2006年 6月 6日

古田史学会報

74号

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にさいして
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大野城から刻木文字が出土
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「トマスによる福音書 」
 と「大乗仏典」
 今井俊圀

太田覚眠と「カ女史」
の足跡を訪ねて
 松本郁子

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古田史学会報74号 2006年6月6日

太田覚眠と「カ女史」の足跡を訪ねて

京都大学大学院 松本郁子

1 はじめに

 私は日露交流史を専門領域とし、ロシア極東ウラジオストクの浦潮本願寺(浄土真宗本派本願寺派注(1))で一九〇三年(明治三六)から一九三一年(昭和六)までの約三〇年間布教活動に従事した僧侶、太田覚眠の思想と業績を研究している。本研究については本誌においても論文を発表させていたただいたことがあり注(2)、古田史学の会の例会で報告させていただいたこともあるが、論文を寄稿させていただくのは実に一年半ぶりである。本稿では最近の研究の経過について報告することとしたい。

2 太田覚眠の生涯

 本論に入る前に、今回初めて拙論を読んでくださる方のために、太田覚眠の生涯について簡単に触れておく。太田覚眠の思想と行動を理解するために、彼の生涯を四期に分けて考えている。第一期は一八六六年(慶応二)三重県四日市市法泉寺(浄土真宗本派本願寺派)に生まれてから、一九〇三年(明治三六)浦潮本願寺布教監督としてウラジオストクに行くまでの三七年間である。第二期は一九〇三年(明治三六)ウラジオストクに行ってから、一九一七年(大正六)ロシア革命が起こるまでの一四年間である。第三期は一九一七年(大正六)ロシア革命が起きてから、一九三一年(昭和六)いったん日本に帰国の後、一九三六年(昭和一一)モンゴル内蒙古集寧に行くまでの一九年間である。第四期は一九三六年(昭和一一)モンゴルに行ってから、一九四四年(昭和一九)モンゴルで死ぬ(数え年七九歳)までの八年間である。

 

