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箸墓古墳の本当の姿について
京都府大山崎町 大原重雄
Ⅰ箸墓は丸かった?
「古墳時代最古の画期的な前方後円墳」という謳い文句で頻繁に登場する箸墓古墳。「大和朝廷はこの形を全国に配布して前方後円墳をつくらせた」などとし、箸墓の平面図の輪郭が他の古墳のそれと相似形であるなどという解説もよくみかける。はたしてそのような意義のあるものか?真摯に研究をされている人も多くあるその一方で、紋切り型の説明に終始して、古墳時代の問題の解明をそらすような状況は危惧したい。箸墓や纏向古墳群、さらには前期古墳の問題で気付く点をみてみたい。
寛政三年(1791)『大和名所図会』には箸墓を描いたとされる不思議な絵がある。それは箸墓が最上段を含めると五段になった円墳として描かれている。近世においては箸墓は円墳と思われていたのだろうか。後円部に比べ前方部が低い外形であり、さらに宮内庁管理になるまでは、くびれ部に道ができて人が通行していたぐらいだから、円部と方部が別のように見えていたのであろう。同様に他地域でも発掘調査をする中で当初は円墳とされていたものが、実は前方後円墳だったという事例もある。地元民も円墳と認識し、描いた絵師も低い前方部はカットして丸い箸墓を描いたのだろう。
ところが箸墓は最初は円墳だったと考える研究者がいた。
Ⅱ丸山竜平氏の前方部付加説
氏は前方部と後円部から時期差のある出土遺物があることから、先に円墳がつくられ、あとから前方部が付設されたという説を提起された。宮内庁管理の参考陵墓だが、「地元民」や宮内庁によりかなりの量の破片が採集されている。後円部頂上から宮山型特殊器台と都月型特殊器台形埴輪という異なる時代のものがあり、前方部からは二重口縁壺という時代の下ル土器、さらには周濠部から布留0式の遺物。これらのことから箸墓は最古の古墳ではなく、しかも後円部が先に作られ、数十年を経て前方部が付設されたという。以前は円墳なら魏志倭人伝の記述と合うことから近畿論者から歓迎する向きもあったが、現在では大方のところで等閑に付されさらには否定もされている。当の丸山氏も結論は後円部は卑弥呼と壱与の墓で前方部はその後の男子王とされるオチとなっている。この説を支持し円墳に造り出しを付設した図面まで作成された苅谷俊介氏も動機は卑弥呼の祭祀にふさわしい方形壇付円丘としたいがためで、根拠があって二段階築造を論証されたわけではない。
研究者の中では、森岡秀人氏は卑弥呼説は否定の上で、前方部付加説には注意喚起を唱えておられる。後から前方部をつけた可能性はあるのだろうか。レーザー測量図を見ると確かに疑問が湧いてくる。それはくびれ部の状況だ。どうみても後円部の段築と前方部の側面はつながっていない。ごちゃごちゃとした感じで連続して造られたとは思えない状況だ。さらに斜めに走る里道は宮内庁の管理になる明治時代まで地元民が行き来していたそうだが、道にしては裂け目が深いように見える。全面葺石とされる表面を掘るのは容易ではない。これはくびれ部の接合部の弱い部分が長年の風雨で裂け目ができて、そこを人が通行することで深い溝状の道になったと考えられるかもしれない。
箸墓古墳の周濠部を実際に調査された橋本輝彦氏は付加説を真っ向から否定された。その論拠は、前方部も後円部も布留0式の土器しか出ないから同時期だとされる。しかしである。その形式は二、三十年の幅をもっているものだ。先に後円部を作りしばらくしてから後に前方部を造ったとしたら、同時期の土器しか出なくても不思議ではない。確かに幕末とか長期間の差は考えられないが、短期間での付加説の否定はできない。箸墓と隣接するホケノ山古墳の場合は、竪穴式石室の隣に横穴式石室がつくられていた。二百年以上の時期差が考えられるが、先の石室を破壊するといったことのない丁寧な埋葬から、先の埋葬者と出自は同じ、もしくはそう信じ込んでのことが考えられる。これは極端な例だが、箸墓の場合も前方部に同族の埋葬者があったのだろう。そして実際にあとから前方部を付設したと思われる、時間差、時期差の考えられる古墳が存在するようだ。
