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秋田孝季奉納額の「発見」 「和田家文書」現地調査報告 古賀達也


ーー特集/和田家文書
 寛政奉納額」の「発見」によって東日流外三郡誌「偽書説」は消滅した
 「和田喜八郎氏偽作」説の問題点

古田史学会報 創刊号 1994年6月30日 No.1

決定的一級史料の出現

「寛政奉納額」の「発見」によって東日流外三郡誌「偽書説」は消滅した

古田武彦

    一
 日本の歴史学は、新しい段階に入った。そして、同時に、日本と世界との新たな接点がわたしたちの視野の中に現われてきた。それは、あたかも夜明け前の霧の中から、朝日の光がもれ出ずるにも似ていた。永く夜の眠りの中にいた者が、新しい光を正視できず、目をそむけた人々の少なくないこと、当然のことと言えよう。
 わたしは、図らずも、わたしの名を冠していただいた会、その会報の創刊号に、この一文をのせはじめること、それを真に光栄に思う。思うに、この会の名は、“たとえば、古田のごとく、真実だけを求め、他の一切を枝葉末節と見なし顧慮せぬ 、現在から未来への多くの探求者たち”への、時を越えた呼びかけであり、そのために、わたしの名を“仮そめに”用いていただけただけであろう。 そしてそれこそ、わたしにとって無上の光栄に属する。この世に生きてきて過分の幸せをえたもの、そのようにもまた、言われうるであろう。

    二
 「新しい段階」は、一枚の奉納額によって導入された。長さ、約七十センチ、幅、約三十三センチ、厚さ、約三・四センチの木板だ。その中央には、二振りの矛状鉄剣(宝剣)が打ちつけられている。長さ、約四八・五センチ。 

 その周辺の文字は、次のようである。
 「(向って右側)
 奉納御神前 日枝神社
 (下部署名)
 土崎住
  秋田孝季
 飯積住
  和田長三郎
  (向って左側)
 寛政元年酉八月□日 東日流外三郡誌 (右行)筆起
(左行)爲完結」

 この奉納額に対する「所見」は、次のようだ。
 第一、「向って左側」の□は、木の「目(節目)」に当っていた。ところが、その「目」が脱落したために、そこに書かれていたと見られる「日にち(数字)」が失われた、と思われる。
 第二、同じく、「向って左側」の下端近く、「左行」二字目は、唯一、“判読しにくい文字”であるが、前後の文意、及び残存字形からすれば、「完」かと思われる。
 第三、「向って右側」上方の「御神前」や「向って左側」の「寛政元年----<左行>完結」は、やや墨色がうすれている。(甲部)
これに対し、「向って右側」中央部の「日枝神社」や「下部署名」に関しては、墨色がうすれていない。(乙部)
 この点、当奉納額が「絵馬堂」に掛けられていたさい、前面の別の額などで、外光や風雨などから「保護」された形になっていたのが(乙部)であり(甲部)はそれがなかった(外光や風雨に直接さらされていた)ものと見られる。(後述するように、昭和五十年代初より現在までは、教育委員会で保存。)
 第四、中央の二振りの矛状鉄剣について。
 向って左側のものは、下部の「止め金」がはずれ、全体“ずり落ち”やすくなっているため、裏に「紙」が入れられていた。(またさらに、今回、「紙」を補い、入れた。)これらの「紙」は、もちろん、最近のものである。
 第五、以上、当奉納額は、江戸時代(後期)の所掲物として、ふさわしい「年代変化」の相貌を各所に呈していると言えよう。

    三
 次いで、さらに一歩立ち入った「観察」をのべよう。
 第六、「下部署名」中、「土崎住、秋田孝季」(α)と「飯積住、和田長三郎」(β)とは、別 筆である。墨色も、(α)は濃、(β)は淡である。また、筆勢も、両者異なる。両方に現われる「住」字の差異を見れば、この点、特に明瞭である。
 第七、「向って右側」の「奉納御神前、 日枝神社」は、墨色・筆勢とも、右の(α)と同じである。これに対し、「向って左側」の「寛政元年酉八月□日、東日流外三郡誌、<右行>筆起<左行>爲完結」は右の(β)と、墨色・筆勢とも、同じである。
 右の二点(第六・第七)は、今後、デンシトメーター装置による、筆圧曲線の検査によって、科学的に検証しうるであろう。

