2005年6月1日

古田史学会報

68号

「伊予風土記」新考
 古賀達也

削偽定実の真相
古事記序文の史料批判
 西村秀己

船越
 古川清久

4連載小説『彩神』
第十一話 杉神 3
  深津栄美

大宝律令の
中の九州王朝
 泥憲和

鶴峯戊申
不信論の検討
『臼杵小鑑』を捜す旅
 冨川ケイ子

ミケランジェロ作
「最後の審判」の謎
 木村賢司

高田かつ子さんを悼む

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「楽府」の成立 ーー「来目歌」から「久米舞」へ 冨川ケイ子(『古代に真実を求めて』第

九州年号・九州王朝説 ーー明治二十五年冨川ケイ子(会報65号)

武烈天皇紀における「倭君」 冨川ケイ子(会報78号)


鶴峯戊申不信論の検討

『臼杵小鑑』を捜す旅

相模原市 冨川ケイ子

 三月末の土日を使って、臼杵市を訪ねた。鶴峯戊申(一七八八〜一八五九)の生まれ故郷である。丸山晋司氏の『古代逸年号の謎』(注1)によれば、『臼杵小鑑(うすきこかがみ)』は鶴峯十九歳の著書だそうである。インターネットで、それが臼杵市の文化財に指定されていること、同市立図書館に所蔵されていることを知った。
 神奈川県に住む筆者が大分県臼杵市へと旅立った理由は、三つある。
 まず第一に、丸山氏が鶴峯に対して、強い不信感を表明していることである。
 鶴峯はその著書『襲国偽僭考』で、古代九州に「襲国」「襲人」と称する政治勢力が存在したことを主張した。鶴峯によると、彼らは養老五年に滅亡するまで、漢字を用い、中国王朝に朝貢し、自ら年号を立てた。ここでは、近畿天皇家をさしおいて自ら「王」と名乗るような行為が「偽僭」であるとされる。そして鶴峯は古写本「九州年号」によるとして三〇の年号を標目に掲げ、その異説を多く紹介している。
 その古写本「九州年号」を見た者は、昨年秋まで、鶴峯一人と考えられていた。このため、古写本や年号群の本来の姿を解明しようとする努力がさまざま試みられてきたわけである。
 その代表的な論者の一人、丸山氏は吉貴年号の条を例に取り上げ、その冒頭部分は貝原益軒の『続和漢名数』「日本偽年号」部分の「読み下し」であり(注2)、それに続く「一説告貴」に始まる数行は、高安蘆屋の『和漢年契』からの「引用」であることを指摘した(注3)
 事実、後者の「一説」は「いずれの写本でも」「年契」となっている(注4)。丸山氏が言う「いずれの写本でも」とは、岩波書店発行の『国書総目録』が掲げる、国立図書館所蔵の二本及び無窮会図書館所蔵の一本(注5)である。一方、「一説」とするのは、明治二二年に養徳会から刊行された活字本(やまと叢誌本)である。
 丸山氏は、『襲国偽僭考』から引用部分を排除していくことによって、「『古写本』の原文(漢文)は半紙大(B4)の紙に楽に書き込める程度のものでしかない」(注6)ことを突き止めた。この推測がほぼ正しかったことは、昨秋、今泉定介の論文「昔九州は独立国にて年号あり」(注7)の発見によりあきらかになった。
 しかし、丸山氏はさらに言う。「このような『本』が存在したと言えようか」「鶴峯が『古写本』を見たということ自体、やはり信頼がおけなくなってくる」「『続名数』中の「偽年号」を、鶴峯が「九州年号」と呼び変えた可能性もあると言わなければならない」「内容的には後代史料のなかでも一段と信用しがたいものと論定できるようになった」(注8)
 正しい答えに至っていながら、なぜ信頼ではなく不信感におちいったのであろうか。期待が裏切られたことへの怒りの表明であるように見える。丸山氏は、古写本「九州年号」が一枚の紙ではなく分厚い書物であることを願っていたのかもしれない。研究するほどに、その対象が嫌いになるのは不幸ではなかろうか。人よりはるかにおそく研究なるものを学び始めた筆者は、何よりもまず鶴峯に貼られた「信頼できない」のレッテルの意味を知っておきたいと思った。
 第二の疑問として、前述のように「いずれの写本でも」「年契」とする引用書名を、やまと叢誌本のみが「一説」とする理由は何か、という点を挙げたい(注9)
 やまと叢誌本は、文政三年春の自序(一八二〇年、鶴峯は三三歳)と、天保七年(一八三六年)夏に山本昇が筆写したことを示す奥書を持っている。鶴峯著『海西漫録』に「偽僭考には綾瀬先生ために序を作り、浪華の山本春樹上木を謀りていまだはたさず」(注10)とあり、出版の計画は実現しなかった。山本昇と山本春樹が同一人物であるかどうかまだ確認できていないが、いずれにせよ天保七年本には大坂時代の鶴峯の認識が示されていると考えてよいであろう(注11)。これが活字本として出版されたのは明治二二年(一八八九年)である。一方、丸山氏が挙げた三本の写本は、成立年次が明らかではない。
