8 藤原京はなかった(古田武彦講演記録『古代に真実を求めて』第九集

『古代に真実を求めて』 (明石書店)第十集
古田武彦講演 「万世一系」の史料批判 -- 九州年号の確定と古賀新理論の(出雲)の展望
二〇〇六年二月十八日 場所:大阪市中央区電気倶楽部

一「万世一系」の史料批判 二「国引き神話」と黒曜石 三九州年号 四筑紫の君薩夜馬と九州年号
五「藤原宮」はなかった 六大海長老と「浦島伝説」 七出雲の神話 八「サマン」と「サマ」 質問一〜四


五 「藤原宮」はなかった

古田武彦

 そうなりますと今回皆さんに提起して、共に考えてみようとする一つのテーマが、飛鳥の藤原宮の問題です。これが非常にハッキリしてきた。「藤原宮と京」(奈良文化財研究所)から取った図です。
 天武の浄御原(きよみがはら)宮と言われる図を出しておきましたが、そこの飛鳥宮跡上層遺構(七世紀前半)には内郭と外郭があって、大極殿がない。それとは別にエビノコ郭といわれるところがある。そこだろうという説もあり、テレビで語っている人もいましたが、とんでもない話だ。そんな東南の隅にある大極殿というは、古今東西聞いた事がない。天武が中心権力者であるという大前提を、今の学者は疑っていない。だからどこかに大極殿がなければならない。ほかにないから、ここだろう。そう言っているだけだ。東南にある大極殿は、中国の洛陽にもほかにも無い。だから大極殿がないので、天武は中心権力者であるという意識はなかった。それが明確である。だから天武が浄御原令などをどんどん出せるなら、大極殿を作っているはずだ。それが大極殿を作っていない。
 それでは藤原宮はどうか。確かに書いてあります。しかしこれは悪いけれどもハッキリ言ってインチキです。藤原宮そこには「大極殿」という伝承はなかった。あるのは「大宮(土亶)」という伝承だけです。そこには鴨公神社という神社がある。それで「大宮」ですから宮殿です。
 「大宮」とあるから大極殿で良いのだという人がいますが、これはおかしいですね。関東の埼玉県に行けば「大宮」という新幹線の駅があります。そこには大極殿はない。 あれは氷川神社の「大宮」です。また事件が起きた常陸大宮市というところがあり、わたしも電話で聞きましたが○○神社に対する「大宮」です。このようにその地域の大きな神社があるところを「大宮」と呼びます。飛鳥に大宮があるばあいは、大極殿で良いのだ。そういう人がいるが、これはイデオロギー的解釈です。
 それに地形的にも糞尿が北に流れるということが、古田史学の会関西例会でも話題になりましたが、これもその通りです。それに大極殿と言うからには、中央の北よりの位置になければならない。しかし中央にあるから、これもおかしい。「大宮」は、大極殿の位置にはない。
 そういうことを無視して岸俊男さんが最初に大極殿だと言いましたが、そのお弟子さんや学者が継承している。自分たち任命の「大極殿」。それを幾度となく飛鳥の地図や案内書に書き込んで配っている。これらは失礼ながら間違いです。大宮があっても大極殿がなかったことに意義がある。だから七〇一年で平城京に移る。平城京にはレッキとした大極殿がある。「大極の芝」という伝承もあった。藤原宮から平城京に移らなければならない一番明確な理由は、藤原宮に大極殿がなかったからです。このような肝心な理由、それはだれも言わない。天武・持統は第一権力者である。それを一大イデオロギーにして、後は(理由を)無理に考えなければならない。ところが天武・持統の時には大極殿はなかった。天武・持統は第一権力者の立場ではなかった。しかし途中から唐の支援を得て文武は第一権力者の立場にはなったのでしょうが、それで藤原京を利用して大極殿を作ろうとはしたのでしょうが、(中心にあるので)大極殿とは観てもらえない。また外国の使者が来ても中心権力者のいるところとは観てもらえない。それで大極殿のある平城京へ移った。

