九州王朝と大化の改新 -- 盗まれた伊勢王の即位と常色の改革 正木裕
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大化の改新の真実 -- 2つの大化と2つの改革 正木裕 https://www.youtube.com/watch?v=AaPoM9HTi8c
伊勢王(いせのおおきみ)の時代⑴ -- 盗用された常色の天子の事績 正木裕 https://youtu.be/Q8w91y8o-jc
伊勢王の時代⑵ -- 『書紀』に盗用された伊勢王の事績 正木裕 https://youtu.be/hEw996sHQ0A
正木裕
本書の「九州王朝と大化の改新」では、常色元年に即位した我が国の天子(大王)は、『書紀』に記される「伊勢王(いせのおおきみ)」であり、その様々な事績が『書紀』に剽窃され孝徳・斉明・天武・持統などヤマトの天皇の事績とされたことを述べた。
本稿では、そうした伊勢王の事績のうち、①九州年号の「白雉改元」、②前期難波宮の造営と難波遷都、③「評制」の施行と官僚機構の改革(八省・百官)、宗教改革(僧正・僧都等任命)について述べる。
『書紀』では穴戸国(長門)から白雉が献上されたことを瑞兆として、孝徳は六五〇年(庚戌)の二月に年号を「白雉」と改元し、改元の儀式を挙行したと記す。一方、「九州年号白雉」は六五二年(壬子)が元年で、六六〇年までの九年間続き、伊勢王が薨去した六六一年に白鳳に改元される(注1)。
『書紀』と九州年号で「白雉元年」が異なるが、正しいのは、六五〇年を元年とする「『書紀』白雉」ではなく、「九州年号白雉」であることが、一九九六年に芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した、「元壬子」との墨書がある木簡から明らかになっている。木簡と共に出土した土器から、この「壬子」は六五二年で、これは九州年号白雉元年にあたるからだ(注2)。
そして、「白雉改元」が六五二年なら、『書紀』に記す難波宮完成年の六五二年と一致する。前期難波宮は、『書紀』では「難波長柄豊碕宮(味経宮)」とも呼ばれ、白雉三年(六五二)に完成し、朱鳥元年(六八六)に焼失したと記されている。完成時には、「其の宮殿の状、殫(ことごとく)に論ふべからず(*素晴らしい宮殿だ)」と記され、宮の安全祈願法要が挙行されている。
◆『書紀』白雉二年(六五一)冬十二月の晦に、味経宮(あじふのみや)に、二千一百余の僧尼を請(ま)せて、一切経読ましむ。是の夕に、二千七百余の燈を朝(みかど)の庭内(おおば)に燃(とも)して、安宅・土側等の経を読ましむ。是に、天皇大郡より、遷りて新宮に居す。号(なづ)けて難波長柄豊碕宮と曰ふ。
◆『書紀』白雉三年(六五二)秋九月に、宮造ること己(すで)に訖(おは)りぬ。其の宮殿の状、殫(ことごとく)に論(い)ふべからず。冬十二月の晦に、天下の僧尼を内裏に請せて、設斎して大捨(かきう)てて燃燈す
◆『書紀』朱鳥元年(六八六)正月乙卯(十四日)の酉の時に、難波の大蔵省に失火して、宮室悉(ことごとく)に焚けぬ。
現在では大阪市文化財協会などによる発掘調査も進み、北区画(東西一八五m、南北二〇〇m以上)には内裏・内裏後殿が、南区画(東西二三三m、南北二六三m)には回廊(廊下を持つ複廊)に囲まれた十四もしくは十六棟の朝堂院が存在し、この二区画を二棟の八角殿と内裏南門で区画された内裏南区画(東西一一四m、南北八十四m)が繋ぐという、『書紀』記事通りの壮大な宮であったことが確認されている(図1)。さらに、宮の北西部の谷から出土した戊申年(六四八)木簡や、柱列の年代等(注3)から、『書紀』に記す「六五二年」という完成年次に齟齬はないと考えられている。

『書紀』で伊勢王の初見は、「白雉改元儀式」で、「白雉の輿の後頭(しり)」を執り、天皇(孝徳)と皇太子(中大兄)の眼前に置いた記事だ。
◆白雉元年(六五〇)二月甲申(十五日)、朝庭の隊仗、元(むつきついたち)の会儀の如し。左右大臣・百官人等、四列を紫門の外に為す。粟田臣飯蟲等四人を以て、雉の輿を執(と)らしめて、在前(さいだ)ちて去く。左右大臣、乃ち百官及び百済君豊璋(ほうしょう)・其弟塞城・忠勝・高麗の侍医毛治・新羅の侍学士等を率て、中庭に至る。三国公麻呂・猪名公高見・三輪君甕穂・紀臣乎麻呂岐太、四人をして、代りて雉の輿を執りて、殿の前に進む。時に左右大臣、就きて輿の前頭(まへ)を執り、伊勢王・三国公麻呂・倉臣小屎、輿の後頭(しり)を執りて、御座の前に置く。天皇、即ち皇太子を召して、共に執りて観(みそなは)す。皇太子、退りて再拝(おが)みたてまつる。
