2018年10月10日

古田史学会報

148号


1,「那須國造碑」からみた
『日本書紀』紀年の信憑性
 谷本茂

2,『東日流外三郡誌』と
永田富智先生にまつわる
遠い昔の思い出
 合田洋一

3,「浄御原令」を考える
 服部静尚

4,九州王朝の高安城
 古賀達也

5,『隋書俀国伝』の
 「本国」と「附庸国」
 阿部周一

6,聖徳太子の伝記の中の
九州年号が消された理由
 岡下英男

7,「壹」から始める古田史学
  十六
「倭の五王」と九州王朝
古田史学の会事務局長
 正木裕


古田史学会報一覧

『隋書』における「行路記事」の存在について 阿部周一(会報145号)

『史記』の中の「俀」 野田利郎(会報152号)

『隋書俀国伝』の「本国」と「附庸国」 行路記事から見える事 阿部周一(会報148号)

『隋書俀国伝』の「本国」と「附庸国」

行路記事から見える事

札幌市 阿部周一

要旨

 『隋書俀国伝』の行路記事の解釈から「竹斯國以東」には「倭国」の「本国」はないと考えられる事、「対馬」「壱岐」及び「肥」の国が「倭国」の「本国」であると考えられること、この段階では「筑紫」はまだ「附庸国」であり、「八世紀初め」に「遷都」した際に「都城」が整備されたとみられること、「肥」がその中心であったことから「日本」という国号へ変更しようとしたとみられること、以上について考察します。

 『隋書俀国伝』の中に行路記事、つまり倭国への道順が書かれている部分があります。そこには以下の様に書かれています。

「明年、上遣文林郎裴清使於倭國。度百濟、行至竹島、南望身+冉羅國、經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國。其人同於華夏、以為夷洲疑不能明也。又經十餘國達於海岸。自竹斯國以東皆附庸於倭」(隋書/列傳第四十六/東夷/俀国)

