2016年8月10日

古田史学会報

135号

1,盗まれた風の神の祭り
 正木 裕

2,九州王朝説に
 刺さった三本の矢(前編)
 古賀達也

3,古田先生が
 坂本太郎氏に与えた影響
 中村通敏

4,『別冊宝島 古代史再検証
「邪馬台国とは何か」』の検証
 西村秀己

5,鞠智城創建年代の再検討
 六世紀末~七世紀初頭、
 多利思北孤造営説
 古賀達也

6,「壹」から始める古田史学Ⅵ
 倭国通史私案①
 黎明の九州王朝
 正木 裕

7,「邪馬壹国の歴史学」
 出版記念講演の報告

 

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「壹」から始める古田史学Ⅵ 倭国通史私案① 黎明の九州王朝 正木 裕(会報135号)../kaiho135/kai13506.html


「壹」から始める古田史学Ⅵ 倭国通史私案①

黎明の九州王朝

古田史学の会事務局長 正木裕

 これまでは古田史学・九州王朝説の「トピック」である「天孫降臨・二倍年歴・九州年号・『倭人伝』の里程記事」等について述べてきました。ここからは九州王朝の歴史を、その成立以前から追っていくことにします。
 倭人が最も早く歴史に登場するのは、周王朝の時代です。周は紀元前十一~前十世紀頃、殷の紂王を滅ぼした武王により創建され、 春秋・戦国時代の衰退期を経て、紀元前二五五年に秦に滅ぼされるまで約八百年間続いた王朝で、その成立時代に「倭人との交流」が記録されています。
◆『論衡』「周の時、天下太平にして、倭人来たりて鬯草ちょうそうを献ず」「成王の時、越裳雉を献じ、倭人鬯を貢ず」「周の時天下太平、越裳白雉を献じ、倭人鬯草を貢す。白雉を食し鬯草を服するも、凶を除くあたわず」

 『論衡』 は後漢初期の王充(二七~九一)の思想書で、成王は周王朝第二代の王、その時代に倭人が鬯草(神酒である「鬯」に醸す香草)を献じたとするものです。王充の時代、建武中元二年(五七)に倭(倭奴国)が朝貢し、光武帝から金印(志賀島の金印)を下賜されていますから、王充が「倭人」と言えば一世紀当時の九州の倭人を想定していたことになります。
 さらに、周代の「礼」を記す『礼記らいき』や、「官制」を記す『周礼しゅらい』には東夷の楽「昧まい」の記事があります。
◆『礼記』「昧、東夷の樂なり。任、南蠻の樂なり。夷蠻の樂を大廟に納む」
◆『周礼』疏(注釈)「鞮鞻氏、四夷の樂と其の聲歌を掌る。(略)東夷の樂を韎(昧)と曰ひ、南方、任と曰ひ、西方、侏離しゅりと曰ひ、北方、禁と曰ふ」

 これは幼い成王に代わり政を司った周公の弔いに、東夷の楽「昧まい」が奉納されたというもので、日本では今でも「舞 まい」と言いますから『論衡』『礼記』を併せれば「東夷の倭人が鬯草を献上し昧(舞)を奉納した」ことが伺えます。
 この「倭人朝貢」には背景があります。それは、周初代の武王によって「箕子」が朝鮮(中心は箕城、今の平城付近)に封じられ(支配をまかされ)、東夷を「教化」したことで、『論衡』には次のように記されています。
◆玄菟楽浪。武帝の時、置く。皆朝鮮・濊貊わいはく・句麗の蛮夷なり。 殷の道衰え、箕子去りて朝鮮に之く。其の民に教うるに礼義を以てし、田蚕織作でんさんしょさく せしむ。

 箕子は『史記』に見え、殷の紂王の親戚で、宰相としてその暴虐をいさめたが、聞きいられず野に逃れた人物で、殷墟出土の甲骨文字等からその実在が確かめられています。「田蚕織作」とは水田耕作や蚕を育て絹織物を作ることで、倭人は箕子の朝鮮を通して周王朝と接触することが出来たわけです。最近北部九州菜畑遺跡などの「縄文水田」は三千年近く前ではないかとされる報告もあり、「箕子による東夷教化」にも十分な信頼性が出てきました。
 この時代の日本列島は縄文の土器・石器の時代で、当時は「刃物」や「鏃やじり」として「黒曜石」が尊重されており、九州佐賀(腰岳)産は朝鮮半島や沖縄に運ばれていることから、九州の縄文人たちの南北の交易・交流が伺われ、周王朝への鬯草献上も頷けます。
 そうした中で、出雲産の黒曜石は特に良質で新潟や四国に運ばれ、その鏃は日本海を超えウラジオストクにまで齎されており、縄文文化の中心地となっていました。出雲の「国引き神話」で志羅紀の三埼・北門の佐伎さきと良波よなみ・高志の都々つつを引き寄せたとあるのは、黒曜石の産地出雲(大国おおくに)が、東は越から西は新羅、「北門」即ちウラジオストクという「日本海一円」を勢力下に収めていったことを示すもので、このように「出雲王朝」は誕生しました。そして、後述するように九州の倭人も出雲王朝の発展の中でその勢力下に入れられていました。