Ⅲ前方部付加説、二段階築造の古墳
あとにもふれるが、箸墓を考えるうえで大変重要な古墳として、先につくられた中山大塚古墳がある。箸墓から3㎞ほど北上したところにあり、調査報告では後円部と前方部の石の積み方が異なっていることが指摘されている。同様に京都加悦町(現在与謝野町)の白米山しらげやま古墳も同様の葺石の明確な状態が確認できる。さらには石野博信氏があとから継ぎ足す作業手順の古墳に、三世紀後半の兵庫県たつの市養久山1号墳、六世紀の福岡県春日市日拝塚古墳を挙げ、明らかに先に円部がつくられているという。初期古墳だけでなく後期の古墳にも二段階築造が他にもあるかも知れません。
加悦町白米山古墳 くびれ部 右が円部
奈良県桜井市のメスリ山古墳は前方部に真横に段差がついている。現地は畑になっているが、農作業によるものとは考えにくいほど高さが変わっている。段築の平面がくびれ部でつながらないという指摘がされている。他にも鳥取県東伯郡羽合町の馬ノ山4号墳は明らかに等高線が分断されており、後から付設されたと考えられなくはない。
宮内庁主催による箸墓見学会で周濠を見られた研究者はやはりくびれ部のテラス面がスムーズにつながらないことを感じておられる。しかもです。宮内庁書陵部の徳田誠志氏は実際に倒木箇所の補修のために調査をされた報告として、前方部は礫敷だが後円部は積石状に敷かれた様子を報告されているのです。円部と方部の後方が異なるのです。このことを研究者の皆さんは黙殺できないのではないでしょうか。箸墓古墳も二段階築造の可能性は高いのです。
メスリ山古墳
Ⅳ造り出しがあったかもしれない箸墓
箸墓は円部と方部だけの古墳ではあるが、調査によって周濠があることが確認されている。ただ整った馬蹄形とする考えには疑問も出され、あくまで盛り土のための掘削の跡だという指摘もある。また前方部の北側、すなわち池のある側に、テラス状のもの、すなわち造り出しがあると寺沢薫氏により指摘されている。礫石が池の中にまで存在しており本体部分とは異なる基壇上のテラスという判断だ。残念ながらその全容は不明だが、箸墓も他の古墳の造り出しと同様の施設を持った古墳であることに間違いはない。
後円部 道路で切られた箇所 掘割
さらにである。先ほどの苅谷俊介氏は後円部の東部の不可解な地割について指摘しておられる。このことを紹介した森岡秀人氏も同意だ。ただそれ以降この件が発展したかどうかはわかりませんが、私も大変気になるものです。先ほどのレーザー測量図でも後円部から北東部にまるで昆虫の触覚のような線が見える。これは掘割であり、後円部の縁に沿って隣接の池に流れ込んでいるのだ。その掘割が後円部の端から道路に向かう箇所が少し奇妙な形状になっている。道路付設の際と思われる石垣で養生されているので最初の形とは言い切れないが、それでも本来の円部の縁から少し出っ張りがあって、そこを道路で切られているように見える。すなわち、もとは造り出し形状があり、その縁に沿って掘割が走っており、そのちょうど屈曲部分を道路で切られてその一部が養生されて残っていると考えられないか。畑に続く地割の途中に南北に走る線があり、曲がる箇所はわかりにくいがやがて後円部につながって台形状の形になる。削平され畑と宅地になってしまっているので、もはやうかがいしることはできないが、それでも扇型のようなものを想定することができる。この箇所について桜井市埋蔵文化財センターに問い合わせたが、崩れ防止のためとの返答だがどうであろうか。
これと同じものが、先ほど二段階築造で登場した中山大塚古墳で確認されている。箸墓の少し前の編年が考えられるが、図にあるような扇型の造り出しが円部先端に取り付き、さらには前方部にも造り出しがある。段築は少なく、墳長も一三〇mでほぼ箸墓の半分のサイズだが、葺石におおわれ、積石の石室で、同時代の土器片が出土するこの古墳とほぼ同じように最初は円墳をつくり、そのあとに方形部を付設させた前方後円墳を造ったと考えます。前方後円墳となった箸墓は本来は図のような中山大塚古墳と同型の付加施設をもった形状が想定できる。
