2006年 4月15日

古田史学会報

73号

「万世一系」の史料批判
 古田武彦

呪符の証言
 林 俊彦

和田家文書による
『天皇記』『国記』
及び日本の古代史考察3
 藤本光幸

4私考・彦島物語II
國譲り(後編)
 西井健一郎

5記神武東征の謎を追うI
神武吉野侵攻は
「天孫降臨神話」
の盗用だった
 正木 裕

馬門(まかど)
 古川清久

7洛外洛中日記
『北斗抄』
 古賀達也

8読者からの便り
佐賀の「中央」碑
 西村俊一
 事務局便り

 

古田史学会報一覧

ホームページに戻る


お断り:本会のホームページでは丸数字(○1)は、表示できません。○1は、(1)に変換しています。

古田史学会報73号 2006年 4月12日

記神武東征の謎を追うI

神武吉野侵攻は
「天孫降臨神話」の盗用だった

川西市 正木 裕

 「神武」それは我が国最大の謎の人物だ。明治から戦後にかけて、神から人へ、いや全くの架空の人物、机上の存在へと「オール オア ナッシング」的に変転を遂げた人物。しかし、今も神武を開祖とした天皇家や元号が厳然として存在する。古事記・日本書紀は我が国古代の随一の歴史書、その記述の中心対象にもかかわらず、戦後、学問的には津田史学の記紀造作説によって封印され無視され続けている人物。
 津田史学にのっとれば、神武は実在したか、東征は史実か、時期は、その軌跡は、など神武をめぐる様々な謎は、歴史「学」の範疇外であり、真摯な科学的検討も事実上封印された。それも道理。造作、架空の物語であると決められては、記紀の分析も考古学的探求も、徒労、無意味なのだから。
 しかし、この封印は古田武彦氏の九州王朝説の登場によって解き放たれた。「盗まれた神話」以降、銅矛圏不戦、潮の道、南方の論証、神武歌謡の分析などを通じ、神武の出自や東征の経路などが次第に明らかにされてきた。
 現在でも、古田自身による神武の出自の、宮崎から筑紫への変更、浪速渡、白肩津等の新比定提案、さらに、伊東義彰、西村秀己、古賀達也各氏らの「神武の道」論争など、神武についての議論は「百家争鳴」、一層盛り上がりを見せている。
 とりわけ、神武の称号の研究や「吉野の河尻」等の地名分析、また「磯城県主」問題の提起など、熊野以降の行程は、そもそも架空・天孫降臨説話からの盗用であるとの古賀説は、古田の盗まれた神話「記紀盗作」説を進化させる、新たな研究として注目される。
 本稿では、古賀説を柱として、神武東征についての様々な「謎」を改めて提起し、私見を述べることとしたい。こんな着想もあったのか、と意識の片隅にでも留めて頂けたら幸いである。
 古賀説の詳細は、下記の書物や本会のHP等でも示されているので、ここでは骨子のみの紹介に留める。

(1).盗まれた降臨神話 『古事記』神武東征説話の新・史料批判(古田史学会報二〇〇二年二月五日 No.四八)
(論旨)神武記には、神武に対して「神倭伊波禮毘古命(いはれひこ)」、「天神御子」、「天皇(または神倭伊波禮毘古天皇)」の三つの呼称が与えられている。これら三つの呼称中の「天神御子」は熊野から紀伊半島を縦断し、大和盆地に突入するまでの間のみに使用されており、この「天神御子」による説話部分は天孫降臨神話(恐らくは天津日子番能邇邇藝(あまつひこほのにきぎ)命による糸島・肥前侵略説話)からの盗用である。
(2).続・盗まれた降臨神話─『日本書紀』神武東征説話の新・史料批判─(古田史学論集『古代に真実を求めて』第六集 明石書店二〇〇三年四月一日発行)
(論旨)書紀(神武紀)においては、終始「天皇」の呼称で説話が綴られているが、他に「天神子(あまつかみみこ)」「天孫」「天壓神(あめおすかみ)」という呼称が若干例使われている。この呼称は、具体的な人物を指す例としては神武紀以外には表れないため、この呼称部分も天孫降臨神話からの盗用の可能性が高い。
 また、古事記に比べ、神武紀には神武の業績を誇るため、多くの説話が盗用付加されており、地名や東征ルートにも改変がみられる。結論として、神武東征中の天神御子説話(熊野から白梼原宮即位まで)中に邇邇藝命による糸島・肥前侵略説話が盗用挿入されている。

