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よみがえる九州王朝 幻の筑紫舞 角川選書 謎の歴史空間をときあかす

第二章 邪馬一国から九州王朝へ

V 自署名の論理

古田武彦

 わたしは三十代、親鸞研究に没頭した。それは、わたしの生を確かめるための探究であった。けれども同時に、古史料や古文書の扱いについて、多くの認識と経験を与えてくれた(「わたしの学問研究の方法について」 ーー『邪馬一国の証明』角川文庫所収、参照)。
 その一つに書簡の扱い方があった。親鸞には自筆書簡が若干現存しており、同時に古写書簡(直弟の書写したもの)もまた現存している。その上、後代の書写にかかるものはもちろん、各種の系列で存在している(『親鸞聖人全集書簡篇』親鸞聖人全集刊行会刊。のち法蔵館、参照)。それらの思想様式や表現様式をはじめ、各文書・写本の表記と書式を厳格に対比すること、それがわたしにとっての親鸞研究の出発点だった。
 従来の(明治以降の)親鸞伝研究にとって大きな欠落をなしていた建長二年文書(いわゆる三夢記さんむき)の真作性の証明も、右のような探究の延長線上に現われてきたのであった(古田『親鸞ー人と思想』清水書院、新書版。『親鸞思想 ーーその史料批判』冨山房刊、参照)。
 このような、多年の研究経験をへてきていたわたしが、三十代の終り、古代史の分野をかいま見たとき、大きな不審をいだいたのは、“古代史学における「書簡」の処理”であった。たとえば『三国志』の倭人伝において、
 「倭王、使に因って上表し、詔恩を答謝す」
とある。「上表」とは上表文提出のことであり、「上表文」とはすなわち書簡の一種である。しかも公的書簡として、その厳格さは個人と個人の問の書簡の比ではないこと、当然だ。その厳格にして公的な書簡外交、それが中国と倭国との間の交渉形態だったのである。
 この事実を直視すれば、 ーー 一見飛躍するようだがーー 卑弥呼の都、つまり邪馬一国のありかは、すでに明らかであろう。なぜなら日本列島の弥生遺跡の中から文字遺物が集中して出土するところ、それは糸島・博多湾岸(筑前中域)領域から出土した志賀島の金印、そして漢式鏡(前漢式鏡・後漢式鏡)だ。一王墓に二十〜四十面も埋蔵されているのは有名である(三雲・須玖岡本・井原・平原の各遺跡)。これらの出土物の半ばには、文字をもつ銘帯がある。従ってこの王墓の被葬者(死せる王)、埋葬者たち(後継する王と貴族)が“文字を知っていた”ことは疑いえない。そしてこのような地帯は日本列島の全弥生遺跡中、他に絶無なのである。とすれば、先の“中国と文字外交を展開した卑弥呼の都”はこの領域(筑前中域)以外にないことは自明の理である。その自明の理に対して旧説の論者が目をおおいつづけているだけだ。
 さて問題を五世紀にすすめよう。ここでも当然ながら冒頭の倭王讃から伝統の書簡外交が展開されている。
 「太祖(たいそ)の元嘉(げんか)二年(四二五)、讃、又司馬曹達(しばそうだつ)を遣わして表を奉り、方物を献ず」
とあるように。そして倭王武に至って有名な彼の上表文の長文引用が行われているのである。以上のような事態の意味するところは何か。
 第一に、当然ながらその公的書簡には“倭王自身による倭王の自署名”が存在していたことである。表書と書簡内部(先頭や末尾等)に、これを欠いては、およそ書簡の態をなさないものであること、いうまでもない。ではそこには何と書かれていたか。これも疑いはない。倭王讃の場合には「倭讃」と書かれていたのであり、倭王武の場合には「倭武」と書かれていたのである。“彼等の上表文の署名に依拠して中国側は彼等の姓名を倭国伝に記載している”。これは通常極まる(これ以外に考えようのない)事態であるから、右のような認識も、これ以外の理解のありようはないのである。
 右のように書簡の表記様式の基本のルールからすれば、あの松下見林が唱え、現在の戦後史学まで従ってきた理解、たとえば“使者が「イザホワケ」と中国側に告げた。中国側はその第二音のみを採取して「讃」と記した”といった類の理解が、失礼ながらいかに“珍無類”であるかはハッキリしよう。