従来、『書紀』に記すような「改元儀式」が可能な規模の宮は、前期難波宮しか考えられないため、難波宮は六五二年ではなく『書紀』白雉元年(六五〇)には概ね完成していたという説も出されていた(注4)。しかし実際は、『書紀』の「改元儀式」のほうが六五二年から六五〇年に「二年繰り上げ」られていたことになる。従って、「白雉改元」は「瑞兆改元」ではなく「六五二年の難波宮完成に伴う改元」であり、これが「九州年号と一致」するからには、「難波宮は九州王朝によって造営された」ことになろう
この儀式で、白雉の輿は、内裏前殿まで四人で執っていたが、天皇の眼前になって突然に「伊勢王」が加わり、「後頭を三人」で担いでいる。通常は「輿の前頭を左右の大臣が執った」ように、後頭も二人で執るはずなのに「三人」は不自然だ。つまり、「三人目の伊勢王が余分」なのだ。
九州年号の白雉改元儀式なら「白雉を執りて観る」のは九州王朝の天子のはず。従って、
①「伊勢王」は「白雉の輿を執った」のではなく、「輿の白雉を執って観た」人物だったが、
②『書紀』編者は同じ「執る」とあるのを奇貨として、「伊勢王」を「輿を執って孝徳に奉った臣下」に置き換えた。そう考えれば「三人で輿を執る」不自然さが解消することになる。
そして、難波宮の造営記事も「天武紀」に繰り下げられていた。
難波宮には、『書紀』天武紀に「複都詔」といわれる不可解な記事がある。
◆『書紀』天武十二年(六八三)十二月甲寅朔(略)庚午(十七日)(略)又詔して曰く、凡そ都城・宮室、一処に非ず、必ず両参(ふたつみつ)造らむ。故、先づ難波に都造らむと欲す。是を以て、百寮の者、各往(まか)りて家地を請(たま)はれ。
これは「都や天子の宮殿は一か所ではなく二~三か所造れ。先ず難波に造れ」という詔だが、難波宮は六五二年九月に完成し、前年の六五一年末には既に遷都も行われているのに不可解だ。
岩波『書紀』補注(二十五―十三)では「天武天皇の時に(難波宮)改造した」記事とするが、『書紀』にはそのような記述はなく、他の文献にも見えない。考古学的にも証明されていない。つまり、天武十二年に難波宮が改造されたとする根拠は何もない。まして、「百寮の者、各往りて家地を請はれ」というのは「改造」ではありえず、また、この詔が六八三年なら、三〇年間官僚は家地も持たなかったことになるが、これは考え難い。つまり、この「複都詔」は「難波宮完成以前」の詔だと考えるほかないのだ。
本書の「九州王朝と大化の改新」では、『書記』において、伊勢王の事績が「三十四年繰り下げ登用」され天武と持統の事績とされていることを述べた。そして、天武十二年(六八三)の「難波複都詔」が、「三十四年前の九州王朝の天子の詔」であれば、常色三年(六四九)の「伊勢王の詔」となる。これは難波宮が完成する六五二年の三年前。前期難波宮造宮の詔を出すに相応しい時期となる。
さらに、「難波複都詔」が三十四年前のものであれば、難波宮造営から遷都までの経過も天武紀から知ることができる。
「難波複都詔」の出される前年の天武十一年三月に「新城(にいき)」に行幸し造都を企画した記事がある。
◆天武十一年(六八二)三月甲午朔に、小紫三野王及び宮内官大夫等に命して、新城に遣して、其の地形を見しむ。仍りて都つくらむとす。(略)己酉(十六日)、新城に幸す。
通説では、この「新城」は「藤原宮予定地」と考えられているが、翌年の「難波複都詔」に「難波に都造らむと欲す」とあるからには、当然「難波の都」を指すこととなろう。難波複都予定地を視察させ、自らも直接行幸して現地を確認したうえで「難波複都詔」を発したというのが自然の流れだ。「難波複都詔」が三十四年前の常色三年(六四九)であれば、この視察記事は本来それに先立つ常色二年(六四八)のものとなる。これは難波宮完成(六五二)の四年前にあたる。
(*三月甲午は六四八年では三月十四日、己酉は同二十九日)。
ちなみに、愛媛県大三島町大山祇神社に伝わる『伊予三嶋縁起』に、「住吉の神」が「常色二年戊申(六四八)」に日本国巡礼の途上、越智国に立ち寄り、玉輿に「越智の姓」を与えたこと、また、「番匠(ばんしょう)」制度が作られたことが記されている。「番匠」とは「番上の工匠の意。古代、交代で都に上り、木工(もく)寮で労務に服した木工(広辞苑)」だ。「孝徳時代」とあるから、難波宮造営のため「番匠制度」が作られたことは疑えない。
◆『伊予三嶋縁起』(愛媛県越智郡大三島町大山祇神社諸伝)
三十七代孝徳天王位。番匠初。常色二戊申(六四八)日本国御巡礼給。当国下向之時。玉輿船御乗在之。同海上住吉御対面在之。同越智姓給之。
(修験道資料集Ⅱ昭和五十九年)
また、「越智の姓を賜う」(*「玉輿(たまおき)」とあるが、時代的に見て父の「越智守興(もりおき)」と考えられる)ことができるのは天子以外にないが、孝徳が越智国に行幸した形跡はない。「住吉神」とあるのは当然「住吉神に潤色された天子」のことで、しかも、「日本国御巡礼」の年次は九州年号で常色二戊申と書かれ、これは九州王朝の事績であることを示している。そして、前期難波宮遺構からは、記事と一致する「戊申(六四八)年」の木簡が出土し、さらに整地層からは「筑紫の須恵器」も出土している(注5)。