 実は、『国書総目録』に載っておらず、丸山氏も触れていない写本がもう一本存在する。茨城大学図書館(菅文庫)所蔵本(注12)である。特徴として一つには、無窮会本と同様、『襲人僭偽考』の標題と、天保九年(一八三八年)の綾瀬亀田による序文を持つ。この序文については前述の『海西漫録』も触れている。二つには、無窮会本にはないが、末尾に「安政四丁巳十一月以鶴峯本写 大津明融」の奥書がある。安政四年は一八五七年に当たる。
 これによって、『襲国偽僭考』から『襲人僭偽考』への改題と、「一説」から『年契』への書き換えは、天保七年から安政四年の間に行われたのではないか、との推定が可能になる。
 三三歳の著書で高安を「一説」扱いにし、後になってその書名を明らかにするという鶴峯の態度は、首尾一貫しないように見える。丸山氏の鶴峯不信説にも一理あることになろう。
 ところで、丸山氏は『襲国偽僭考』の年号部分の「原拠本」であったとする『続和漢名数』と『和漢年契』のうち、前者について、「『臼杵小鑑』(鶴峯十九歳の著書という)によれば、鶴峯は確実に『続名数』を見ている」(注13)と指摘している。そうであれば、『続和漢名数』を「読み下し」「呼び変え」ることは可能だったであろう。
 だが、丸山氏の文にはあいまいな点がある。一つ、『臼杵小鑑』なる書物を提示するのに、「藤井綏子紹介による」という注は不親切ではなかろうか。書誌情報
が明記されていなければ、あとからの検証がむずかしくなる。冒頭で述べたが、筆者はインターネットでこの書の所在を知った。二つに、「鶴峯十九歳の著書という」というカッコ内の文は、丸山氏の意見か藤井氏の意見か判然としない。「という」の文面にも不確かさが感じられる。その上で三つめ、丸山氏は自分でこの書物を調べていないように見受ける(注14)
 鶴峯が十九歳にして貝原益軒の著書を読んでいたというのはほんとうなのか。そもそも『臼杵小鑑』とは何であろうか。何が書いてあるのであろうか。第三の疑問である。
 自分の目で見て納得するよりほかにない。ここでようやく、臼杵へ旅立つ決心がついた。
 何ということであろう。写本が見たい、という筆者に、学芸員がいない(注15)から見せられない、と図書館員は答えた。活字本の復刻本ならある、それならコピーしてもいい、という。では全部コピーしてほしい、と頼むと、著作権の問題はないが、全部はだめです、一部分にしなさい、と付箋を渡された。
 それでも成果はあった。まず表紙中央に『臼杵小鑑大全』という標題がついていた。右側に「鶴峯戊申著 臼杵小鑑拾遺」「春藤倚松著 臼杵小鑑増補」「合本」と記載されている。久家常蔵という人物の還暦記念出版として刊行されたものであった。昭和十四年の奥付に「非売品」の表示がある。これが昭和五六年に復刻された。いずれも出版社の名はなく、一般書籍として流通したものではなかったようである。筆者が閲覧したのは、この復刻版であった。
 最初のページに、ひも綴じの写本『臼杵小鑑大全』の写真が載っていた。ああ、これが見たかったのだが。
 活字本は、郷土史家の久多羅木儀一郎氏(注16)が編纂及び校訂に当たっていた。同氏による「解題」は筆者の疑問をほとんど解いてくれた。それによると、『臼杵小鑑拾遺』と『臼杵小鑑増補』の「内容は共に旧臼杵領における神社、仏閣、山川、林野、村邑、港津、名勝、旧蹟等を記述したもので、要するに臼杵藩の風土記であり郷土誌である」(注17)
 『臼杵小鑑』は「これ文化三年九月、十九歳の時の著述で、おそらく鶴峯の処女作であらう」出版の意図は成らなかった。「のち戊申は廿七歳の文化十一年九月、之に再考拾遺を施して『臼杵小鑑拾遺』と名づけた。今日転写して伝わるもの即ち是れである」
 鶴峯にはこの著書をひとり占めにするつもりはなかったようである。「鶴峯学に志してより、誠に分陰を惜み、二六時中かりそめにもいたづらに過ることを欲せず。この書は其緒余にものする所にして、心をとゞめたる書にあらず。故に今記す処、漏脱なきことあたはず。こひねがはくば好事の士、訂正を加へ、全書となしたまへと云」(注18)久多羅木によれば同趣旨の文がさらに二つある。
 久多羅木は続ける。「従って現在伝って居る同書には、後に他の人が加筆した部分もあり、また戊申自身が文化十一年九月以後に補筆した所もあるか知れない」「殊に春藤倚松の補筆は少くないやうである」(注19)「中にはまた補筆とは反対に、後人によって省略された所もあるらしい」「されば現存の伝写本は、戊申の再考に成る本来の臼杵小鑑拾遺とは、多少異る所あるを免れぬと思ふ」