 問題の「上表文の自署名」をしめす実例も、当の『宋書』全体を見渡せば、枚挙に事欠かない。

 「(西南夷、訶羅施*(からだ)国、元嘉七年遣使奉表)・・・・・伏して惟(おもんみ)るに、皇帝、是(こ)れ我が真主。臣は是れ、詞羅施*国王、名は堅鎧と曰う」(『宋書』夷蛮伝)
 「(元嘉十年、呵羅単(からたん)国王、[田比]沙跋摩(ひさばつま)、奉表)常勝天子陛下・・・・・呵羅単国王、[田比]沙跋摩、稽首問訊(けいしゆもんじん)す」(同右)

訶羅施*(からだ)国の施*は、方の代わりに阜編。JIS第4水準ユニコード9641
[田比]沙跋摩(ひさばつま)の[田比]は、JIS第3水準、ユニコード6BD7

 いずれも当然のことだ。“いわゆる「中世」には書簡に自署名を書いたからといって、古代もそうとは限らない”などといった弁舌をふるう人はいないであろうし、あっても、通るものではないであろう(ことに下位者〈倭王〉が上位者〈中国の天子〉へと提出した上表文であるから、「倭王」といった称号のみで「実名不記載」というような“失礼”な書式はありえない)。
 思えば戦後の日本古代史学の“導き手”とされる井上光貞氏など、「中世」の浄土教の研究でも知名の学者だ。わたしなどむしろかつては『日本浄土教成立史の研究』によって井上氏を知っていたくらいである。その氏をふくむ、戦後古代史学界で通用されてきた“倭の五王と近畿天皇家を結びつける、松下見林流の手法”、それを見てわたしは、不審の念にうたれざるをえなかった。
 そしてこれらの讃・珍・済・興・武が、中国側の取捨撰択による恣意的な命名などではなく、彼等倭の五王自身の自署名である、という立場に立つとき、それが記・紀に一切現われないのは、やはりどう見てもおかしい。なぜなら六〜八世紀の「造作」者は、一方で「説話」は自由に「造作」しながら、他方では単語(人名・地名・術語類)は(ことに五世紀以降)真実(リアル)に保存していた。 ーーこれが戦後史学の“建て前”だった。しかるに、人名中の人名というべき“倭王の自称の自名”が一切その痕跡すらとどめていない。 ーーこれでは、まさに根源の背理というほかはない。
 “しかし記・紀は和風名称を重んずる史書だから、そんな中国式名称など書けないのだ”。そのようにいう論者があるだろうか。そのような論者に対してわたしは言わねばならぬ。“では、多利思北孤を見よ”と。彼は周知のように中国(隋)へ国書を送った(『隋書』イ妥たい国伝)。
 「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)無きや、云云」
の一節をふくむ公的書簡だ。当然そこには“彼自身の書いた自署名”があったはずだ。それが「多利思北孤たりしほこ」である(彼は自己を中国の天子と「対等」と見なした。従って自分の側の「実名」が記されていて、書式上、不思議はない)。彼は自ら「臣」と称した倭王武とは異なり、海西なる中国(隋)の天子と対等な、「海東の天子」たることを誇称していた。従って中国風の一字名称ではなく、まさに民族風(和風)の姓名をもって自署名を記した。それが「姓は阿毎あめ、名は多利思北孤」の表記だったと思われる(右の激変をもたらした、その画期をなす一線は、倭王武たちの臣事した南朝〈陳ちん〉の滅亡であろう。倭国にとっては、新たなる“北朝系の天子”に「臣事」すべき筋合いは、存しなかったのである)。
 右のように考察してくると、この七世紀前半の王者の自署名が記・紀に全く表現されていないこと、 ーーそれはもし彼等が近畿天皇家(推古すいこ朝)の王者であるとすれば、まさに“回避しえぬ背理”というほかはない。
 この点は、問題を“蘇我王朝”などにすりかえてみても、解決しうるものではない。彼等の中にも「阿毎、多利思北孤」というような名称の人物はいないのであるから。やはり「倭の五王=多利思北孤」の系列は、近畿天皇家や近畿の豪族ではありえなかった。代ってあの同書中の著明な、
 「阿蘇(あそ)山有り。其の石、故無くして火起り天に接する者、俗以て異と為し、因って[示壽]祭(とうさい)を行う」
の一句のしめすごとく、九州の王者に他ならなかったのである。はるか後世の研究者は、“なぜ、この見やすい道理を、あの当時(二十世紀)の学者は理解できなかったのか”と、それをこそまさにいぶかることであろう。