こうしたことから、天武十一年(六八二)の「新城行幸」記事は、三十四年前の常色二年(六四八)に、孝徳ではなく、九州王朝の天子が越智国を経由し、難波宮予定地を視察したこと記すものと考えられる。そして、「番匠」制度も九州王朝が難波宮造営のために創設したことになろう。
さらに、天武十二年(六八三)の「難波複都詔」の翌年、天武十三年(六八四)二月には「都予定地」視察、三月には「宮室の地の決定」記事がある。
◆『書紀』天武十三年(六八四)二月庚辰(二十八日)に、浄広肆広瀬王・小錦中大伴連安麻呂、及び判官・録事・陰陽師・工匠等を畿内に遣はして、都つくるべき地を視占(み)しめたまふ。是の日に、三野王・小錦下采女臣筑羅(つくら)等を信濃に遣はして、地形を看しめたまふ。是の地に都つくらむとするか。
三月癸未朔(略)。辛卯(九日)、天皇京師に巡行(あり)きたまひて、宮室之地を定めたまふ。
「難波複都詔」が三十四年前の六四九年の詔であれば、これを受け、三十四年前の常色四年(六五〇)に、臣下と工匠(『伊予三嶋縁起』に云う「番匠」)等実務者に現地を査察させたうえ、伊勢王が直接「宮室之地」即ち宮殿本体の位置を定めた記事となろう。
(*三十四年前の六五〇年なら、「二月庚辰」は二月十一日「庚辰」、「三月辛卯」は二月二十二日「辛卯」となる。)
一方、難波宮が完成する二年前の『書紀』白雉元年(六五〇)・常色四年十月には、難波宮の工事に伴い「宮室之地」に入る墓の移転補償や、「宮室の堺標」設置記事がある。
◆『書紀』白雉元年(六五〇)冬十月に、宮の地に入れむが為に、丘墓(はか)を壊(やぶ)られたる人、及び遷されたる人には、物賜ふこと各差有り。即ち将作大匠荒田井直比羅夫を遣はして、宮の堺標を立つ。
『書紀』では、「天武十三年(六八四)二月」の「宮室の地決定」記事と「白雉元年(六五〇)十月」の「移転補償と宮室の堺標設置記事」は、「三十四年」離れている。しかし難波宮のという建設手順(宮地決定→移転補償)からは、この二つの記事は、本来「六五〇年」二月、十月の「一連のもの」だったと考えられる。つまり六八四年の「宮地を定めた」記事は、藤原宮ではなく、「六五〇年の難波宮建設」記事だったことになる。
視察記事や宮地を定める記事は、三十四年繰り下げて「藤原宮の造宮計画」のように見せることが出来るが、「移転補償や宮の堺標設置」は宮の着工そのものを意味するから、さすがに持統八年(七九四)に完成し遷居した藤原宮の記事にはしづらい。そこでこうした記事だけは白雉元年(六五〇)に残し、孝徳の難波宮造営記事としたのだ。
このように『書紀』天武紀と孝徳(白雉)紀、『伊予三嶋縁起』をあわせて考えれば、「難波複都詔」を始めとする『書紀』天武十一年(六八二)から十三年(六八四)に記される「新城・都・宮室之地」に関する記事は、通説に云う「藤原宮の造営記事」ではなく、三十四年前の常色二年(六四八)から常色四年(六五〇)の、次のような「九州王朝・伊勢王による難波宮造営の経過を示す記事」だったことになる。
➀常色二年(六四八)に九州王朝の天子「伊勢王」は、難波複都予定地を臣下に視察させ、自らも瀬戸内海を経由し、難波に行幸して予定地を確認した。
➁この視察を踏まえ、常色三年(六四九)に「難波複都詔」を発した。
③常色四年(六五〇)二月に判官・録事・陰陽師・工匠等実務者を派遣し、宮殿建設予定地を調査させ、自らも行幸し宮殿の位置を決定する。
➃同年十月に宮殿の工事に関する支障物件の移転と補償を行い、堺標を立て宮の造営を始め、六五一年末には概ね完成し天皇も遷居、六五二年九月に「殫に論ふべからず」という、例を見ない壮大な宮が完成することになる。
天武紀の宮の造営記事が、天武十四年(六八五)以降、持統四年(六九〇)まで見えないことを以て、藤原宮の造営は、「天武時代」に始まり、「天武・草壁皇子の崩御で造営が中断」し、持統四年に再開されたとする見解がある。しかし、そのように見えるのは「三十四年前の六五一年の難波宮の概成以後、造営記事(繰り下げるべき記事)が無くなった」ためだった(注6)。
さらに、天武十三年(六八四)には翌年の九月に閲兵を行うことが予告され、軍事の重要性が強調されている。その天武十四年(六八五)九月には、諸王を「京・畿内」に派遣して武器を整えるよう指示し、二十人を畿内の行政を司る職に任命している。
◆天武十三年(六八四)閏四月丙戌(五日)に、詔して曰はく「来年の九月に、必ず閲(けみ)せむ。因りて百寮の進止・威儀を教えよ」(略)「凡そ政要は軍事なり」。
