2019年10月15日

古田史学会報

154号

1,箸墓古墳の本当の姿
 大原重雄

2,持統の吉野行幸
 満田正賢

3,飛ぶ鳥のアスカは「安宿」
 岡下英男

4,壬申の乱
 服部静尚

5,曹操墓と
日田市から出土した鉄鏡
 古賀達也

6,「壹」から始める古田史学
 二十 磐井の事績
古田史学の会事務局長 正木 裕

 

 

古田史学会報一覧

稲荷山鉄剣象嵌の金純度 -- 蛍光X線分析で二成分発見 肥沼孝治(150号)

神功紀(記)の「麛坂王・忍熊王の謀反」とは何か 正木裕(会報156号)

女王国論 野田利郎(会報161号)


曹操墓と日田市から出土した鉄鏡

京都市 古賀達也

 冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人、相模原市)と正木裕さん(古田史学の会・事務局長)から、曹操墓出土の鏡が大分県日田市から出土していた金銀錯嵌珠きんぎんさくがんしゅ龍文りゅうもん鉄鏡てっきょうと酷似しているとの報道(朝日新聞)があったことをお知らせいただきました(本稿末尾に「朝日新聞デジタル」の記事を転載)。
 同鉄鏡については「洛中洛外日記」(古田史学の会ホームページで連載)でも何度か取り上げてきました。同記事に見える「邪馬台国」の卑弥呼の鏡とする見解にはただちに賛成できませんが、このような超一級の鏡が日田市から出土していたことは九州王朝説でなければ説明しにくいと思います。大和朝廷一元史観に立つ限り、記事にあるように〝「皇帝の所有物にふさわしい最高級の鏡」がなぜ九州に―。研究者らは首をかしげる。〟という疑問を永久に解決できないのです。

 日田市と九州王朝の王族「筑紫君」
 たとえば、「洛中洛外日記」四一一話(2012/05/10)「筑紫君の子孫」では日田市と九州王朝の王族「筑紫君」について次のように紹介したことがあります。
 【以下、転載】
 (前略)
 今日は九州王朝の天子、筑紫君の子孫についてご紹介します。この二十年ほど、わたしは九州王朝の末裔について調査研究してきました。その一つとして筑紫君についても調べてきましたが、福岡県八女市や広川町の稲員家(いなかずけ 高良玉垂命の子孫)が九州王朝末裔の一氏族であることが古田先生の調査で判明したことは、今までも何度かご紹介してきたところです。
 それとは別に筑前に割拠した筑紫一族についても調べたのですが、今一つわからないままでした。ところが、江戸時代後期に編纂された『筑前国続風土記拾遺』(巻之十八御笠郡四。筑紫神社。青柳種信著)に、筑紫神社の神官で後に戦国武将筑紫広門を出した筑紫氏について次のように記されていました。
 「いにしへ當社の祭を掌りしは筑紫国造の裔孫なり。是上代より両筑の主なり。依りて姓を筑紫君といへり。」
 そしてその筑紫君の祖先として、田道命(国造本紀)・甕依姫(風土記)・磐井・葛子らの名前があげられています。この筑前の筑紫氏は跡継ぎが絶えたため、太宰少貳家の庶子を養子に迎え、戦国武将として有名な筑紫広門へと続きました。ところが、関ヶ原の戦いで広門は西軍に与したため、徳川家康から所領を没収され、その子孫は江戸で旗本として続いたと書かれています。
 現代でも関東地方に筑紫姓の人がおられますが、もしかすると筑前の筑紫氏のご子孫かもしれません。たとえば、既に亡くなられましたが、ニュースキャスターの筑紫哲也さんもその縁者かもしれないと想像しています(大分県日田市のご出身らしい)。
 というのも、古田先生の著書『「君が代」は九州王朝の讃歌』を筑紫哲也さんに贈呈したことがあるのですが、そのおり直筆の丁寧なお礼状をいただいたことがあったからです。筑紫さんは古田先生の九州王朝説のことはご存じですから、ご自身の名前と九州王朝との関係に関心を持っておられたのではなかったでしょうか。生前にお尋ねしておけばよかったと今でも悔やんでいます。
 【転載おわり】
 もちろん、筑紫哲也さんの出身地が日田市だったことと、当地から出土した金銀錯嵌珠龍文鉄鏡とを直接関連付けることは学問的ではありませんが、九州王朝説に立てば日田市からの出土は不可解ではありません。

