではなく、ウケヒ説話を下に敷いて登場させたとみる。となると、ご先祖はウケヒ世代、穂日や忍穂耳、六神説のnigi速日と同僚だった。
 記や紀一書は、天照大神が若日子を派遣したように描く。しかし実際は、対馬の天照大神I により派遣された総督ではなく、婿入りだ。神代巻では、須勢理媛への大穴牟遅、豊玉媛へのホホデミ、三炊屋媛への饒速日など、婿入り婚の例にいとまがない。おそらく高の女首長、多紀理媛も天国から娘婿を貰いうけたのだろう。当時、多紀理媛の夫大国主の親が伝来の刀を天国に捧げたりしていて、天国勢力をはばかっていた様子がある。
 この婿殿は、ご先祖の同僚だった忍穂耳や穂日が総督として大国を統治したのなら、天津日子根の子孫の自分が其国を獲てもおかしくない、と思ったに違いない。しかし、その意図は誰かの意図には反したから、暗殺された。
 天神の矢で殺されたとあるが、憶測すると、天国の血統に其国を獲られることをおそれた国神勢力が阻止したともみえる。記は高御産巣日の別名高木神が、紀本文は高皇産靈が、紀第1一書では天神が矢を投げ返している。記紀ともに高ミムスヒが、と記している。

2.国譲りを要求したのは、多紀理媛と高比売の母娘である
 しかし、(彼にはさせたくなかったが)若日子の意図は、姑の多紀理や嫁の高姫の望みだった。そこで第二の事件、国譲りの直接交渉が始まった、というのが私の推測である。
 この若日子の婿入り以後の天照大神は、前の天照大神I とは異なる人物をモデルとする。
 スサノヲに勝ったここまでの天照大神I は、対馬の阿麻氏*留神社の神名を借りた、在天国の人物であろう。しかし、若日子はそれらウケヒ世代よりずっと若い。国譲りを要求される大国主はスサノヲの児八嶋士奴美から五世孫なのだ。だから、要求する天照大神も彼と同じ若い世代の人でなければならない。その神を天照大神IIと呼ぶ。この天照大神IIは、以後の国譲りの経緯からみて、多紀理媛でしかありえない。
 となれば、ウケヒ場面に出ず、国譲りから天照?とセットで登場する高ミムスヒとは、‘天照に対する下照(西村秀己氏教示)’姫こと娘の高姫である。これで国譲り説話はスッと理解できるものになる。
 この設定下では、多紀理媛にとっては夫の、高姫には父親の、大国主に国譲りを要求したことになる。つまり、大国主の妃の一人、多紀理媛が娘またはその子供に、父親大国主の地位を継がすことを要求した。それが国譲りの真姿である。
 だから、第三陣として国譲りの交渉に出かけた二人の武将が「天照大御神、高木神の命令で問いにきた。あなたのウシハケル葦原中国は、わが子が統治するべき国といっている。貴方はどう思う」と大国主に聞いたのは、私訳すると「あなたの奥方と娘さんが自分の子に、貴方の国を継がせたいといっている。どうだ」といったことになる。
 そこで大国主が「私には云えない。子の事代主(ことしろぬし)が返事する」と答えたのは、「それは現在、実際に支配している別の妻の息子、事代主に聞かないと返事のしようがない」との意なのだ。
 問われた事代主は泣く泣く承知し、遊んでいた船から海へ入水したとある。さらに聞くべき子を訊ねると、もう一人建御名方(たけみなかた)の神がいるという。その神は力くらべで決めようとやって来るが、建御雷に負けると逃げ出し、追い詰められて「我を殺すな。この地に閉じこもって出ていかない。父大国主の決定に従う」と降参した、と記に書かれている。
 この後、櫛八玉のトダル新巣の歌が載り、武将は平定を復命した。(つづく)

〔使用文献。なお、後編も同書を使用〕。
 古事記 倉野憲司氏校注『古事記』岩波文庫
 日本書紀 坂本太郎氏他校注『日本書紀』岩波文庫
 漢和辞典 藤堂明保氏他編『漢字源』学研
 魏志倭人伝 石原道博氏編訳『魏志倭人伝・他』岩波文庫
 旧唐書日本伝・宋史日本伝 石原道博氏編訳『旧唐書倭国伝・他』岩波文庫


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