2018年12月10日

古田史学会報

149号


1,新・万葉の覚醒(Ⅰ)
 正木 裕

2,滋賀県出土
 法隆寺式瓦の予察
 古賀達也

3,裸国・黒歯国の伝承
 は失われたのか?
侏儒国と少彦名と補陀落渡海
 別役政光

4,弥生環濠施設を
防御的側面で見ることへの
 疑問点
 大原重雄

5,評制研究批判
 服部静尚

6,水城築造は
白村江戦の前か後か
 古賀達也

7,盗まれた氏姓改革
  と律令制定
 正木裕

 

古田史学会報一覧

実在した土佐の九州年号 -- 小村神社の鎮座は「勝照二年」 別役政光 (会報146号)

東日流外三郡誌』と 永田富智先生にまつわる遠い昔の思い出 合田洋一 (会報148号)


裸国・黒歯国の伝承は失われたのか?

侏儒国と少彦名と補陀落渡海

高知市 別役政光

「又有裸国・黒歯国、復在其東南。船行一年可至」(又裸国・黒歯国有り、復た其の東南に在り。船行一年にして至る可し)
 『魏志倭人伝』の最後を飾る文章である。倭人伝に記述された一年は二倍年暦であり、現代の暦では半年に相当するものとし、古田武彦氏は「裸国・黒歯国」を南米大陸のエクアドル付近と比定。その基点となる「侏儒国」を四国の西南端、足摺岬(高知県)の周辺とみなしている。ところが、『魏志倭人伝』に記述されて後、「侏儒国」および「裸国・黒歯国」についての新たな情報はほとんど登場しなくなる。太平洋横断の伝承は失われてしまったのだろうか。また、伝承が残されているとすれば、どこに、どのような形で遺存しているか検証してみたい。

魏使による実地見聞

 古田氏は『「邪馬台国」はなかった』(昭和四十六年)において「魏使は倭地の実地において、その当地の〝倭人の知識〟を聞き、これを正確に報告した、と思われる個所が倭人伝中に幾多存在する」(頁三九四)とし、足摺岬付近を出発点とし黒潮に乗って半年かけて北アメリカ大陸を経て、南米エクアドルへ向かう航路についての情報は、侏儒国における実地見聞に基づくと考えていたようだ。『失われた日本』(平成十年年)では「この三世紀(弥生時代)においては、すでに倭人にとっては、この「航路」が認識されていたこととなろう。この認識は当然、一万四千年間にも及ぶ、縄文時代の「経験の蓄積」の中から獲得せられたものであろう」(頁四五)とも述べている。
 これらの背景には、
①バルディビア遺跡(エクアドル)から縄文土器に酷似した土器が出土すること。
②足摺岬にある唐人駄場遺跡(縄文時代の石鏃出土が高知県内で最多)の鏡岩(縄文灯台)の存在。
③ほぼ同時代の「女神石」と呼ばれる線刻石がバルディビアと大宮・宮崎遺跡(高知県四万十市西土佐大宮)で出土していること。―などが挙げられる。

 高知県西部の幡多郡からは大分県姫島産の黒曜石の矢じりが多数出土しており、縄文時代から少なくとも豊後水道を行き来する航海術があったことは間違いない。高知県は稲作開始についても北部九州に次いで早いとされ、弥生時代の遺跡は四万十川流域に集中する。この幡多地方は『国造本記』によると崇神天皇のとき、天韓襲命あめのからそのみことが波多国の国造に任ぜられたとある。歴史的な経緯から見ても侏儒国に比定しうる条件は十分にあると言えるだろう。
 魏使が侏儒国で実地見聞したとすれば、単に「船行一年」だけではなくより具体的な情報も得ていたはずである。太平洋をヨットで横断した実例からも太平洋横断には三か月前後を要し、さらに北アメリカ大陸西岸から南へ同程度の距離を南下して南米エクアドル付近に到達するので、やはり三か月程度加算される。「東行三月南行三月(二倍年暦では東行六月南行六月)」に近い表現になるのではないだろうか。正距方位図法によれば南米大陸はほぼ真東であるが、東と南に一対一の距離進んだ場所を南東と認識するのは自然であり、倭人伝の「東南船行一年」の表記に集約されている。

『隋書』俀國伝の証言

 ヨットの場合は風を効率よく受けて進むので、単に海流の乗って進む古代の舟とでは速度に違いが出ることは考慮しなければならないだろう。『37日間漂流船長―あきらめたから、生きられた』(石川拓治著、二〇一〇年)に、長崎崎戸島の小船漁師が遭難漂流(二〇〇一年七月二〇日~八月二六日)した全貌が描かれている。その記録では長崎から漂流し、鹿児島を経て太平洋岸を黒潮に流され、千葉県沖を東行中に救助されるまで三十七日を要している。
 すなわち九州西岸から関東地方まで一か月以上かかっている。『隋書』國伝に「其國境東西五月行南北三月行」(二倍年暦ではない)という記述が登場する。西の端を五島列島付近と想定すれば、東西は日本列島内二か月+太平洋横断三か月=五月行、南北はそのまま三月行とし、「夷人(倭人)は里数を知らない。ただ日を以って計算している(夷人不知里数但計以日)」と表現されている内容はまさに、倭人からの実地見聞によるものと考えられ、「裸国・黒歯国」までも「其國境」に含めた認識とすれば、三世紀当時の伝承が隋書が編纂された七世紀まで生きていたと見ることができる。

