2004年6月1日

古田史学会報

62号

1、別府・鶴見岳を
天ノ香具山とする文献
 水野孝夫

2、ホトノヂは
大戸日別国の祖神
 西井健一郎

3、ヤハタの神と
 宇佐八幡宮
 斉藤里喜代

4、連載小説
彩神(カリスマ)
第十話 深津栄美

5、マリアの史料批判
 西村秀己

6、続・「九州年号」
真偽論の系譜
 古賀達也>

7、市民タイムス
太田覚眠と
信州の偉人たち
 松本郁子

本物の歴史に出会えた喜び
事務局便り

 

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市民タイムス 平成(2004年)2月29日(日)(14)

太田覚眠と信州の偉人たち

松本郁子

 二〇〇三年三月、私は信州の偉人、福島安正の記念碑を訪れた。初のシベリア単騎横断成功者、福島安正。信州の人で彼の名を知らない人はいないだろう。この時、初めて信州の地に足を踏み入れた私がなぜ福島安正の碑を訪れたかというと、彼は私の研究している太田覚眠の“憧れの人”だからである。
 太田覚眠?皆さんにとって、恐らく初めて耳にする名前であると思う。そこで彼について少し紹介させていただきたい。太田覚眠は一八六六年(慶応二)三重県四日市市法泉寺に生まれ、一九四四年(昭和十九)モンゴル内蒙古集寧で亡くなった。彼は一九〇三年(明治三十六)から一九三一年(昭和六)までの実に三十年間をロシア極東ウラジオストクで過ごした。当地に設置されていた浦潮本願寺(浄土真宗本派本願寺派)で布教活動に従事したのである。彼は一九三一年にいったん日本に帰国するが、一九三六年(昭和十一)今度はモンゴルヘ向かう。七十一歳の時である。ラマ僧の指導にあたるためであった。そして、その地で客死。一九四四年十一月、七十九歳であった。
 すでにお気付きのように、覚眠はその人生の大半を海外で過ごしている。これには覚眠の青年時代の魂を揺り動かした、ある事件が影響している。一八九二年(明治二十六)福島安正のシベリア単騎横断成功それである。これは覚眠が二十八歳の時であった。覚眠は後年「福島中佐のシベリア単騎旅行に對して郡司大尉の千島短艇漕航、此の二大壮行は、当時青年者の胸を躍らし、血を沸かさしめたであった。(中略)私がシベリア開教に志を起したのは、其頃からである。」(太田覚眠・戸泉賢龍『西比利亜開教を偲ぶ』本派本願寺教務部、昭和十四年)と回想している。ウラジオストクでの三十年間にわたる布教生活、さらにわずか五年間あまりの日本滞在の後、その老齢(七十一歳)をも顧みず遥かモンゴルヘと向かい、その地で客死したのも、彼の青年時代の魂を揺り動かした、その感銘の実現とも考えることができるのである。
 信州にはもう一人覚眠ゆかりの人物がいる。小諸出身の名士、与良松三郎である。彼は一八七二年(明治五)小諸に生まれ、長野県尋常師範学校を卒業。一九〇二年(明治三十五)ウラジオストクの日本人小学校(浦潮日本人小学校)に校長として赴任した。与良松三郎と覚眠はウラジオストクで出会ったのである。与良は一九〇六年(明治三十九)帰国し、名古屋新聞の主筆として入社。シベリア出兵(一九一八〜二二年)時には従軍記者として従軍したが、太田覚眠の主著『露西亜物語』(丙午出版社、大正十四年)にも「名古屋新聞の與良君」として彼の名前が出ている。一九三〇年(昭和五)、与良松三郎は名古屋新聞の社長に就任した。与良の著書『我を見る(まづい文集二)』(興風書院、昭和五年)には「昔と今を法泉寺に語りて」の一文があり、彼が覚眠を慕っている様子がうかがえる。太田覚眠の書簡が」与良松三郎のもとに残っている可能性がある。これを是非探したい。
 また先日二月八日の産経新聞で松本出身の河原操子の記事を目にし、彼女が日露戦争当時、内蒙古の奥地に踏み込み、ロシアに関する情報を日本に送り続けていたということを知った。ロシア、内蒙古。太田覚眠とどこかで接点、接触はなかっただろうか。この点を今後探求したい。今回の松本での古田史学の会では、(1).シベリアをめぐる信州の偉人たち (2).太田覚眠とパルチザンの青年との交流 (3).太田覚眠と乃木将軍との交流 (4).私の学間研究の方法について話したいと思う。なお、福島安正や与良松三郎、河原操子についてご存知の方があれば是非教えていただきたい。よろしくお願いします。
(京都大学大学院生、日露交流史を研究)

  ◇  ◇

日程・講演場所は略

市民タイムス 平成(2004年)2月29日(日)


 これは会報の公開です。

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