『新・古代学』 第1集 へ

寛政原本と古田史学 古田武彦(古田史学会報81号)

「和田家文献は断固として護る」 (『新・古代学』第1集)へ
東日流外三郡誌とは 和田家文書研究序説(『新・古代学』第1集)へ
和田家文書「偽作」説に対する徹底的批判

『東日流[内・外]三郡誌 ーーついに出現、幻の寛政原本!』 へ
「寛政原本」の出現について 古田武彦(『なかった --真実の歴史学』第6号
寛政原本と古田史学 古田武彦(古田史学会報81号)

関係リンク一覧は下にあります


『新・古代学』古田武彦とともに 第1集 1995年 新泉社
特集1 東日流外三郡誌の世界

 ーー人間は運命に導かれて出会いを知り、歴史は突発した事件を通じて本質をあらわす。

東北の真実

和田家文書概観

古田武彦

  一

 かつて京都にいた頃、わたしには物足りぬ思いがあった。それは、日本列島の東半分、ことに東北地方の歴史が見えていない。その不満である。
 西日本については、いち早く九州に着目した。わたしの古代史探究の入口となった、三国志の魏志倭人伝の探究によって、その「邪馬台国」ならぬ邪馬壱(いち)国のありかは、九州の北部、博多湾岸とその周辺となった。だから九州方面に赴くことは少なくなかったのである。
 だが、東北方面となると、サッパリだった。わたし自身生れたのは福島県の喜多方だったけれど、育ったのは広島。瀬戸内海の潮の匂いの中で少年時代を過したのである。
 わたしの中に、予感のようなものがあった。「日本列島の歴史を知るためには、東北を知らなければ ーー」との思いだった。
 今思えば、この感覚は、あまりにも的確に、事の真相を突いていたようである。

  二

 昨年(一九九四)の夏、突然のように報ぜられた三内丸山遺跡(青森県青森市)、それはすでに早くから注目されていた。おびただしい縄文土器の出現によってである。
 わたし自身も、一〇年近く前から青森「市民古代史の会」の鎌田武志さんのお宅に泊めていただいたとき、しばしばその遺跡の話を聞いた。考古学好きのお子さんからの直接情報だった。お宅の、すぐ裏手にその遺跡は当っていた。一回は、その現地にお連れいただいたこともあった。
 しかし、何といっても、それが日本中に周知されるようになったのは、例の二〇メートルを越える高層木造建築物の発見だった。その上、五〇〇人にも及ぶ集団の住居跡が、造成された土地や企画された下水溝、中心部から位置が次々と拡大する倉庫群などと共に発掘されてきたのである。縄文都市だ。かつて阿久遺跡(長野県原村)が発見されたとき、わたしがはじめて“緊張感をもって”使用したこの言葉、それがここでは、いわば“ありふれた”事実そのものの姿で現われたのであった。
 それだけにはとどまらない。わたしが阿久遺跡のさいは、まだ口には出さず、心の中にしまっていた言葉があった。 ーー縄文国家だ。
 阿久遺跡もそうだったけれど、「都市」は一点だけでは成立しえない。背景が不可欠だ。都市という「点」をささえる「面」が必要なのだ。その「面」の拡がりが、すなわち国家なのである。
 阿久遺跡の場合、何万個という石が並べられ、巨大なドーナツ状の「祭祀場」が形造られていた。中央の、同じくドーナツ状の空白部(置き石のない場所)で、司祭者たちによって祭儀が施行される。それを周辺の(巨大なドーナツ状の置き石部分の外の)広場に集った群衆が見守る。壮大な一大祭典の場だったのである。
 ときは、縄文前期後半。諸磯(もろいそ)式土器の時代だ。すなわち、諏訪盆地を中心に、松本・伊那・甲斐方面へ、この土器の分布する地帯の人々にとっての、聖なる祭儀の場だったのである。 ーー縄文国家の中の中枢地としての、縄文都市だ。
 以上のイメージがわたしの中にはあった。しかし「国家」という言葉に対する“拒否反応”、それを恐れて、まだ口の外に出さなかったのである。よく言えば、慎重。ズバリ言えば、臆病だったのだ。
 だが、今回、三内丸山で、事の真相を確認した。二五メートルもの高層建築物が海ぎわに立っている。もちろん、現在は「海ぎわ」ではない。だが、当時、水位は、現在より六メートル高かった(青森市教委の報告による)。だから、その原状において、この高層建築物は、海ぎわにそそり立っていたのである。海と陸の接点だ。
 海は広大である。青森湾は津軽海峡につながり、海峡は西の日本海と東の太平洋の接点だ。
 その広大な海に対する、陸。それが一点のはずはない。三内丸山という一点だけで、海に相対しているのではないのである。当然、「面」だ。
 青森県から岩手県、秋田県へとひろがる「面」、その陸地と海との接点、そこに二五メートルの高層建築物は立つ。右の「面」を代表して立っているのである。すなわち、この建築物は、一縄文都市のためではなく、背後の縄文国家、それを前提とせずには、十分な理解はえられないのだ。
 この点、時代が下るにつれ、位置の拡大する収蔵倉庫の存在も、内側の都市住民というエリート層と、外に位置する、広汎な周辺住民との経済的接点として観察するとき、その客観的な姿が理解できるのではあるまいか。

