『古代に真実を求めて』 (明石書店)第十集
古田武彦講演 「万世一系」の史料批判 -- 九州年号の確定と古賀新理論の(出雲)の展望
二〇〇六年二月十八日 場所:大阪市中央区電気倶楽部

一「万世一系」の史料批判 二「国引き神話」と黒曜石 三九州年号 四筑紫の君薩夜馬と九州年号
五「藤原宮」はなかった 六大海長老と「浦島伝説」 七出雲の神話 八「サマン」と「サマ」 質問一〜四


四 筑紫の君薩夜馬と九州年号

古田武彦

 そうしますと、次の問題に自動的に入っていきます。『日本書紀』のなかに天智の近江令や、天武の浄御原(きよみがはら)令があります。この発布した主語は「天智」や「天武」です。ですが、あれは嘘です。九州王朝の天子が主語である。そのもとの律令です。これはある意味で当然なのです。白村江でたくさんの人々が死んだわけです。兵士はたくさん亡くなった。しかし領地はあります。女・子供もいるわけです。これをどう受け継いでいくかは大問題です。とうぜんあらたな律やあらたな令を出して再構築をしなければならない。これは残された権力が行なわなければならない。それを九州王朝の天子が行なわなければならない。

 そうすると、ここにいる全員が反応することには九州王朝が白村江で負けてそんな力があったのか。全員が疑問を持たれるとおもう。そこが本日の最大のポイントなのです。

 資料を見て下さい。

岩波古典文学大系準拠
『日本書紀』巻二十七天智天皇 十年十一月(六七一年)
 十一月甲午(きのえうま)朔癸卯(みずのとうのひ)に、對馬國司、使を筑紫大宰府に遣(まだ)して、言さく、「月生ちて、二日に沙門道文どうく、筑紫君薩野馬・韓嶋勝娑婆・布師首磐、四人、唐より來りて曰さく、『唐國の使人郭務[示宗]等六百人、送使沙宅孫登等一千四百人、總合べて二千人。船册七隻に乘りて、倶に比智嶋ひちしまに泊りて、相謂りて曰く。今吾輩われらが人船、數衆おおし。忽然に彼かしこに到らば、恐おそるらくは、彼の防人、驚き駭とよみて、射戰はむといふ。乃ち遣道文等を遣まだして、豫め稍やうやくに來朝まうける意を披ひらき陳まうさしむ』」とまうす。

 天智天皇 十年十一月(六七一年)、唐からたくさんの人々が四七隻というたいへんな数の船でやって来た。何回も書かれている郭務[示宗]等が来た。もちろん郭務[示宗]がリーダです。もちろん背景には劉仁願などもいるでしょう。そのときに筑紫君薩野馬(さちやま)を連れてきた。ほかの人の名前もありますが、今問題なのは「筑紫君薩野馬」を連れてきたことです。薩野馬は白村江の戦いで捕虜になっていた。捕虜になっていたのは天智二年ですから八年前です。八年間捕虜になっていたのに、薩野馬は何のために還ってきたのか。あるいは何のために唐側が帰したのか。その問題です。意図なしに帰すはずがない。しかもこの後天智は亡くなる。そして天武の時代になる。これで問題にするのは、不思議なことに九州年号が代わっていない。九州年号そのものは四年なり五年なり短い。長いと言われる「仁王」や「明要」でも一桁の始め。ところが「白鳳」だけがなんと二十三年。皆さんどなたも、これは不思議に思われたと思う。しかも、この白鳳年号は白村江の戦いを含んでいる。負けてなぜ年号が変わらないの。だれでもそのような疑問を持たれる。しかもこの白鳳年号は白村江の戦いの前年に作られており、しかもそのとき造ったのは九州王朝の中心である薩野馬です。しかも薩野馬が捕虜になっても変わっていない。薩野馬が捕虜の間、年号が変わらなかったのは理屈として分からないことはないが、帰ってきたのに年号は代わっていない。しかも二十三年という長い間変わっていない。これは何だという問題です。皆さんが最初から持っていた疑問です。わたしも疑問としては持っていましたが、頭が固いからいままで疑問に答えることが出来なかった。