3 レニングラードにおける太田覚眠と「カ女史」の交流

 一九三一年(昭和六)なぜかソ連の居住券が発行されず、覚眠はウラジオストクでの三〇年間にわたる布教活動に終止符を打ち、帰国せざるを得なくなった。覚眠は帰国前にソ連当局の許可を得て、浦潮本願寺信徒総代平岩仁一とともにモスクワとレニングラード(現サンクト・ペテルブルグ)に旅行した。レニングラードで女性仏教者「カ女史」に出会い、「カ女史」との間に生涯における最も重要な交流を持った。覚眠は日本に帰国後「カ女史を憶ふ注(3) 」を執筆し、「カ女史」との交流を記した。
 覚眠の記述に従って、「カ女史」に関する情報を左記する。繰り返しになるが、「カ女史」に関する情報はあくまでも覚眠自身の記述によるものである。したがってその事実関係を確認しなければ、これを「歴史事実」と断ずることができないことは言うまでもない。この点については後述する。ここでは覚眠の記したところによって、「カ女史」に関する情報を記したい。なお、「カ女史」は略字である。覚眠はソ連社会の中におかれた「カ女史」やその関係者の立場を慮って彼女の実名を記さず、「カ女史」とのみ記している。また、「カ女史」の人種は不明である。覚眠は「カ女史」の人種については何も記していない。国籍がロシアであることは確実と思われるが、人種はロシア人でない可能性もあることを付記しておく。
 「カ女史」は帝政ロシア時代には侍女として宮廷に仕え、ツァールスコエ・セロの琥珀の間で外国の賓客の接待をする仕事をしていた。革命前までサンクト・ペテルブルグにあった日本大使館の館員に日本語を学び、日本語が堪能であった。仏教を研究し、仏教に関する論文を書いて大学に提出した東洋通の碩学であるという。
 しかしロシア革命によって宮廷の侍女としての身分を失い、「乞食」として生きざるを得ない境遇となった。けれども「カ女史」は念仏道場(浄土真宗)を組織して自ら托鉢して信者の養成に努めた。念仏道場の本部はレニングラード郊外の「ノーバヤ・ジェレーヴニャ」(新しい村)にあり、信者数は三〇人。「カ女史」は信者とともに、別荘のような大きな庭付きの木造建築で身を寄せ合って生活し、仏教の修行をしていた。モスクワに支部があり、モスクワの信者数は一〇人であったという。「カ女史」はダレーツキーという教育家が極東を視察して書いた『極東事情』という本を読んで太田覚眠の存在を知り、覚眠の『露西亜物語注(4) 』も読んでいた。信者のために『露西亜物語』をロシア語に翻訳(抄訳)し、暁烏敏の『歎異抄』や倉田百三の『出家とその弟子』もロシア語に翻訳(全訳)していたという。
 ソ連は宗教を否定する体制であり、「カ女史」の念仏道場に対しても、官憲や警察から圧迫が加えられた。その度に「カ女史」は、「巡査は仏様の使い、牢獄は念仏の道場」と言って自らの信仰をさらに深めていった。覚眠はその姿に感銘を受け、「カ女史を憶ふ」を執筆したという。
 次に覚眠と「カ女史」が出会った経緯を記す。覚眠が「カ女史」に出会ったのは、一九三一年の夏のことである。なぜ覚眠と「カ女史」は出会うことができたのだろうか。覚眠と「カ女史」の出会いは実は全くの「偶然」の産物ではない。「カ女史」は前述のように覚眠のことをすでに知っていたが、覚眠が一九三一年夏にレニングラードに来ることも知っていたのである。ウラジオストク出身のゾーヤという女性を通じてであった。
 ゾーヤとは、覚眠の友人ニコライ・マトヴェーエフの娘である。マトヴェーエフは革命前はウラジオストクの有力者であり、浦潮本願寺の布教場建設をめぐって、ウラジオストクの土地の一角を浦潮本願寺の敷地として使用できるように覚眠を支援したという経緯がある。しかし革命後失脚し、日本に亡命、一九四一年神戸でその生涯を閉じた。神戸の外国人墓地にその墓がある。注(5)
 マトヴェーエフには子供が一二人あり、その内五人がレニングラードに住んでいた。その一人がゾーヤである。ゾーヤはウラジオストクの東洋学院日本語科で日本語を学び、革命前にはしばしば日本を訪れたこともあるという。一九三一年当時すでに四〇歳を越えていたが、幼少の頃にかかった病気のため足が不自由で結婚ができず、兄弟の子供たちの子守をしながら生活していた。