中山大塚に隣接する燈籠山古墳の円部先端も台形状の区画がある。初期古墳の段階から、はじめは造成時の足場、後に祭祀場とするような付加施設があったと考えます。
中山大塚古墳
造り出しのついた箸墓想像図
Ⅴ箸墓をはじめ纏向地域の古墳の特徴の多くは
他地域の古墳に淵源が求められる
先の『文久山稜図草稿』には木柵で囲まれた墳頂とそこに板石の露呈した様子が描かれており、明らかに積石状の竪穴式石室であると考えられている。宮内庁撮影の写真も板石の存在が確認できます。中山大塚古墳は合掌式の積石の石室で天上に板石が敷かれており、おそらく箸墓も同型であろうが、その埋葬施設の始まりは香川県の鶴尾神社4号墳などとされ、さらにこの古墳の形状は鍵穴風前方後円墳の祖型とも言われている。
箸墓と備前車塚古墳
前方部のバチ型とされるのが箸墓古墳のトレードマークのように言われているが、実はこれも前例がいくつもある。岡山県備前車塚古墳、同七つグロ1号墳、兵庫県権現山51号墳、京都府元稲荷古墳などでありしかもこれらはみな前方後方墳である。箸墓は前方後方墳のDNAを持っているという不思議がある。
箸墓の存在するエリアの前方後円墳には纏向型と称されるものがある。しかし阿波の弥生墳丘墓の足代東原1号墳(徳島県三好郡)が、纏向型前方後円墳の原初型との指摘があります。
余談ですが、¥に似た石見型木製品などとよばれる祭具も最古のものは糸島から出土しており、これも奈良からはじまったのではないのです。
Ⅵその他
前方後円墳がヤマトを中心に同心円状に広がったなどという説は今や見直しが進んでいます。広瀬和雄氏は「一期の前方後円墳は各地で『同時多発的』に築造され、最初から〈共通性と階層性を見せる墳墓〉」と述べておられる。画一的に解釈するのでなく多元的に捉える動きは広がっている。
出雲を中心とする四隅突出型墳丘墓の造成が盛んな頃、北九州では平原に代表される初期古墳が生まれ、吉備では特殊器台の祭祀が盛んとなり巨大な楯築墳丘墓が登場、四国東部では積石塚が築かれるなか、奈良盆地の東南部にそれらのノウハウを持って、又は情報を得て移り住んだ集団が土地開拓のため水を祀る祭殿と巨大な墳墓を造った。箸墓の場合は当初円墳として作ったが、方形部を付設することが祭祀に効果的と聞いて追加工事を行ったのかも知れない。
箸墓の墳丘部からは五,六世紀のものと思われる須恵器なども採集されている。墳頂までの道もしかれており、地域の人々に長期間にわたって家族の安泰を願う守り神となって祀られる存在であったのだろう。乗馬用の木製鐙が周濠から見つかったことから、雨乞いもされていたのではという可能性も考えてみたい。
苅谷氏がふれられているが、何故箸墓が四百年あまりも経過しているのに書紀に記事があるのかは注意が必要。もちろん二上山の石の使用などないが、なにか信仰上の重要な、またその地の集団が特別な存在であったことは否定できない。
まとめ
①現在のところ否定的な前方部付加説を、自分なりに類例もあげて肯定的に考えてみた。間隔は不明だが二段階築造された古墳と考えられ、最古の巨大な前方後円墳と強調する道理はない。また時間差でもって作られた古墳は他にもあるのではと思われる。
②後円部の造り出しも多少強引ではあるが、後円部と道路との奇妙な湾曲箇所や類例から想定してみた。箸墓古墳の本当の姿は、中山大塚古墳と似た造り出しを付設した全面石葺きで、石室も同様の積石で築かれ、また前方部のバチ型は前方後方墳のものとの類似など先行する他地域の特徴を合わせ持った後出の築造物にすぎない。
③古墳編年の問題については、既にほかで熱心に問題を指摘されてもいるが、時期の異なる特殊器台の破片や纏向遺跡の祭祀のことなど今後も考えていきたい。
これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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