  三

 プラトンは、名著『国家』の中で次のように書いている。

「ぼくの考えでは、そもそも国家というものがなぜ生じてくるのかといえば、それは、われわれがひとりひとりでは自給自足できず、多くのものに不足しているからなのだ。ーーそれとも君は、国家がつくられてくる起源として、何かほかの原理を考えるかね?」
「いいえ、何も」と彼は言った。
「したがって、そのことゆえに、ある人はある必要のために他の人を迎え、また別の必要のためには別の人を迎えるというようにして、われわれは多くのものに不足しているから、多くの人々を仲間や助力者として一つの居住地に集めることになる。このような共同居住に、われわれは〈国家〉という名前をつけるわけなのだ。そうだね?」
 「ええ、たしかにそうです」
(プラトン『国家』〈上〉藤沢令夫訳、岩波文庫)

 右の「ぼく」は、ソクラテス。「彼」は、アデイマントス。「国家」を論ずる対話篇中、白眉の一節である。
 ここで論ぜられ、定義されているような「国家」の概念からすれば、今問題の三内丸山が「海と陸との交叉点」にあって、「国家」誕生の結節点、成立の核としての本質をもつ。この事実に疑いを入れること、およそ困難なのではあるまいか。
 ソクラテスやプラトンは、BC五〜四世紀の人であるから、日本で言えば縄文晩期の人。縄文における「国家」の性格を知るには、適切な思想家であるかもしれぬ。
 これに反し、わたしたちが「縄文国家」という言葉に対し、直ちに“反撥”を覚えるのは、なぜか。
 それはおそらく「マルクス主義の影響」であろう、と思われる。正確には、舶来のマルキシズムの輸入と、その日本歴史への「適用」の成果、その影響なのである。
 その種々の試行錯誤の努力と経緯については、今は省略する。その結論として、「原始共同体や氏族制」といった「国家以前」の時代を縄文時代にあてた。そして「国家の誕生」を弥生時代にあてたのである。
 そのさいの「国家」とは、階級支配と搾取の道具であり、稲作による余剰労働の成立という生産関係のもとに発生した。そのように説かれたのである。
 このような研究、ザックバランに言えば、「あてはめ」方は、敗戦後の教科書に導入された。そこでは、簡単明瞭に

「縄文に国家なし。弥生に国家はじまる。」

という結論が金科玉条とされたのだった。

 だが、これはまちがっていた。なぜなら、
 第一、マルクスが原始社会のモデルと考えた、モルガンの『古代社会』に描かれたイメージは、現在の古代研究からは到底事実とは認められない(アメリカの原住民の社会等から「原始共同体」の概念をえた)。
 第二、マルクスは日本の歴史を研究対象にしたことは、ほとんどない(認識の欠如)。
 第三、当時の「縄文時代」に対する、日本の知識人の認識は、今日から見れば、極めて幼稚だった、と言う他はない(戦後のめざましい発掘に対する認識も、当然欠如していた)。

 このような「三つの欠落」の上に立って、その「結論」だけ正しい。 ーーそんな道理は全くありえないのである。しかるに、人々は右の「結論」を信じ、試験のためにそれを覚えこんで今日に至っているのだ。
 わたしたちは、このような「国家観」からひとまず離れ、「縄文晩期の思想家」であるソクラテスの説くところ、その原点にかえって「縄文」を見つめ直してみよう。そうすれば、「縄文国家」の言葉が決して奇矯ではない、むしろ必然の理解であることを知るのではあるまいか。
(なお一言する。わたしはマルクスの「国家」概念を、決して一片の誤謬と見なすものではない。一個の思想家の独創的な試行錯誤の努力として、貴重な、人類の思想遺産の一つである、と思う。
 その絶対的な「権威」が日本のインテリに猛威をふるっていた時代〈スターリン等の時代〉から、わたしは右の立場をとっていたのであるけれど、ソ連邦の崩壊によって、その後光の失われたかに見える現在、改めてわたしは、単にマルクスをゴミ箱に捨て去ることではなく、右の立場の是であることを確言したいと思う。
 マルクスの思想の中の、何が亡び、何が生き残るか、それを決するのは、今日以後のわたしたちの探究の手に委ねられている。)