 ゾーヤと交流のあった覚眠は、ゾーヤに手紙を書いて一九三一年夏にモスクワとレニングラードに行く旨を知らせた。「カ女史」は冬宮前で托鉢をしている時にゾーヤに出会い、ゾーヤから覚眠がレニングラードに来ることを聞き知ったのである。「カ女史」は覚眠来訪の便りを聞き、是非とも覚眠に会いたいと、ネヴァ河畔のピョートル大帝の銅像(青銅の騎士像)の前で毎日覚眠を待っていた。そこに図らずも覚眠と思しき人物が現れ、「カ女史」は声をかけた。その人物は果たして太田覚眠その人であった。このようにして二人の邂逅は実現を見たのである。
 「カ女史」は覚眠に出会えたことを心から喜び、覚眠に仏教の個人教授をしてもらうことを懇願した。覚眠は快諾し、覚眠と「カ女史」はネヴァ河畔の公園のベンチに座って毎日のように法悦について語り合ったという。しかし「カ女史」は以前から積み重なった疲労に勉強の疲れも加わって病気にかかってしまい、ついには精根尽き果てて死んでしまった。「カ女史」が亡くなった次の日、覚眠は「カ女史」の念仏道場を訪ねたが、信者たちは覚眠に迷惑をかけることを恐れて姿をくらました後であった。覚眠は方々手を尽くして念仏道場の信徒の行方を探したが、結局見つけることができなかった。覚眠はソ連文化協会に調査を依頼したり、念仏道場の隣町にあったチベット仏教寺院ダツァンを訪ね、蒙古活仏派遣の代表ラマ「ノルボエワ」に協力を依頼したりしたが、両者とも関わり合いになることを恐れて協力してくれなかったという。
 覚眠は「カ女史」について、次のように書いている。
 「一人の女を済度するのに、覚眠は、何と云ふ力みようだと笑って居る人もあるだろうが、どうか免してください。此れは私の性分である。私の気が小さいからなのです。私は対手が、仮令、女であっても、一人であっても、此れは『物になる』と見たらば、すぐ一生懸命になって、全力を注ぐのです。体裁を飾り、行儀を繕ふては居られぬのである。若し命を捨てて法を聞き、道を求めるものがあらば、私も諸共に、命を捨てて、その人の志を遂げしめたいと思ふのである。けれども、今の世にそんな殊勝な人は無いと思ひ諦めて居ったのである。鼓瑟斉門(こしつせいもん 注(6) )三十年を嘆じて、空しく日本へ帰ろうと思って居ったのである。何ぞ図らん、カ女史は正に其人であった。ああ、吾れ汝を待つ事久し、則我善親友、眞に知己の感に堪へなかった。モー命は惜しくなかった。
 私が彼を導いたのではなく、救ふたのでもなかった、却て私が導かれ、助けられたのであった。
 ロシアで、私が当然なさねばならぬ事を、女史が為て居ってくれたのであった。頭を下げざるを得ず、感謝せざるを得ないのである。
 私は、今も尚ほカ女史と、ネバ河畔の公園で、御法悦を語り合ひ、お念佛して居った時の事を夢に見る事がある。まことに懐い事である。
 ああ、カ女史の愛弟子チ嬢は今何處にある。忠実篤信のマ将軍等團員信徒は、今尚ほカ女史の跡を弔ひながら、お念佛を相続して居る哉否哉。
 あの公園の、あの椅子、私が女史と共にお念佛して居った、あの椅子の邊に、お念佛の余光余響は、残っては居ないだろうか。 
 若しもロシアの佛教が盛んになって、レー市(レニングラード ーー松本)に佛教信徒が充満する様に為ったならば、私とカ女史と相並んでお念佛して居る銅像が、ペートル大帝の銅像と相対して、あの椅子の跡に立てられるであろふと思ふ。あの椅子こそ、まことにお念佛の種を下した、霊跡であるもの・・・私はその種の芽生る時のあるのを期待し念願して居る。
 吾國有縁の人士にして、若しレニングラードを訪問せらるる事あらん時、街頭に立てる乞食を見給はば、あわれ一小銀を恵め。而して、その乞食が、胸に十字を切って、感謝する代に、低声にてお念佛して感謝するものあらば、夫はカ女史の團員にして、覚眠有縁の佛教信者である。希くば、覚眠の名を以て更に一小銀を喜捨して、彼等が修道の資を幇け給へ。
 ああ、宗教撲滅の國にあって、孤立無縁、献身的に念佛を修行する同信の同朋よ、必ず必ず佛天の御冥護あらん。忍従自重して、時節の到るを待て。遥に、合掌念佛して、カ女史の菩提を弔ひ、團員諸氏の、法義相続不退轉ならん事を希ふ。」注(7)

