2005年6月1日

古田史学会報

68号

「伊予風土記」新考
 古賀達也

削偽定実の真相
古事記序文の史料批判
 西村秀己

船越
 古川清久

4連載小説『彩神』
第十一話 杉神 3
  深津栄美

大宝律令の
中の九州王朝
 泥憲和

鶴峯戊申
不信論の検討
『臼杵小鑑』を捜す旅
 冨川ケイ子

ミケランジェロ作
「最後の審判」の謎
 木村賢司

高田かつ子さんを悼む

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「伊予風土記」新考

京都市 古賀達也

 四月二日、松山市での「古田史学の会・四国」の勉強会にて講演させていただいた(注1)。その中で「伊予国風土記逸文」にふれ、新たな読解を試みたので、その講演の一端をここに報告したい。

天山伝説の新読解

 ひとつは、『釈日本紀』に採録された次の天山伝承である(注2)

 「伊豫の國の風土記に曰はく、伊予の郡。郡家より東北のかたに天山(あまやま)あり。天山と名づくる由は、倭に天加具山あり。天より天降りし時、二つに分れて、片端は倭の國に天降り、片端は此の土(くに)に天降りき。因(よ)りて天山と謂ふ、本なり。其の御影を敬禮(うやま)ひて、久米寺に奉(まつ)れり。」
   (『釈日本紀』巻七)

 ここに見える「倭に天加具山あり」「倭の國に天降り」の「倭」は、従来「やまと」と読まれてきた。そして、大和の香具山と伊予の天山とをワンセットとした説話と理解してきたのだが、一方の大和の香具山にはこのような伝承を聞かない。また、地理的にも伊予と大和では遠く離れており、説話構成自体が不自然なのである。
 そこで、この「倭」をそのまま「わ」、あるいは和訓で「ちくし」と読むことを提案したい。すなわち、九州王朝(倭国)とする理解である。この新読解によれば、先の香具山は大和ではなく、筑紫の天香具山、すなわち別府の鶴見岳とする古田説(注3)と逢着する。鶴見岳であれば、伊予の天山とは豊予海峡を挟んだ位置関係となり、しかも両方とも国内有数の温泉の地である。この二つのセットであれば、説話構成も位置関係も良く対応し自然ではあるまいか。
 この新読解の傍証ともいえる説話が、同じ「伊予国風土記逸文」にある。九州年号「法興六年」の温湯碑記事を持つことで著名な、『釈日本紀』に採録された逸文の冒頭記事である。

 「伊豫の國の風土記に曰はく、湯の郡。大穴持(おおあなもち)命、見て悔い恥ぢて、宿奈[田比]古那命(すこなひこな)を活かさまく欲して、大分(おおきた)の速見の湯を、下樋より持ち渡り来て、宿奈[田比]古那命を漬(ひた)し浴(あみ)ししかば、[斬/足](しまし)が間に活起(いきかえ)りまして、居然(おだひ)しく詠(ながめごと)して、『眞[斬/足](ましまし)、寝ねつるかも』と曰りたまひて、踏み健(たけ)びましし跡處(あとどころ)、今も湯の中の石の上にあり。(以下略)」(『釈日本紀』巻十四・『萬葉集註釈』巻第三)

[田比]は、JIS第三水準、ユニコード6BD7
[斬/足](しまし)は斬の下に足。JIS第4水準、ユニコード8E54

 この説話には、伊予の「湯の郡」(道後温泉)と「大分の速見の湯」(別府温泉)がセットで語られており、『風土記』編纂以前から両地が深い関係を持っていたことをうかがわせる。また、別府の南方に北海部(あまべ)郡と南海部郡が現存し、往古は広く別府湾全域が国領域の一つ(新領域、古田説)であったことの痕跡を残しており、鶴見岳をの香具山とする理解を支持する。他方、伊予の山という名称が直接に示すように、共に降りした山とする説話を持つにふさわしい。
 以上のように、「倭に天加具山あり」を「ちくしに天加具山あり」とする新読解こそが従来説以上に有力な仮説であると考えられるのである。

 

神功皇后御歌の新読解

 ふたつめは、『萬葉集註釈』に残された「神功皇后御歌」とされる次の記事だ。

 「橘の島にし居(お)れば河遠(とお)み曝(さら)さで縫(ぬ)ひし吾(あ)が下衣(したごろも)、此の歌、伊豫の國の風土記の如くは、息長足日女(おきながたらしひめ)命の御歌なり。」
       (『萬葉集註釈』巻第五)

 この歌は『万葉集』巻第七(一三一五)にも見えるが、作者については記されていない。また、岩波日本古典文学大系『万葉集』の同歌頭注では、「奈良県高市郡明日香村橘の島ノ庄であろうか。ただし、ここは飛鳥川から遠くはない。」と、奈良の歌とすることに疑問を呈している。
 この歌自身には作者を判断できる内容はないことから、『伊予國風土記』の編者は何らかの根拠や情報に基づいて息長足日女命(おきながたらしひめ 神功皇后)の歌としたのであろう。とすると、九州王朝説の立場から考えると、卑弥呼・壱与の事績が「神功紀」に盗用されているという著名な現象があることから、この歌の真の作者ももしかすると卑弥呼・壱与ではないかという疑いが生じるのである。先の天山伝承と言い、「法興六年」の銘文を持つ記事と言い、『伊予国風土記』には何故か九州王朝に関わる伝承が色濃く残されている。このことからも、卑弥呼・壱与の歌が伊予に伝わっていても不思議ではあるまい。
 そう考えると、「橘の島」も糸島半島の志摩郡のことではあるまいか。あるいは、香椎宮の北東にある立花山(三六七メートル)付近に比定できるかもしれない。今のところ、わたしは立花山が有力と考えているが、その理由は「神功紀」に見える神功皇后の筑後平定説話である。古田武彦氏によれば、この筑後平定説話も九州王朝始源の女王、「橿日(香椎)宮の女王」によるものだった(注4)。その根拠地の「橿日宮」の傍に立花山が存在することから、先の歌の「橘の島」との一致を偶然とはできないのではあるまいか。
 こうした仮説をただちに断定するものではないが、少なくとも大和作歌説よりも穏当と思われるのである。『伊予国風土記』の全文が残っていないことが、誠に残念である。

(注)
注1、演題「九州年号と九州王朝系史料─『二中歴』『伊予三島縁起』─」於松山市ふるさと館。
注2、「伊予國風土記逸文」の引用は、岩波の日本古典文学大系本によった。
注3、古田武彦『古代史の十字路 -- 万葉批判』東洋書林、二〇〇一年。
注4、古田武彦『盗まれた神話』朝日文庫。
〔追記〕本稿の「天山伝説の新読解」は一九九八年十月頃に気づいたテーマであり、そのことを『多元』二八号(一九九八年十一月)で高田かつ子さんが紹介されている(「香具山登頂記」)。同テーマを古田武彦氏が『古代史の十字路 -- 万葉批判』において、詳細に著述されていたのだが、松山市の講演会の時、わたしはそのことを失念しており、古田氏の著述の存在を紹介しなかった。よって、ここに明記し、紹介させていただきたい。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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