  四

 本題に入ろう。この日本列島において出色抜群の縄文都市国家について、伝承し、記録している文献があった。青森県五所川原市の和田家(当主、喜八郎氏、飯詰在)所蔵の文書群がこれである。「東日流(つがる)外三郡誌」を中心とし、「北斗抄」「丑寅風土記」等、各種。総称して和田家文書と呼ぶ。当文書(「津保化(つぼけ)族之事」)にいわく、

「彼の故土に於て、幾百万なる津保化族栄ひ(「へ」か、古田)、雲を抜ける如き石神殿を造りき(「し」か、同)あり。」

「東日流外三郡誌」によれば、東北地方の最初の先住民は阿曽辺(あそべ)族であり、第二の「侵領」民が津保化族であった、という。その津保化族の中心拠点の筆頭にあげられているもの、それが「山内(=三内)」の地であった。

「古き世に外濱なる大濱山内の郷ありて津保化族の集落あり。山海の幸に安住たり。」(「北斗抄」十三、未公刊)

 以下、上磯(かみいそ)・十三湊(とさ じゅうさん みなと)・神威丘(かむいおか)・糠部(ぬかべ)・是川(これかわ)などの地名があげられている。
 この津保化族の構築したところ、それが右の「石神殿」であった、という。当文書中、「石神」という言葉は頻出する。したがってこれは「石の神殿」ではなく、「石神の殿(高殿)」を意味している、という可能性が高い。事実、三内丸山遺跡からはすでに幾多の「石神」(岩偶)が出土しているのである(青森県文化財埋蔵センター)。
 さらに、この津保化族は「靺鞨(まっかつ)・珍愚志(ツングース)族」の一派とされているが、その靺鞨の本拠地の一たる黒竜江・ハンカ湖の地域とは、縄文後期を中心とする一大交流の事実が裏付けられている。津軽海峡圏に分布する黒曜石の鏃(やじり)が、ウラジオストック周辺の領域から出土し、右の事実を指示しているのである(『古代通史』原書房、七八頁)。

 これらの事実は、いわば「最近の認識」であり、逆にこの認識をもとにして、右の「石神殿」の一文が書かれた、などということはありえない。なぜなら『東日流外三郡誌」(北方新社版、第一巻、右は九九頁)の出版された時点(昭和五八年)の方がずっと先だからである。
 以上、わたしがすでに講演や論文でくりかえしのべたところ、それをここに再述したのは他でもない。次の問題点に対し、注意を喚起せんがためである。
 それは、昨年の夏以来、くりかえし当三内丸山遺跡に関する報道がなされたにもかかわらず、和田家文書との関連にふれた「情報」が、各新聞・雑誌とも「皆無」であった。 ーーこの事実だ。
 もちろん、各編集者がこの「情報」を知らなかったのではない。わたし自身、青森・藤崎(七月)、大阪(八月)、博多(九月)、東京(一〇月)等の各講演会、朝日カルチャー(東京)、ダイナース(東京)等の講義でのべた上、『古代通史』にも特記した。先記の「古田史学の会」「多元的古代研究会」「東京古田会」の各会報はいわずもがな。これらいずれも「知らなかった」というのでは、ジャーナリズムの名が泣こう。しかし、一切新聞等の「情報」には出ないのである。あたかも「報道管制」が敷かれているかのごとくに。

「東日流外三郡誌は『偽書』説が出ているから、危ない。さわらぬ神にたたりなし。」

 これがジャーナリストの心情だろうか。だとすれば、何とも情ない。戦時中の自己規制、文化大革命中の自己規制、それと同じ「規制の壁」が、今なお日本のジャーナリズムに“健在”である。その証拠ではないだろうか。それこそ「危ない」兆候だ。

 第一、今回の三内丸山遺跡の出現は、従来の「偽書」説がどうにも成立できないこと、その証明となっていた。それは右の、わたしの簡単な叙述からも明白だ。だのに、「偽書説が出ているから」というのでは、全く自主的に、論理的にものを考える力がない。そのことを自己告白していることになるのではないか。
 わたしは、現地(青森県)の新聞社に、この情報をふくむ原稿を送った。しかし、それは結局送りかえされた。当情報は全く載らないまま。
 もし逆に、「今回の出土で、東日流外三郡誌が偽書であることが証明された」という場合は、いっせいに「報道」されるであろう。事実、従来、そのような「偽情報」は、多く現地の新聞の大紙面を飾ったのである。 ーーなぜか。