 

4 太田覚眠と「カ女史」の足跡を訪ねて

 従来この問題を正面から扱った論者はおらず、「夢物語」とみなす論者さえいた。確かに歴史研究としては、覚眠一人の記述をもってこれを「歴史事実」とみなすことはできない。しかし覚眠の「カ女史」を思う筆致には我々の胸を打つものがある、つまり真に迫るものがあるのである。これが全くの作り話とは到底思えない。「カ女史」の実在を確かめる必要がある。
 すぐにでもサンクト・ペテルブルグに行きたいところであったが、行きたいと思って簡単にかなうものではない。私は日本国内でできる限りの情報収集に努めることとした。そもそも覚眠がレニングラードに行ったというのは事実なのだろうか。この点から確認する必要がある。浦潮本願寺最後の布教使戸泉賢龍の妻戸泉米子氏(福井県在住)にインタビューしたところ、「一九三一年覚眠さんがレニングラードに行く際に通訳として同行することを頼まれたが、学校(極東総合大学教育学部ロシア語科 ーー松本)があったため同行することができなかった。」という。
 戸泉米子氏の代わりに覚眠に同行したのが、浦潮本願寺信徒総代平岩仁一である。私は平岩仁一の周辺に何か史料が残されている可能性があると考え、調査を行った。調査の結果、幸いにも外務省外交史料館から平岩仁一の史料を入手することができた。「在外本邦人ノ身分関係雑纂(欧州西伯利)注(8) 」がそれである。これによって平岩仁一の本籍地が「長崎県東彼杵郡川棚村上組郷一二七六番」であることが判明した。長崎県川棚を訪れ調査を行ったところ、浄土真宗大谷派寺院福浄寺ご住職のご協力により、平岩仁一の子孫が埼玉県春日部市に在住していることを突き止めることができた。孫娘平岩雅美さんと大浦有子さんである。二〇〇五年八月二一日春日部市を訪れたところ、平岩雅美さんと大浦有子さんのご好意により、平岩家に残されていたアルバムを見せていただくことができた。その中に、レニングラードの冬宮前で撮影された覚眠と平岩の写真が収められていたのである。これによって覚眠がレニングラードを訪れたことが事実であることまでは確認することができた。
 一方、覚眠の自坊法泉寺の現住職太田尚代氏に連絡をとり、法泉寺に関連史料が残されていないか確認してもらったが、残念ながら関連史料を入手することはできなかった。
 また東京の日本ロシア語情報図書館で東洋学研究者の名簿注(9) を入手し、名前、苗字あるいは父称の頭文字が「K」で始まる女性に絞ってソ連時代の東洋学研究者を調べたが、それらしき女性は見当たらなかった。そもそも覚眠は女性の名前を略字を使用して「カ女史」と記しているが、本当に「K」で始まる名前なのかどうかさえ疑わしい。なぜならば「カ女史を憶ふ」において覚眠は浦潮本願寺信徒総代平岩仁一の苗字を「平山」と書き、当時の駐ソ大使廣田弘毅の苗字を「平田」と記す等、実名を正確に表記することを意図的に避けている形跡があるからである。つまり「カ女史」は略字であるのみならず、その頭文字をとった表記ではない可能性さえあるのである。このようにして、私の調査は完全に行き詰った。国内における調査だけでは自ずから限界があったのである。
 そしてついに二〇〇六年二月、サンクト・ぺテルブルグ訪問の夢がかなった。ロシアにおける現地調査の第一歩を踏み出したのである。前龍谷大学学長で本願寺教学伝道センターセンター長上山大峻先生注(10) や京都大学人文科学研究所教授高田時雄先生のご紹介により、サンクト・ペテルブルグの東洋学研究所所長イリーナ・ポポア教授に面会できることになった。今回は初めての現地調査であるため、いきなり「カ女史」の情報が得られるなどとは当然期待していなかったし、史料調査を行うことさえ難しいだろうと考えていた。ポポア教授に面会して本研究の存在を知ってもらい、興味をもってもらうことにより、今後の史料調査の基礎をつくることを第一の目的としたのである。こうして私はサンクト・ペテルブルグへと旅立った。けれども図らずも素晴らしい出会いと発見の数々に恵まれ、予想以上の成果を生むこととなった。今回のサンクト・ペテルブルグ調査の経過と成果は次の通りである。