◆天武十四年(六八五)九月甲寅(十一日)に、宮処王・広瀬王・難波王・竹田王・弥努(みの)王を京及び畿内に遣して、各人夫の兵(武器)を校へしめたまふ。同十月甲申(十二日)に、浄大肆泊瀬王・直広肆巨勢朝臣馬飼・判官以下、并廿人を以て、畿内の役に任す。
通説の立場でも、天武十四年(六八五)に「藤原京」が成立していたとは考えられないし、仮に「工事中」だったとしても、飛鳥の天武が目と鼻の先の「藤原京」に派遣するという記事は不自然だ。そもそも「畿内」は難波宮完成前の『書紀』大化二年(六四六)の大化改新詔其の二で範囲が定められ(注7)、統治制度も郡司・大領から坊長・坊令に至るまでの様々な「役人」も任命されている。にもかかわらず、天武十四年の時点で、今更「多数の畿内の役」を任命する必然性は『書紀』記事からは窺い知ることができない。
しかし、三十四年前の六五一年であれば、年末に天皇の「難波宮遷居」記事がある。『書紀』では「天皇(孝徳)」の遷居のように記すが、「難波複都詔」に続く一連の「宮の造営記事」を伊勢王の事績と考えれば、「諸王の京・畿内派遣」記事は、三十四年前の常色五年(六五一)に、伊勢王が本拠を九州から難波に移し、難波を中心とする「畿内」の統治に、多数の臣下を配置した記事だと考えられよう。
改新詔に記す畿内は東西南北の「四至」により定義される「四至畿内」であり、八世紀初頭の、大和・山城・摂津・河内・和泉を畿内国とする「律令畿内」とは異なっている。また、「四至畿内」の境界は「律令畿内」の境界とは必ずしも合致していない。つまり「決め方」や境界線が異なっているのだ(注8)。これは、『書紀』に記す「大化改新」事業で、「畿内」を定め官僚・役人を任命する部分は伊勢王の事績の盗用である可能性を示している。
天武十三年(六八四)閏四月記事で不可解なのが、諸王の畿内派遣(天武十四年九月)の一年以上前に閲兵を予告し、軍事の重要性を説いたことだ。天武十三年・十四年時点で軍事上の危機は見当たらず、なぜこの時期に一年以上をかけて軍備を増強する必要があるのか不可解だ。
しかし、これが三十四年前の常色四年(六五〇)・常色五年(六五一)のことなら、次に述べるように対新羅情勢が緊張の度を増していた。
『書紀』天武十四年十一月、周防・筑紫に軍事物資を送り、十二月に筑紫の防人が海中に漂うとの記事がある。
◆天武十四年(六八五)十一月甲辰(二日)に、儲用の鉄一万斤を、周芳の総令の所に送す。是日、筑紫大宰、儲用の物、絁一百匹・絲一百斤・布三百端・庸布四百常(きだ)・鉄一万斤・箭竹二千連を請す。筑紫に送し下す。
(三十四年前は常色五年(六五一)
十一月十五日「甲辰」)
丙午(四日)に、四方の国に詔して曰はく、大角・小角、鼓吹・幡旗、及び弩・抛(いしはじき)の類は、私の家に存くべからず。咸(ことごとく)に郡家に収めよ。(略)己巳(二十七日)に、新羅、波珍飡金智祥・大阿飡金健勲を遣して政を請す。仍りて調進る。
十二月乙亥(四日)に、筑紫に遣せる防人等、海中に飄蕩(ただよ)ひて、皆衣裳を失へり。則ち防人の衣服の為に、布四百五十八端(むら)を以て、筑紫に給り下す。(同十二月十六日「乙亥」)
『岩波注』は丙午(四日)の詔につき、「今まで地方豪族の所有していたこれらの兵器の収公を命じたもので、軍団制実施の準備的な措置だろう」とする。しかし、それではこの年に何故軍事物資を周芳・筑紫に送ったのか、新羅の使者は何の為に来朝したのか、防人が何故海に漂ったのか、という疑問への回答になっていない。
しかし、これが三十四年前の常色四年(六五〇)・常色五年(六五一)のことなら、次に述べるように、対新羅情勢が緊張の度を増していた。
『書紀』白雉二年(六五一)九州年号常色五年には、新羅との関係が極めて悪化し、新羅討伐が奏請されたきじがある。
◆『書紀』白雉二年(六五一)是の歳に、新羅の貢調使知万沙飡(ちまささん)等、唐の国の服を着て、筑紫に泊まれり。朝庭、恣(ほしひまま)に俗移せることを悪みて、訶嘖(せ)めて追ひ還したまふ。時に、巨勢大臣、奏請して曰はく、「方に今新羅を伐ちたまはずは、於後に必ず当に悔有らむ。其の伐たむ状(かたち)は、挙力(なや)むべからず。難波津より、筑紫海の裏に至るまでに、相接ぎて艫舳を浮け盈(み)てて、新羅を徴召(め)して、其の罪を問はば、易く得べし」とまうす。
このころ、新羅の金春秋(後の武烈王)は、百済に対抗する為、高句麗や倭国に支援を求めたが成就せず、六四八年に唐の太宗の支援を求め、これを得る事に成功した。そして、六四九年に服制を変更、六五〇年に新羅年号を廃止し、唐の年号や律令制度を導入する等親唐路線を進めた。新羅の貢調使が「唐の服を着た」のはその象徴だった。 その結果「高句麗・百済・倭国」と「唐・新羅」とが厳しく対立する構図となり、新羅との関係は極めて悪化した。
従って、『書紀』白雉二年(六五一)・常色五年に「対新羅示威行動の奏請」がなされたのも当然の成り行きだろう。
