2023年6月13日

古田史学会報

176号

1, 消された和銅五年(712)
の「九州王朝討伐戦」

 正木 裕

2,『播磨国風土記』
宍禾郡・比治里の「奪谷」の場所
 谷本茂

3, 『日本書紀』の対呉関係記事
 日野智貴

4,土佐国香長条里
七世紀成立の可能性

 別役政光

5,九州王朝戒壇寺院の予察
 古賀達也

6,「壹」から始める古田史学 ・四十二
多利思北孤と「鞠智城」の盛衰
古田史学の会事務局長 正木 裕

7,書評 待望の復刊、
『関東に大王あり』

古賀達也

 

古田史学会報一覧

唐代里単位の考察 -- 「小里」と「大里」の混在 古賀達也 (会報175号)
「アホ」「バカ」「ツボケ」の多元史観 上岡龍太郎さんの思い出 古賀達也(会報177号)


九州王朝戒壇寺院の予察

京都市 古賀達也

一、下野薬師寺と観世音寺

 佐賀県の柿本家に伝わる『柿本家系図』(注①)に「柿本人麿真人」(注②)の「実子 男玉」が東大寺大仏の鋳造に関わっていたので、東大寺関連史料(注③)を精査したところ、『東大寺要録』に下野薬師寺の創建年記事を見出しました。
 「下野薬師寺 天智天皇九年庚午」『東大寺要録』巻第六「末寺章第九」

 「天智天皇九年庚午」とありますから、九州年号の白鳳十年(六七〇)に下野薬師寺が創建されたとする記事です。わたしはこの年次を見て驚きました。九州年号史料(注④)に見える太宰府の観世音寺創建と同年だったからです。しかも、両寺院は東大寺と共に「天下の三戒壇」と称され、大和朝廷により僧尼受戒の寺院とされています。『古代を考える 古代寺院』(注⑤)で次のように解説されています。

 「地方の古代寺院の中でこの両寺が特筆されるのは、後述のような戒壇が置かれたことにもよるが、その設置以前から特別な地位をあたえられていたこともみのがせない。
 例えば、天平勝宝元年(七四九)に諸寺の墾田の限度額が定められ、両寺はともに五〇〇町とされた。これは、諸国国分寺の半分にすぎないけれど、一般定額寺の一〇〇町とは比較にならないし、法隆寺や四天王寺などの大寺とも同額であった。(中略)つまり、両寺が中央の大寺に準ずる扱いを受けていたことは、遠くはなれた地方に所在しながら、中央との結びつきが強かったこと、そしてすでに特別な地位が与えられていたことをしめしている。おそらく、それは創建の由来にもとづくのであろう。」同書二六九頁

 観世音寺と下野薬師寺に与えられた「特別な地位」が「創建の由来」にもとづくという指摘は示唆的です。また、両寺の墾田が法隆寺や四天王寺と同額の五〇〇町であったというのも重要な指摘ではないでしょうか。再建法隆寺や四天王寺(難波天王寺)・観世音寺が九州王朝(倭国)の寺院であったことが古田学派の研究により明らかとなっていることから、創建年が共に白鳳十年(六七〇)で、後に大和朝廷により戒壇が置かれた観世音寺と下野薬師寺は、九州王朝(倭国)時代の七世紀後半において、九州王朝の戒壇が置かれたのではないでしょうか。そのことが〝由来〟となって、八世紀の大和朝廷(日本国)の時代も両寺に戒壇が置かれたと思われます。
 ちなみに、下野薬師寺跡から出土した創建瓦とみられる複弁蓮華文瓦は飛鳥川原寺の系譜をひき、天武期ごろのものとされています(注⑥)。『東大寺要録』には川原寺の創建年を次のように伝えています。

 「行基之建立齊明天皇治七年辛酉建立」『東大寺要録』巻第六 末寺章第九

 ここにみえる「齊明天皇治七年辛酉」は九州年号の白鳳元年(六六一)に相当し、下野薬師寺の創建瓦(複弁蓮華文瓦)が飛鳥川原寺の系譜をひくという見解は年代的にも妥当な判断です。