    四
 本額は、青森県北津軽郡市浦村の日枝(日吉)神社の絵馬堂に掲示されていた。その事実を証言しておられるのは、土地の故老、青山兼四郎氏である。当神社は、氏の子供時分の遊び場であり、本額の存在は、当時より知悉していた、という。氏は現在、七十二歳であるから、子供時分とは、当然、戦前。昭和の初年のこととなろう。
 小学校のとき、校長先生が本額のことにふれられたことを、よく記憶している、という。 御自身も、本額の存在については、よく憶えている、とのことだ。二つの宝剣ある、異色の額だったからであろう。もちろん、戦前のこと、昭和の初年である。
 青山さんが本額の字面をハッキリ意識されたのは、昭和二十八年。村の依頼をうけて、当神社周辺の「測量 及び登記事務」を行ったさいである、という。三十代初頭のことである。「日枝神社」「秋田孝季」などの文字が記憶にある、という。
 その上、青山さんは、本額について認識していた人として、多くの人名をあげておられる。福士貞蔵(小学校長)・奥田順蔵(内潟村長)・佐藤万次郎・山内英太郎・山内秀太郎・鳴海藤雄・柏谷豊作・三和清吾・岡本米太郎(各財産区委員。委員長は佐藤氏)などである(古賀達也氏宛、青山書簡による)。
 このような証言者の実名を得たこと、本額の“身元”の裏書きとして、きわめて貴重、かつ幸せであった。
 というのは、昭和四十年代の終り頃、和田喜八郎氏がこれを見て、本額の貴重さに気づき、「退色」や「破損」または「盗難」などの災厄に遭うのを恐れて、これを市浦村教育委員会の保存に委ねた、という。本額の現状から見て、まことに適切な処置であったのではあるけれど、万一、これに「悪意ある中傷」を加えようとする人あるとき、右のような、青山氏他、幾多の証言者の存在は、「中傷」に対する、決定的な反証をなすものとなろう。それゆえ、本額を取り巻く現状、その関係者の御健在中に、本額が「再発見」され、学問的検証をうけるに至ったこと、その幸運を喜びたいと思う。

     五
 本額は、貴重な文化財であると共に、歴史学上において、無二の基本資料となるものであるから、これに関し、奉納額(いわゆる「絵馬」類)の時代別 研究や材質(木質部分及び金属部分)に対する自然科学的調査等が不可欠であろう。
 前者については、絵馬の専門的探求者である須藤功氏のおかげをもって、その発達史の一端を知ることができた。本額と同類のタイプの宝剣類は、東北地方北部の各地に見られる。たとえば、青森県八戸市で最古の宝剣額は竈龍神社にあり、「明和二(一七六五)乙酉歳正月吉日」の奉納、本額の「寛政元年(一七八九)」より二十四年、早い。宝剣が、三本、打ちつけられている。(明治・大正・昭和と、出征兵士関係のものは多いけれど、おのずから「宝剣」のタイプに変遷があるようである。『八戸の絵馬』八戸市博物館、昭和六二年三月三十一日、参照。)
 従って本額は、「宝剣額」の時代別変遷上、適切かつ自然な位置をもっていることが確認されたのである。(岩手県・秋田県等にもあり。)