天武十四年(六八五)十一月から十二月の諸記事が、常色五年(六五一)末の事とすれば、それは巨勢大臣の奏請後の経過・結果を示すものとなる。即ち、
①「新羅討伐」の必要性が奏請され、その結果、武器が総動員され戦場に近い周芳・筑紫に送られた。
②「新羅の召還」も行われ、その結果、新羅から波珍飡金智祥等が来訪した。
③「難波から筑紫海まで船を浮かべての示威行動」も実行に移され、その結果、筑紫の海の裏で防人を乗せた船(当然軍船)が沈没した。この様に奏請とその後の経過・結果が明確になるのだ。
つまり先掲の天武十四年(六八五)十一月・十二月記事と、常色五年(六五一)是の歳記事は、ワンセットで、「常色五年に実行された軍事行動を伴う対新羅外交の顛末」だったのだ。
『書紀』白雉二年(六五一)・常色五年末の難波遷居は、「ヤマトの孝徳の遷居」では「何故宮落成前に遷居したか」が説明困難となる。しかし九州王朝なら、常色五年(六五一)は、宮の落成前ではあったが、筑紫近辺での対新羅戦に備え、急遽筑紫から難波に拠点を遷したのだと理解できる。そして、伊勢王は天武十三年(六八四)閏四月の「閲兵予告」記事に見るように、一年以上かけ難波遷居に伴う軍備増強を図ったのだ。
そして、常色五年(六五一)十月までに諸王が難波に遷り、十一月に武器を周防や筑紫に輸送するなどの軍事行動が開始されたとすれば、九州王朝の天子はその間に難波に遷ったと見なければならない。そこで注目されるのが「伊勢王東国に向る」との記事だ。
◆天武十四年(六八五)冬十月己丑(十七日)に、伊勢王等、亦東国に向(まか)る。
この記事こそ、三十四年前の常色五年(六五一)に伊勢王が筑紫から難波宮に遷居した記事だと考えられる。筑紫からみれば摂津難波は東国だ。六五一年では「己丑」は十月二十九日だから、伊勢王は難波到着直後の十一月十五日に周防や筑紫に軍事物資を送ったことになる。「難波津より、筑紫海の裏に至るまで船を浮かべて防衛する」との奏請も難波遷都を想定した作戦だとすればよく理解できるのだ。(注9)。
そして『書紀』の天武十四年(六八五)の翌年、朱鳥元年四月には、新羅からの朝貢が記されている。
◆朱鳥元年(六八六)夏四月(略)、壬午(十三日)に、新羅の客等に饗へたまはむが為に、川原寺の伎楽を筑紫に運べり。仍りて、皇后宮の私稲五千束を以て、川原寺に納む。戊子(十九日)に、新羅の進る調、筑紫より貢上(たてまつ)る。細(よき)馬一疋・騾(うさぎうま)一頭・犬二狗・鏤金器、及び金・銀・霞錦・綾羅・虎豹皮、及び薬物の類、并て百余種。亦智祥・健勲等が別に献る物、金・銀・霞錦・綾羅・金器・屏風・鞍皮・絹布・薬物の類、各六十余種。別に皇后・皇太子・及び諸の親王等に献る物、各数有り。
この朝貢の意味・背景も朱鳥元年では不明だが、三十四年遡上した『書紀』白雉三年(六五二)四月なら、白雉二年末の筑紫海における示威行動により、新羅から一定の譲歩を引き出し、得た朝貢品を筑紫から難波に送らせた記事だということになろう。
この様に『書紀』「天武紀」の一連の記事が、三十四年遡上するなら、難波宮造営と難波遷都の原因・経緯・結果が明らかとなる。即ち難波遷都は唐・新羅との軍事対決に備え、伊勢王が本拠を筑紫から「東国」難波に遷し、伊勢王自身も難波宮に遷居したのだ。
そして、『書紀』には白雉二年(六五一)冬十二月の晦に「天皇大郡より、遷りて新宮に居す」とある。これが伊勢王を指すなら「大郡」とは筑紫大宰府のことになる。
『書紀』天武十二年(六八三)に伊勢王が「天下を巡行し諸国境堺を限分した」と記すが、「諸国境堺の限分」の意味や、なぜこの年に実施されたのかは解明されていない。しかし、その三十四年前の六四九年には、全国に「評制」が施行されたことがわかっている。
『書紀』では、孝徳時代(難波朝廷時代)に施行された地方統治制度は、「大化改新詔」にみられる「郡制」となっている。しかし、藤原宮木簡ほかの発掘成果により「七〇〇年以前は評制だった」ことがわかっており(資料1)、七〇一年の大和朝廷の律令制定以降に、一斉に「郡制」に変わったことから、古田武彦氏は「評制」を九州王朝の制度だとしている。

そして、伊勢神宮の『皇太神宮儀式帳』『神宮雑例集』や『常陸国風土記』から、常色三年(六四九)ごろ、全国に「評制」が敷かれ、その際、新たに諸国の国堺が定められ、官吏が任命されたことが知られる。
『皇太神宮儀式帳』には、「難波朝廷天下立評給時」に度会多気飯野の三郡を十郷に分かち評督・助督を任命したこと、『伊勢神宮雑例集』には難波長柄豊前宮御世の己酉年(六四九)(『書紀』大化五年・常色三年)に始めて度相郡が立てられ、督造・助造が任命されたことが記されている。
◆『皇太神宮儀式帳』延暦二十三(八〇四)八月二八日。初神郡度会多気飯野三箇郡本記行事。