 以上のように、観世音寺と下野薬師寺の両寺は九州王朝の戒壇が置かれるべく、ともに白鳳十年に創建されたのであれば、大和朝廷の東大寺に相当する、近畿地方における九州王朝の戒壇はどの寺院に置かれたのでしょうか。白鳳十年であれば前期難波宮(九州王朝複都の一つ)の焼失前(六八六年焼失)ですから、難波に九州王朝の中心的戒壇が置かれたはずです。その第一候補としては、やはり天王寺(後の四天王寺)ではないかと推定するのですが、史料根拠を見出せていません。
 なお、『帝王編年記』は下野薬師寺の創建を大宝三年(七〇三)としますが、出土創建瓦の編年からは白鳳十年説が有力です。また、天武九年(六八〇)とする見解(注⑦)もあるようですが、先の天智九年とする史料を天武九年に原文改定した結果と思われ、採用できません。

 

二、高良山中にもあった戒壇

 「九州王朝の戒壇」仮説を古田史学リモート勉強会(注⑧)で発表したところ、日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)から、大善寺(久留米市)に戒壇があったことが『高良記』(注⑨)に見えるとご教示いただきました。そこで同史料が収録された『高良玉垂宮神秘書同紙背』(注⑩)を精査したところ、次の記事がありました。

「一、大善寺ハ、長久元年ニ、タテラレタルナリ
 一、大菩薩御法身ノ時ノ カイ チョウ エノミツノハコヲ、ソノホカ 仏タウクヲ、ヘツシユニ ヲサメラレタルナリ、カルカユエニ、天チクム子チノ池ノ水ヲナカシ、アカノミツトカウス、彼ミツノホトリニ、カイタンノ作法 キシキ ヲサメ玉也、法ミフクトク カイタンノシュ仏トサタメ、ヒシヤモンタウヲ 作ヲキ玉フ也、サレハ ホツシニナリ、行ノ時ハ、彼水ヲ アカ水トサタメクム也、コレニヨツテ、高良 出家クハンチヤウノトキ、カイタンフマスニスル也」 同書一六〇頁

「一、三タウトハ、コマタウ クモンチタウ カイタンタウナリ
 コマタウハ 上宮ヘアリ、クモンチタウハ 北谷ニアリ
 カイタンタウハ ヘツシヨニアリ、カイタンノホンソンヲ ヒシヤモンニスルコトハ、法躰聖人ハ ヒシヤモンノケシンナリ、ホツタイシヤウニンノ 彼水本ヘ カイタンヲ オサメラレタル也、カルカユエニ、キヤウニ入ハ アカノ水ニ 彼ミツヲクム也、コレニヨツテ、高良山ノ衆僧 カイタンフマスニ、クハンチヤウセラルヽナリ」 同書一六一頁

 カタカナが多く難解な文章ですが、おおよそ次のようではないでしょうか。不正確かもしれませんが、わたしの訳を示します。

「一、大善寺は長久元年(一〇四〇年)に建てられたるなり。
 一、大菩薩御法身の時の戒・定・慧の三の筥はこ、その他の仏道具を別所に納められたるなり。かかるが故に、天竺無熱池の池の水を流し、閼伽の水と号す。彼の水のほとりに、戒壇の作法 儀式 納め賜う也。法味福徳 戒壇の主仏と定め、毘沙門堂を 作り置き賜う也。されば法師になり、行の時は、彼の水を閼伽水と定め汲む也。これによって高良 出家潅頂の時、戒壇ふまずにする也。」
「一、三堂とは、護摩堂 求問持堂 戒壇堂なり。
 護摩堂は上宮へあり、求問持堂は北谷にあり、戒壇堂は別所にあり。戒壇の本尊を毘沙門にすることは、法躰聖人は毘沙門の化身なり。法躰聖人の彼の水本へ戒壇を納められたる也、かかるが故に、きやうに入らば閼伽の水に彼の水を汲む也。これによって、高良山の衆僧、戒壇ふまずに潅頂せらるるなり。」