  五

 あるジャーナリストから聞いたことがある。

「自己の書いた記事を、デスクに採用してもらうためには、邪馬台国か大和朝廷と関係がある、という形にすることです。」

と。古代史や考古学関係の記事である。
 このエピソードには、現代日本の国家体制の秘密が隠されている。現代の日本史の教科書では、「Aか Bか、不明」という形で書かれているところ、その最大のものは「邪馬台国」問題だ。だから、新聞やテレビの読者・視聴者にとっても、もっとも「共通」した関心を呼ぶもの、その筆頭に属するのである。
 その反面、明治以後、現代に至るまでの教科書は、「天皇中心の一元史観」によって統一されている。これが絶対の座標軸なのである。だから、各地の、ひとつ、ひとつの現象が「大和朝廷との関係」で説明されると、読者や視聴者は、自分の頭、学習してきた「既成の知識」と、うまく結びつく。つまり“分かりやすい”のだ。だから、デスクは、そのような記事を歓迎し、採用する。それに現場の記者たちの筆は「迎合」することになるのである。いわゆる「自己規制」だ。
 この分野の「規制」こそ、日本国民の自由な視界と独創的な発想を抑制する、もっとも危険な「規制」だ。しかしこの、もっとも危険な規制の「規制緩和」を、どの政治家も、どのジャーナリストも、かつて注目せず、声をあげたことがないのである。
 この問題では、アメリカなどの外国から「規制緩和」を迫られることはないから、昔も今も、「規制のしっぱなし」なのである。これが真相だ。

  六

 より“地方的”な問題が、これに加わる。
 わたしはかつて弘前にある、県立の博物館へ行った。城内にあった。その中には、津軽藩の第一代の当主、大浦為信(おおうら ためのぶ)の遺徳がしのべるように、種々の配置、展示がなされていた。担当の女性学芸員の方も、よく研究しておられ、当方の問いに親切に答えて下さった。
 大変ゆきとどいた設備であった。あったけれど、反面の問題がある。なぜなら「東日流外三郡誌」の跋文には、次の一文があった。

「津軽藩主とて為信のその上を審(ただ)さば、今なる血縁なきいやしき野武士物盗りのたぐいなり」

 ここでは、津軽藩主第一代の為信こそ「真実の歴史滅却の元凶」のごとく扱われているのだ。現在の県立博物館のしめすところとは、えらいちがい、全く対照の姿である。
 現在の県立博物館には、「為信以前」の歴史がない。その展示が存在しないのである。津軽藩の中心居城の中に設置された「県立博物館」であるから、無理もない。無理もないけれど、それは同時に、青森県内の郷土史の「公共教育」が、「津軽藩以降」に限られていることを暗示している。少なくとも、「安倍(あべ)・安東(あんどう)・秋田」といった「津軽藩以前」の歴史を、公的に復元し、展示する、そういう体勢は存在しなかったのである。

  七

「津軽藩は生きている。」
 このテーマを実感する、二つの経験があった。
 最初は、今村まささん。青森の「市民古代史の会」でお会いした。現在もう六〇代の方だけれど、一〇歳頃の貴重な経験をお聞きした。おじいさんに呼ばれて、
「これだけは覚えておいてくれ。」
「何。」
「天正十三年を忘れるな。」
「えっ、」
「これだけは忘れるな。いいか。」
「はい。」
「天正十三年を忘れるな。」

 こういった問答だった。「天正十三年(一五八五)」とは、何か。今村さんの祖先は、油川城(現在、青森市内西側)の城主だった。それが、大浦為信の策略によって落城した。それが「天正十三年」だったのである。以来、三百数十年間、この一話を「伝承」し、「言い伝え」て、今日に至っていたのである(今年までで、四一〇年間)。
 次は、前田準さん。仙台の「古田史学の会」の講演の親睦会でお聞きした。前田さんは青森県北津軽郡金木町の出身。子供の頃から「東日流外三郡誌」の内容と同じような話を、いつも聞いていた。高楯(たかだて)城、安東氏などをめぐる戦争や統治の話を、現地勘たっぷりにまざまざと語る、それが村人たちの酒を飲んだときに、あきずくりかえされる話だったという。
「あの殿さんは、津軽の殿さんよりえらかったな。」
といった、人物評まで出て、
「いや、これは絶対に、他では話してはいかん、聞かせたら大変だ。」
で終る。「他」とは、同じ青森県下の「津軽藩系列の人々」のことだという。