 それで薩野馬を帰したのは、唐側の政治的意向によって帰したということです。うっかりミスで帰したということはありえない。薩野馬を高度の政治的判断で帰したということです。つまり薩野馬を利用しようとした。だから薩野馬を通じて倭国を支配しようとした。だから帰した。簡単ですね。
 このように考えれば、これは特に今のわれわれには簡単な話です。戦前のわれわれ、わたしの若い時には、このような考えは取れなかったとおもう。戦後になればハッキリしている。アメリカが天皇家を利用しようとした。これは明らかです。東京大空襲、あれだけじゅうたん爆撃を行ないながら皇居を爆撃しなかった。飛び火があったぐらいで皇居を狙った形跡は全くない。アメリカ軍は毎回爆撃のとき皇居を見落としていた。知らなかったのか。そんなことはない。わたしも空から東京をしげしげ眺めたことはないが、皇居はいちばん目立つところである。そのいちばん目立つところを、そこを爆撃するなと厳命を受けてきたから避けていた。これは想像ですが間違いのない想像です。
 つまりアメリカ軍は戦争中から勝った後、天皇家を利用しようと考えていた。そして、そのとおり利用した。天皇とマッカーサーが並んでいる姿は強烈な印象をもちました。あれ以来天皇家のバックにマッカーサーがいて、天皇家をして日本を統治せしめた。皇居を爆撃すれば昭和天皇も吹っ飛んでしまいますから、その後の日本を支配するのには都合が悪いと考えた。
 これはわたしの仮説というか想像ですが、これには史料の裏付けがある。かれらはインディオに対して、いろいろな態度をとった。全員虐殺したのもあるし、あるいは中心の酋長だけを殺したのもある。あるいは中心の酋長を生かして、後を殺して成功した場合もある。いろいろなサンプルを、彼らは持っていて研究したと思う。やはり中心の王者を生かして、周辺の者を殺して支配することが、やはりいちばん効率良く支配ができる。そのようにやはり判断したのだと思う。これはわたしの頭の中の仮説ですから、実際は調べてみなければ分からないが、天皇を利用することにより日本を支配する。わたしは、それほど詳しく調べたことはないが同時代の日本人としての感覚は、そのことに疑いえない。そのような時代経験を持っています。同じくアメリカだけが特別ではない。勝ったほうがいかに負けたほうを統治するのかということは重要な政治判断となってくる。
 唐もまた同じ判断に立った。もっと細かく言いますと、最初の八年間はそうではなかった。郭務[示宗]は何回も来ています。ところがうまく行かなかった。薩野馬を唐に囲い込んだままでは倭国を統治しようとすれば、反撃に遭ったり抵抗されてうまくいかなかった。今のアメリカのイラク統治と同じようなものです。それで結局方針を変えて薩野馬を利用しようとした。
 さらにこの話をすれば話ができ過ぎですが、この時劉仁願が飛ばされるわけです。郭務[示宗]の上司が劉仁願です。劉仁願が雲南省に飛ばされる。普通は高句麗に対する態度が悪かったように書かれてある。あれはどうも信用できない。本当の理由は倭国に対する政策の失敗。その責任を取らされたような感じがする。彼の在任年月を計算すると、うまく当てはまる。これは計算が複雑だから説明しませんし、今は強いて言いませんが。要するに劉仁願が飛ばされて、郭務[示宗]は劉仁願の命なしに倭国に来ている。劉仁願は倭国の情勢を見て、これはやはり我々だけでは無理だ。やはり薩野馬を利用したほうがよいという案を上層部に進言した。これは想像ですが。とにかく薩野馬は帰ってきた。だからこの場合薩野馬は、天子ではないが倭王でないと困る。九州王朝も続けてもらわないと困る。だから九州年号の「白鳳」は続いた。そう考えないほうが無理です。そう考えないと九州年号が実在という立場に立つと困ることになる。他の九州年号が四・五年で、「白鳳」年号が二十三年も続いたということそのものが年号自体が本物の感じがする。鎌倉時代の僧侶が造って、ここだけ二十三年も続けられるわけがない。しかも白村江をはさんでいることは、だれが見ても分かる。それを伊達や酔狂で考えられるはずがない。
 これは薩野馬が帰されて倭王になった。とうぜん唐の意向で薩野馬は、倭王の位に復帰させられた。だから白鳳年号を二十三年も続けさせられた。