 「戒壇」記事の直前に「大善寺建立」記事があるため、戒壇が大善寺にあったようにも読めますが、「護摩堂は上宮へあり、求問持堂は北谷にあり 戒壇堂は別所にあり」に見える「上宮」(高良大社のこと)「北谷」「別所」はいずれも高良山中にある地名ですので、この「戒壇」「戒壇堂」は高良山中にあったように思います。また、同書付録の「高良玉垂宮神秘書参考地図(1)」にも別所に「毘沙門堂」「戒壇」の記載があります。
 『高良記』などの高良大社文書によれば、「高良玉垂命」の〝御発心〟を九州年号の白鳳十三年癸酉(六七三年)、あるいは天武元年を白鳳元年とする後代改変型九州年号の「白鳳二年癸酉」(六七三年)のことと記されています(注⑪)。こうした伝承が正しければ、筑後の高良山に戒壇が設けられ、僧侶の受戒儀式が行われたこととなります。真偽のほどは不明ですが、九州王朝の戒壇寺院研究において検討すべき伝承と思われました。同書「戒壇」記事の存在をご教示いただいた日野さんに感謝します。
 〔令和四年(二〇二二)五月二日、改訂筆了〕

《追記》本稿執筆後にブログ「ひもろぎ逍遙」に『高良記』の「戒壇」を紹介した記事「『神秘書』「別所」に天竺から流れて来る水と戒壇があった」があることに気づきました。

(注)

①佐賀県在住の柿本家に伝わる系図(二巻)で、「柿本人麿真人」を初代とする。古田武彦氏より同コピーの提供を受けた。

②『万葉集』では「柿本朝臣人麿」とする。

③『朝野群載』「聖武天皇東大寺大佛殿勅願板文」や『東大寺要録』に柿本男玉が東大寺大仏の鋳造師として参画したことが見える。古賀達也「洛中洛外日記」(2022/03/14~31)〝柿本人麻呂系図の紹介(1)~(7)〟2699話2711話を参照されたい。

④『勝山記』(甲斐国勝山冨士御室浅間神社の古記録)に「白鳳十年鎮西観音寺造」、『日本帝皇年代記』(鹿児島県、入来院家所蔵未刊本)の白鳳十年条に「鎮西建立観音寺」が見える。次の拙稿で紹介した。
 古賀達也「観世音寺・大宰府政庁Ⅱ期の創建年代」『古田史学会報』一一〇号、二〇一二年六月。

⑤狩野久編『古代を考える 古代寺院』吉川弘文館、一九九九年。

⑥『下野薬師寺跡発掘調査報告』栃木県教育委員会、一九六九年。

⑦下野薬師寺のWEBサイトに「六八〇年創建」とする記述がある。

⑧各地の研究者と情報交換や勉強を目的として、「古田史学リモート勉強会」を行っている。

⑨筑後国一宮の高良大社(久留米市御井町)に伝わる文書(巻物一巻)。

⑩『高良玉垂宮神秘書同紙背』高良大社 発行、昭和四七年(一九七二)。

⑪『高良玉垂宮神秘書同紙背』に次の記事が見える。本来の九州年号「白鳳」(六六一~六八三年)と後代改変型「白鳳」(元年は六七二年)が混在した珍しい史料である。
「一、天武天皇四十代、御ソクイ二年にタクセンアリテヨリ、外宮ハ サウリウナリ」 十七頁
「天武天皇四十代白鳳二年ニ、御ホツシンアリシヨリコノカタ(後略)」 三二頁
「人皇四十代天武天皇白鳳二年、(後略)」 三九頁
「一、御託宣ハ白鳳十三年也、天武天皇即位二年癸酉二月八日ノ御法心也」 八二頁


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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