 ところが、『歴史読本』で、わたしが対談で「東日流外三郡誌」について語っているのを見て、前田さんは
「あっ、こんなのを扱っても、この人、大丈夫かな。」
と思ったという。ところが、やがて「偽書」だ、という話が出てきて、「やっぱり」と思った、という。もちろんそれは「東日流外三郡誌」の話が「うそ」だからではない。逆に「ほんと」だけれど、「他に、話してはいけない」話だったからだ、という。
 津軽弁をまじえながらも、本筋はそうではなかったから、ハッキリ理解できた。ショックだった。

「津軽には、二つの津軽がある。」

 この事実だ。「為信以降の津軽」と、「為信支配以前の津軽」があり、その「断層」は今も生きているのである。
 おそらくこれは、津軽だけではないであろう。日本各地、各藩のもと、同類の現象が存在しているのではないであろうか。貴重なお話だった。
 このような事実から見ると、土地(青森県)の新聞が、「反和田家文書」の情報はくりかえし流しても、「和田家文書、真作」の情報に対しては「報道拒否」を行う、その背景がまざまざとうかがわれるのではあるまいか。

 以上は、現在の津軽の風土を視点に入れた、重要なポイントだ。だが、この視点だけが重要なのではない。さらに重大なテーマがある。それは「江戸幕府と天皇家」の問題だ。秋田孝季はこれに対し、「朝幕」という言葉で一括して呼んでいるが、この両者に対し、呵責なき批判の刃を向ける。
 平安時代の八幡太郎義家以来、常に東北地方は「蝦夷」扱いされてきた。否、八世紀に成立した日本書紀にも、この差別用語がちりばめられている。
 現代の単行本や教科書に出てくる「差別用語」を排斥するグループが、日本書紀に対して指弾の手を向けぬのは、おかしい。まことに中途半端、要するに「相手」をえらんでいるのであろう。攻撃しやすい「相手」を指弾し、しにくい「相手」を避けているのかもしれぬ。姑息だ。
 だが、わたしは、決して日本書紀を「禁書」にしろ、とか、その文面から「蝦夷」の字を削れ、と言っているのではない。 ーー逆だ。
 大いに日本書紀を読み、この「蝦夷」が、まぎれもない「差別用語」であることを学習する。それこそが大切なのではあるまいか。
 その点、秋田孝季は率直だった。現代人のように、無神経だったり、姑息だったり、はしなかった。率直に、「朝幕」がこのような「蝦夷」扱いをつづける限り、彼等は必ず滅亡する。 ーーそのように断言したのだ。

「朝幕」の差別政策を、もっとも端的にしめすもの、それは「征夷大将軍」という称号だ。この称号は、天皇家が徳川幕府のトップに与えた称号であり、幕府側は有難く、この称号を“いただいて”いた。政治的に利用していた。
 徳川幕府のリーダーが「将軍様」と呼ばれたのは著名だ。時代劇にも、ふんだんに出てくる。この「将軍様」とは「征夷大将軍様」のこと、レッキたる「差別用語」なのである。
 日本史の教科書にも、「征夷大将軍」の称号は必ず出てくる。しかしこれが「朝幕」すなわち「天皇家と江戸幕府を結ぶ、差別の鎖」であることを教える、日本史の教師は、今どれくらいいるだろうか。わたし自身、恥しながら、そのような「教育」を高校教師時代、したことがなかった。しなくて“通れた”、いや“しない”方が無難だった。むしろ、問題の所在自身に気づかなかったのである。
 現代の「差別語」に敏感なテレビや新聞なども、この点、全く鈍感だ。鈍感きわまる。なぜか。これは「朝廷と幕府を結ぶ、きずな」だ。いいかえれば、江戸時代から現代、明治維新以降に「連結」した差別、そういう本質をもっているからである。まだ国家体制の本質上、「生きている」からだ。「生きている」ものには、目をつむる。これが「自己規制」の本質、その真髄である。
 この点、秋田孝季はちがった。「征夷大将軍」という称号を俎上(そじょう)に乗せ、くりかえし怒りを表明している。表明するだけではない。そのような権力は必ず滅亡する。そのように「予告」している。「東日流外三郡誌」はその点、おそるべき「予言の書」なのである。
 わたしは以上の事実、以上の認識を「東日流外三郡誌」をふくむ和田家文書から学んだ。いったん学んだら、その道理から目をそむけることができなくなった。それが人間だ。天からさずかった人間の理性だ。
 だから、「偽書」説は執拗(しつよう)なのである。執拗にこの和田家文書の「存在」とその「意義」を消そうとするのである。
 しかし、いったん目覚めた人間の理性、その真実に輝く目を“消し去る”力は、いかなる地上の権力にも権威にも、扇動者にも、存在しない。決してそれは、成功できない努力なのである。