 第一に、私は当初の目的通り東洋学研究所を訪れ、ポポア教授に面会することができた。私はポポア教授に太田覚眠や浦潮本願寺、そして覚眠と「カ女史」の交流について話した。東洋学研究所はロシアにおける仏教研究の中心であるにもかかわらず、ポポア教授は「カ女史」に関する情報はおろか、太田覚眠や浦潮本願寺の存在さえ知らなかったという。本研究に興味を示されたポポア教授は今後の史料調査に対する協力を約束してくださった。
 第二に、東洋学研究所研究員カリネ・マランジャン先生に出会い、研究交流を行うことができた。カリネ先生は江戸時代の徳川思想の研究者で、日本語が堪能、日本にも何度も来られたことがあるという日本通である。私は偶然にも東洋学研究所でカリネ先生に出会い、太田覚眠研究の話をした。するとカリネ先生は意外なことに、太田覚眠のことを知っているという。
 つい最近Japanese Literature Publishing Project(日本文学出版プロジェクト)という日露プロジェクトの依頼で長谷川伸『日本捕虜志』注(11) をロシア語に翻訳する仕事をしたが、『日本捕虜志』の中に日露戦争の際にシベリア奥地に取り残された日本人居留民を救った僧侶として太田覚眠の名前が出ていた、というのである。カリネ先生は『日本捕虜志』のコピーを見せてくださった。これを見て私は驚いた。私は五年もの長きにわたって太田覚眠研究に携わっているにも関わらず、『日本捕虜志』に太田覚眠の記述が現れることなど全く知らず、日本を遠くはなれたロシアで知ることとなったからである。恥ずかしさを禁じ得なかったとともに、出会いの不思議に思いを馳せざるを得なかった。
 「カ女史」の実在については、「疑わしい」を意味する「サムニーチェリナ」という言葉を連呼しながらも、調査に対するアドバイスをくださったり、カリネ先生の知人の東洋学研究者に連絡をとってくださったりと、カリネ先生は種々私を手助けしてくださった。日本では、「カ女史」の存在を頭から否定し、調査する意味さえないとする研究者が大部分である中で、疑わしいからこそ、確かめる価値がある、とするカリネ先生の学問的姿勢に触れることができたことはこの上ない幸せであった。
 さらにうれしいことに、カリネ先生は東洋学研究所紀要にロシア語で「カ女史」に関する論文を書いて発表することを勧めてくださった。さらに私が「カ女史を憶ふ」をロシア語に翻訳して東洋学研究所の紀要に発表したいと申し出たところ、翻訳の手助けをすることを約束してくださった。覚眠の文章は日本人の私にとってさえ面白いのだから、ロシア人が並々ならぬ興味を持ってくれるであろうことは間違いない。こうして私は、本研究をロシア人に知ってもらう絶好のチャンスを得たのである。
 第三に、ポポア教授から史料調査の案内役として紹介された東洋学研究所の大学院生カーチャ・カルマーノブナの協力を得て、東洋学研究所所蔵史料を調査することができた。
 まず私は日本語文献目録に目を通して『露西亜物語』や『レーニングラード念佛日記』等、太田覚眠の著作が所蔵されていないかどうか確認したが、発見することはできなかった。ロシア語文献目録にも目を通し、ロシア語に翻訳されたものが所蔵されていないかどうかも確認したが、これもなかった。つまり東洋学研究所には太田覚眠の著作が所蔵されていないことが分かったのである。次にロシア語文献目録で「カ女史」が翻訳したという暁烏敏『歎異抄』や倉田百三『出家とその弟子』が所蔵されていないかどうかを確認したが、これも所蔵されていなかった。日本語文献目録で両作品の日本語原本が所蔵されていないかどうかも確認したが、これもなかった。さらにロシア語文献目録で太田覚眠の活動について記されているというダレーツキーの『極東事情』を検索したが、東洋学研究所には所蔵されていないようだった。最後に大きく視野を広げて、仏教関連書籍の目録に目を通し、どのような史料が東洋学研究所に所蔵されているのかを確認した。その結果、ソ連時代の仏教研究者による仏教研究書やロシア極東地方における宗教を主題とした研究書が数多く所蔵されていることを確認することができた。こういった史料に太田覚眠や「カ女史」に関する記述が残されている可能性がある。今後の課題としたい。
