2022年10月12日

古田史学会報

166号

1,竹内強さんの思い出と研究年譜
古田史学の会・代表 古賀達也

2,「自A以東」の用法
古田・白崎論争を検証する
 野田利郎

3,九州王朝の天子の系列(下改め3)
『赤渕神社縁起』と伊勢王の事績
 正木裕

4,『無量寺文書』における
斉明天皇「土佐ノ國朝倉」行幸
 別役政光

5,狂心の渠は水城のことだった
 大原重雄

6,「壹」から始める古田史学 ・三十二
多利思北孤の時代 Ⅸ
多利思北孤の「太宰府遷都」
古田史学の会事務局長 正木裕

 

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裸国・黒歯国の伝承は失われたのか? -- 侏儒国と少彦名と補陀落渡海 別役政光 (会報149号)
『無量寺文書』における 斉明天皇「土佐ノ國朝倉」行幸 別役政光(会報166号)../kaiho166/kai16604.html

斉明天皇と「狂心の渠」 白石恭子 (会報164号)


『無量寺文書』における

斉明天皇「土佐ノ國朝倉」行幸

高知市 別役政光

 『古田史学会報164号』で愛媛県今治市の白石恭子氏が『無量寺文書』(註1)を活字化して公開しておられた。私も三年前に、合田洋一氏の案内で同文書を直接目にしている。不明な文字や間違いなど校正して完成版を作り上げ、研究に役立てたいところである。
 文書に目を通された方は気付かれたかもしれないが、「天皇土佐ノ國朝倉ヱ行幸」と斉明天皇の土佐行幸について二か所書かれている。合田氏によれば、これは伊予朝倉(旧愛媛県越智郡朝倉村)の間違いとの説明であった。当初はそのほうが合理的であり、さすがに土佐国への行幸は考えにくいと同意した。
 しかし、文書全体に目を通すと、複数の朝倉地名が出てくる中、他と区別するためにあえて「土佐ノ國朝倉」と書かれているように見える。原文改定は明確な根拠がなければならず、まずは原文を尊重して、原文のまま理解することはできないかを第一に検討すべきところである。すぐに真偽を結論づけることが難しい内容なので、今回は斉明天皇の土佐行幸の可能性を支持する史料・伝承等を紹介してみたい。

 

〈『南路志』の記録〉

「朝倉木丸殿は筑紫に其旧跡ありといへるハ傳聞の説にて證拠なし。日本紀・延喜式の記す処たしかなれハ、土佐国にありといへるを正説とすへし」(『南路志』第二巻四九二頁)
「斉明天皇の皇居有し故にや。」(『南路志』第四巻一三頁)
「朝倉村ニ在。村ノ人木ノ丸ノ宮ト申ス。……斎明天皇ヲモ一所ニ祭ル。」(『南路志』第五巻二四四頁)
「24、土佐国古来より言傳之事 無題記 人皇三十八代斉明天皇御在位七年之五月ニ、百済国の加勢ニ土州朝倉迄御下向、七月廿四日ニ崩御之由。木丸殿と号」(第八巻四四〇頁)

 江戸時代に史料を収集・編纂した『南路志』に数か所、斉明天皇に関する伝承や土佐朝倉下向について記録されている。『南路志』は一八一五年(文化十二年)、高知城下朝倉町、武藤到和・平道父子が中心となり編纂された百二十巻に及ぶ大叢書である。明暦四年(一六五八年)、林春斎の記した『土佐国朝倉宮縁起』に代表されるように、少なくとも江戸時代初期には「斉明天皇の土佐朝倉下向」説が出ていたようだ。

 

〈高知市の朝倉神社〉

 高知市朝倉に鎮座する朝倉神社の祭神は天津羽羽神あまつははがみと天豊財重日足姫天皇(斉明天皇の和風諡号)とされる。『土佐国風土記』逸文に、「土左の郡。朝倉の郷あり。郷の中に社あり。神のみ名は天津羽羽の神なり。天石帆別の神、天石門別の神のみ子なり」とある。
 この天津羽羽神は土佐郡朝倉郷の開拓神と伝えられており、筑後国一宮・高良大社の祭神・高良玉垂命と同様に、『古事記』『日本書紀』などには登場しない。一元史観の枠内では捉えることができず、多元的な視点からの考察が求められるところだ。
 『日本書紀』斉明天皇七年(六六一年)条によると、天皇は百済救援のため難波宮を出て西征し、伊予熟田津、娜大津を経て、朝倉橘広庭宮に移ったといい、朝倉宮の造営には「朝倉社」の木を使用したという。通説では福岡県朝倉市に比定されているが、延喜式内社とされる朝倉神社が高知市朝倉に存在することから、朝倉橘広庭宮を当地に比定する説も根強い。朝倉神社の西方、赤鬼山南麓には高知県三大古墳の一つで、古墳時代後期の朝倉古墳がある。専門家の話でも、高知県内の古墳の中では九州系の横穴式石室に近いとされる。

 

〈愛媛県側の伝承〉

 高知県内のみ単独の伝承であれば、信頼度はさほど高くないと考えられる。しかし、隣県の愛媛県にも同様の内容を示す記録があるとすれば状況は一変する。しかも『無量寺文書』だけではない。他にも西条市の大元神社の由緒に「天智天皇土佐国朝倉へ行幸」という内容が伝承されている。