 それで、この考え方を裏付けるおもしろい例を、今さらながら発見した。それは『古事記』序文にある。稗田阿礼に覚えさせたと書かれている。それを太安万侶が元明天皇の時の七百十二年これを記録した。命令されてから半年ぐらいで書き上げています。(ほんとうは)書いたものもたくさんあったと思いますが。
 ここでおおきな疑問がある。天武が命令して覚えさせた。年代は不明ですが天武の末年以前です。その末年以前から元明天皇の時の命令がくだるまでの七百十二年、そこまで少なく見ても二十年、天武の中ごろ近くなら三十数年ある。それなら稗田阿礼が、三〇年近く長生きすることは既定の事実だったのか。そんな話は言えないでしょう。今でも長生きは保証できないのに、当時に稗田阿礼が三〇年近く長生きすることを前提に行動した。そのようにわたしは思いませんが。皆さん、思いますか。
 要するにわたしの言いたいことは、こうです。元明天皇の命を受けてから半年で書き上げているが、(現代なら)稗田阿礼が覚えさせた後の半年後に交通事故で死ぬかもしれない。(古代では)流行病で半年後で死ぬかもしれない。つまり覚えさせておいたら、それでよい。そういうことには絶対にならない。(本当は)覚えさせると同時に書いておけばよい。そうしたほうが絶対によい。ですが(公式には)そうはさせていない。これは何だ。今さらながらの疑問に気がついておかしいですが、今までこのことを疑問にしている学者を見たことがない。なにを今さら偉そうに言っていますが、おかしいが解けないと書いてあれば、その人は基本的に立派な学者です。わたしの見た範囲では、これはおかしいとは書いてはいない。これはつまり、たとえその問題に気が付いても従来説では解けない。
 わたしの立場では解ける。なぜなら天武の時代には九州年号の時代だった。唐がバックに存在する九州王朝中心の時代だった。ところが『古事記』の内容を見ると近畿天皇家が永遠に中心の時代だったと書かれている。ウソでしょうが書いてある。嘘だというのは、『古事記』には、倭の五王の話も卑弥呼の話もない。ぜんぜん違っている。これは嘘であるというのは、倭の五王や卑弥呼(ひみか)は、まったく登場しなけれども、なんとなく近畿天皇家が中心であったというイメージで造られている。あれは九州王朝を唐がバックアップしている時代には出せなかった。秘密の歴史書だった。だから頭の中は秘密の場所である。全て頭の中に閉じこめた。覚えさせた。天武は深謀遠慮の人物で、割り合い好きな人物です。だから覚えさせてその日が来るのを待った。その証拠に、大極殿のある平城京が出来たのが七百十年、その二年後、七百十二年『古事記』を書かせている。近畿天皇家が、名実ともにナンバーワンになったら即日書かせている。書かせるだけなら元明天皇が自分で書くわけではない。太安万侶に命じればよい。だから天武の時にも出来たはずだ。それをせずに平城京の完成の翌翌年に完成させた。この理由が従来の学者では、近畿天皇家一元説では解けない。
 今の観点からみると、だれでも知っている『古事記』序文の不思議な疑問が解ける。天武の時代は『古事記』『日本書紀』に書いてあるような天武が中心の時代ではなかった。天武が浄御原令など勅令を出せる時代ではなかった。こう考えた。

 この点についても、後半に図書の紹介をされた古賀達也さんのほうからするどい疑問が出された。それではなぜ藤原宮の木簡から九州年号の木簡が出ないのか。
 これには二つ問題があります。木簡の数が七〇一以前は、以後に比べてたいへん少ない。それとデータの処理に問題がありまして「九州年号」という考えがない。だから九州年号があってもデータに入れていない。そういう問題がある。文字を解読するというのは、純粋に文字を解読するわけではない。前後関係で文字を解釈する。それが一般的ですから。そういう問題が一つある。もう一つ重大な問題を、古賀さんと論争を行なっているとき発見した。それは先ほどは唐という権力者側の目から観ました。それでは帰ってきた薩夜麻(さちやま)を、倭国という国民側の目から、どのように観ていたか。あまり嬉しい存在ではなかったのではないか。帰ってきたのはよかったと思うかも知れないが、明らかに背後に唐がいて「唐のロボット」である。「唐のロボット」としての九州王朝・九州年号の時代だった。だから喜んで九州年号を使いたくなかった。幸いというかほかに「干支」がある。それがあれば六十年単位で用をなす。だから、それを使った。九州年号をどうしても使えと言ったなら使ったでしょうが、あまり使わないの普通だった。
 われわれには、それで思い当たることがある。われわれの時代には「昭和」年号しか使わなかった。西暦は知識として知っていたけれども、使う場所はなかった。ところが敗戦後は西暦を優先して使った。後で「昭和」や「平成」を使うことが決められたから、必要な場所では「昭和」や「平成」を使うけれどもふだんは西暦を使うことが多い。これはやはり、わたしの青年時代には、輝ける「昭和」のようなイメージがあった。ところが、現在「昭和」のようなイメージは、国民全体はそうは思っていない。アメリカがバックアップした天皇家であることはだれでも知っているから。輝ける「昭和」のようなイメージで使っている人はあまりいない。だから西暦を使う。別にキリスト教の信者でなくとも西暦を使う。そういうことが多い。
 同じように一つの推定ですが「九州年号」を使うことは少なくなったのではないか。そういう問題がある。
 ですから白村江以後の倭国は唐の支配下の九州王朝である。唐の支配下の薩夜麻である。このような考え方に立てば、分からなかった問題が解けてくることがあるのではないか。

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