 次の段階に行きます。その「白鳳」年号の次に年号が三つある。「朱雀」「朱鳥」「大化」と、「白鳳」以後十七年ぐらい続いている。この時の九州王朝の王者はだれなのか。「白鳳」が終ったから薩野馬が死んだ。だから代わった。その可能性もある。しかしこの可能性の場合考えてみますと、九州王朝のXやYというリーダーが出てきたということになる。それにしてはおかしい。なぜおかしいのか。『日本書紀』を見ると薩野馬しかでてこない。しかも『日本書紀』には薩野馬はいやらしい存在として、勝手に野に飛び出していって捕虜になったばか者。そのように『日本書紀』では描かれている。しかも二回目、持統四年十月 (690)大伴部博麻が帰還したとき、勝手な人間としてしかも大伴部博麻が代わりに奴隷に身を売って、薩夜麻はそれで帰ってきたかように。それでこの文面を見てみまして、ここは持統天皇が主語なのか、薩夜麻が主語なのか迷っていました。しかし今は迷いはない。当然九州王朝の王者、もっとハッキリ言えば主語は薩夜麻(さちやま)です。自分を救ってくれたという話です。それを持統天皇に切り替えて書いているだけです。先ほどの話の流れから言えば、そのようになる。
 その後九州王朝の王者としてXやYという人物がいたとします。それなら『日本書紀』に出なければおかしい。誉めて出るか卑しめて出るかは別にしても、何らかの形で出なければおかしい。しかし出ていない。しかも薩夜麻はもっぱらいやらしい人間で、勝手に野に飛び出していって捕虜になったばか者。しかも家来を代わりに奴隷に身を売って、それで帰ってきたようなうつけもの。それを持統天皇が大伴部博麻を称賛するというよい役割を演じ、かついよいよ薩夜麻は卑怯者であると役割にさせられている。そのように『日本書紀』では印象的な事件として描かれている。このような印象的な事件は、『日本書紀』にはあまりない。問題は、それ以後大伴部博麻のような事件がみえない。また年号は死んだらかならず変わりますが、生きていても変わります。薩夜麻が生きていても年号が変わった。こう考えるのが筋だろう。「白鳳」はもちろん「朱雀」「朱鳥」「大化」も薩夜麻の年号である。このように考えていった。
 この場合大事な問題がある。七〇一年で「評」が終って、「郡」が七〇二に始まりました。これはその時の権力者が、かならず「評」をやめて「郡」にするという詔勅が出なければならない。みんなが自然発生的に「評」をやめて「郡」を使う。そんなことはありえない。権力者が命じなければ、そのようなことはありえない。ところが木簡ではみごとに代わっている。これはXという権力者が詔勅を出した。ところがその権力者が出した詔勅は見事に消え去っている。『日本書紀』にもないし『続日本紀』にもない。正確には『続日本紀』でしょう。文武の元年ですから。この『続日本紀』は信憑性が高いと学者が言っていますが、この「廃評建郡」が『続日本紀』に出ない。無いのがおかしいと書かない現代の学者もおかしいとおもう。文武天皇が「廃評建郡」を行なったというのならば、それを『続日本紀』に書けばよい。しかもこの詔勅は重要さでは一・二を争う画期的な詔勅です。それを功績のある天皇自身の名前を消し去り、詔勅も消え去っている。これはただ事ではない。このただ事でないことを、これがおかしいと歴史家は書かない。井上光貞さんも森浩一さんも、これがおかしいと書いていないし、読んでも気がつかないままです。しかし「廃評建郡」について答えられない歴史はおかしい。偽りの歴史である。
 それでは何か。これは薩夜麻の詔勅である。薩夜麻が評の終わりを宣言した。と言うよりも正確に言えば、評の終わりを宣言させられた。宣言させたのは唐です。要するに唐は薩夜麻を利用し尽くしていた。もう耐用年数は過ぎた。これ以後はアウト。それで今後は近畿天皇家により統治させる。そのような方針の転換を行なった。
これも西村秀己さんというわたしの家の近くに住んでいる方がおられて、たびたび家に来られる。その方が始め会った時、「九州王朝から近畿天皇家の権力の移行は禅譲ですよ。」と言われて、始めはビックリした。なぜ「禅譲」なのかと考えた。これはもういちど考えれば、たいへん筋の通った考え方です。
 ですが西村氏の「藤原宮が九州王朝の都である」とか、そのような話は別として九州年号が終って寸分の狂いもなく(連続して)近畿天皇家の年号に変わっていますから、普通なら「禅譲」と考えるべき姿です。ですからこれは「禅譲」と考えるべきすがたです。
 それに「禅譲」そのものは、美徳の表れと考える方もいるが、それはウソです。だいたい実力のある者が、奪い取って「禅譲」と称しているだけです。中国の歴史書を見ても「禅譲」と称して美しく書かれているが、それはウソで、わたしはそのことはぜんぜん信用できない。この場合も薩夜麻から、近畿天皇家に禅譲させたのはだれか。唐です。薩夜麻が年を取ったせいもあるが、新たな体制に移させるプランを持って実行したのは唐です。とうぜん「大宝」年号も唐が認めた。「大宝」年号に関しては、まつわる問題もたくさんありますが、今は時間がないので省略します。要するに唐のバックアップで行なった。とうぜんこれは唐の軍隊がいる。