    六
 本額「発見」のもつ、画期的な意義についてのべよう。(地元では、戦前から知悉されていたこと、前述の通り。近年も、写真紹介があり、それが今回の「再発見」の契機となったこと、後述の通りである。) 
 昨年来、和田家文書に関して、エキサイティングな「中傷」説が生まれた。東日流外郡誌をはじめとする、和田家所蔵の膨大な文書群は、不当にも、当主たる和田喜八郎氏自身が「偽造」したもの、すなわち一大偽作文書だ、というのである。それを「筆跡」や「内容」から“鑑定”したり、“論証”したりする論者が相次ぎ、それに同調し、雷同する人々が続出した。その中心となったのは、安本美典氏である
 けれども、わたしには、この一連の動きは、全く「学問外の妄動」としか、見えなかったのである。失礼ながら、これが率直な、わたしの感想であった。なぜなら、わたしのもとには、膨大な和田家文書が喜八郎氏から送られてきた。それを逐一、コピー化し、写 真化し、電子顕微鏡等にも、撮影した。一方、喜八郎氏自身の筆跡も、くりかえし行われた往来(文書返済確認の自署名をはじめ、郵便物・宅急便等の来信。)の中で、わたしには知悉されている。わたしの眼前で、氏自身が署名し、押印代りに「指紋押捺」してもらったものすら、ある。また石塔山で、氏自筆の(わたしたちの世代らしく、決して上手とは言えぬ )墨字(木標上に書かれたもの)も、正確に(何回も)写真に収めていた。そしてそれが喜八郎氏の自筆であることを、くりかえし、本人や第三者(藤本光幸氏)にも、確認していた。今回(今年五月初旬)は、確認の応答がビデオに収録されている。
 そのように、これ以上の確認はない、と思えるほど、確認されている、喜八郎氏自身の筆跡と、わたしのもとに「史料化」されている、膨大な和田家文書(明治の和田末吉の再写 である旨、くりかえし記されている。)とは、全く別人の筆跡なのである。この点、わたし自身の筆跡とわたしの亡父の筆跡と、わたしには何の困難もなく判別 できるのと、同じ。全く、何一つ、疑問はないのである。この点、従来の(安本氏側の提示された)、いわゆる「筆跡鑑定」なるものは、全くの誤認を犯している。最初、鑑定対象の基礎とされたのが、「和田家文書」ならぬ 、戦後作製のレプリカ類であった上、“一定の集団(流派)のくせ(流癖)と、個人の筆癖(個癖)とを混同する”という、「筆跡鑑定」のイロハ(基準)をあやまっているのである。
 これらの基礎と根本があやまっている以上、その上に築かれた(あるいは、補強する)、あらゆる「論証」なるものは、ひっきょう砂上の楼閣だ。学問上の根源が“狂って”いるのである。
 この点を、わたしはすでに明記し、強調したのであるけれど、すでに“逆上した”ように見える「偽作」論者は、耳をかそうとはしなかった。ひたすら、耳を手でふさいで、「聞く耳をもたぬ 」姿勢をとりつづけた。そして代りに、喜八郎氏やわたしに対する「中傷」や「個人攻撃」に奔った。平成の研究史上の一大汚点。−−後世の研究者が現在の「偽作説論者の言動」を、そのように評することを、わたしは疑いえないのである。
 (このような「妄動」のため、和田末吉の、いわゆる「明治写本」が、単なる「書写 」−−コピー作製−−にとどまらず、明治・大正の知識−−たとえば、地名等−−による「書き直し」をふくんでおり、末吉自身がそのことを明記し、注意をうながしていること、すなわち、広い意味での「編集行為」をなしていること、このような「明治写本」を見るさいの、基本問題にすら、「偽作」論者は注意しようとしていない。再言しておきたいが末吉自身がそのことを明確に記述しているのである。また「西洋紙」を、一部用いたことも、末吉自身、注記している。)

    七
 以上のような「偽作騒動」を一掃するもの、それが今回の「奉納額」の「発現」だ。なぜなら、「偽作」論者によって「架空の人物」視された、当の秋田孝季と和田長三郎(吉次)の筆跡が、いわゆる「金石文」に属する、同時代史料として、わたしたちの眼前に凛然と立ち現われたからである。しかも、ただ「筆跡」だけではない。「東日流外三郡誌」の執筆という、後代に遺すべき最大の事業の「完結」を、二人は神かけて祈願した。 その事実を裏書きする、最高の一等史料が疑いなく、わたしたちの眼前に出現したのである。稀有のこと、まさに彼等が祈った「神への願い」が成就され、「偽作」説花ざかりの今、わたしたちの前に到達したのである。これを「神の加護」と呼ぶこと、それをわたしにはためらうことができぬ 。「神」は、かくのごとく、時をへだてて「人と人の真心」を結ぶものなのではあるまいか。もちろん、「中傷」者は、さらに“いきり立ち”、この奉納額をも「偽物」呼ばわりすべく、「努力」するであろう。しかし、その努力は、しょせん「勝ち組」(日本の敗戦を否認しつづけた人々)の運命を辿る他、道はない。(やがて、「寛政原本」も、姿を現わすこと、疑いない。)
 このように貴重な「再発見」の功労者、それは、誰よりも、本会の事務局長、古賀達也氏その人であることを、後代の研究史のために特記させていただきたい。藤本光幸氏の論文「『東日流外三郡誌』偽書説への反証」<『「古史古伝」論争』別 冊歴史読本>に付せられた小写真(奉納額)に注目し、わたしと共に八方これを探し、市浦村役場の成田義正さんの御協力をえて、再び陽の目を見るに至ったのである。その功績は、はかり知れない。また快く、科学調査に応じて下さった市浦村教育委員会に対しても、心の底から感謝の思いを向けさせていただきたい。
(昭和薬科大学における顕微鏡写真<木質部分>及び東北大学金属研究所による検査 <金属部分>については、改めて報告する。
(追記 2000.11.1 奉納額の写真は古賀氏の秋田孝季奉納額の「発見」 「和田家文書」現地調査報告にあります。)


