『古代に真実を求めて』 (明石書店)第十集
古田武彦講演 「万世一系」の史料批判 -- 九州年号の確定と古賀新理論の(出雲)の展望
二〇〇六年二月十八日 場所:大阪市中央区電気倶楽部

一「万世一系」の史料批判 二「国引き神話」と黒曜石 三九州年号 四筑紫の君薩夜馬と九州年号
五「藤原宮」はなかった 六大海長老と「浦島伝説」 七出雲の神話 八「サマン」と「サマ」 質問一〜四


質問一

古田武彦

 質問一 六七〇年、国号を「倭」から「日本」に改めたと『三国史記』に書かれています。このように「倭」から「日本」に国号を変えるということをどのように考えておられますか。これも今日の話と関係があるのでしょうか。

(回答) これも以前は悩んだことがありますが、今は悩んでおりません。(朝鮮半島の史書である)『三国史記』には、「倭」から「日本」に国号が変わったことが六百七十年ぐらいにおかれている。しかし中国側の史料は『旧唐書』、七〇一においている。七〇一までは倭国で、それを唐の則天武后が日本を認定したのが七〇二です。問題は中国側の史料である『旧唐書』の七〇一が正しいか、あるいは『三国史記』の六七〇が正しいかです。これを史料という性格から考えると『三国史記』は成立した時期がたいへん遅れています。『古事記』『日本書紀』よりだいぶ成立がおそい。その年代もだいぶ狂っている。有名な例では卑弥呼(ひみか)が一〇〇年ぐらい早く出てくる。同じ名前の人が二人いたとは思えませんし、これはおそらく年次の計算が間違っていた。『三国史記』はたいへん貴重な史料であることは間違いがないにしても、いままで以上に大切に扱っていかなければならないことは間違いない。ですが『三国史記』には弱点もある。弱点の一つに年号の計算違いの問題が、あちこちにあります。そういう面から見ますと、六七〇年は計算ミスからきた間違いである。中国の『旧唐書』の七〇一が正しい。これが結論です。それに関連する話はたくさんありますが結論はそのようになります。

 質問二 「評」から「郡」へ転換する詔勅を薩夜麻(さちやま)が出した。それと同じく「倭」から「日本」に国号を転換することを薩夜麻(さちやま)が強いられたということですか。

(回答) 繰り返します。今度は「日本(国)」という称号がどうであるかということですね。「日本(国)」という称号、これは中国(唐)の則天武后が認定したことから始まっている。別に「日本にほん」と名乗ろうと宣言したということではない。別に薩夜麻(さちやま)が「日本」と名乗ろうと宣言してもかまわないが、中国の則天武后が近畿天皇家を「日本」と認定したという記事に基づいている。「日本」そのものについては、「日本ひのもと」の淵源はたいへん古い。これは博多湾岸に「ヒノモト」という字地名がかなりある。周辺の築後や前原(まえばる)にもあり、博多湾岸に分布している。その「ヒノモト」は「日本」と書く。ですから「日本ひのもと」という称号は、古くからある。ですから六世紀段階では『三国史記』の中で、「日本ひのもとに還る」という使い方をされています。
 ですからまず「日本ひのもと」という称号は、日本側で使ったのは古い。弥生あたりに遡(さかのぼ)るふるい淵源(えんげん)をもったものである。これがまず第一番目。次に日本側で「倭」と呼んでいたものを、「日本にほん」として国際的に認知したのは唐の則天武后である。これが第二番目。七〇一以後である。これがわたしの認識です。
 NHKで『その時歴史がうごいた』という放送があり、壬申の乱を扱っていて見ていましたら、「日本にほん」と天武天皇が名乗られたと解説していました。よくもまあ言えたものだ。番組に学者が出てきてその人の説として言うならまだしも、それが定番のような言い方をしていましたので、これは困るとおもいました。
天武天皇が国号を「日本にほん」と名乗ったと言うのもまったくの間違い。それに天武天皇の「天皇」という言葉も間違い。これは薬師寺にある薬師如来の後背銘に推古天皇と考える「天皇」が出てきます。これは金石文としての実物であると、わたしは論証している。その根拠は崇峻天皇が姿を消している。これは蘇我氏中心の時代、かれらは崇峻天皇を殺しているから表にだせない。そこで崇峻天皇なしの、あのような銘文を作った。そういう論証をおこなった。