 大和朝廷一元史観の〝宿痾〟

 他方、朝日新聞(九月八日)に掲載された九州大学の辻田淳一郎准教授のコメント「中国でも最高級の鏡が日田地域で出土したことの説明が困難で、もしダンワラで出土したとするなら、近畿などの別の土地に持ち込まれたものが、日田地域に搬入された可能性が考えられる。」を読んで、一元史観の〝宿痾〟の根深さを改めて痛感しました。こうした見解を考古学者が述べるのであれば、少なくとも近畿地方から同類の鉄鏡が他地域よりも圧倒的多数出土していることをエビデンスとして提示する必要がありますが、そうした報告書や論文など見たことも聞いたこともありません。
 九州王朝の〝お膝元〟である九州大学の若い准教授がこうした大和朝廷一元史観という『日本書紀』のイデオロギー(神代の昔から大和朝廷こそわが国の唯一で卓越した権力者である)に沿ったコメントを行わざるを得ないわが国古代史学界の「岩盤規制」をどのようにして突破していくのか、わたしたち古田学派の使命は重大です。
 同じくコメントを寄せられている西川寿勝さん(大阪府狭山池博物館)は、「出土地をめぐる謎は逆に深まった感があるものの、鉄鏡は日本列島の古墳から5面前後出土しており、潘研究員の指摘がこれらを再検討するきっかけになるのでは」と述べられており、こちらは古代の「鏡」の専門家らしい慎重で学問的な表現と思いました。

 梅原末治さんの業績

 梅原末治さんのことは古田先生もよく話されていました。中でも、梅原さんが福岡県春日市の須玖岡本遺跡D地点から出土した蘷鳳鏡きほうきょうの調査を行われ、同遺跡を「邪馬台国」の卑弥呼の時代とされた学問的業績を高く評価されていました。と同時に、梅原さんのお弟子さんたちはこの梅原論文を無視・軽視されたと、梅原さんに同情されていました。
 その蘷鳳鏡による須玖岡本遺跡の編年修正について、「洛中洛外日記」八七三話(2015/02/14)〝須玖岡本D地点出土「蘷鳳鏡」の証言〟で紹介したことがあります。その当該部分を転載します。

 【以下、転載】
 「洛中洛外日記」八七二話で紹介しました須玖岡本遺跡(福岡県春日市)D地点出土「蘷鳳鏡」の重要性について少し詳しく説明したいと思います。
 北部九州の弥生時代の王墓級の遺跡は弥生中期頃までしかなく、「邪馬台国」の卑弥呼の時代である弥生後期の3世紀前半の目立った遺跡は無いとされてきました。そうしたこともあって、「邪馬台国」東遷説などが出されました。
 しかし、古田先生は倭人伝に記載されている文物と須玖岡本遺跡などの弥生王墓の遺物が一致していることを重視され、考古学編年の方が間違っているのではないかと考えられたのです。そして、昭和三四年(一九五九)に発表された梅原末治さんの論文に注目されました。「筑前須玖遺跡出土の蘷鳳鏡に就いて」(古代学第八巻増刊号、昭和三四年四月・古代学協会刊)という論文です。

 同論文には蘷鳳鏡の伝来や出土地の確かさについて次のように記されています。
 「最初に遺跡を訪れた八木(奘三郎)氏が上記の百乳星雲鏡片(前漢式鏡、同氏の『考古精説』所載)と共にもたらし帰ったものを昵懇じっこんの間柄だった野中完一氏の手を経て同館(二条公爵家の銅駝坊陳列館。京都)の有に帰し、その際に須玖出土品であることが伝えられたとすべきであろう。その点からこの鏡が、須玖出土品であることは、殆ほとんど疑をのこさない」
 「いま出土地の所伝から離れて、これを鏡自体に就いて見ても、滑かな漆黒の色沢の青緑銹を点じ、また鮮かな水銀朱の附着していた修補前の工合など、爾後和田千吉氏・中山平次郎博士などが遺跡地で親しく採集した多数の鏡片と全く趣を一にして、それが同一甕棺内に副葬されていたことがそのものからも認められる。これを大正5年に同じ須玖の甕棺の一つから発見され、もとの朝鮮総督府博物館の有に帰した方格規玖鏡や他の1面の鏡と較べると、同じ須玖の甕棺出土鏡でも、地点の相違に依って銅色を異にすることが判明する。このことはいよいよキ鳳鏡が多くの確実な出土鏡片と共存したことを裏書きするものである」