  八

歴史学の父と称される、ヘロドトスの名著『歴史』には次のようにのべられている。

「ギリシア側の所伝とは違って、ペルシア人の言い伝えでは、以上のような次第でイオがエジプトヘ行ったことになっており、これが最初のきっかけとなって、数々の暴挙が行なわれることになったのであるという。」
「一方イオについては、フェニキアの所伝はペルシアのそれとは一致しない。つまりフェニキア人はイオを掠奪してエジプトヘ連れ去ったのではなく、・・・(下略)」
          (岩波文庫本、一〇〜一二頁)

 右のように、同一事件についても、伝承や叙述の視点(別の側からの伝承)によって、「評価」はもちろん、「事実」そのものも異って伝えられていること、それらを率直に「並記」している。つまり、ヘロドトス自身の利害や観念から、あらかじめ「取捨」を加えず、公平に処理しているのだ。これがヘロドトス流の「伝承」と「史料」扱いの基本なのである。「歴史学の父」と称される所以(ゆえん)だ。
 実は、「東日流外三郡誌」にも、同じ問題がある。あの「元冠」で有名な、元軍から飢饉のさいの食糧を送られ、フビライ等を凶作救済の「救世主」として祀っている、という旨の戸田文書が書写されているのだ(北斗抄廿一)。
 わたしは目を疑った。わたしの頭ではいまだかつてそのような「角度」から物を考えたことがなかったのである。子供の時以来、いわば「皇国史観の目」でそだてられてきていたからだ。
 だが、考えてみれば、道理だ。先にのべたように、「朝幕」が“結託”して、「蝦夷政策」をとってきた。「征夷大将軍のきずな」を結んできた。だから、その「朝幕」におそいかかった「国難」は、「蝦夷」扱いされてきた人々の中には、今こそ「あの凶作救済の救世主が来た」そのように感じた人があったとしても、頭から「不当」とは、難(なん)じえないのではあるまいか。少なくとも、従来のわたしには、このような「視点」の存在することすら、予想しえなかったのである。愚鈍だ。
 いわゆる「神風」によって、この「救世主」の期待は“裏切られた”のであるけれど、その伝承文書を、秋田孝季は書写し、記録した。先のヘロドトス的歴史観に立つとき、これはまことに貴重な記録ではあるまいか。「視点の多元性」を知るための、従来未見の分野であろう。もちろん、現在のわが国の精神状況では、このような「記録」の存在自体がゆるしがたく思われ、これを“消そう”と考えるイデオロギーの持主も存在するかもしれぬ。「非常」の手段に訴えようとさえするかもしれぬ。
 しかし、わたしは思う。「否(ノー)」と。首を静かに横にふりたいと思うのである。なぜか。
 もし、現代の「国家体制」が二一世紀にも生きのびようと願うならば、ヘロドトスの考えたように、「各種の視点に対する、寛容」の道、それ以外に生きる道はないのである。
「反国家主義」「国賊思想」などのレッテルで、津田左右吉の研究思想を断罪した、戦前のイデオロギスト(「原理日本」の蓑田胸喜等)の努力が、いかに空しかったか。それが何よりの証拠だ。敗戦後、胸喜は自殺した。そして、逆に左右吉は文化勲章を国から授与されたのである。歴史の皮肉だ。
 明治以降の「国家体制」と、その体制的思想に反する一切の研究や思想を排除する、偏狭の立場へと再びつきすすむか、それともヘロドトスの道をえらぶか。わたしは何のまどいもなく、後者の道をえらぶものである。