 この勢力地図を一変させたのが、朝鮮海峡、対馬・壱岐からの「青銅の武具」を備えた勢力の侵攻でした。
 朝鮮半島では前一九四年に、数百年続いた「箕子朝鮮」の王・準王が、燕出身の将軍であった衛満により「放逐」され衛氏朝鮮が建国されました。そして『後漢書』には、準王が半島南部の馬韓を撃ち破り、韓王として自立したとあります。これらの戦は「青銅の武具」によるもので、半島から逃れた人々により、対馬・壱岐にもこうした武具が大量に齎され、いち早く土器・石器の縄文時代を脱したことは想像に難くありません。これは、対馬では一四〇本を超える広形銅矛、朝鮮製の細形銅剣、剣柄、鍔などの青銅武具が多数発見され『青銅器王国』と呼ばれていることからもわかります。
 この対馬・壱岐などの「海峡」を拠点とする勢力を、古田武彦氏は「海人あま族」と名付けており、『記・紀』に「天あま」と書かれているのは「空」ではなく「海」の意味で、「天下る先(海を下る先)」が「新羅・筑紫・出雲」の三地域に限られることから、「天下る元地・拠点」は三地域の中心の対馬等だったことが知られます。海人族は「天照あまてる・天の忍穗耳ほしほ・天の火明ほあかり」など歴代「あま」を名に冠しました。ちなみに、『隋書』にも「俀王多利思北孤」の姓は「阿毎あま」とあり、海人族の王朝が七世紀まで継続していたことが分かります。
 ただ対馬などは耕地も少なく、半島からの渡来人を含む多数の人口を養うことが困難でした。そこで海人族は彼らと共に齎された銅矛・銅剣等の青銅の武器を用い「新天地」獲得に動きました。その先は出雲(大国)の勢力下にあった「縄文水田」が広がる「豊蘆原瑞穂の国」、縄文の倭人たちの住む北部九州でした。なお北部九州が大国の勢力下だったことは、この国の平定のため、天照らが天菩比神や天若日子を大国主の下に派遣したが、「媚附(こびつき=迎合)して還らなかった」と記すことからわかります。

 そこで海人族は、直接大国の心臓部「伊那佐の浜(出雲市大社町)」に武具(十掬剣)を以て侵攻し圧力を加え、葦原中国(筑紫。「中」は福岡平野の「那珂」)の支配を奪い取ったのでした。これが「国譲り」の真相です。ただ中国と引き換えに出雲大社(多藝志たぎしの小濱の宮)を建てたとあることから、大国自体を支配することは無く、引き続き統治を認めたようです。
 このようにして邇邇芸命らは筑紫に侵攻する(天下る)ことが出来ました。これが「天孫降臨」で「九州王朝の誕生」ともいえます。
 その地は「竺紫の日向の高千穂の久士布流多気くしふるたけ」「韓国に向ひ真来通り、笠沙の御前」と書かれており、現地地名(日向山、くしふる山)や、韓国に直接道が開け、御笠川等「笠」地名のある博多湾岸を「目前」にする福岡高祖連山一帯であることは、既に述べてきたとおりで、その時期は、我が国で最も早く「三種の神器」が出土する福岡吉武高木遺跡の成立期から前二世紀初頭頃と考えられ、これは「箕子朝鮮」滅亡期と一致します。

 ただし、当時の青銅器は「武具」だけではありません。中国には夏・殷代から銅鈴があり、朝鮮半島には前六世紀頃に伝わり、これが近畿を中心として多量に出土する銅鐸の起源とされます。そして銅鐸の伝来や使用は『記・紀』には記されず、かつ近畿北部への侵攻譚も無いことから、海人族の侵攻と「別ルート」による青銅器の伝来、或は青銅勢力の侵攻があったと考えられます。これを文献上で証するのが「東鯷とうてい人」です。東鯷人は『漢書』では「燕地に属す楽浪海中の倭人」と別の部族とされています。
◆『漢書』地理志(呉地)会稽海外、東鯷人有り。分かれて二十余国を為す。歳時を以て来り献見す、と云う。

 詳細は次回に譲りますが、「会稽海(東シナ海)の外」とは四国・近畿の「銅鐸圏」と一致すること等から、東鯷人は銅鐸人と考えられます。
 海人族の筑紫侵攻以降、銅鐸圏の滅亡までの四〇〇年以上にわたって、我が国は「銅矛(剣)国家群(海人族)」と、「銅鐸国家群(銅鐸族)」の抗争時代を送ることになります。(以下次号)


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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