2020年4月13日

古田史学会報

157号

「倭国年号」と「仏教」の関係
 阿部周一

2,九州王朝系近江朝廷の「血統」「男系継承」と「不改常典」「倭根子」 古賀達也

3,七世紀後半に近畿天皇家が
政権奪取するまで
 服部静尚

4,松江市出土の硯に「文字」発見
銅鐸圏での文字使用の痕跡か
 古賀達也

5,三星堆の青銅立人と
土偶の神を招く手
 大原重雄

6,沖ノ島出土のカット
グラスはペルシャ製
『古田史学会報』編集部

7,「壹」から始める古田史学・二十三
磐井没後の九州王朝3
古田史学の会事務局長 正木 裕

8,新型コロナウイルスの
 対策方針として
代表 古賀達也

 編集後記

 

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三種の神器をヤマト王権は何時手に入れたのか(会報155号)
磐井の乱は南征だった (会報159号)

九州王朝系近江朝廷の「血統」 -- 「男系継承」と「不改常典」「倭根子」古賀達也(会報157号)
王朝交替のキーパーソン「天智天皇」 -- 鹿児島の天智と千葉の大友皇子 古賀達也(会報161号)

二〇一七年 新年のご挨大乱」に秘められた謎を解く一作業仮説 平田文男 (会報167号)

移された「藤原宮」の造営記事 正木裕(会報159号)


七世紀後半に近畿天皇家が政権奪取するまで

八尾市 服部静尚

一、はじめに

 七世紀までの蘇我氏と近畿天皇家との関係を、『紀』に見える蘇我氏関係記事で左記の通り検討すると、通説に言う蘇我氏の専横時代というようなレベルではなくて、九州王朝の重臣であった蘇我本宗家の下位に近畿天皇家があったと考えられる。

①崇峻紀の蘇我物部戦争で近畿天皇家の皇子達のほとんどが馬子の軍に加わっている。

②蘇我馬子に穴穂部皇子・宅部皇子・崇峻天皇が殺されたのに、馬子に対して何ら咎めができなかった。

③推古三十二年の馬子が推古天皇に葛城県封県を請願した記事は、蘇我氏と葛城県、近畿天皇家と葛城県の関係を比較すると、推古天皇が馬子に葛城県封県を誓願したものと考えられる。

④推古二〇年の天皇が詠む歌「真蘇我よ~」は蘇我氏が九州王朝の重臣であったことを示す。

 そしてこの上下関係が逆転するのは六四五年の乙巳の変までまたねばならない。
 ここでは、その後どのような経過で、近畿天皇家が九州王朝から政権を奪取できたのかについて考察したので報告する。

 

二、乙巳の変(六四五)から白村江戦まで

(1)乙巳の変で近畿天皇家は蘇我本宗家を凌ぐ勢力となるが、以降も九州年号(命長)は続いており、九州王朝の臣下勢力の一つであったことには変わりがない。

(2)谷川清隆氏(注1)によると、近畿天皇家は六四六年初めて独自の外交使節を新羅に送り、その後人質交換を行い、六五七年に至って独自の遣唐使を新羅に頼んで派遣しようと試み、六五八年にこれを実現する。この間、九州王朝は親百済政策をとっており新羅とは敵対しており、近畿天皇家のこの外交は密かに進められたと考えられる。

(3)正木裕氏(注2)は、六五八年の有間皇子の謀反は九州王朝に対するクーデター計画であるとする。つまり、この時点で近畿天皇家は独自外交を進めるとともに、力を蓄え九州王朝に対して密かに刃をむける存在になっていたことになる。

(4)九州王朝つまり倭国は、その後朝鮮半島への出兵へと進むのであるが、『紀』によると近畿天皇は海を渡らない。一方、古田武彦氏(注3)は高市皇子を歌ったとされる万葉一九九番等の一連の人麿の歌が、明日香皇子が朝鮮半島に出征し、唐の捕虜となり行方不明となった事実を歌ったもので、この明日香皇子こそ倭国天子、筑紫君薩夜麻であったとする。これに対して正木氏(注4)は明日香皇子=薩夜麻=皇太子とし、(倭国の)皇子ながら朝鮮半島に出兵したとする。私は(皇子とあるので)立太子していないと考える。つまり、ここから白村江戦まで倭国の天子は半島に渡らなかったと考えられる。

 