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□□ 特集/和田家文書 □□□□□□□□□□□□□□

和田家文書をめぐって

「和田喜八郎氏偽作」説の問題点

古田武彦

◇◇はじめに(学問のスタンス)◇◇
 学問に不可欠なものは、時間の経過への忍耐である。性急な結論は学問の敵。ことに私蔵文書の場合、“あせり”や“せかす”ことは禁物。今回の「寛政原本」の出現や「明治写 本」(和田末吉筆とされる)に対する地道な研究の継続、そのために「時を待つ」用意が肝要である。

(一)偽作論者は、なぜ、“あせる”のか。
 敵は本能寺、真のねらいは「邪馬壹国」説や九州王朝説である。この点、中心的唱道者にとって、特に明白である。「季刊・邪馬台「季刊・邪馬台国」五国五一号」に「朝日新聞社出版部を批判する」とあるが、わたしの本で朝日のものには、和田家文書を全く扱っていない。邪馬壹国・九州王朝・『記紀』の新分析だけだ。それを攻撃する“たね”として、和田家文書攻撃が使われている。隠すより現わるる、のたとえ通 りに。

(二)偽作論者は、なぜ大きな失敗(WとSのとりちがえ)をしたか。
 東日流外三郡誌問題を古田の全研究分野の中のWeak Point(弱点)と錯覚した。しかし実は、この問題こそ(古田にとって)最上の強み(Strong Point)であった。なぜなら、陳寿(三国志)や太安万呂(古事記)の自筆本は出てこないが、秋田孝季・りく・和田長三郎吉次の自筆は出現可能だからである。末吉自筆はすでに大量 に存在する。喜八郎氏については、もちろん。

(三)偽作論者は、なぜ個人攻撃・人格攻撃を行うか。
 それは彼らの「強み」の表現ではなく、「弱み」の表現である。文書それ自体に対する「偽作検証」に、内心自信をもっていないから、喜八郎氏個人に対する、個人攻撃や人格攻撃で、これを補わざるを得ないのである。しかし、このようなやり方に“動かされる”のは、同類の人たちなのではあるまいか。学問とは無縁だ。学問の世界にこのような手法の行われる慣例を作ってはならない。

(四)偽作論者は、なぜ「筆跡鑑定」の根本をまちがったか。
 彼らが比較対象とした、いわゆる「和田家文書」なるものは、当の喜八郎氏によって「そうだ。」という同意を得たものでは全くない。根本の「同定」作業を欠いているのだ。
この一点がすべての学問的論議のはじまりだ。だのに、それがない。「鑑定作業」の根本が狂っているのである。
 その上、いわゆる「癖字」が比較されている。しかしそのような「癖字」は、同じ流派内に共通 するものだ。同一流派内の師弟・親子等で筆跡相似の見られることは、筆跡鑑定者にとって常識である。(たとえば、親鸞と門弟との間には、相当細かい「くせ」まで共通 していること、著名。)今回の偽作論者はこの肝心の一点をもまた、完全に見失っている。

(五)偽作論者は、なぜ「既知のものさし」から論断を“いそぐ”のか。
 たとえばO・E・D(Oxford English Dictionary)によって「光年・銀河系」の成立を論じる論者がある(パソコン通 信)。では外国人が岩波の広辞苑を基準にして「論断」しようとしたら、「まだ一九九四年段階には邪馬壹国説はなかった」ことになるであろう。なぜなら、どの版にも「邪馬壹国」の項目も説明もないからだ。また、「明治写本」には、末吉の年次「誤写」というケースも、ないとは言えない。従って「寛政原本」の出現するまで、「論断」を“あせる”必要は毛頭ない。(その「寛政原本」でも、孝季たちによる「誤記・誤写 」も、絶無とは断じえないであろう。当然のことだ。)逆に、「未知の新事実」の知られる可能性も、当然ありえよう。“あせらぬ ”ことだ。それが学問である。

