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古田史学会報 1994年12月26日 No.4
ーー安本美典・三上喜孝責任編集『季刊邪馬台国』の無責任中傷記事に反論ーー

『東日流外三郡誌』公刊のいきさつ

藤本光幸

 「責任編集」とは名ばかりに、匿名「情報」を羅列した無責任な無署名記事で他者を名指しで中傷し続ける『季刊邪馬台国』誌はもはや学術雑誌とは程遠い。同誌に名指しで誹謗中傷を受けた、和田家文書の紹介者藤本光幸氏に『東日流外三郡誌』公刊時のいきさつと『季刊邪馬台国』誌への反論の筆をとっていただいた。(編集部<p>

 『季刊邪馬台国』五二号に、“虚妄の偽作物『東日流外三郡誌』が世に出るまで”との表題で、ニュースソースはすべて匿名という、およそ学術雑誌とは思えぬ 内容で、虚偽記事が掲載されている。 『東日流外三郡誌』に最も深く携わった者の一人として、ここに真実の歴史、同誌公刊のいきさつを明らかにしておきたい。
 『東日流外三郡誌』公刊の件に関しては『季刊邪馬台国』五二号一一〇頁に藤野七穂氏が述べて居られる

「“和田家文書”が世に出る契機は、昭和四十六年の市浦村長・白川治三郎氏の発意になる村史編纂事業に端を発する。村史編纂委員長の山内英太郎氏が史料の収集に奔走するうちに和田喜八郎氏と知り合い、その家蔵の『得難い貴重な史料』を提供され、通史編に先立って、資料編の刊行に踏み切ったのである。この『得難い貴重な史料』というのが『東日流外三郡誌』だったのである。」

と云う事が本当の事実である
 なお昭和四十六年の時点で、私の所へ『東日流外三郡誌』が約二百巻(冊)程、来て居り、当時の白川治三郎村長が、私の家に和田喜八郎氏と共に訪れて、村史を編纂しいので何とか協力してもらい度い、そしてその為には『東日流外三郡誌』を市浦村に貸出してもらえないかと懇願するので、今まで埋もれていた「安東氏」が正式に公表される事でもあるので、私としては、既に約十年も前から出版の為に原稿化して居り、『東日流外三郡誌』として出版の予定で居る事を話した所、それでは、資料の中から市浦村に関係のある項目のみを摘出して出刊するとの約束で、初五十巻程既原稿化済みのものを、和田喜八郎氏の了承のもとに貸出したのである。従って、市浦版の『外三郡誌』は初版を『みちのくのあけぼの』と題し、「市浦村史資料編東日流外三郡誌」と副題して刊行されたのである。
 その後、和田喜八郎氏と私は市浦村史編纂委員に任命されたが、刊行された上巻は当初の約束であった市浦村に関連する項目のみという点が守られてなかったので、それまでに市浦村へ持参した約百巻程で、以後の貸出を停止したのである。

 藤野七穂氏が『季刊邪馬台国』五二号一四八頁で

「《東日流外三郡誌読掟》には全三百六十八巻だとあるのだが、市浦版編集段階では『虫にくい荒されボロボロ』な部分を除き、『読み得る事のできる』約百巻分を編集した時(昭和五十八年)にはさらに『読み得る事のできる』ものが百巻余りも追加発見されたことになっている。」

と述べているが。真相は前述した様に昭和四十六年の段階で、既に約二百巻程が来ていたのであるが、市浦村の約束違反のため、貸出を約百巻程で停止し、私達(北方新社版)の編集方針も一応の年代別 、ジャンル別に整理して出版することに変更し、従って出版時も昭和五十八年と遅れたのである。これが真相である。
 なお、当初、私は「金光上人関係資料」「天真名井家関係文書」は『東日流外三郡誌』と表題がないので、別 な文書として処理したが、後に和田喜八郎氏から『外三郡誌』の中の文書だと指摘されたので『東日流外三郡誌』補巻として出刊したものである。

 更に藤野七穂氏は

「不思議なことになぜか『三百六十九巻』が存在する。」

と指摘しているが、この点に関しては、私も後日知ったことで、私自身、今なおこの点については疑問を持っている。
(しかし、この三百六十九巻も和田喜八郎氏の筆跡ではない)
 以上が『東日流外三郡誌』公刊に関する真実である。次に『季刊邪馬台国』のデタラメな虚偽記事に反論する。同記事には次の様に述べられている。(反論の便宜上1〜7 の番号を付した)