 謎解きの鍵として、以下の観点で分析を進めたい。
(1) 地名、人名、東征ルートの記述で不自然はないか(地名の所在が不明・人名が不自然(天孫降臨系と思われる人名混入)・行程上の不自然さ・矛盾等)の分析
(2) 古事記と日本書紀の記述の差異、矛盾(片方にしか記述が無い。双方の記事が違っている等)
(3)九州での出来事として合理的説明はできるか
 などだ。
 まず、古事記に有って書紀に無い部分から見ていこう。
神武は日下の盾津で、登美彦に敗れ、ちぬの海(大阪湾)に逃れた。そして紀國男之水門で兄五瀬命を失い、紀國之竃山に葬ったとされる。ここまでは記紀の記述する行程に大きな差は無い。(書記では、神武が初めから大和盆地を目指していたかのごとく書かれていたり、生駒の山すそで戦ったかのように記述しているなど若干の差異はある)問題はそれ以降の神武の運命だ。
 記紀共に、大筋では神武は熊野に上陸、吉野から大和平野に侵攻、畝火の白梼原宮で。天下を治めたとある。「神武大活躍譚」だ。しかしこの下りには
1). 古事記に無くて日本書紀にある記述が極めて多い。
2).「吉野の河尻」に象徴されるような、遠征行程の矛盾が見られる。
更に、古田武彦が「神武歌謡は生きかえった」のなかで論証しているとおり、
3). 九州博多湾岸ゆかりの地名や歌謡がさかんに登場してくる
4). 邇邇藝命はじめ、天孫降臨説話の登場人物(神)がたびたび登場する
 等「あやしい」点が山積する。
 こうした矛盾について留意しつつ、神武らが、紀の国竈山で五瀬命を埋葬した後の行程をみてみよう。
 古事記では、
 故神倭伊波禮毘古命 從其地迴幸。到熊野村之時。大熊髮出入即失。
と、五瀬命の埋葬後すぐさま熊野に至ったように書かれている。しかし、書紀ではこの間、多くのエピソードが挿入されている。
 六月乙未朔丁巳、軍至名草邑。則誅名草戸部者。遂越狭野、而到熊野神邑、且登天磐盾。仍引軍漸進。海中卒遇暴風。皇舟漂蕩。
 等要約すれば、
(1) 名草邑に至り、名草戸部を誅す
(2) 熊野の神邑で天の磐盾に登る
(3) 軍を率いて「海」を渡り、嵐にあう。稲飯命、三毛入命を失う
 そしてようやく熊野荒坂津又は丹敷浦に到るわけだ。
 名草邑は紀伊国名草郡すなわち和歌山市付近とされる。(書紀の解説では、万葉集1213: 名草山言にしありけり我が恋ふる千重の一重も慰めなくにをあげ、「和歌山市西南の名草山」か、とする)
 また、五瀬命を埋葬したのも、紀の国竈山、書紀の解説では名草郡(和歌山市和田)付近だ。延喜神名式にも名草郡竈山神社とある。しかし、ここは古事記と書紀の記述上も行程上も大きな矛盾がある。

[古事記と書紀の記述上の矛盾]
 そもそも、古事記に書かれていないということが謎だ。五瀬命の埋葬という神武の「不名誉な敗北」はきっちり記述されているのに対して、「名草邑に至り、名草戸部を誅す」という赫々たる戦果は無視されているわけだ。「戦果」部分が神武東征上の史実とするなら、古事記があえて省略するとは不自然だ。「名草邑に至り、名草戸部を誅す」の部分は神武のエピソードではなく、他の史書から借りてきた部分、あえていわば「盗用部」に属するのではないのかと疑わせる。