右従纒向珠城朝廷以来、至于難波長柄豊前宮御宇天万豊日天皇御世。有尓鳥墓村造神庤弖、為雑神政所仕奉支。而難波朝廷天下立評給時仁、以十郷分弖、度会乃山田原立屯倉弖、新家連阿久多督領、礒連牟良助督仕奉支。以十郷分、竹村立屯倉、麻続連広背督領、磯部真夜手助督仕奉支。
◆『神宮雑例集』神封事。度会郡。多気郡。
本記云(略)爾時大幡主命曰久、己先祖天日別命賜伊勢国礒部河以東神国定奉。飯野多気度会評也。
又云、難波長柄豊前宮御世、飯野多気度相惣一郡也。其時多気之有尓鳥墓立郡。時爾、以己酉年(六四九)(『書紀』大化五年・常色三年)始立度相郡、以大建冠神主奈波任督造、以少山中神主針間任助造。皆是大幡主命末葉、度会神主先祖也
また、『常陸国風土記』には、難波朝廷時代に「我姫(あずま)(坂より東の国・坂東諸国)」が常陸国など八国に分割され、高向臣、中臣幡織田連等が惣領として遣されたことや、己酉年(六四九)に下総国の一部が分割され「神の郡(香島の国)」が設けられたことが記されている。
◆『常陸国風土記』(総記) 常陸の国司解す。古老の相傳ふる旧聞申す事。
国郡の旧事を問ふに、古老の答へていへらく、古は、相摸の国足柄の岳坂より東の諸の縣は、惣べて我姫の国と称ひき。是の當時、常陸と言わず。唯、新治、筑波、茨城、那賀、久慈、多珂国と称ひ、各、造・別を遣はして検校めしき。其の後、難波の長柄の豊前の大宮に臨軒しめしし天皇のみ世に至り、高向臣、中臣幡織田連等を遣はして、坂より東の国を惣領しめき。時に我姫(あずま)の道、分れて八の国と為り、常陸国、其の一に居れり。
◆『同』(香島郡)古老のいへらく。難波の長柄の豊前の大朝に馭宇しめしし天皇のみ世、己酉年(六四九)(常色三年)、大乙上中臣(脱字)子、大乙下中臣部兎子等、惣領高向大夫に請ひて、下総国、海上の国造の部内、軽野より南の一里と、那賀の国造の部内、寒田より北五里とを割きて、別きて神の郡を置きき。其処に有ませる天の大神の社・坂戸の社・沼尾の社、三処を合わせて、惣べて香島の天の大神と稱ふ。因りて郡に名づく。(風俗の説に、霰零る香島の国といふ。)
このように、『伊勢神宮雑例集』や『常陸国風土記』には、「己酉年(六四九)・常色三年」に、「評制」が施行され「国が分割」されたと記されるが、その三十四年後が、伊勢王等が「天下に巡行きて、諸国の境堺を限分ふ」とある天武十二年(六八三)にあたる。
『常陸国風土記』では、坂東(我姫)の道が八国に別れ常陸国ができたことが、下総国の一部が分割され香島の郡ができたと記す(*「坂東八国」とは、相模、武蔵、上総、下総、安房、常陸、上野、下野の関東八ヵ国をいう)。
これは「評制」を施行するにあたり、旧来の諸国が分割され、新たな国や評が創設されたことを示している。その際には、当然「新たな国・評の境界が定められる」ことになる。つまり、「諸国の境堺の限分」とは、諸国を再編し、「評制」という新たな地方統治制度を創設することだったと考えられる。
しかも『書紀』で境堺の限分に「派遣」された人物に「羽田公八国」がおり、『常陸国風土記』では「中臣幡織田(はとりだ)の連」が「派遣」され「八国に分割」したとある。『書紀』と『風土記』が同じ六四九年ごろの事実を記しているのであれば「羽田公八国」と「中臣幡織田連」は同一人物となろう。そうであれば、『書紀』では「遣諸王五位伊勢王・大錦下羽田公八国・・・」と、「伊勢王が羽田公八国らと派遣された」ように記すが、実際は「遣」の位置が違い「伊勢王、遣大錦下羽田公八国」、つまり伊勢王が羽田公八国らを派遣した記事だったことになる。
常色元年に即位した九州王朝の天子伊勢王は、唐・新羅との関係悪化を踏まえ、我が国の集権統治の強化に努め、全国に「評制」を敷き、統治のための官僚を任命するとともに、「評制」に対応する規模の宮城を、我が国の中央に位置する難波に建設し自らも難波に遷居した。『書紀』天武十一年(六八二)の「新城行幸」、天武十二年(六八三)の「難波複都詔」、天武十三年(六八四)の「宮室の地の決定」、天武十四年(六八五)の「畿内の役任命」と「東国に向る」記事は、三十四年前、常色二年(六四八)~常色五年(六五一)における、そうした伊勢王の事績を「繰り下げ」天武の事績に偽装したものだった。
伊勢王が即位した常色元年(六四七)に、「越」に「渟足(ぬたり)の柵(き)」(新潟市沼垂付近)が、翌六四八年には「磐舟の柵」(新潟県村上市岩船付近)が設けられ、越と信濃の民が柵戸(きのへ)(屯田兵)として配置された。
◆『書紀』大化三年(六四七)十月。渟足柵を造りて、柵戸を置く。
◆同大化四年(六四八)是の歲。磐舟柵を治りて、蝦夷に備ふ。遂に越と信濃の民を選びて、始めて柵戸に置く。
これは、「評制」の及ばない蝦夷領域も支配下に組み入れ、一層の統治強化をはかろうとするものだ。