三、白村江敗戦(六六三)より壬申の乱まで

(1)朝鮮半島に渡った筑紫君薩夜麻が皇太子もしくは皇子とすれば、倭国の天子は(発掘された七世紀中葉の都市規模から見て)、筑紫もしくは難波に居て、後に近江に遷ったと考えられる。
 唐は倭国つまり九州王朝と戦ったので、終戦処理も筑紫にやって来て行うことになる。そして唐は新羅・高句麗・百済と同様に羈縻政策で倭国に臨む。『紀』では六七一年とあるが、正木裕氏(注5)は六六七年に筑紫都督府に都督として薩夜麻が帰還したとする。私は筑紫都督倭王としての帰還と考える。なぜ倭王かと言うと、次に示す旧唐書の例からして倭王の称号は不可欠なのだ。
・新羅の例―龍朔三年(六六三)「樂浪郡王新羅王法敏爲雞林州都督」
・他の例―安州大都督趙王元景、蜀王恪為益州大都督、越王泰為揚州大都督、等々

(2)『紀』では、六六八年天智が即位し倭姫王を皇后とする。西村秀己氏(注6)は、天智が病床で天武に譲位を伝えたところ、天武はこれを辞退して太后つまり倭姫王への譲位を薦めたこと等より、倭姫王が九州王朝の血族(皇女)だったとする。首肯できる説であるが、私は倭姫王こそが倭王(白鳳の君)だったと考える。倭王武の上表文にあるように、天子自らが出陣する九州王朝の伝統であっても、女帝であれば自らの出兵は考えられない。倭姫王が倭国天子であれば、九州年号が天智・天武の崩御で改元がされていないことも説明可能である。そして天智の妻となったのであれば、三種の神器も天智の近いところに移ったようだ。なぜならばこの時、草那藝剱の盗難未遂事件が起きているのである。唐が都督倭王として送り込んだ薩夜麻であっても、白鳳の君の方に大義がある。

(3)『唐会要』および『新羅本紀』によれば六七〇年に日本国と号する旨の記事がある。六七八年の百済禰軍墓誌にも日本が出てくるので、六七〇年もしくはその前後に日本国号が生まれたと見るべきであろう。

 先の通り、六六六年十一月「郭務悰ら二千人が薩野馬らを予告して送り届ける」唐は薩夜麻を筑紫都督倭王に任命する。そうであれば白鳳の君は大義が自らにあっても、唐の手前、倭王を名乗れない。そこで新しく日本王を名乗ったのではないか。日本国はこの時できたのだ。『旧唐書』が伝えるように、いくら雅ならざる名であっても、周・漢の時代から続く国名を簡単には捨てられないが、倭王を名乗れない事情であればやむを得ない国名字変更である。
 正木氏(注5)は九州年号の別系統として伝わる中元は近江朝年号だとし、天智称制は薩夜麻の捕囚によるもので、その帰還により都督薩夜麻を推戴する九州王朝勢力と、これを良しとせず(倭姫王の)女婿の天智を推戴する近江朝勢力の「二重権力状態」が出現したとする。この正木説の出現によって白村江以後の歴史研究は新しいステージに到達したと言える。先に示したとおり私は倭姫王こそが白鳳の君と考えるので、この時期一時的に日本国(倭姫王の近江朝・東朝)と倭国(薩野馬の筑紫都督府・西朝)の東西朝時代があったことを示している。大友皇子時代の果安年号と併せて、後に九州年号の(例えば二中歴などに残る)系列から削除されたことになる。これは白鳳の君の意向であろうか。

 

(4)そして、壬申の乱によって東朝は滅ぶ

 古賀達也氏(注7)は、『開聞古事縁起』にある大宮姫伝承の史料批判の結果『続日本紀』文武天皇四年条に出現する薩摩比売と大宮姫が同一人物であるとした。一方、正木氏(注5)は、倭姫王=大宮姫とする。同縁起によると「大宮姫は天智十年(六七一)十一月四日、密かに帝の履を持て都を旅立ち、大友皇子がこれを殺そうと追ったが、皇后(大宮姫)は阿濃津より船出し逃れる。」
 加えて、壬申の乱後も白鳳年号が続くことより、白鳳の君は乱前に西朝に身柄を移したと考えられる。

 

四、壬申の乱(六七二)より文武即位(六九七)まで

(1)六七三年(白鳳十三年)の天武即位でも、六八六年(朱鳥元年)の天武崩御でも、六九〇年(朱鳥五年)の称制からの持統即位でも九州年号は改元されていない。
 つまり天武・持統以外に九州王朝の天子が存在していたのである。古賀氏(注8)は、元日の賀正礼に注目して孝徳天皇が賀正礼後帰還したという記事より、天子では無かったと証明した。養老律令の元日条でも元日に賀正礼を受けるのは天皇・皇太子に限られるのだが、六七五年(天武四年)元日ではなくて二日の朝賀記事である。これは天武が九州王朝の天子でもなく、皇太子でもないことを語る。
 決定的なのは、『紀』の六八六年(朱鳥元年)六月「天皇の病を占うと草薙剱の祟りであった。尾張国熱田社にこれを送って安置した。」という記事である。天皇であるという印に祟られるのであるから、天武が九州王朝の天子ではないことは明らかであろう。