 普通、今の解釈では天智の時に唐の軍隊は帰ったと考えられている。「郭務[示宗]等」の「等」とあるから唐の軍隊は帰ったと考えられている。
 これは二つのことが考えられる。一つは、それまでの『日本書紀』記事に、二〇〇〇人、二〇〇〇人と二回来ていると書いてある。これを重なっている記事だと考えるのは反対で、プラスして考えるべきだと思う。何千人か来ている。それが天智天皇がなくなったら、いきなり全部引き揚げるこ。そんなことはありえない。天智天皇は、亡くなった藤原鎌足とともに親唐勢力。それで白村江の戦いの時は、途中から脱落というか軍を引きあげて参加しなかった。その親唐勢力のリーダーの一人天智が死んだのですから、唐からいえばたいへんな時期です。そのときにさっさと全員引き揚げる馬鹿がどこにいますか。今まで以上に居座らなければならない。「等」と書いてあるから全員引き揚げたと受け取りたい現在の学者は、この「等」をもって全員帰ったと受け取れるような書き方をしている。全員引き揚げたと解釈している。しかし郭務[示宗]が、一〇人や二〇人を引き連れて天智天皇が死んだと報告に帰った。これで良いのでは。ほとんど全軍が居残った。この理解も可能である。この点も幸いというか、「幸い」というこの言葉は使いたくないが、わたしどもは、たいへん幸いな位置にいる。なぜなら第二次世界大戦後アメリカ軍が来て日本にいる。敗戦後何年経ちました。もう半世紀は超えているが帰っていない。これはあたりまえです。だって戦争に勝った。ハイ帰ります。そのような勝利者がどこに居る。全人類の全歴史を研究したわけではないが、まあないと思います。帰るのは帰る特別の理由があったから帰っただけで、せっかく他所の土地を勝手に入り込んで支配する。おいしいところを全部吸い上げことができる。そのような有利な立場を得て、それをむざむざ放棄する馬鹿はいない。アメリカ軍も同じである。理屈では日本が独立国になったから占領軍という名前が、表向き駐留軍になった。しかしアメリカは完全に日本を傘下に収めて、その中で必要なことをしている。
 こんな話は言いたくは無いが、「平和憲法だ。いや憲法改正だ。」とか、いろいろ言って見てもアメリカの巨大な軍の傘の下での手直しに過ぎない。わたしが憲法改正論議に興味を持てないのは、アメリカ軍という大きな傘の存在、そのような大きな事実に目を瞑って小さな事実を論議しているからです。かっては日本が軍を放棄するほうが都合がよかったのでしょう。それが(東西冷戦のなかで)少しは軍備を持っていてもらったほうがよい。それだけのことにしかわたしには見えない。
 それだけアメリカは(日本を)利用し尽くしています。それはアメリカだけでなくて世界の戦勝国がそうであったと考えています。それはアレキサンダーもローマも同じです。アレキサンダーもローマは昔話ですが、アメリカ軍の(日本駐留は)われわれがずっと青年時代から経験していることですからよく分かるわけです。古代をそういう目で見ますと、この「等」の一字で全員引き揚げたということはありえない。
 唐の軍隊がずっと日本居座ったとは書いていない。そういう人がいますが書かないのは当り前です。現在の日本でも、アメリカのバックにより新憲法を作ったということはだれでも知っているけれども、それでは新憲法のどこにアメリカが造ったと書いてあるのか。そんなことは書いてなくてもアメリカの意思により新憲法が作られたことは事実だ。書いていないから、余計に事実です。そういう問題です。単なる実証主義は大局を誤る。
 そういう意味において白村江以後の倭国は、唐の支配下の九州王朝である。唐の支配下の薩夜麻。このようなかたちに理解が替わってきた。七〇一も唐のリードの元の転換である。

五 「藤原宮」はなかった

質問一〜四


闘論

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