一方、その三十四年後の天武十一年(六八二)に越の蝦夷の俘人(とりこ)七十戸が一郡として組織された。
◆天武十一年(六八二)四月甲申(二十二日)、越の蝦夷、伊高岐那等、俘人七十戸を一郡とせむと請す。乃ち聽す。
「俘人」とは「いわゆる俘囚。夷俘(いふ)ともいい、政府に帰順し、その支配下に入った蝦夷」をいう(岩波『書紀』注)が、「天武紀」には蝦夷討伐どころか蝦夷に関する記事はこの他に一つもない。なぜ天武十一年に唐突に「越の蝦夷の俘人」が記され、七十戸一郡に組織されたのか全く不明なのだ。しかし、この記事が三十四年前の常色二年(六四八)のものなら、理解できる。なぜなら皇極元年(六四二)に越の蝦夷数千人が帰順し、この「一戸」が律令時代同様に二〇~三〇人だとすれば、七〇戸一郡で二千人弱となり、渟足・磐舟の二郡であれば四千人で「数千内附」と整合することになるからだ。
◆皇極元年(六四二)九月癸酉(二十一日)。越の辺の蝦夷、数千内附(まうきつ)く。
伊勢王は、このように「評制施行」や「難波宮造営」と並行して、蝦夷を支配下に組み込んでいった。その結果、斉明元年(六五五)・九州年号白雉四年に、多数の蝦夷が難波宮に朝貢することとなる。
㋐斉明元年(六五五)七月己卯(十一日)、難波の朝にして、北、〈北は越ぞ。〉の蝦夷九十九人、東、〈東は陸奥ぞ。〉の蝦夷九十五人。并て百済の調使十五〇人に設(あへ)たまふ。仍(なほ)、柵養(きかふ)の蝦夷九人・津刈(つかる)の蝦夷六人に、冠各二階授く。(中略)是歳、高麗・百済・新羅、並に使を遣して調進る。百済の大使西部達率余宜受(せいほうだちそちよげず)、副使東部恩率調信仁(とうほうおんそちでうしんに)、凡(すべ)て一〇〇余人。蝦夷・隼人、衆を率いて内属す。闕(みかど)に詣でて朝献す。
一方、持統二年(六八八)十一月から三年(六八九)一月三日記事に、多数の蝦夷の朝貢と出家記事がある。
「蝦夷記事」について、斉明紀に「蝦夷」の文字は三十二回(*人名は別)と集中して出現するが、孝徳紀は三回、天智紀は二回、天武紀も二回と激減する。そして、持統紀には七回出現。しかも七回中六回は持統二年(六八八)十一月から翌三年七月の間に集中する。そして「人数記事」があるのが特徴だ。
①持統二年(六八八・朱鳥三年)十一月五日に、「蝦夷一九〇余人」、調賦(みつき)を負荷(を)ひて誄(しのびこと)する。(三十四年前は九州年号白雉三年(六五四))
②同年十二月十二日に、「蝦夷の男女二百十三人」に飛鳥寺の西の槻の下に饗たまふ。仍りて冠位を授けて、物賜ふこと各差有り。(同六五四年)
③持統三年(六八九・朱鳥四年) 一月三日に、務大肆陸奥国の優嗜曇(うきたま)郡の城養(きかふ)の蝦夷脂利古男、麻呂と鉄折、鬢髪を剔りて沙門と為らむと請す。一月九日に、越の蝦夷沙門道信に、仏像一躯、灌頂幡・鍾鉢各一口、五色綵各五尺、綿五屯、布一十端、鍬一十枚、鞍一具賜ふ。(同白雉四年(六五五))
これらの記事を三十四年遡らせれば*で示すように、➀は六五四年十一月、➁は同年十二月、③は六五五年一月となる。
そして、㋐の六五五年七月記事は「蝦夷の数」から①~③の蝦夷記事と連続することになる。分かりやすいように「三十四年前に置き換えて時系列を逆算」してみよう。
先ず、六五五年七月時点では、越の蝦夷九十九人、陸奥の蝦夷九十五人、柵養の蝦夷九人・津刈の蝦夷六人の合計「二百九人」の蝦夷がいた㋐。
これに、③の六五五年一月(『書紀』では六八九年一月)に出家して去った(減った)と考えられる「四人」の蝦夷(「城養」脂利古または脂利の古男・麻呂・鉄折、「越」道信)を加えると、六五四年十二月(『書紀』では六八八年十二月)の「二百十三人」に一致する。六五五年一月に四人「減った」のだから、六五四年十二月では二百九人から四人増えるのだ。
このように、「計算」が一致するのは、㋐と①②③が三十四年程隔たっているが、元は一連の蝦夷に関する記事だったことを示している。
また、越・陸奥・柵養・津刈の各蝦夷の人数も整合が取れる。
六五五年七月㋐と六五四年十二月②の蝦夷の出身地の内訳を比較すると、
A、越の蝦夷は九十九人から「道信」が一人増え百人となる。
B、陸奥の蝦夷は変化無しで九五人。(越と陸奥の計百九十五人)
C、柵養の蝦夷は九人から三人増えて十二人となる。
D、津刈の蝦夷六人は変わらずで計十八人。総計二百十三人で、「蝦夷の男女二百十三人」と一致する。

次に①と➁は同年の十一月、十二月と連続しており次の推測が成立する。
十一月の蝦夷は百九十余とあるが、越・陸奥・柵養・津刈の蝦夷で「足して百九十余」となるのは、「越の蝦夷の百人」と「陸奥の蝦夷九十五人」の組み合わせのみ。従って六五四年十一月(『書紀』では六八八年十一月)の朝貢は「越と陸奥の蝦夷の合計百九十五人」だったことになる。(表1)