 第四に、革命前までサンクト・ペテルブルグにあった日本大使館の関連史料をめぐる情報を得ることができた。先述のように「カ女史」は日本大使館の館員に日本語を習ったという。当時日本大使館に勤めていた館員の名前を突き止め、その周辺を調査すれば、そこから何かが分かるかもしれない。そこで私はサンクト・ペテルブルグの日本総領事館に電話をかけ、当時の史料が現在どのようになっているかを問い合わせた。副領事の櫛淵千代氏が応対してくださり、ロシア革命後日本大使館は引き揚げたが、その時に史料もすべて日本に持ち帰った、関連史料は日本の外務省外交史料館に所蔵されている、との回答を得ることができた。日本国内で調査できることはまだ残されていたのである。
 第五に、現地におけるフィールド・ワークを行った。「カ女史を憶ふ」の中で覚眠が訪れたと書いている冬宮やデカブリスト広場等のサンクト・ペテルブルグの名所、そして覚眠が宿泊したというオクチャーブリスキー・ホテル等を、現地において逐一確認することができた。その結果、覚眠の記述には全く錯誤がなく、現地を実際に訪れた者でなければ書くことができない記述であることが判明した。
 中でも覚眠が訪れたと記しているサンクト・ペテルブルグ郊外のチベット仏教寺院ダツァンでは、当寺院の代表ラマ、バドマーエフ・ブッダ・バリジエービッチ氏に面会、インタビューをとることができた。その結果、覚眠が面会したと書いている「ノルボエワ」というラマ僧が実在の人物であり(正式にはD・ノルボエフ)、一九三一年当時ダツァンの代表ラマを務めていたことが明らかになった。注(12)
 現在の代表ラマ、バドマーエフ氏は本研究に興味を示され、サンクト・ペテルブルグのラマ教学会で発表することを勧めてくださった。このような作業を通じて本研究をロシア人に知ってもらうことにより、「カ女史」に関する情報も必ずや入手できるものと確信している。
 最大の収穫は、ピョートル大帝の銅像の持つ「意味」を知ることができたことである。ピョートル大帝像はネヴァ河畔、デカブリスト広場の端にヨーロッパの方角を向く形で建てられている。ドイツ出身のエカテリーナ二世(一七六二〜一七九六)がロシアの女帝の座についた後、ピョートル大帝(一六七二〜一七二五)の後継者であることを誇示するため、ピョートル即位の一〇〇周年である一七八二年にフランスの彫刻家ファルコン(ロシアではフリカネー)に命じて造らせたものである。詩人プーシキンが叙情詩「青銅の騎士」にうたったため、一般には「青銅の騎士像」の名で知られている。
 サンクト・ペテルブルグの市民にとって、この銅像は特別な「意味」を持っている。この像の南東辺にあるロシア正教会イサク聖堂で結婚式を挙げ、ピョートル大帝像の前で接吻すると、新郎新婦は永遠の愛で結ばれると信じられているのである。つまりピョートル大帝像は、サンクト・ペテルブルグ市民にとって、「永遠の愛を誓う場」なのである。
 「カ女史」はピョートル大帝像の前で覚眠を待っていた理由として、「此處へは、必ず御見物にお越になると思って、毎日此處へ来て、待って居たのです。注(13) 」と述べている。確かにこれは「嘘」ではないだろう。しかしこれは「カ女史」の「口実」に過ぎず、実は「カ女史」にとって、ピョートル大帝の銅像の前で覚眠に会うことに意味があったのではないだろうか。覚眠に確実に会うことを期するのであれば、ピョートル大帝像前などで待つより、駅頭に立って覚眠の到着を待ち受ける方がより確実である。しかし「カ女史」はそうはせず、ピョートル大帝像の前で待っていた。つまり「カ女史」はピョートル大帝像の前で覚眠に会いたくて、そこで待っていたと考えられるのである。
 覚眠は「カ女史」が覚眠に会った瞬間「身を寄せて来て接吻を促す様な素振注(14) 」を示したと書いている。「カ女史」はピョートル大帝像の前で覚眠に接吻することにより、覚眠と永遠の愛で結ばれることを願ったのであろう。それはもちろん「宗教的な愛」ではあるけれども。「カ女史」はたとえ命は尽き果てるとも、精神は宗教的愛によって覚眠と永遠に結ばれることを願ったのである。
 私は覚眠と「カ女史」が出会ったまさにその場所に立ち、ピョートル大帝像の「意味」を知ったその時、「カ女史」の「心」を理解した。そして心の底から湧き上がる喜びと興奮を抑えることができなかった。
 けれどもこの問題にはより深い背景が存在するものと思われる。今後の研究課題としたい。
 以上のように、サンクト・ペテルブルグにおける現地調査によって、今後の史料調査への展望が大いに開けたのみならず、覚眠と「カ女史」の出会いに対する理解が一段と深まったのである。