 ところがそれを有名な学者が、後代に造られたという説を発表したので、みんなそれに従っている。つまり後代の作り替えだと言わざるを得ない。なぜなら法隆寺の釈迦三尊を間違いなく聖徳太子のものだとしている。ところが法隆寺の釈迦三尊と薬師寺にある薬師如来ではぜんぜん造りが違う。金属(製品)としての技巧・技術がちがうし、漢文としてもぜんぜん違う。釈迦三尊の光背銘の漢文はみごとな漢文ですし、薬師如来のほうは和風漢文めいたものです。ですから同時代でかつ同じ飛鳥にあると考えるのは、とても無理なのです。ですから薬師如来のほうを後にしなければならない。しかしわたしのほうは釈迦三尊は九州のほうで九州王朝で造られたものです。薬師如来のほうは大和飛鳥で造られたものです。そこで天皇という言葉が使われている。
 それで「天皇」とは何かと言いますと、「天子」をバックにした第二権力者が天皇なのです。「天子」になることは出来ないけど「天皇」になることはできる。これも古く匈奴・鮮卑でも同じような「天皇・天王」で使われています。「天子」というものが中国にいる。これにたいして「天皇・天王てんのう」なら許される。ですから同じく日本列島のなかでも、「日出処天子」が九州王朝、それをバックにした第二権力者としての天皇です。木簡の「天王てんのう」も同じで、存在してとうぜんです。
 七〇一以後は、その第二権力者としての天皇が、日本国内では第一権力者としての天皇となった。その第一権力者である天皇のイメージで、七〇一以前の「天皇」を解釈するから変な解釈となる。九州王朝の天子を背景とした、「わたしは、天子ではありません。(第二権力者の)天皇です。」と言っています。それを一緒にしてNHKでは放映している。これらも、きちんと論争すれば理解できることです。
 ついでながら言わせていただくと「井真成」問題で、東野さんは「井真成は遣唐使ではないか。」と言っています。これもダメです。遣唐使なら「遣唐使で派遣したと記事」があるべきです。そういうことを出発点にするわたしの論証があるのに知らないふり。この講演会は大阪ですから、この話も言わせていただきます。これも東野さんやほかの人に、出てきてわたしと討論して欲しいと皆さんが言ってほしい。場所ぐらいはどこでもあります。遠慮せず逃げないで論争しなければダメです。どこでも行って議論します。

質問三 二つばかり問題提起を兼ねて申し上げます。
 一つは、皇位継承の問題で、日本全国いたるところで「万世一系」と騒いでいるわけではない。論旨が一貫しているわけではない。たとえば右翼的だと思われている『諸君』という雑誌。その最新号に皇學館大学の田中(卓)さんという方が、天皇家をじゅうぶん研究されている方らしい。そのかたが、天皇家の一番最初の神は「天照」だから、天皇家は女系だよ。もちろん夫がいたから子供が生まれた。だから女性であろうが、女系であろうがいっさいかまわない。そういうことがある。決して「万世一系」ベタベタに染まっているわけではない。すくなくとも『文藝春秋』も、「万世一系」論に組しない人にも紙面を割いている。だからわたしはそれほど心配していない。

 もう一つは、の話が出ましたが、わたしは安重根という人は無念の涙を飲んで死んではいない。傲然(ごうぜん)と死んだ訳で必ずしも、死ぬことを怖がらないということになっています。

 それと張作霖については、最近2000年にモスクワから本が出ていまして、その本によりますと、ソビエトに軍事諜報機関があったわけです。その軍事諜報機関が、過去の事件の情報を出してきました。その中で、張作霖の爆殺は軍事諜報機関がやった。少なくとも大きな役割を果たした。そういうことが書かれてある。わたしはこれはかなり確かなことであると考えています。満州を巡ってスターリンが考えていた謀略。向こう側からしたら当たり前のことですが。なんとか日本と蒋介石の軍隊を戦争させて消耗させる。そのような戦略をとってきた訳ですから、たいへんな準備をしています。そのあたりの歴史は、ロシア史の学者・太平洋戦争の歴史を研究している学者も、このようなことはぜんぜん知らない。
 これらのことが事実だとすると、安重根と張作霖の銅像を建てるのはかまわないが、韓国人や朝鮮人の意見を聞いて銅像を建てないと紛争の種になる。それは先祖や同族の扱い方が根本的に違いますから。それから無念の涙を飲んで死んだ人は山ほどいるわけですから、そうすると俺も俺も。そういうことになりかねないと僕は思います。