[示壽]祭(とうさい)の[示壽]は、JIS第3水準ユニコード79B1 「祷」の印刷書体。
イ妥*国のイ妥*は、人編に妥。ユニコード番号4FCO

 ーーディアロゴス(対話)
(「いわれてみれば、その通り。コロンブスの卵みたいな話ですね」
古田「そうだねえ。もう一つ、同じテーマとして、『国の名乗り』問題があると思うよ」
「何ですか。『国の名乗り』とは」
古田「考えてごらん。倭国の使者が ーーどこの国でも同じだけどーー 中国へ行くとするね。そのさい、“中国側がどうやってその人物の一行が本人たちの名乗る国の人間であるかどうかを確かめるのか”という問題だ」
「なるほど、やけに現実的な問題ですね。本人たちがそう名乗ったから、それでいい、というわけにはいかないわけですか」
古田「そのさい、当然通訳を通じて応答があるわけだが、同時に、例の国書・上表文の中にも、自分たちの国の来歴が書かれているはずだ。『自分たちの国は、貴方がたも御存知の、この国だ』というわけだ」
「中国と倭国のように、古くからのつき合い、それも書簡外交ともなれば、当然ですね」
古田「その点、先ず注目されるのが、『宋書』だ。冒頭の地の文に、
 『倭国は高麗(こうり こうらい)の東南大海の中に在り、世々貢職を修む』
とあるが、この「世々」とはいつからいつまでか。この点、倭王武の上表文に、
 『より祖禰(そでい)(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を環*(つらぬ)き、・・・累葉朝宗して歳に愆(あやま)らず。・・・に至りて、甲を練り兵を治め、・・・』
とあるから、ここでは『昔・・・今』の時間帯で文章が進行する中で、『累葉朝宗』の言葉が出てくる。従ってこの『累葉』は“『昔』以来”と見ることができる。
 
環*は、王編の代わりに、手編。JIS第3水準、ユニコード64D0

 この点をさらに明確にしているのは、『南斉書』だ。
 『倭国。帯方の東南大海の島中に在り。漢末以来、女王を立つ。土俗已(すで)に前史に見ゆ』
とあるように、“この五世紀の倭国は、卑弥呼・一与(いちよ)たちの、三世紀の倭国の後継者”そのように、中国側は認識しているわけだ。
 もしかりに、三世紀倭国から『邪馬台国東遷』などの、遷都ののちの五世紀倭国(倭の五王)であったとしたら、当然その旨が倭の五王たちの上表文に記されてあったはず。となると、それ(『邪馬台国東遷』)は『宋書』や『南斉書』の冒頭の地の文にも反映しているのが当然だ。しかし、そんな記事はないよね」
А「なるほど。でも、もっとズバリ、の話はありませんかねえ」
古田「ズバリあらわしているのが、『隋書』だ。冒頭の地の文に次のようにある。
 『漢の光武の時、使を遣わして入朝し、自ら大夫と称す。安(あん)帝の時、又遣わして朝貢す、之をイ妥*奴(たいど)国と謂(い)う』
 これは志賀島の金印のことをさしている。そのあと、卑弥呼のことをのべたあと、次のようにのべているね。
 『魏より斉・梁に至り、代々中国と相通ず』
 このあと、例の阿蘇山の記事が出てくる。こうしてみると、“この多利思北孤の国は『九州の志賀島 ーー 九州の阿蘇山』の中にあり”という命題がクッキリ浮かび上ってくるだろう。つまり九州王朝だ。そしてその前半の歴代の伝統(志賀島の金印、卑弥呼の国)は、まさに多利思北孤の国書の中に示唆されていた、そのように見なしても、先ず大過ないんじゃないかね。わたしの目には、そう見えているんだよ」
А「そうですねえ。ところで、その九州王朝の中で作られたもの、文献や文化遺産、そんなものが何か残っていないかなあ。それがあれば、文句ないんだけど」
古田「そうだね。それこそ、実は次の問題なんだよ」


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