 加えられた改変について、久多羅木はそれぞれ数例を挙げているが、帰宅した今、不完全なコピーから、その一つ一つにあたることはできない。しかし、次のことは言えるであろう。現存する『臼杵小鑑拾遺』は、鶴峯十九歳の時の著作そのものではなく、二七歳の時のものでもなかった。おそらく、いろいろな時期の文章が混在している。したがって、「『臼杵小鑑』(鶴峯十九歳の著書という)によれば、鶴峯は確実に『続名数』を見ている」という丸山氏の断言は直ちには確認できない。
 おもしろい箇所を見つけた。「貝原翁の和漢名数に、俗間伝云、前此有善記僧聴年号。其事虚妄、不可信と云へる是なり。但し此年号実に有し事は、海東諸国記及石碑寺にのこれるを見てしるべし」(注20)とある。鶴峯は『和漢名数』を見ていた。だが、彼はここで貝原の「虚妄」説に対し、根拠を挙げて「此年号実に有し」と反論している。貝原に依存して、「読み下し」「呼び変え」ていたならば、こういう批判は可能だったであろうか。恨むらくは、この部分の書かれた時期が判然としないことである。
 第三の疑問は当面はここまでとしよう。第二の問いである。なぜやまと叢誌本だけ、「年契」が「一説」にされているのか。鶴峯は、『臼杵小鑑拾遺』において、他人の「訂正」が加わることに寛容であった。『襲国偽僭考』(やまと叢誌本)でも次のように言う。襲国について「其事跡、及年号等、みな証拠の的実なるにつきて、論へりといへとも、戊申、聞見にともしければ、其説いまたくはしからす。しかれども、その関係するところハ大なり。覧者たゞしかんがへてよ」他の写本にも同様の文がある。
 鶴峯は情報の集積について、読者の協力を求める人物であった。どうして知っている書名を隠し、「一説」とするのであろう。文政三年当時は知らなかったと考えるほうが素直な理解ではなかろうか。
 もともと貝原の「読み下し」、高安からの「引用」というのは丸山氏による仮説である。しかし、鶴峯が年号群の標目として採用したのは古写本「九州年号」によるものであった。鶴峯がどの資料をより信頼したかはこのことが示している。
 ここで「一説」の中身について二つのケースを考えてみたい。一つ、貝原には「俗間」が伝えた資料、高安には「旧記」という先行書があったが、いずれも具体的な書名は不明である。鶴峯の「一説」は高安の「旧記」と同系の書物を指している可能性を考えてもよいであろう。この場合、鶴峯は天保七年以降になって高安の『和漢年契』を採用したことになる。二つ、「一説」以下が初めから高安に依拠して記述された場合である。文政三年の段階では、誰かによる抜書きなどによって間接的には知っていたが、誤りを恐れ、あえて「一説」として載せたのではないかと考えられる。先述のように、天保七年から安政四年の間に、水戸家の蔵書などによって書名を明記した引用が可能になったのであろう。以上は想定であって、なお今後の課題である。
 最後に、丸山氏が鶴峯に対して不信をつのらせた原因である。丸山氏と鶴峯は、それぞれの学問においてねらうものと、それに至る手立てが異なっていたのではなかろうか。
 研究対象への期待、仮説、疑問は、時には予断や思い込みともなろうが、研究には不可欠のものである。丸山氏は九州年号(古代逸年号)について、あらかじめ想定を持っており、それを明らかにすべく努め、実際に明らかにした。鶴峯は、皇国イデオロギーの立場から、まつろわぬ存在としての「襲国」「襲人」のイメージを描き出そうとした。年号はその一部であった。明らかに、鶴峯が対象としたもののほうが、空間的にも時間的にも広かった。その代わり、雑多で散漫でもあった。丸山氏の研究対象は、これより狭く小さいゆえに、そこへ向かおうとする矛先は鋭くなった。
 研究の手立て、方法、アプローチのしかたもまた、両者は対照的であった。九州年号(注21)の復元をめざした丸山氏は、冗漫な引用を排除し、鶴峯自身の意見、古写本「九州年号」で見たものを突き止めようとした。鶴峯は、後世の学者の参考とするべく資料集めに熱心であった。どうしても引用文が叙述の中心になる。丸山氏がたまねぎの皮を次々とむき取ろうとするのに対し、鶴峯は皮をかぶせていこうとするのである(注22)。合うわけがない。研究の方向がすれ違っているのであるから。
 かつて(今もそうかもしれないが)いわゆる「邪馬台国」論争では、『三国志』の著者・陳寿は間違いが多く、信用できない、と言われていた。その不信感は何であったか。相手が思い通りにならないとき、研究する側が無意識に自分の意志を押し付けている可能性があるのではなかろうか。
 人は誰も、自分なりの思いや感じ方を持って生きている。実現したいと願うものは、生きる原動力ともなる。研究においても同様であろう。立証したいこと、解明したいことがあってこそ、意欲が湧くのであり、それがまた研究の方向を導く。先入観を恐れ、自分を無にしようとあえてつとめなくてもいいであろう。ただ、自分が決して無色透明ではないことを忘れなければよい。
 臼杵への旅を通して、そんなことを考えた。
       (二〇〇五年四月十八日)