5 おわりに

 「カ女史」との邂逅は、太田覚眠の生涯にとって最も重要な交流であった。覚眠は日本に帰国後、宗教専門誌『大乗』等に自らのロシア・ソ連経験を綴った文章を次々と発表するが、その中で「カ女史」のことを繰り返し記し、繰り返し褒め称えている。一方、覚眠は自らのロシア・ソ連経験を記すことにより、昭和一〇年代の日本国家や軍部に対する批判のメッセージを込めた。注(15) さらに覚眠は晩年になってその老齢をも省みずモンゴルに赴き、モンゴルで客死するが、覚眠のこのような生き方を支えたのも、「カ女史」との出会いと交流であっただろう。「カ女史」は覚眠に深い影響を与えた人物であるだけに、今後も彼女に関する情報収集に努めたい。
 「カ女史」の存在は、覚眠の思想形成にとって重要な意味を持つだけではない。「カ女史」という存在は、ロシア・ソ連における仏教(日本仏教)の問題を示す指標に他ならない。「カ女史」が実在の人物であり、念仏道場が存在したことが事実であるとすれば、覚眠の活動がウラジオストクを遠く離れたモスクワやレニングラードにまで影響を及ぼしていた、しかもロシア人にまで日本仏教の信仰が広まっていたということになり、是非ともこれを明らかにする必要がある。ロシアで仏教研究が行われ、意外なことに、むしろ革命後のソ連において、ソ連政府の保護を受け仏教研究が最盛期を迎えたということは、加藤史朗「ロシアにおける仏教と仏教学の発展について注(16) 」によって明らかになっている。しかし信仰としての仏教がどの程度ロシア人に浸透していたのかという問題については、従来の研究ではほとんど明らかになっていない。太田覚眠や「カ女史」の活動の実態究明を通じて、この問題に迫りたいと考えている。
 一九九一年ソ連邦は崩壊した。宗教にとっての「冬の時代」は終わったのである。現在のロシアにおいては、宗教信仰の自由も宗教宣伝の自由もともに認められている。しかし「カ女史」の念仏道場の活動は復活することはなく、覚眠が希った「私とカ女史と相並んでお念佛して居る銅像」も建てられてはいない。覚眠と「カ女史」の蒔いた念仏の種は今のところ芽生える気配はなく、「カ女史」の存在さえ、サンクト・ペテルブルグの人々の記憶から消え去ってしまったかのように見えている。覚眠の希いは、私に「託されて」いるのである。

(注)
(1) 浦潮本願寺とは、一八八六年(明治一九)から一九三九年(昭和一四)までウラジオストクに存在した浄土真宗本派本願寺派(西本願寺)の日本仏教寺院である。ウラジオストクには明治初年から多くの日本人労働者が渡り、日本人居留地が形成されていた。一八八六年ウラジオストク居留民の求めに応じて西本願寺本山が布教使多聞速明を派遣したのを始めとして、一九三九年に最後の布教使戸泉賢龍が帰国、閉鎖されるまで浦潮本願寺は日本人居留民の心の拠り所として存在した。この浦潮本願寺の歴代住職中の代表人物が太田覚眠である。

(2) 拙論「日露の人間交流と学問研究の方法ーー太田覚眠をめぐって」(『古田史学会報』No.61、二〇〇四年一月)。拙論「太田覚眠における時代批判の方法 ーー昭和一〇年代を中心として」(『古田史学会報』No.65、二〇〇四年一二月)。拙論「太田覚眠とからゆきさん ーー『覚眠思想』の原点」(『古田史学会報』No.66、二〇〇五年二月)。

(3) 太田覚眠「カ女史を憶ふ一〜六」(『大乗』一九三四年七〜一二月)。「カ女史を憶ふ」は他の文章とともに『レーニングラード念佛日記』(大乗社、一九三五年)に収録されて刊行された。

(4) 太田覚眠『露西亜物語』丙午出版社、一九二五年。

(5) 二〇〇三年五月四日、私は神戸在住の谷本茂さんのご協力により、マトヴェーエフの墓を確認することができた。

(6) 遠い故郷を思う悲しみのこと。

(7) 前掲『レーニングラード念佛日記』八〇〜八二頁。

(8) 「在外本邦人ノ身分関係雑纂(欧州西伯利)」外務省外交史料館蔵、三 ー 八 ー 七 ー 二三 ー 八)。

(9) С.Д.Милибанд "Биобиблиографический словарь советских востоковедов" Москва, 1975(ミリバンド『ソ連東洋学者名鑑』モスクワ、一九七五年)。

(10) 元九州大学物理学教授上村正康先生のご紹介により、上山先生と知遇を得ることができた。

(11) 長谷川伸『日本捕虜志』上・下(中公文庫、一九七九年)。

(12) А.И.Андреев"Буддийская святыня Петрограда"Санкт-Петербург,1992(アンドレーエフ『ペトログラードの仏教聖地』サンクト・ペテルブルグ、一九九二年)の五五頁には、ノルボエフの写真が掲載されている。

(13) 前掲『レーニングラード念佛日記』七頁。

(14) 同右『レーニングラード念佛日記』八頁。

(15) 前掲「太田覚眠における時代批判の方法 ーー昭和一〇年代を中心として」参照。

(16) 加藤史朗「ロシアにおける仏教と仏教学の発展について」(『愛知県立大学外国語学部紀要(地域研究・国際学編)』第三三号、二〇〇一年)。

 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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