(六)偽作論者は、なぜ「責任編集」の名において、ミス・リードするか。
 1「和田りく」問題。(“女性が婚家の姓を名乗るのは、明治以降。故に「和田りく」の自署名はありえない。”和田りく自筆「天草軍記」について。二号十八頁にある。)しかし本居宣長の女流門人たちは婚家の姓で呼ばれている。野村望東尼も然り。従って、これは虚偽情報である。 「責任編集」はどうしたのか。
 2「文明元年正月元旦」問題。(「安日彦長髄彦大釈願文」の右の年月日に対し、“文明元年は四月二八日の改元であるから、この年時は不成立”とする。「季刊・邪馬台国」五二号一九五頁にある。) しかし親鸞の教行信証後序には「承元丁卯歳仲春上旬之候」と明記されている。ところが、建永二年十月二十五日に承元と改元された。従って仲春(二月)は建永である。しかるに、改元後は、年頭にさかのぼって「その新年号下と見なす」このルールによって、親鸞は書いている。著名の例だ。その著名のルールを知らず多くの同類例をあげ、偽作説の証拠としている。「責任編集」はどこへ行ったのか。生兵法大けがの元、とは、このことであろう。

(七)偽作論者は、なぜ「怪文書」を愛用するのか。
 「自己」の実名を隠し(ペンネームなどを用い)、実在の他者を攻撃する文書」これを「怪文書」という。この卑劣な手法が「責任編集」などの名で美化されてはならない。許されてはならない。許されたら、日本の学問と言論界の腐敗だ。(「季刊・邪馬台国」五三号一二二頁)パソコン通信内でも、全く同様だ。ペンネームによる和田喜八郎氏攻撃が横行している。卑劣である。未来あるパソコンのために、同好者こぞって「ノー」と言わねばならぬ 。

(八)偽作論者は、なぜ偽作説成立のための「基礎条件」をしめさないか。
 <その一>喜八郎氏が「偽作」のための膨大な和紙類を、どこから、いつ、いくらで入手したかをしめすべきである。(昭和のことならば、必ず判明。買ったら、領収書のひかえも誰かの手元にあるはずだ。請求書類も。それをしめすべきだ。)
<その二>喜八郎氏があれだけ多方面の、膨大な「偽作」をするための参考図書はどこにあるのか。喜八郎氏の家か。五所川原市や青森県の図書館か。その姿(くりかえし入館する姿)を誰か(司書側)が見たのか。その証拠をしめせ。これが偽作論者の義務である

(九)偽作論者は、なぜ「反復・宣伝」を好むか。
 虚偽情報をいくらくりかえしても、真実にはならぬ。ただ人々の“頭を酔わそうとする” にすぎぬ であろう。(雑誌・単行本の同一事項くりかえし。)ヒットラーの手口である。代わって冷静に、(八)のような事実をしめすべきである。

(十)偽作論者は、なぜ広太王碑改ざん説の手口を模倣し、再現するのか。
<その一>現物を見ずに「論断」する。 集安の広太王碑と「寛政原本」「明治写本」に対して)
<その二>先行の直接研究者に聞かずに「論断」する。(北朝鮮の現地調査団のメンバーと古田に対して)
<その三>実在する当事者に確かめずに「論断」する。(酒勾家の遺族と和田喜八郎氏に対して)
<その四>「改ざん・偽作」説に不利な証言者を「ウソつき」呼ばわりする。(栄喜と喜八郎氏・古田に対して
<その五>「改ざん・偽作」説に根拠を示して反論する人間に、あるいは面罵し、あるいは中傷する。(いずれも古田に対して)

(十一)偽作論者は、なぜ本源的宗教に圧迫を加えるか。
 和田喜八郎氏にとって、和田家文書は単なる文献ではない。荒覇吐神への信仰の拠点である。国家が認定した“お墨付き”の宗教だけが、宗教ではない。個人や一つの家によってささえられている宗教にこそ、本源の宗教性とその生命がある。偽作論者は、本源的宗教への無知のために、その自由と尊厳を犯しているのに気づかない。

以上、偽作説は学問的に成立すること困難である。

◇◇むすび(当面の課題)◇◇
 「寛政原本」出現以前になすべきこと、それは喜八郎氏に対する、いわれなき“ぬれ衣を晴らすこと、真の「和田家文書」と喜八郎氏筆跡との徹底した比較である。資料は豊富極まる。(やがて「国史画帖大和桜」や「ギリシア祭文」などの秘密も、解き明かされよう。)

一九九四年五月一九日 筆了
  [編集部注]本稿は五月二十二日、文京区民センターでの古田武彦講演会(多元的古代研究会・関東主催)のレジュメを古田氏の了承を得て、編集部の責任により一部変更して掲載したものです。


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