(2)ここで近畿天皇家の本拠地としての大和飛鳥が、列島支配の本拠地となっていった過程を検討するため、飛鳥周辺地域で発掘された干支年木簡に記載された干支を見てみよう。
 奈良文化財研究所が公開するデータベース「木簡庫」より飛鳥池、石神、飛鳥京跡苑池遺跡で出土の干支年木簡を抽出すると。丙寅年(六六六)から戊戌年(六九八)まで二十六点にのぼる。尚、七〇一年以降は干支年ではなくて全て年号表記になっている。六六六年一点。六七〇年一点、六七六年から複数点数の出土である。つまり七世紀後半しかも壬申の乱の後、大和飛鳥が近畿天皇家の本拠地となったものと考えるべきであろう。つまり、天武が壬申の乱(六七二)後ここを本拠にして勢力拡大を進めたということになる。

(3)『旧唐書』によると六七六年、唐は安東都護府を遼東に移し朝鮮半島より撤兵する。ここに朝鮮半島は新羅によって統一されたのである。当然、唐の権威と駐留軍に支えられた筑紫都督府にもその影響はあっただろう。安東都護府の安東は日本列島を含めての安東に違いない。つまり九州に居た駐留軍もこの時期、六七六年前後に撤兵したのであろう。筑紫都督は後ろ盾を失った状況で、東朝を滅ぼした(大和飛鳥を本拠とする)天武と対抗していくことになる。

(4)その二年後、『紀』によると、六七八年(白鳳十八年)の筑紫地震は巾二丈長さ三千丈の地割れとある。私たちが阪神淡路・東北地震でも経験していないレベルの大地震と想像される。さらに六八四年(朱雀元年)の白鳳地震は諸国郡官舎が悉く破壊したとある。(朱雀改元はこのせいであろう。)
 六七八年~六八六年の九年間に大地震が頻発し、火災で難波宮を焼失する。九州王朝の力は極端に衰えたものと考えられる。少なくとも人心は離れたに違いない。しかも唐の後ろ盾もない。

(5)六九七年文武への譲位の年、『続日本紀』十二月二十八日に象徴的な記事がある。
 「正月往来拝賀を禁じ、浄御原朝廷の制で決罰する。」というのである。そして年が明けた六九八年の元日朝賀は大極殿で行われた。「その儀常の如し」と言う。
 年末に九州王朝天子への元日朝賀を禁止して、これに逆らった者たちを九州王朝の律(刑法)に従って処罰すると脅し、これに替って、文武天皇(近畿天皇家)が(常に行われてきた九州王朝の元日朝賀の儀式にのっとって)元日朝賀を受けたのだ。
 つまり、ここまでに(変な言い方だが)九州王朝内にいた九州王朝一派を懐柔し、もしくは排除し終わったのだ。当時の左大臣多治比真人嶋・右大臣阿倍御主人・大納言大伴御行・当麻真人国見・中納言石上麻呂・藤藁不比等らが文武の即位を是とし支えたのであろう。文武は六九八年に決意し、六九九年以降、戦争準備を進めて、九州の九州王朝一派およびその兵の征討にむかったと考えられる。

(6)近畿天皇家で初めて天子・天皇となったのが文武である。しかも文武は譲位(記録上は持統よりの譲位)されてその位に就いた。そうであれば近畿天皇家は最後の九州王朝天子から禅譲されたのであろう。
 ここから持統紀の記事の少なくとも一部は九州王朝最後の天子の記事を盗用していると考えられる。持統四年元日の即位記事・三十四年ずらした吉野行き記事・女帝であること・藤原宮遷都など九州王朝最後の天子の記事を盗用して、その後の禅譲を暗に示しながら九州王朝そのものを隠す日本書紀が完成できたと考えられる

(注1)『白村江を戦った倭人―日本書紀の天群・地群と新羅外交』二〇二〇年古代に真実を求めて第二十三集

(注2)『九州年号で見直す斉明紀―安倍比羅夫の蝦夷討伐と有間皇子の謀反事件』二〇〇七年古田史学会報八〇号より

(注3)『壬申大乱』古田武彦、二〇〇一年東洋書林

(注4)『亡国の天子薩夜麻』二〇一四年古田史学会報一二二号より

(注5)『「近江朝年号」の実在について』二〇一六年古田史学会報一三三号

(注6)『日本書紀の「倭」について』古代に真実を求めて第四集

(注7)『最後の九州王朝―鹿児島県「大宮姫伝説」の分析』『市民の古代』第十集

(注8)『白雉改元の宮殿―「賀正礼」の史料批判』二〇一三年古田史学会報一一六号

 


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