2018年10月10日

古田史学会報

148号


1,「那須國造碑」からみた
『日本書紀』紀年の信憑性
 谷本茂

2,『東日流外三郡誌』と
永田富智先生にまつわる
遠い昔の思い出
 合田洋一

3,「浄御原令」を考える
 服部静尚

4,九州王朝の高安城
 古賀達也

5,『隋書俀国伝』の
 「本国」と「附庸国」
 阿部周一

6,聖徳太子の伝記の中の
九州年号が消された理由
 岡下英男

7,「壹」から始める古田史学
  十六
「倭の五王」と九州王朝
古田史学の会事務局長
 正木裕


古田史学会報一覧

          「実証」と「論証」について 茂山憲史 (会報147号)
「東鯷人」「投馬国」「狗奴国」の位置の再検討(会報152号)
誉田山古墳の史料批判 (会報153号)

五歳再閏 西村秀己 (会報151号)


「那須國造碑」からみた

『日本書紀』紀年の信憑性

神戸市 谷本 茂

 「那須國造碑」と『日本書紀』巻第三十(持統紀)との記載内容の不整合を改めて検討し、『日本書紀』の紀年(絶対年代との対応)が最終巻に至ってもなお不確実であることを示します。

 

(一)那須國造碑の読み方

【那須國造碑の銘文】
永昌元年己丑四月飛鳥浄御原大宮那須国造追大壹那須直韋提評督被賜歳次康子年正月二壬子日辰節殄故意斯麻呂等立碑~[後略]

【通説の解釈】永昌元年己丑(唐の年号=六八九年)四月、飛鳥浄御原大宮に、那須国造で追大壹の那須直韋提は、評督を賜はれり。歳次庚子年(七〇〇年)正月二壬子日辰節に殄く。故に意斯麻呂ら、碑を立て~(後略)
【古田武彦氏の解釈】永昌元年己丑四月、飛鳥浄御原大宮に、那須国造・追大壹を那須直韋提評督は賜はれり。歳次庚子年正月二壬子日辰節に殄く。故に意斯麻呂ら、碑を立て~(後略)

[注=古田氏が「那須國造碑」の読解に本格的に取り組み始めたのは、一九八三年の五、六月頃から。『市民の古代』第6集(一九八四年)の「大化改新と九州王朝」講演会録を参照。『古代は輝いていたⅢ 法隆寺の中の九州王朝』第六部第一章那須国造碑をめぐって(一九八五年刊 朝日新聞社)当時の小生のメモによれば、古田氏は一九八三年十一月十三日(日)に東大史学会で那須国造碑の新解釈について研究発表を行なっています。]
 つまり、通説の解釈では、下賜されたのは、評督ですが、古田氏の解釈では、下賜されたのは那須国造・追大壹であり、全く異なった理解に至ります。古田氏は銘文を倭習の強い「和式漢文」であるという新見解を発表したのです。両見解について学界での検討・議論は現在まで皆無です。

 

(二)持統紀の関連記事の有無

 永昌元年己丑(唐の年号=六八九年)は、『日本書紀』の干支紀年で、持統天皇三年に相当します。ところが、持統天皇三年四月の条およびその前後の月に叙位関連の記事は見当たりません。一方、持統天皇四年(『紀』紀年では庚寅年=六九〇年に相当)の夏四月の条には、重要な叙位関連記事があるのです。

【持統天皇四年・夏四月庚申(十四日)の条】詔して曰く、百官の人及び畿内の人の位有る者は六年を限れ。位無き者は七年を限れ。その上つかへまつれる日を以て、九等に選び定めよ。四等以上は考仕令の依ままに、その善最・功能、氏姓の大小を以て、量はかりて冠位授けむ。その朝服は、浄大壹已下、廣貮已上には黒紫。浄大参已下、廣肆已上には赤紫。正八級には赤紫。直八級には緋。勤八級には深緑。務八級には浅緑。追八級には深縹。進八級には浅縹。別に浄廣貮已上には、一畐一部の綾羅等、種種に用ゐることを聴ゆるす。浄大参已下、直廣肆已上には、一畐二部の綾羅等、種種に用ゐることを聴ゆるす。綺の帯、白袴は、上下通ひ用ゐよ。その餘は常の如くせよ、とのたまふ。

 この叙位関連の詔に際して、新しい叙位(那須國造・追大壹)の下賜が那須地方に対しても行なわれたとすれば、碑文が無理なく理解出来ます。やはり古田氏解釈の方が高い妥当性を有すると判断すべきでしょう。

 

(三)【仮説】「持統天皇四年」は永昌元年己丑(六八九年)四月に対応する

 『紀』では持統天皇四年十一月から「奉勅始行元嘉暦儀鳳暦」というのですから、それ以前は、別の暦を使っていたことになります。「貞慧伝」(『藤原家伝』)に永徽四年(六五三年癸丑)の干支を甲寅(六五四年に相当)とし、『興福寺縁起』に大化元年丙午(『紀』の大化元年は乙巳)とし、『法隆寺縁起』に大化三年歳次戊申(『紀』の大化三年は丁未)とし、土器に大化五年とあり(『二中歴』大化五年は己亥年(六九九年)に相当、庚子年(七〇〇年)は『二中歴』大化六年に相当)、干支が現行暦とは一年ずれた暦が存在したことは確実です。
 八世紀当時に各種史料の干支年を考察し再構成する場合に、基準にする史料をどちらと考えるかにより、プラスマイナス一年の違いが生じた可能性を考慮すれば、上記の仮説もこの視点から理解可能だと考えます。つまり、「持統天皇四年四月=庚寅年四月」という史料があり、実際は六八九年のことであったが、『紀』編纂時に、その干支「庚寅」年を現行暦干支の六九〇年に配置した、という仮説が蓋然性を帯びることになります。

(四)『日本書紀』の紀年(絶対年代)は全巻を通して信憑性に乏しい

 『紀』の「絶対年代」は、通説では、雄略天皇の頃からは実年代に近く、推古紀以降(六世紀末以降)は「確実」とされています。しかし、推古紀でも十一年~十二年のずれが存在する(「遣唐使」問題)ことは、多元史観では共通認識になっています。本仮説が成り立つとすれば、『日本書紀』の紀年は全巻にわたって信憑性が低いことになります。


 これは会報の公開です。

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