[行程上の矛盾]
古事記で五瀬命が崩御したのは大阪府泉南郡付近とみられる「男水門」。墓(葬ったの)は紀の国竈山。
 到紀國男之水門而詔。負賎奴之手乎死。男建而崩。故號其水門謂男水門也。陵即在紀國之竃山也。
 時間の経過は記述されていないが、当然死亡日時と埋葬日時は接近していると思われる。泉南からから和歌山は指呼の間だ。ボートでも4〜5時間でつく。男水門で崩御し、紀の国竈山で埋葬したのだから、「陵」といえるものが作れたかどうかは別として、古事記の記述に不合理は無い。
 これに対して、書紀では「茅渟山城水門(雄水門)」では矢傷が痛んで、「進到于紀國竈山 而五瀬命薨于軍 因葬竈山」つまり、紀の国竈山で死んで葬ったとある。また、その間の神武の行程について、日時が記されている。
「雄水門」には「五月丙寅朔癸酉(五月八日)」に着き、名草邑には「六月乙未朔丁巳(六月二三日)」に着いた(軍、名草邑に至る)。タイムテーブルは下記のとおりだ。
 「雄水門」到着(五月八日)→竈山(名草郡)で五瀬命死す→埋葬→名草邑到着(六月二三日)・名草戸部を誅す
 こういう順序だ。雄水門から名草まで近距離にかかわらず一ヶ月以上の時間が経過している。これを説明しようとすれば、例えば、「雄水門か竈山(名草郡)付近にしばらく滞在し埋葬後、急遽名草邑で名草戸部を殺した」というように説明するしかない。
 そうなれば、「五瀬命の療養をしていたが、六月後半に亡くなったのではないか」とか、「墳墓の構築等埋葬に時間を要したのでは」とか、様々な「推測・憶測」を積み重ねることとなる。
 これは無理だ。雄水門で死ねば雄水門に埋葬するか、直ちに竈山に行って埋葬するかだ。また竈山=名草なら、名草邑到着・名草戸部を誅してから、竈山に埋葬するのが事の順序だ。「埋葬するまでは従順に、名草戸部に恭順の意を表し、埋葬が終わるや俄かに反旗を翻して、名草戸部を誅した」とでもいう様なドラマ仕立てのストーリーを持ち出さない限り、一ヶ月の時間経過と、地理的条件はクリアできない。
 こうした、時間的・地理的謎を常識的に解決しようとすれば、通説を覆して、
1). 竈山と名草は遠隔地、一月以上の行程距離がある。とするか
2). 竈山埋葬譚と名草戸部征伐は全く別の場所、別の話とするか、いずれかだ。
 前者1). の場合、和歌山市付近とされている名草邑の位置比定が全く違っているばかりか、竈山から、次の南紀熊野周辺とされる「熊野荒坂津又は丹敷浦」まででも一ヶ月はかからないのだから、名草邑は熊野のはるか先にまで行ってしまう。名草邑は、名のとおり「浮き草のように漂って」しまうのだ。
 したがって結論は2). 竈山埋葬譚と名草戸部征伐は全く別の話、これしかない。ここは別の話が接合されているのだ。

[九州で説明できるか]
 それならこの名草邑、名草戸部も博多湾岸にあるのか。書紀には外国の史書はもちろん、九州王朝系の史書が時間・空間を超えて切り取られ挿入されていることは、古田説になじんだ者にとっては常識だ。それなら書紀のどこかに「名草邑・名草戸部」の痕跡は留められていないだろうか。
 神功皇后摂政前紀に次のような記述がある。新羅出兵を前にして、西の方探査を行う場面だ。
 又遣磯鹿海人名草而令視