少彦名の「常世郷」はこの世かあの世か

 一方『日本書紀』神代巻上で「少彦名命、行きて熊野の御碕に至りて、遂に常世郷に適いでましぬ」とある。少彦名命は舟に乗ってやってきて、国づくりを手伝い、常世郷に帰っていった神として『古事記』『日本書紀』に描かれ、一般的には出雲神話の枠内で認識されているが、『伊予国風土記』逸文にも大己貴命とともに温泉開設の説話が残されている。出雲神話の舞台である島根県で少彦名命を祀る神社は意外に少なく、むしろ愛媛県をはじめとする南海道に多くの伝承が残されている。
 また、一寸法師の話を生んだ小身のイメージは、倭人伝に「人長三・四尺」と描かれた侏儒国の人々を連想させるものがある。この関連性を裏付けるものとして、高知県西部に大巳貴命と少彦名命を祭神とする神社が集中(註1)していることが挙げられる。多元的に解釈してみても出雲よりは四国とのつながりが深いように思われる。そして「常世郷」は素直に読めば、海の向こうの国(註2)をイメージさせ、死後の世界と解釈しなければならない根拠はとくに見当たらない。ここにも太平洋を隔てた「裸国・黒歯国」が投影されているようにも感じられる。

補陀落ふだらく渡海と高知県西部の足摺岬

 五来重氏は『熊野詣 三山信仰と文化』(二〇〇四年)で「常世は海の彼方の他界と解釈されている。これはのちにのべる熊野に特有の葬法である補陀落渡海にあたるもの」との認識を示している。「補陀落渡海」とは南の海の彼方にあるという観音の補陀落浄土を目指して、小船に乗って渡ろうとする捨身行のことである。平安時代から江戸時代頃まで(註3)行なわれ、全国で五十六例、そのうち熊野那智からの渡海は二十八例。この他、高知の足摺岬や室戸岬、茨城県の那珂湊などでも補陀落渡海が行われたとの記録がある。
 四国最南端の足摺岬に位置する蹉跎山金剛福寺は『蹉跎山縁起』によれば、嵯峨天皇の勅願により弘法大師空海が弘仁十三年(八二二)に建立したとされ、「補陀落東門」の観音霊場として中央にも知られていた。正安四年(一三〇二)、後深草院二条(中院大納言源雅忠女)は、日記文学『とはずがたり』に足摺岬の観音堂(金剛福寺)の由来と補陀落渡海の説話を書きとどめている。
 補陀落渡海の多くは十一月、北風が吹く日の夕刻に行われたという。夜は陸風となり南方の沖に船出するには好条件が重なる。出航地として選ばれたのはいずれも日本海流(黒潮)が沖合を流れる地域となっている。文政三年(一八二○)の奥書をもつ『南紀名勝略志』に、熊野からの補陀落渡海について次のようにある。
 「往古は補陀落山に渡るとて、新しく船を造り、二三月の食物を貯へ、風に任せて南海へ放ちやる。是は観音の道場へ生なから至ると伝へりと。中古より此事廃せり。只今も補陀落寺の住持遷化の時、死骸を舟にのせ此浦の沖に捨てるなり。是を補陀落渡海といふ」

 二~三か月分の食物を貯えるというのは太平洋横断の約三か月間に必要な食料と見える。足摺岬付近の侏儒国から黒潮に乗って裸国・黒歯国へ向かった航海のノウハウが「補陀落渡海」として伝承されてきたとするのは考えすぎだろうか。
 この他にも、浦島太郎の説話や沖縄県に広く伝わるニライカナイ思想など、裸国・黒歯国への渡航についての伝承は、断片的かもしれないが様々なところに存在している。体系的な研究によって、さらなる関連性が見出されることを期待する。

 

(註1)『鎮守の森は今』によると、高知県西部(幡多郡と高岡郡の一部)には白皇神社が約四十社あり、大半が大巳貴命を祭神としている。少彦名命を祀る神社(氷室天神社や淡島神社など)も約二十三社が集中している。これに対して島根県では少彦名命を祀る神社は十社ほど。

(註2)『新訂 古事記』(武田祐吉訳注・中村啓信補訂解説、昭和五十二年)では「常世の国」を海外の国としている。

(註3)『熊野年代紀』によると、平安前期の貞観十年(八六八)の慶龍上人から江戸中期の亨保七年(一七二二)の宥照ゆうしょう上人まで二十五人。平安時代に五人。鎌倉時代に一人。室町時代に十二人。江戸時代に六人。


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