 更にその蘷鳳鏡の編年についても海外調査をも踏まえた周到な検証を行われています。その結果として須玖岡本遺跡の編年を三世紀前半とされたのです。
 「これを要するに須玖遺跡の実年代は如何に早くても本蘷鳳鏡の示す2世紀の後半を遡り得ず、寧むしろ3世紀の前半に上限を置く可きことにもなろう。此の場合鏡の手なれている点がまた顧みられるのである」
 「戦後、所謂いわゆる考古学の流行と共に、一般化した観のある須玖遺跡の甕棺の示す所謂『弥生式文化』に於おける須玖期の実年代を、いまから凡およそ二千年前であるとすることは、もと此の須玖遺跡とそれに近い三雲遺跡の副葬鏡が前漢の鏡式とする吾々の既往の所論から導かれたものである。併しかし須玖出土鏡をすべて前漢の鏡式と見たのは事実ではなかった。この一文は云わばそれに就いての自からの補正である」
 「如上の新たな蘷鳳鏡に関する所論は7・8年前に到着したもので、その後日本考古学界の総会に於いて講述したことであった。ただ当時にあっては、定説に異を立つるものとして、問題の蘷鳳鏡を他よりの混入であろうと疑い、更に古代日本での鏡の伝世に就いてさえそれを問題とする人士をさえ見受けたのである」

 このように梅原氏は自らの弥生編年を蘷鳳鏡を根拠に「補正」されたのです。真の歴史学者らしい立派な態度ではないでしょうか。現代の考古学者にはこの梅原論文を真正面から受け止めていただきたいと願っています。(後略)

 【転載おわり】
 梅原さんは海外調査や須玖岡本遺跡出土の他の銅鏡なども自らの目で精査され、蘷鳳鏡の製作年代から須玖岡本遺跡の編年を三世紀初め頃と修正されたのですが、この業績はその後の考古学界から事実上の無視の運命にあってきました。そして更に今回の日田市出土の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡についても、梅原さんの現地調査などに基づく「ダンワラ古墳出土」という結論について、新聞報道では〝「皇帝の所有物にふさわしい最高級の鏡」がなぜ九州に―。研究者らは首をかしげる。〟と述べ、〝疑わしい〟〝謎が深まった〟と読者をリードするかのような論調で記事が構成されています。ここでもまた梅原さんの業績は〝否定〟されようとしているのです。

 梅原末治さんの不運

 梅原さんは同鏡を入手したときに聞かれた「日田での出土品」という古美術商の証言に基づき、現地調査をされました。同遺物出土時に立ち会った人からも証言を得るという梅原さんらしい徹底した調査に基づかれて、この金銀錯嵌珠龍文鉄鏡について発表されました。それに対して、新聞報道では「懐疑論」の一つとして、「出土地について古美術商が言うことが必ずしもあてにならない」との高島忠平さん(佐賀女子短期大学名誉教授)のコメントを紹介されたりしています。
 高島さんのコメントが一般論として妥当かどうかは、わたしにはわかりませんが、今回のケースでは古美術商の言葉を信頼してもよいように思います。というのも、もし古美術商がウソをつくのであれば、たとえば著名な天皇陵かその周辺で出土したなどと、その遺物の値打ちが上がるようなウソになるはずです。ですから、それほど有名でもない山間の地方都市である日田市から出土したなどというウソを古美術商がわざわざつく必要があるとは思えないのです。
 更に、現地を調査したらそのような遺跡発見の事実もあったわけで、古美術商がたまたまウソで日田出土と言ったら、偶然にもその時期に日田で遺跡発見があったなどとは考えにくいとするのが、わたしの古代史研究の経験からの判断です。この件、機会があればもっと深く論じたいと思います。それにしても、〝梅原さんはお弟子さんに恵まれていない〟と言ったら、高名な考古学者に失礼でしょうか。
(令和元年《二〇一九》九月二二日記了)