 ここは、「又磯鹿の海人、名は草を遣して視しむ」 と訳されている(岩波文庫)。磯鹿は和名抄筑前の国糟屋郡志珂郷(今の志賀島)とした上、「名」と「草」とを分離し、「草は人名、他に見えず」とある。
 しかし、同文庫で、神武紀では「名草戸部」を「なくさとべ」と読んでいる。神功紀流に読めば「名は草戸部」となるはずだが、「名草」をひとかたまりの地名若しくは人名としている。
 神武紀との統一性からすれば、神功紀も同様に「名草を遣わして視しむ」と読むべきだろう。
 また、神功紀の「名草」の文の直前に
 使吾瓮海人鳥摩呂、出於西海
とあり、「吾瓮の海人、鳥摩呂といふをして」(吾瓮は北九州市小倉北区藍島とされており、付近に大藻路岩、小藻路岩、「現在は『おおもじいわ』『こもじいわ』と呼ばれている」がある)と訳されている。
 「磯鹿 海人 名草」「吾瓮 海人 鳥摩呂」は対句。
 海人「鳥摩呂」ならば、同様に海人「名草」、名草が人名(地名・部族名)だ。ここまで言うのは過ぎると思うが、あえて結論を急ごう。
 神功紀、「磯鹿海人名草」として登場する「名草」こそ、神武紀で征伐・支配されたとされる「名草」一族なのだろう。神功紀と神武紀が九州王朝の歴史書の同じ部分から取り分けたのか、違う部分から採ったのかまでは不明だ。
 葦原中国=博多湾岸の福岡県那珂地域への侵攻を行う天国勢力が、在地勢力と先ず衝突するところ、まさにそれが志賀島周辺だ。天孫降臨神話での博多湾岸侵略譚が神武紀に切り取られている可能性は高い。神功紀に切り分けられて「盗用」されているのは、既に名草は支配下にあるのだから、時間的に少し後、前つ君の北部九州征伐部分からではないかと思われる。今後の検討課題とする。
 とにかく「博多湾岸に名草を発見した」ことを報告したい。
 次は「遂越狭野、而到熊野神邑、且登天磐盾」だ。
 遂に狭野を越え、熊野の神邑(みわむら)に到り、天磐盾に登ると訳されているが、「狭野」は狭い野であって全国的に存在すること、別紙のとおりだ。神をみわと読むのは、大和地域で「大神」=おおみわとするところからだ。もともと大三輪之神「おおみわのかみ」とあったものを、読みをそのままにし「大神」と略したため、神=みわと読めると敷衍したのだろう。しかしこれは、三輪の神を、極めて位の高い神とした大和地方のことであり、全国で「神」=「みわ」でないのはもちろんだ。
 注:筑摩書房古事記注釈第5巻「ミワは大和における国つ神の代表格の神であったため、神の字を三輪の同義に用いるようになったらしい」
 そもそも熊野という地名が不明だ。「熊野という国郡名も郷名も和名抄にはない」と古事記解説も正直に述べているにもかかわらず、神武の行程から推測し、「熊野は紀州熊野である」と無理にあてたうえで、「熊野」と「神邑」を分離し「みわむら」と、いわば「大和読み」したのだろう。しかし、「熊野神邑」は、まずは「くまのかみむら」とすなおに読むべきだ。あるいは、もっとストレートに「くまののかみのむら」すなわち「熊野権現の鎮座される村」なのかもしれない。熊野神=熊野権現は全国にある。九州北部にもたっぷりあるので、その上で、大和周辺地域の「熊野」だと解れば「神」を「みわ」と読んでみることも成立するだろう。そういう順序だ。
 例:筑後市字熊野(八女郡羽犬塚町大字熊野)は石人山古墳、岩戸山古墳の麓、
 では、博多湾岸ではどこか。熊野神社をキーワードに調べると、断然第一の候補は「福岡県春日市大字須玖字岡本山781」の熊野神社だ。あの有名な遺跡のど真ん中だ。このあたりが「熊野神邑」と呼ばれた可能性は十分ある。ただし、「遂越狭野、而到熊野神邑、且登天磐盾。」は一文であり、連続した行程であろうから、次の「天磐盾」を見つける必要がある。須玖岡本周辺の内陸部ではこれに相応しい場所が見つからない矛盾が残る。
 また、以降が、「仍引軍漸進。海中卒遇暴風。皇舟漂蕩。」と海上行程であることも矛盾だ。
 次の候補としては福岡県志摩郡桜井村があげられる。志摩郡の中央にあり、筑前の国風土記には「本村枝村二十三所あり」「郡中の最大邑にして上邑となす」とある。