(回答)今のお話は、すべてわたしの思っていることと同じと思います。
 まず田中卓さんの件。わたしの話によく出てきますが、かって大阪で開催されていた「続日本紀研究会」の仲間です。そして後に田中卓皇学館大学の学長になられました。今世の中でいろいろ書いておられる人よりは、たいへん筋の通った人です。ただ筋の通った人と言っても、(わたしの)九州王朝については知らないふり。たとえば日本思想史学会でわたしの発表した時にも後ろの席で聞いておられるが、ぜんぜん論文などの反論は出てこない。ですから確信犯のほうです。ただ今の「万世一系」の問題では変な話をしない。彼は平泉澄(ひらいずみ ちょう)さんの愛(まな)弟子です。

 安重根と張作霖については、(最後に)言われたとおりです。
 まず「安重根の無念」については、無念の意味の取り方です。伊藤博文を殺したのも、彼にしてみれば成功です。捕まったのが無念だった。そんなけちな考えは持ってはいない。確信犯中の確信犯。とうぜん捕まることを覚悟し、処刑されることを覚悟して処刑されています。彼の書いたものは見事なものです。松本郁子さんの資料を拝見しても、彼はすばらしい人物です。もっとすばらしいのは彼の志を継ごうとする人々がつぎつぎ出てきていることです。朝鮮内外で「安重根を偲ぶ会」がおこなわれ、日本の特高がつけ回していても敢然と対峙する。写真で見ても指名手配された朝鮮のかたは、よい顔をしている。朝鮮総督という日本人の顔はあまりよい顔はしていない。凶悪犯として指名手配された人のほうがよい顔をしている。安重根ももちろんよい顔をしています。彼が無念なのは、日韓併合という形で祖国が失われたのが無念なのです。ですから彼は、屍を朝鮮の地に持っていってくれるな。そのような遺言をしている。そのような遺言をふくめて彼は、みごとに死んでいった。このように理解しています。日本側にしてみれば、伊藤博文が殺されており不愉快と感じるむきもあるが、より広い視野や位置から安重根を祀るべきです。そうしますと朝鮮や中国の人もやがて理解すると思います。

 それと張作霖の件、わたしもその本を読んで、おもしろい本だと思いました。じゅうぶん、ありうることだと思います。日本側が企画して日本が行なったというだけではない。ただ、そのばあい、(事件が起きたのは中国の地そのもので起き、)日本は何もしなかったかというと、そうではないことも確かです。張作霖の列車爆破を昭和天皇裕仁がたいへん怒ったという有名な話があります。これも事実です。ですから日本側で、今のソ連側でも張作霖を祀るべきだという声が出てきたら大歓迎。そのような声は、たとえばアメリカで皆殺しにしたインディアンを祀るべきだと声が出るなど、連鎖反応を起こせる。
 それから祀ることに関しては、朝鮮や中国の人が理解する方法をとることはそのとおりだ。しかし究極的にはこちらの勝手だ。頼まれて行なっているわけではない。こちらとして行ないたいから、こちらの方法でおこなったらよい。基本的にそうである。しかし大事なことであるから朝鮮や中国の人が理解する方法をとる。しかし祭祀を行なうのは日本人。わたしたちの責任でおこなう。これが大事です。もし造った銅像に一〇〇回ペンキを塗られたら、一〇一回塗り直せばよい。千回爆弾で壊されたら、千一回作り直せばよい。それは何もおそれることはない。それが無念の死を遂げた人を祀るということです。無念の死を遂げた人やところは、世界中いたるところにある。南アメリカにも。中近東にも。そのような話が起こってこなければこまる。ですが最初からそのことは言う必要はない。こちらは行なうべきことを行なう。一人二人から本気で行なう。真剣に行なう。罵倒されペンキを塗られ壊されるのは百も承知。それを承知で行なうことが大事だ。このように考えています。

 質問四
 (九州王朝の天子である)薩夜麻が捕虜になったとお聞きしました。
 『旧唐書』に「降倭人」とあるが、、(百済と比べて)倭人のほうに名前がない。どうして薩夜麻の名前がないのか。
 もうひとつ、高宗が泰山に行く時に、倭人の酋長を連れて行ったとあるが誰を連れて行ったのか。
 それから天智紀に「表函」されているとあるが、薩夜麻がいなかったら誰に出したのか。