(注)
1、丸山晋司『古代逸年号の謎ーー古写本「九州年号」の原像を求めてーー』一九九二年、アイピーシー、一三八頁。小文では、「第V章 『襲国偽僭考』所収、古写本「九州年号」について」中、「はじめに」「第一節 古写本『九州年号』の先行史料」「おわりに」を主な検討対象とする。

2、『益軒全集巻之二』(昭和四八年、国書刊行会)凡例によると、『和漢名数』は「一種の字書」で延宝九年の成立、『続和漢名数』はその「増補」で元禄五年の成立である。

3、『和漢年契』は高安蘆屋(高昶)による日本・中国対照の年表である。筆者が実見した無窮会図書館(神習文庫)所蔵刊本は、寛政元年の凡例と寛政八年の序文、寛政九年新鐫・文化二年補正の奥書を持つ。記紀にない年号群は凡例の部分に「予又嘗検旧記」として掲載されている。

4、丸山前掲書、一三五〜一三六頁。

5、無窮会図書館所蔵本は、『襲人僭偽考』という標題を持つ点が、他本と異なる。

6、丸山前掲書、一四九頁。カッコ内は丸山氏による。

7、広池千九郎『日本史学新説』明治二五年、所収。国立国会図書館所蔵。同ホームページ内の近代デジタルライブラリーで閲読することができる。このほか、無窮会図書館(神習文庫)が『史学新説』の標題で所蔵している(二四四六号)。今泉は、古写本「九州年号」の第二の目撃者である。拙稿「九州年号・九州王朝説ー明治二五年ー」(『古田史学会報』第六五号、ついで古田史学の会編『古田史学論集「古代に真実を求めて」第八集』二〇〇五年、明石書店、に所収)を参照されたい。