 また熊野権現はもちろん、夷、荒神、谷権現、久保宮天神、木浦社、更に「天の岩戸」になぞらえた岩戸等の神社が十数か所集中し「凡そ桜井村は他に異なる境地にて、神祠も多きところなり」とされる。また、後に述べるとおり、周辺には熊野権現にまつわる伝承が、濃く残っており、熊野権現を中心とした例を見ない神社の集積は「熊野神邑」と呼ぶにふさわしい。
 また、地理的にも志賀島周辺の海人族を誅した後の行程上だ。玄海島や志賀島など、博多湾岸の島々の対岸、それは「唐泊」。玄界灘への出入り口だ。そこへ上陸して、「天岳」の麓の山沿い、桜井川沿いの狭い野を越えていけばそこが「桜井村」だ。その西は小金丸村。また風土記いわく、
 「村俗云伝ふるは、熊野権現異国より渡り給時 御腰を掛けて休ませたまひたり」という石や、旗を立てたという「旗山」の伝説、権現の先乗りで瀬踏みした神として「瀬知」の祠も残っていると記されている。
 加えて、此の村には「熊野権現は天岳より来たり給ふという」との伝説があると記している。風土記の編者はこれを「熊野権現とは神武帝のこと」として、「神武帝は日向より上り給ふ故、日向も天岳も西方なれば、似たることなり」と、村の伝説もここから取ったのだろう(後から創作したという意味か)としている。さらに、神武は岡田の宮に滞在したのだから此の地にも来たり給ふなるべしと私論を述べている。
 だが、地元伝承は熊野権現についてであって、神武などかけらも出てこない。神武と何のゆかりも無い志摩半島の人々が、神武紀から伝承を取って、地元のことだとするなど考えられない。話は逆だ。風土記流に言えば「熊野権現とは邇邇藝命らのこと」なのだ。邇邇藝命らの天孫降臨神話から神武伝承が取れらた、そして、天孫降臨の地、志摩半島の現地では、邇邇藝命らの天孫降臨にまつわるエピソードが、熊野権現の伝承として伝わっていた。記紀では抹消されたり改変されたかもしれないが、侵略を受けた博多湾岸の地にこそ、天孫族の筑紫侵略の有様をリアルに「記憶」されていたのだ。
 更に注目すべきは「天の岩盾」と比する景観の存在だ。それは桜井村の西、芥屋村の「芥屋の大門」だ。
 筑前の国風土記には
 「芥屋村より乾の方五町許に、大門崎とて、海中に差出たる岩山の出崎有」「此出崎は、すべてつらなれる岩也。その岩の形悉く八九寸、一尺三寸、或は一尺八寸許なる方なる柱也。其柱は恰も良工の手をつくし削りなし、数百万をつがねて、高く海中に立たるが如くなる形状なり。此岩山高き事、海上より三四十間許、其峙る事城郭の石壁の如し」とした上、「誠に天下の奇観也。かかる奇区は人の国には有りやすらん。我日の本には未是にたぐへる所を聞かず。」とまで絶賛している。
 写真をみれば、大門もまさに「良工の手をつくし削りなし、数百万をつがねて、高く海中に立たる」盾のようだが、その横にある「鏡岩」と呼ばれる巨岩は、鏡のように滑らかな巨大な岩の表面が垂直にそそり立って、一見明白「天の岩盾」そのものだ。
 また、その後は「軍を引いて漸く進む。海中にして卒に暴風に遇ひぬ」と、海上で暴風に会い難破することとなる。この大門のあたりは「新羅の国に向へる大海原の邊りなれば、沖津風絶えず吹て、荒き波かかる」ところであり、大門の西「立石崎」は「此所潮も悪しき所なれば」として「さかおろす 立石崎の白波は 荒き潮にもかかりけるかな」との古歌を載せている。また「灯台背」というものもあり、「船を乗りかけてあやまつことあり」とされる、要するに海の難所だ。思い起こせば時代も下り、元寇の変の時も俄かの暴風で元の軍船が沈み、日本は侵略を免れている。そう考えると、書紀の海難の譚は、奇遇であるとともに、玄界灘の厳しさをよく表している記述だ。
 以上、とりあえず、「神武の東征譚」としては矛盾だらけな
1). 名草邑に至り、名草戸部を誅す
2). 熊野の神邑で天の磐立に登る
3). 軍を率いて「海」を渡り、嵐にあう。稲飯命、三毛入命を失う
 の部分が、九州北部・博多湾岸の出来事として合理的に説明できるとおもわれる「仮説」を提示してみた。
 諸兄のご批判を乞う。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailはここから

古田史学会報73号

古田史学会報一覧

ホームページへ


Created & Maintaince by" Yukio Yokota"