大元神社(西條市中奥千野々1―35)の由緒沿革
 天智天皇土佐国朝倉へ行幸のとき、お供九條右大臣範良郷が朝倉木の丸殿に止り、同殿を守護し、国司神主となり、代々子孫相勤め、一一代の孫従五位工藤山城守祐良の子工藤祐家が、建久年予洲山中藤合に大本大明神を山城国より勧請し、茲に居住したという。
『愛媛県神社誌』(愛媛県神社庁、一九七四年)より

 天智天皇についても高知県内にいくつかの伝承がある。まずは愛媛県境に近い大森神社(吾川郡いの町中野川一二六―一)。最も古い年代を示すものとして寛文四年(一六六四年)の鉾が現存。祭神の古くは「天智天皇」と公表していたようだが、天皇を祀ることは不遜として「大宝天王」と届けたと思われる。(註2)

 また、高知県最古級(白鳳時代)とされる秦泉寺廃寺跡(高知市中秦泉寺)にほど近い場所に天智天皇ミササギ(御陵)伝承地がある。どちらも伝承の域を脱するものではないが、天皇の土佐国行幸があったとすれば、行幸を可能ならしめる伊予―土佐を繋ぐ道がなければならない。
 『土佐の道その歴史を歩く』(山崎清憲、一九九八年)には、次のような記述がある。
 古伝として「斉明天皇七年(六六一)に天皇が伊予に上陸し、土佐に行幸、朝倉明神木丸殿に着」とあり「是れ古の駅路也。外に道なし、伊予の湯所より土佐の朝倉まで陸地相去ること三十里、其間、山高く嶺重なり坂長く道険し」とあり(二七頁)
 三坂峠や久万高原を経る、いわゆる久万官道が駅路として存在していたことを書き記している。さらに山崎氏は他の著書で「久万官道(六五五年)開設」としており、その根拠となる出典については明示されていないため、真偽を確認することができないが、南海道における古代官道ルートの一候補(註3)ともなっている。

〈長岡郡大豊町の斎明六年棟札〉

 最後にもう一つの史料を紹介しておく。長岡郡大豊町桃原(旧西豊永村桃原)の熊野十二社神社に現存する「斎明六年棟札」である。『高知県史考古資料編』(高知県、昭和四十八年)九七三頁に全文が掲載されており、関連する部分を引用しておく。

 ……長岡郡西豊永村桃原村社熊野十二社神社に、現存せる棟札にして、斎明六年(千二百五十六年前)の年号のある、左の銘文なりとす、
 奉上棟、参大妙見御社、五穀豊饒處福貴村社祭、元福嶋守定大都、干時斎明六庚申霜月十五日、大願主敬白、敬右志音所祈所、
 白勢宮拾滿等也(不明)、大施主日哭處命(不明)、大工櫻(不明)、新兵(不明)
 斎明は天子の諡号にして、年号にはあらず、斎明天皇の御代は無年号なれば、之を年号に代用したりと思へるは、大なる誤謬なるのみならず、而も此の諡号は、後世桓武天皇の御代に、淡海三船が定めたるものなれば、其の以前既にこれを用ふることなきは云ふまでもなし、又妙見の信仰は、藤原時代より起りたるものにして、王朝時代にこれあるは疑わし、何れの点より見るも信ずべき価値なし、

 著者・山本大氏の考察は合理的であり、同時代史料とは考えにくいものの、これも斉明天皇に関連する伝承の一つと考えてよいであろう。大豊町が愛媛県との県境に位置する町であることも重要な意味を持つ。
 以上、これまでに収集してきた高知県内に存在する斉明天皇や天智天皇に関連する史料・伝承等を紹介してきた。今回は論証というよりは、多元史観に立脚する研究者に資するため、広く情報公開することを目的とした。白村江の戦いに敗れた後、斉明天皇が伊予国に紫宸殿(註4)を営んだとするのが古田説の一つとして考察されていることもあり、今後の研究に役立てていただければ幸いである。

 

〈註記〉

(1) 無量寺『両足山安養院無量寺由来』「聖帝山十方寺由来之事」

(2)明治時代、松野尾章行が集録した史料集『皆山集 第一集』に「大森神社(中ノ川村) ○本川郷中ノ川村字桟敷石鎮座 村社祭神古老ノ曰天智天皇祭ル然ルニ往古御調有ノ節天智天皇と申奉てハ天朝ヘ御引揚ニ可相成と愚昧ノ氏子故大宝天皇と称替へ御届仕以後大宝天皇と称し奉る」と記録されている。

(3)佐賀大学の日野尚志氏は高知県内で廃止された十二駅を「土左国では大影(吾川郡)・池川(吾川郡)・広瀬(吾川郡)・柏原(吾川郡)・鴨部(土左郡)・国府(長岡郡)・夜須(香美郡)・安芸(安芸郡)・奈半利(安芸郡)・室戸(安芸郡)・佐喜浜(安芸郡)・甲浦(安芸郡)」と比定し、久万官道ルートを想定している。(「南海道の駅路―阿波・讃岐・伊予・土佐四国の場合―」『歴史地理学紀要 第20巻』歴史地理学会、一九七八年)

(4)愛媛県西条市明里川に「地名遺跡」として残る。地積台帳にある紫宸殿は縦三四〇メートル、横二二〇メートルで面積は七四八〇〇平方メートルの長方形の土地。


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