  九

 元冠にふれたので、いささか寄り道だが、もう一言のべておきたい。
 わたしは古代遺跡を求めて対馬に行ったとき、元冠の伝承とそのすさまじさに驚いた。一村皆殺し、掌に穴をあけて縄で貫き、海岸を引かれてゆく夫や父親の姿を、山の岩陰から妻や娘が見つめていた。その残虐の伝承が、今も生き生きと語り継がれていたのである。
「朝鮮人に一村皆殺しにされた。」
 そういう悲劇の伝承を記録していたところもあった。
 これらの現地伝承にふれたあと、わたしはいわゆる「侵略」問題に対し、日本の政府の当局者の対応が“もどかし”かった。
 中国や韓国などに対する「侵略」が、文字通り侵略であること、わたしには何の疑いもない。教科書に特筆大書していい。むしろ、すべきであろう。
 けれども、ではなぜ、中国や韓国の教科書には、「元冠の虐殺」や「隋の煬帝の流求侵略」の記事がないのか。
 日本の当局者は、相手国の「要求」にふれたとき、それを深くうけ入れると共に、静かに、相手の国の側の侵略の事実、それがそれぞれの歴史の教科書に「特筆大書」どころか、「特論明記」さえされていない、その事実を明確に告げるべきではあるまいか。
 真実を語ることこそ、人間と人間との交渉、すなわち「外交」の根本である。わたしはそう思う。

 一〇

 偏狭は性急を好む。「東日流外三郡誌」偽書論者の特質は、この「性急」の一点にある。なぜなら、当誌は「和田家文書」の一部であり、その文書の全体は、未公刊だからである。

「東日流外三郡誌」そのものについては、「七百四十巻余」と記されている(安東一族之故事巡脚)。

 けれども、「和田家文書」群の全体については、「総四八一七冊に多量なれば」(「北斗抄」二十七、記了巻)と記されている。彪大な量だ。和田喜八郎氏より、わたしに研究を委託された文書類もおびただしい。
 それらの調査・研究は、今後の課題であるにもかかわらず、「性急」に、「執拗」に、偽書説が出版界に公布されるのは、なぜか。およそ学問に対する、民主主義社会のルールを守っていないのである。
 たとえば、ある古墳の発掘・調査を行っているとき、それは当然五年、一〇年といった歳月を要することであろう。その途中に、その調査・研究に対して「悪罵」「中傷」を投げかけつづけるとすれば、それは果して考古学の研究、その学問の発達にプラスするであろうか。 ーー断じて「否(ノン)」だ。
 今回の和田家文書の場合も、全く同じである。冷静な学問研究に対する「妨害」、それ以外の何物でもないのである。
 しかも、「和田家文書」の場合、右とは更に異なる課題をもつ。それは、「寛政原本」が全く未公開、一〇〇パーセント、誰人の目にもふれていない。この問題である。

 一一

 寛政年間(一七八九〜一八○○)を中心とする時期、この彪大な和田家文書群は製作された。原著書は、秋田孝季。その妹のりくが門人の和田長三郎吉次と結婚し、孝季をささえた。
 孝季の記述した、最初の原本は、彼が秋田の日和山(現秋田市)にいたとき、火災によって全焼した、という。
 ところが、吉次とりくの和田家側に「副本」が作られていたため、それが和田家に残った。これが、いわゆる「寛政原本」である。
 では、この「寛政原本」には、孝季自身の自筆部分はないか。わたしははじめ、そう考えていた。「孝季、自筆本」は永遠に失われた。こう考えていたのである。
 しかし、ちがった。幸いにも、ちがっていたのだ。なぜなら、右の「全焼」事件以後、孝季は津軽に移り住み、はじめ和田家に、のち大光院(五所川原市)に移り住んだ。その地で没した、という(和田喜八郎氏による)。
 とすれば、その「津軽・晩年」の時期の孝季自筆は、健在であり、和田家に伝えられたと思われる。すなわち、いわゆる「寛政原本」の中には、晩年の孝季自筆がふくまれているという可能性が大きい。
 このような「想像」は、わたしを大いに力づけた。なぜなら「孝季自筆の和田家文書」は失われてもはや存在しない、と、当初は絶望してきていたからである。
 その上、和田家所蔵の「寛政原本」自体も、それが「吉次、りく作製」の副本なのか、「孝季、吉次、りく共同製作」の副本なのか、判然としない。むしろ、「明治写本」の様相からは、後者であるという可能性も少くない。すなわち、「孝季自筆による、後時書き入れ」という立場をとらねば、理解できぬ部分が明白に存在するのである(幸いに、孝季は大光院に移り住んで後、余命少くなかったようである。別に詳述する)。
 ともあれ、楽しみは残されている。
 記・紀・風土記といった、天皇家系列の記録になずみ、それ以外には「目をおおいたい」偏狭の人々は、己が道に固執するであろう。しかしながら、別の道を望む、少くともその可能性を、あらかじめ「つみ取る」ことを欲せぬ人々もあろう。「成熟」した社会の人々だ。その人々は、この「寛政原本」の出現を、心奥深き楽しみとして「待つ」ことであろう。わたしも、その一人である。
 和田喜八郎氏は、家屋全体の「建て直し」をともなう、自家の一大事業に対し、今、正面から取り組んでおられる。けれども、「取り出し」後の収納場所の問題など、解決すべき課題はなお多く残されているようである。