 注目すべきは、この中の「自竹斯國以東皆附庸於倭」という表現です。「附庸」とは「宗主国」(言い換えれば「直接統治領域」)に対する対語であり、「従属国」であることを示します。
 また『隋書』内での「以東」、「以上」などの表現例から帰納すると、「附庸」されている国に「竹斯国」が入るのは自明と考えられます。つまり「竹斯国」と「秦王国」は倭国に「附庸」されている国であることとなります。
 私見ではこの「裴世清」が派遣された年次は『隋書』や『書紀』に記されている「六〇八年」ではなく「開皇年間」(六〇〇年以前)であったとみており、その段階では「竹斯国」は「倭国」の本国ではなかった事を意味すると思われます。(ただし「竹斯国」と「秦王国」の両国名が特記されているのは重要性の証しでもありますが)
 このことは「倭国年号」(註一)中に存在する「倭京」の元年が「六一八年」と推定されること、その時点で始めて「筑紫」に都城が造られたと考えられることと整合すると言えるでしょう。つまり、この段階以前には「筑紫」には「都城」(京師)はなく、他の場所に存在していたとみられるのです。では、この時点における「都」はどこであったでしょうか。上の『隋書俀国伝』の表現について「近畿」に倭国の中心がある、という様に受け取るのが通常行われている解釈です。
 が、そのような理解は不審です。もし仮に倭国の中心地が「近畿」にあったとすると、その国でさえも「竹斯国以東」の範囲に入ってしまうこととなるのは当然であり、「属国中に宗主国の都がある」という「ねじれ現象」が発生してしまいます。
 「近畿」に「倭国」の中心があるにも関わらず、「竹斯國以東皆附庸」という表現が用いられることはないとみるべきでしょう。仮に「近畿」に当時の倭国の中心があるならば、より適切な表現法としては「近畿の西側のある地域(境界領域)「までは」皆倭国に附傭する」というような表現が使われるでしょう。ここではそれに類する表現は使用されておらず、そう考えると近畿の方向(東)には宗主国は存在しないことは明確であると思われます。つまり、原則として基準点から「附庸国」がある、というように指定された方向には「中心」となる国はないとみるのが自然なのです。ではどこが「倭国」の「本国」(宗主国)なのかというと、「附庸国」の方向として指定された「竹斯国以東」とは異なる方向、つまり「以西」や「以南」などが倭国の本拠地というように考えるしかありません。それを示すのが「附庸国」の中に明らかに「都斯麻(対馬)」「一支(壱岐)」両島が含まれていないという点です
「都斯麻(対馬)」「一支(壱岐)」の両島(国)は明らかに「竹斯國以東」とい 指示された方向には存在していませんからこの両国は「附庸国」ではないことは明らかです。しかしこの両国は「百済」などの外国と境界を為していますから外交的に重要な領域であるのは明らかであり、これが「倭」の直接統治領域でないとすると「倭」の外交政策そのものが成立しない可能性があります。このような重要性は『魏志倭人伝』の昔から変わっていないと思われます。
 「卑弥呼」の時代においても「対馬(対海国)」「壱岐(一支国)」は「伊都国」に常駐していたとされる「一大率」の管理下にあったものであり、「魏」などの使者が「倭」を訪れた際は「対海国」において「一大率」の配下の軍による確認と連絡、引率が行われたものと推察されます。(その後「末盧國」へと誘導されたもの)
 そのような国境警備の重要性は時代が変わっても決して低減されるものではなく、『天智紀』などにも「対馬」まで「外国使者」が到着した段階で「本国」への報告が行われているという実態があった事が記されています。(註二)
 「七世紀後半」でこのような状態があったなら、「六世紀後半」においても(「三世紀」からの継続として)同様の状況があったとみるべきであり、その意味で「宗主国」つまり倭国の「直接統治領域」の一端は「都斯麻」「一支」を含むとみるのが相当と思われますから、「都」もその近傍に存在する可能性が高いこととならざるを得ません。しかも「竹斯」がそれに該当しないとすると「肥」以外には措定できる場所はないと思われることとなります。(この時点ではまだ六十六国分国や九州制が施行されてないと思われますから「竹斯」は後の「筑後」は含まないこととなり、「肥」は後の「肥後」「筑後」「肥前」を併せた領域となり、かなり広大な領域を含むこととなります)
 また『隋書』には「筑紫国以西」「以北」「以南」の情報は、行路記事にはそれと明確には書かれていませんが、基本的に重要な情報(特に軍事的なもの)は「倭国」の「本国」(直接統治領域)のものと見るべきですから、「阿蘇山」に関する情報も同様であったものと思われることとなります。
 「阿蘇山」は「竹斯國」の「南方」に位置するのですから、「遣隋使」がもたらした「阿蘇山情報」(註三)も「竹斯國以南」の情報と考えられますが、行路記事からはこの「竹斯」南方地域に対して「附庸」という表現が使われていません。このことからもこの方面の地域は「倭国」の「本国」の一部であり、また「倭国王」が「直接」統治している領域であると考えられ、「附庸国」ではないと判断するしかありません。
 さらに『隋書』中では「倭国王」が都する「邪靡堆」を「無城郭」としていますから、「城」もそれを巡る「郭」(囲い)もなかったとされています。このことは「筑紫」周辺に存在していたと考えられる「神籠石」などの「朝鮮式山城」とも「無縁」の環境に当時の「倭国王」である「阿毎多利思北孤」が居在していた事を示すものです。しかし、「筑紫」の「山城」や「神籠石」はかなり「古いもの」とされており、また、確認された数も「筑紫」中心に多数が確認されています。
 「神籠石式山城」に限定しても「筑紫」には「筑前」「筑後」を併せて「七個所」、「豊前」で二個所、「肥前」には三個所確認されているものの、「肥後」(及び「豊後」)にはその存在が確認されていません。
 これらの「山城」は(少なくともその一部は)「卑弥呼」の時代から存在していたものもあったようですから、「当然」「七世紀の初め」という段階でも存在していたこととなり、仮に都の至近にあったなら、それについてコメントしない、あるいは「都」には「城郭」がない、というような表現をしないのであろうと思料されます。つまり、「筑紫」は「朝鮮式山城」の密集地域であるわけですから、「隋使」が実見した「倭国」の王都とその周辺地域は(「行路記事」に明確なように)「筑紫」を指すものではない可能性が高いものと推量され、都が「肥」(肥後)に存在した蓋然性は更に高まると考えられます。
 また、この時点で「無城郭」とされていますから、「城」やそれを巡る「郭」を伴った「都城」は「遣隋使」が「隋」の「大興城」やそれ以前の「長安城」に関する情報を入手して初めて「倭国」に形となって現れたものと思われ、それが「筑紫」に「七世紀の前半」(「九州倭国年号」の「倭京」年間)に、初めて「本格的都城」として結実したものと思われます。
 このように「倭京」年間に「竹斯(筑紫)」に都城を構築したと推定され、その時点で「遷都」することとなったわけですが、その理由としては「竹斯」がそもそも「古都」であった、という事も確かでしょう。
 「竹斯」は「卑弥呼」の時代も含め歴代の倭国王の所在する場所であったとみられるわけですが、考古学的成果からは「倭の五王」の時代以降「肥後」にその中心を移動していたとみられ、それは半島からの「外的圧力」をかわす意味があったものと推定できます。
 そもそも「竹斯」は、東方の附庸国(「吉備」や「播磨」、「難波」など)への「にらみ」を利かすという目的は瀬戸内海を通じることで容易であるなどの点でより適地であるとみられるわけですが、何よりも「半島」に面していて、内外との交通の要衝であるという利点が大きかったものと見られます。それに対し「肥(日)の国」は「半島」や「本州」とある意味隔絶していますから、安全度は高く「守備」には最適ですが、より積極的な交渉を望むにはやや不適であり、「竹斯」に進出するのが当然ともいえるでしょう。(筑紫君「磐井」「葛子」の存在はその「進出」の実証といえます)
 この時点では「竹斯(筑紫)」は「前・後」に分けられたとみられますが、「筑紫後(筑後)」が本来「肥」の国の一部であったものですから、実際には「筑紫」の拡大であり、「肥」の縮小となります。つまりその時点で「肥」は「肥前」「肥後」に分けられた上、主要な領域を「筑紫」に譲る(あるいは「奪われる」)形となっていますから、必然的に「肥」の占める政治的比重は低下したこととなり、このときの地域分割は「権力」の移動・交代を伴うものである可能性を示すものと思われます。
 このように当時「倭王権」は「肥」から統治を行っていたとみられるわけですが、『釈日本紀』(註四)にあるように「日本という国号」(及び「天皇」号)を最初に名告り、また中国皇帝にそれを認めてもらおうとしていたのがこの時点であったとすると、その「権力中心」が「肥」(「日」)にあったことがその国名の根底にあったものと思われることなり、その意味で国号変更の意図と時期が整合します。
 『推古紀』に書かれている「国書」をみると「倭皇」というように「隋皇帝」が「倭国王」に対して呼びかけており(註五)、それは「隋皇帝」の立場として「日本」という「国号」を認めなかったもの(ただし「天皇」号は承認したものか)であり、この国書が私見では「国交開始」時点のものとみているわけですが、その場合その後行われた「天子」を標榜するという行為とは別の理由により「倭」国号からの変更を認めなかったとみられます。
 このとき「日本」国号を認めなかった理由として考えられるのは、「歴代」の中国王朝と通交していたのは「倭国」であり、「隋」もその「中国王朝」の系列に連なる存在を標榜していましたから、「倭」と通交を持つということが「隋」の正統性の証しとみていた可能性が考えられるでしょう。そう考えると「隋」にとってみれば交渉相手は「倭」でなければならないわけであり、「日本」という(悪く言うと)「どこの馬の骨」なのか判らない国との通交では意味がなかったものではなかったでしょうか。そのため「日本」への国号変更を認めなかったものと思われるわけです。
 この後「天子」を標榜するという事件があり、その結果「天皇」号さえも棄却されることとなり、元の「倭国王」という過去の使用例と同様の呼称へと戻されたとみられるわけです。(更に「俀国」と蔑称されることとなった)それが復活するには(『釈日本紀』によれば)「隋」が滅び「唐」の時代になるまで待たなければならなかったものと思われます。