8、丸山前掲書、一四九頁、一三八頁、一三四頁。

9、『和漢年契』からの引用に着目した丸山氏は、一方で「一説」の存在には関心を持たなかったように見える。このことと同氏の研究手法との関わりについては別に考えたい。

10、早川純三郎編集・発行『百家随筆第三』国書刊行会、大正七年一月二五日発行、所収。二一頁

11、天保三年(一八三二年)、鶴峯は大坂から江戸に移り住んでいる。

12、インターネットでダウンロードすることができる。

13、丸山前掲書、一三八頁。()内は丸山氏による。

14、古田史学の会の水野孝夫会長より、市民の古代研究会の会誌に関連の論文が掲載されていたことを教えられ、コピーを何点かいただいた。なお未見の文献は少なくないが、知り得た限りでは、藤井綏子氏に『臼杵小鑑』に言及する論文があり、これを鶴峯十九歳の著作としたのも同氏だったようである。(藤井綏子「大分県域の九州年号」『市民の古代』第一一集、一九八九年一〇月、所収)

15、土曜日であった。

16、旧制臼杵中学校の教職員だったようである。(『臼杵史談』第三巻、三八三頁)

17、現代字体に改めた。以下同じ。

18、『臼杵小鑑拾遺』昭和五六年復刻版、一五八頁。本書の成立過程について

19、春藤倚松が『臼杵小鑑増補』を執筆したことについて、久多羅木は「此の如き補筆が累積重増して、終に一巻をなすに至ったのではあるまいか」と述べている。成立は明治二二年(一八八九年)、春藤は七〇歳であった。この年は鶴峯の没後三〇年にも当たる。

20、注18前掲書、一六三頁。

21、丸山氏は「古代逸年号」と呼ぶ。

22、古写本「九州年号」が分厚い書物ではなく一枚の紙にすぎないことを嘆いたのは、誰よりも鶴峯であったかもしれない。

〔付記〕
 
文中に言及した方々に筆者は面識がない。適宜敬称敬語を略したが、大きな学恩に感謝するとともに失礼をわびたい。また、臼杵市立図書館の職員の皆様にお世話になった。不意に訪れた筆者に対し、親切丁寧に接してくださった。文化財をよそ者が見たがること自体、怪しまれてしかるべきだったであろう。記して感謝する。

〔補論〕
 あとになって『臼杵小鑑拾遺』昭和十四年本が国立国会図書館に所蔵されていることを知った。『臼杵小鑑』写本は国会図書館及び東京大学史料編纂所にある。後の祭りである。「思い込み」が自分にはね返る実例であろう。
 史料編纂所所蔵の写本はインターネット経由で同データベースからダウンロードすることができる。外面は上中下三巻に綴られているが、内部的には六巻構成になっており、その上巻第一巻の末尾に「文化三年長月のころ 鶴峰戊申(于時/十九歳)しるす/同十一年長月再考拾遺」(注1). )とあり、実は『臼杵小鑑拾遺』であることがわかる。奥書は「右臼杵小鑑 三巻/豊後国北海部郡市浜村荘田平蔵蔵本明治二十年十月編修久米邦武文書採訪ノ時大分県庁ニ托シテ之ヲ謄写ス」となっている。
 このことから次の三点を指摘したい。一つ、明治二〇年における「謄写」作業が地域の歴史への関心を高め、明治二二年の春藤倚松による『臼杵小鑑増補』の成立をうながしたのではないか。二つ、右に言う「荘田平蔵蔵本」は今どこにあるのであろうか。臼杵市立図書館が所蔵する(筆者が実見できなかった)写本『臼杵小鑑大全』所収『臼杵小鑑拾遺』がそうなのであろうか。これに関わって、三つ、精査したわけではないが、編纂所本では久多羅木儀一郎が指摘する改変の跡は必ずしも認められないようである。してみると、編纂所本は春藤らの影響を受ける以前の、鶴峯の原作により近い姿を残している可能性があることになろう。なお今後の課題である。
 国立国会図書館所蔵の写本は複写を依頼中である。
 鶴峯には全集がなく、信頼できるテキストと解説がない。このため、全体への理解を欠いたまま単語や部分のみを取り出すと、誤解を発生することもあるであろう。写本を求めて筆者が右往左往するのも、つまるところ、全集がないことに尽きている。
          (二〇〇五・五・二)

(注)
1). /は改行を表わす。以下同じ。カッコ内は細字で二行書き。()は原文にはない。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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