『東日流外三郡誌』公刊のいきさつ  藤本光幸 古田史学会報 1994年12月26日 No.4

『東日流外三郡誌』は偽書ではない 青森県古代・中世史の真実を解く鍵 青山兼四朗

和田家絵画の史料批判「八十八景」の異同をめぐって 古田史学会報 1996年 6月 1日No.14

「これは己の字ではない」 砂上の和田家文書「偽作」説(『新・古代学』第1集 特集1東日流外三郡誌の世界)

累代の真実ーー和田家文書研究の本領(『新・古代学』第1集 新泉社 特集1東日流外三郡誌の世界)

「進化論」をめぐって 西欧科学史と和田家文書(上) 上城誠
(『新・古代学』第1集 特集2和田家文書「偽書説」の崩壊

エラズマス・ダーウィンと進化 ロンドンのキング・ヘレ氏との往復書簡
(『新・古代学』第1集 特集2和田家文書「偽書説」の崩壊

寛政宝剣額の「再利用」についてーー史料批判(『新・古代学』第1集 和田家文書「偽書説」の崩壊

ギリシア祭文の反証 奇想天外の「偽作」説(『新・古代学』第1集 和田家文書「偽書説」の崩壊

三つの質問状 和田家文書「偽作」論者に対して(『新・古代学』 第1集 和田家文書「偽書説」の崩壊

筆跡の科学的検証 宝剣額(『新・古代学』 第2集  特集1和田家文書の検証)へ

和田家文書の中の新発見(『新・古代学』第2集 特集和田家文書の検証)

和田家文書筆跡の研究 明治二年の「末吉筆跡」をめぐって(『新・古代学』第2集 特集1和田家文書の検証)

筆跡の科学的検証(『新・古代学』第2集 特集和田家文書の検証)

「進化」という用語の成立について 西欧科学史と和田家文書(中) 上城誠(『新・古代学』第2集 特集和田家文書の検証)

和田家文書(「東日流外三郡誌」等)訴訟の最終的決着について(『新・古代学』第3集 特集和田家文書をめぐる裁判経過)

半田「鑑定書」に対する批判(『新・古代学』第3集 特集和田家文書をめぐる裁判経過)

報告書(『新・古代学』第3集 特集 和田家文書をめぐる裁判経過)

齋藤陳述書〔甲第二八四号証〕について『(新・古代学』第3集 特集和田家文書をめぐる裁判経過)

________________________________________________

決定的一級史料の出現 「寛政奉納額」の「発見」によって東日流外三郡誌「偽書説」は消滅した(古田史学会報 一号)

和田家文書をめぐって 「和田喜八郎氏偽作」説の問題点(古田史学会報 一号)

和田家文書は真作である ーー「偽作」論者への史料批判ーー(古田史学会報 三号)

和田家絵画の史料批判「八十八景」の異同をめぐって,「筆跡鑑定」の史料批判<序説>反倫理を問う (古田史学会報十四号)

和田家文書「偽作」説に対する徹底的批判『古代に真実を求めて』第2集)へ

故秋田一季御霊に捧ぐ(古田史学会報十九号)

古代津軽の稲作について 藤崎町 藤本光幸(古田史学会報二十七号)


『真実の東北王朝』(駿々堂 古田武彦)へ

浅見光彦氏への“レター” 古田武彦 『新・古代学』第八集

『東日流外三郡誌』序論 日本を愛する者に 古田武彦 『新・古代学』第七集

「和田家文献は断固として護る」 (『新・古代学』第一集)へ

東日流外三郡誌とは 和田家文書研究序説(『新・古代学』第1集)へ

和田家文書「偽作」説に対する徹底的批判

『東日流[内・外]三郡誌 ーーついに出現、幻の寛政原本!』 へ

「寛政原本」の出現について 古田武彦(『なかった --真実の歴史学』第6号

<寛政原本と古田史学 古田武彦(古田史学会報81号)

『新・古代学』 第1集 へ

ホームページへ
 これは研究誌の公開です。史料批判は、『新・古代学』各号と引用文献を確認してお願いいたします。

 新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailは、ここから

Created & Maintaince by“ Yukio Yokota”