【朝日新聞デジタル 九月八日より転載】

曹操墓出土の鏡、大分の鏡と「酷似」

中国の研究者発表

 中国の三国志時代の英雄で、魏の礎を築いた曹操(一五五~二二〇)。その墓から出土した鏡が、大分県日田市の古墳から戦前に出土したとされる重要文化財の鏡と「酷似」していることがわかった。
 中国の河南省安陽市にある曹操の墓「曹操高陵」を発掘した河南省文物考古研究院の潘偉斌研究員が、東京国立博物館で開催中の「三国志」展(十六日まで)に関連した学術交流団座談会で明らかにした。
 二〇〇八年から行われた発掘で見つかったが鉄製でさびがひどく、文様などはよくわかっていなかった。同研究院でX線を使って調査したところ、表面に金で文様が象嵌ぞうがんされ、貴石などもちりばめられていることがわかった。潘研究員は「日本の日田市で見つかったという鏡『金銀錯嵌珠龍文鉄鏡』とほぼ同型式である可能性が高い」と話す。
 金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は、一九三三(昭和八)年に鉄道の線路工事の際に見つかったといわれ、考古学者の梅原末治によって六三年に報告された。翌六四年に重文に指定されている。邪馬台国の女王・卑弥呼に贈られたとみて、「邪馬台国九州説」を補強する材料の一つと考える研究者もいた。

卑弥呼がもらった?

曹操墓出土と同型の鏡、なぜ大分に

“華麗さでは随一”と多くの考古学者が太鼓判をおす古いにしえの鏡がある。「金銀錯嵌珠きんぎんさくがんしゅ龍文りゅうもん鉄鏡てっきょう」。大分県日田市で戦前に見つかったものとされ、装飾の巧みさから一九六四年に重要文化財に指定された。由来を含め多くの謎が残るこの鏡が、三国志の英雄・曹操の墓から出土した鏡とほぼ同じ型式である可能性が高まっている。「皇帝の所有物にふさわしい最高級の鏡」がなぜ九州に―。研究者らは首をかしげる。
 金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が学界に紹介されたのは六三年。青銅器研究に大きな足跡を残した考古学者・梅原末治(一八九三~一九八三)が美術研究誌「国華」で取り上げた。
 国華によると、直径二一・三センチ、厚み二・五ミリ。表面には金で龍文が、銀で爪などが象嵌され、所々に赤や緑の貴石をはめ込む。中央に子孫の繁栄を祈る「長宜子孫」の4字(子は欠落)が金象嵌で刻まれている。
 古美術商から購入し、表面を覆うさびを削ったところ、これらの装飾が確認されたと報告。「中国本土でも(略)稀まれなこの鏡」と評した。
 日田での出土品だと古美術商から聞いた梅原は、出土地とおぼしき場所を調査。出土時に立ち会った人の話も聞き、三三年の鉄道工事の際に出土したものと推定した。
 梅原は出土地の地名から、この遺跡を「ダンワラ古墳」と名づけたものの、埋葬施設の詳細は不明。さらに、一緒に出土したとされる馬具は6世紀以降のごく一般的なもので、超一級の鉄鏡の持ち主にはそぐわない。「本当にダンワラ古墳と呼ばれる場所から出土した鏡か」と疑問を呈する研究者も少なくなかった。
 それから半世紀余。新たな知見が明らかになったのは先月初めだ。東京国立博物館で開催中の「三国志」展(十六日まで)に関連して開かれた学術交流団座談会でのことだった。《後略》
(編集部注=新聞の引用部分でもふりがなの付け替えなどは行っています)


 これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailはここから

古田史学会報一覧

ホームページへ


Created & Maintaince by" Yukio Yokota"