(回答)
 さすがによいところをご質問いただきました。
 最初に『旧唐書』に「降倭人」とあり、『新唐書』にもありますが、なぜ薩夜麻の名前がないのかというご質問ですが、この場合特に「薩夜麻」の名前がなくてもよいと考えます。常に史書に書いているわけでありません。薩夜麻の名前がないのはけしからんと言ってみても、唐側には書く立場があるので、この場合は特に問題がないと思います。もし問題があると考えられるならば、他のケースをすべて調べて有る無しを論じるべきです。中国は周辺の諸国と戦争したり捕虜にしたりしていますので、つねに薩夜麻にあたる人物に対して降ったと書いてあれば、ここだけ書いていないことが問題になると思います。それから「薩夜麻」という人物の書いていない理由を考えることになると思います。わたしが見た範囲内では書いていないことが多い。そのひとつだと、今は考えています。(百済の王様の名前は書いてありますが ーー 追確認の発言)。だから中国の歴史書にすべて書いてあって、倭人だけが書いていないというのか。わたしは書いていないことがたくさんあると思います。それと百済の場合は、この問題と少し違っている。百済の場合は、わたしはいつも言っていますが完全な侵略である。新羅から(侵略されたという)報告があって、唐の軍隊が攻め込んで国王・太子・大臣をみせしめとして何十人も長安に連れ帰った。これはこのように辱(はずかし)めることが目的ですから、「連帰百済人」と記述したのでは目的を果たせない。これはけっきょく倭国に対する挑戦です。倭国は百済と同盟を結んでいる。かたほうの百済に対して、このような理不尽な侵略を行なっても黙っているのかという倭国に対する挑戦状なのです。今の問題は、『史記』・『漢書』などのなかに、中国が攻めて降伏している国がいくつもある。そのときに、すべて固有名詞をあげて記録しているかです。わたしの記憶では固有名詞をあげないほうが普通のように思っている。そのあたりは固有名詞をあげて調べていただいて、固有名詞をあげたケースとあげないケースを表にして、そこで考えてみられたらよいと思います。

 次の質問は鋭いご質問です。

『中国資料』朝鮮史 第一編第三巻 (国書刊行會)
『旧唐書』
乙丑 唐高宗麟徳二年
八月壬子、劉仁願、
・・・
○是歳、劉仁軌新羅百済耽羅倭等四國の酋長を領して泰山の封に赴會す。

(参考)
巻八十四列伝第三十四劉仁軌
麟徳二年。封泰山。仁軌領新羅及百済耽羅倭四國酋長赴會。高宗甚悦。擢拝大司憲。

 麟徳二年、東夷の四つの国から唐の高宗のところへ行った。高宗はたいへん喜んだ。そのような記事がある。
 さいきん『古田武彦の百問百答』にその答えを書いたばかりだ。わたしは、この件については、よく分からなかった。こんど分かった。あれは薩夜麻です。「蕃国の酋長」が唐の都に行ったと書いてあります。それではその「倭国の酋長」はだれか。そういうご質問がありましたが、それまでわたしは分からないと思っていました。
 しかし考え直してみると、薩夜麻が中国にいて、帰ってきていない時間帯です。そうしますと、そのような蕃国の酋長が貢献してきた。そうしますと中国側としても格好が良い。それで「薩夜麻」が政治的に利用されている。これはみごとに成功した。すると今度は、紛争続きで失敗した倭国の統治。郭務[示宗]が悩んでいる倭国の統治を薩夜麻を利用して統治したらどうか。この記事が伏線になっている。

(岩波日本古典文学体系準拠)
日本書紀 巻第廿七 天命開別天皇 天智天皇
・・・
三年春二月の己卯朔丁亥、
・・・
夏五月の戊申朔甲子に、百済鎮将劉仁願、朝散大夫郭務[示宗]等を遣して、表函(ふみひつ)と献物を進る。
・・・
四年の春二月癸酉朔丁酉、
・・・
九月の庚午の朔壬辰に、唐国、朝散大夫沂州司馬上柱国劉徳高等を遣す。
〈等といふは右戎衛郎将上柱国百済祢軍・朝散大夫柱国郭務[示宗]を謂う。凡て二百五十四人。七月廿八日、対馬に至る。九月廿日、筑紫に至る。廿二日、表函を進たてまつる。〉


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