註一.従来「九州年号」と呼称していましたが、『古田史学会報』(一四一号)の「古田史学の会」編集部の提言をふまえ、今後「倭国年号」という呼称を使用することとします。

註二.「(六七一年)十年…十一月甲午朔癸卯。對馬國司遣使於筑紫大宰府言。…」などの記事で明らかなように「対馬」に外交上重要な人物(この場合は「郭務悰」と「薩夜麻」)が到着した場合は、そこで一旦留め置き、そこから本国(この場合「太宰府」)へと情報伝達が行われると共に、処置をどうするか指図を仰いでいます。

註三.私見では「阿蘇山」に関する記事を含む一連の風俗情報は「隋皇帝」(文帝)の問いに対して「所司」を通じて「遣隋使」が答えたものをまとめたものと推量しています。

註四.『釈日本紀』(卜部兼方著)の巻一「開題」の中に「問大唐謂此國為倭而今謂日本者是唐朝所名歟将我國自稱歟」「答延喜講記曰自唐所号也隋文帝開皇中入唐使小野妹子改倭号為日本然而依隋皇暗物理遂不許至唐武徳中初号日本之号…」という問答が記されています。(京都大学「平松文庫」所収をwebで閲覧)

註五.「(六〇八年)十六年…秋八月辛丑朔…壬子。召唐客於朝庭。令奏使旨。時阿倍鳥臣。物部依網連抱二人爲客之導者也。於是。大唐之國信物置於庭中。時使主裴世清親持書。兩度再拜言上使旨而立。其書曰。皇帝問倭皇。…」(『推古紀』)ここでは「倭王」ではなく「倭皇」とされており、それは「倭国王」が「天皇」を自称した証明と考えられるものです。


 これは会報の公開です。

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