「関係者の話を総合すると『東日流外三郡誌』が世に出るまでの事情は、つぎのようになる。

1 昭和四七年ごろ、和田喜八郎氏が、市浦村の村長であった白川治三郎氏に、和田家の蔵のなかから、安東家の秘宝の隠し場所の書かれた文書がみつかり、場所もわかっているので、発掘調査の費用を出してほしいと、話をもちかけた。
2 市浦村と、他に五〜六人のひとが、和田喜八郎氏に出資した。藤本光幸氏が、多額の出資をした。市浦村は、公費を出した。 3 秘宝が出たばあいの取り分を多くするため出資者の人数は限定した。
4 しかし、秘宝は出ず、市浦村は和田喜八郎氏を追及した。和田喜八郎氏は出資への対価として『安東文書』(当時は『東日流外三郡誌』とはいっていなかった。市浦村の関係者と表記されていたのである。が、この文書に『東日流外三郡誌』と名づけたら、そのあとは、『東日流外三郡誌』と書いた文書が出現するようになった)を提出した。
5 『安東文書』については、当時、しかるべき人(存命中)のところにもちこまれたが、その方は「古文書とはみとめられない」とののである。
6 しかし、市浦村は、公費を支出しており、なんらかの形を残さなければ、責任問題が生ずる可能性があった。市浦村に関係のある部分を抜き出し、昭和五十年に『市浦村史資料編・東日流外三郡誌』として刊行された。
7 和田喜八郎氏からは、仏像その他が出土したとして提出され、出資者全員で出土物を分けた。出土場所はわからない。」

 これから前記に対する反論を述べる。

 最初に“関係者の話を総合すると”とあるが、関係者とは誰か。具体的な氏名を一人もあげられないことが、冒頭からこの記事の虚偽性を明らかにしているのではないか。

  同時に1 ,2 のような事実もまったくない。すべて安本美典氏の推定による捏造された事柄である。
 前記の事実がないことであるから、3 の様な事実も全くない。事実は先に述べた通りである。
 4 の事実もない。また、『東日流外三郡誌』には当初から『東日流外三郡誌』と表題があり、『安東文書』とは呼んでいなかった。安本美典氏は“市浦村の関係者が名づけたとしているが、市浦村関係者にはそのような人は一人もいない。当初から『東日流外三郡誌』と表記されていたのである。
 5 「当時、しかるべき人(存命中)のところにもちこまれた」とするが、しかるべき人(存命中)とは誰のことか。氏名も発表できないような人のことを“しかるべき人”として虚偽記事の根拠とするのは五流週刊誌と同じではないか。
 6 の事実もない。市浦村に関係のある部分を抜き出して刊行されていれば、当初の約束通 りであり、約百巻程では終らなかったのである。
 7 の事実もない。その他の出土物とは何の事か。明確に示しもしないで、しかも出資者全員で分けたとしているが、全くの中傷、誹謗である。

 以上の様に、『季刊邪馬台国』五二号の“虚妄の偽作物『東日流外三郡誌』が世に出るまで”の文章こそ、単なる推定によってありもしない事実をあった様に書いた捏造された偽作文である。なお、この文には和田喜八郎氏、元市浦村長白川治三郎氏、私、藤本光幸が実名で出て居り、他は全て匿名である。全く名誉毀損も甚だしい中傷文である。賢明なる古田史学の会々員、及び一般の皆様の判断を乞うものである。

(編集部注)
  藤本氏が批判された『季刊邪馬台国』五二号の記事は、無責任な無署名記事だが、そのほぼ同文が安本美典著『虚妄の東北王朝』(毎日新聞社刊、一九九四年)の九四頁に「『東日流外三郡誌』が世に出た事情」として掲載されている。したがって、『季刊邪馬台国』の無署名記事も安本氏の執筆と考えざるを得ない。同氏(同誌)はこのような匿名「情報」や無署名記事、あるいは論文無断掲載を愛用されているようだが、「責任編集」の看板に偽りあり、と言うほかない。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一・二集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)

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