つまり、六五四年十一月に越・陸奥の蝦夷百九十五人が誄をし、すぐ後に柵養十二人と津刈六人、計十八人の蝦夷が加わり二百十三人となった。これが六五四年十二月(『書紀』では六八八年十二月)。そこから柵養蝦夷三人(脂利古・麻呂・鉄折)と越の蝦夷一人(道信)の計四人が抜け、二百九人となった。これが歴史の真実だった。天武の崩御後の朝貢なので「誄」とあるが、実際は「完成した難波宮における伊勢王への朝貢」だったと考えられる(注10)。
伊勢王は、難波遷居後、難波宮を拠点に東方の蝦夷・粛慎討伐を積極的におこない、軍事力による国内の統合を進めて行った。持統二年(六八八)から持統三年(六八九)の「多数の蝦夷の難波宮朝貢」は、九州年号白雉三年(六五四)~四年(六五五)時点でのその成果を示すものだった。
さらに、天武十二年(六八三)三月には僧正・僧都・律師が任命されている。
◆天武十二年(六八三)三月戊子朔己丑(二日)、に僧正・僧都・律師を任(ま)けたまふ。因りて勅して曰はく、「僧尼を統(す)べ領(おさ)むること法の如くにせよ」、と云々。※三十四年前は『書紀』大化五年(六四九)・常色三年
そして、『書紀』では大化元年(六四五)に「十師(とたりののりのし)」を任命し、「寺主」も選ばれ、また各地に寺社を建立する旨が詔されている。
◆大化元年(六四五)八月癸卯(八日)(略)沙門狛大法師・福亮・惠雲・常安・靈雲・惠至・「寺主」僧旻(みん)・道登・惠隣・惠妙を以て「十師」とす。別に惠妙法師を以て百済寺の「寺主」とす。此の十師等、能く衆の僧を教へ導きて釋教を修行(おこな)ふこと、要ず法の如くならしめよ。凡そ天皇より伴造に至るまでに造る所の寺、営ること能(あたは)ずは、朕、皆助け作らむ。今、寺司等と寺主を拜(め)さむ。諸寺を巡り行きて、僧尼・奴婢・田畝の實を験(かむが)へて、盡(ことごと)に顯(あき)らめ奏(まう)せ。即ち来目臣〈名を闕かせり〉・三輪色夫君・額田部連甥を以て、法頭とす。
この記事は『書紀』大化元年(六四五)となっているが、実際は常色元年(六四七)のことと考えられる。それは、『書紀』では九州年号白雉元年(六五二)の白雉改元を「二年繰り上げ」六五〇年としている。そうすると「常色(六四七~六五一)」も「玉突き」で、常色元年(六四七)記事が大化元年(六四五)に「二年繰り上げ」られるからだ。
また、六四九年(大化五年)には「八省百官」が設置・任命されている。
◆大化五年(六四九)春正月是月。博士高向玄理(たかむこのくろまろ)と釋「僧旻」とに詔して、八省・百官を置かしむ。
『書紀』では大化元年(六四五)に「十師」が任命されたことになっているが、朝鮮の史書『海東諸国紀』(申叔舟。一四七一年)では常色三年己酉(六四九)に「八省百官」と「十禅師寺」が同時に置かれたと書かれている。
◆『海東諸国紀』孝徳天皇皇極同母弟元年乙巳《用命長》。三年丁未(六四七)改元常色。三年己酉初置八省百官及十禅師寺。六年壬子改元白雉。在位十年寿三十九。
ここで「十禅師寺」とあるのは、六四七年に選任された「十師」による「僧正・僧都・律師の任命」、すなわち仏教界の「位階制」である「僧綱(そうごう)の制定」をいうと考えられる。『海東諸国紀』が正しいと考えれば「仏教統制施策(僧綱制定)」と「官僚機構の整備施策(八省百官)」が、常色三年己酉(六四九)に同時に行われたことになる(注11)。
そして、六四九年は全国に「評制」が敷かれた年であり、「八省百官」の任命はこれに伴う施策としては当然のこととなろう。評制・八省百官・十禅師寺は多利思北孤以来の「宗政一致」の統治を目指す九州王朝の施策だった。
そして伊勢王は、常色元年(六四七)から薨去する白鳳元年(六六一)までの間に、全国の統治のため評制を敷き、その拠点として難波宮を造成し、八省百官・十師を設置、氏姓・冠位制を改定、律令を制定するなど、九州王朝の絶頂期を築いていった。
しかし、伊勢王没後の九州王朝は、百済支援にのめりこみ、唐・新羅との抗争のため半島に大軍を派兵した。その結果、白村江の敗戦で壊滅的打撃を被り、急速に衰退していくことになる。
注
(注1)『書紀』白雉(六五〇~六五四)・九州年号白雉(六五二~六六〇)、『書紀』大化(六四五~六四九)・九州年号大化(六九五~七〇〇)というように、白雉と大化は『書紀』と九州年号で年次が異なる。そのため、本稿では、必要に応じ年号に『書紀』と「九州年号」を付して区別する。その他の常色・白鳳等は九州年号にしか存在しないので「九州年号」は略す。
(注2)『書紀』白雉三年(六五二)(九州年号白雉元年)正月条に、「正月より是の月に至るまでに、班田すること既に訖りぬ。」とあり、これは不自然で、古賀達也氏は、「白雉改元の史料批判ー盗用された改元記事ー」(『古田史学会報』七六号二〇〇六年十月)で、本来この記事の前の「白雉改元記事」が切り取られ六五〇年に「二年間繰り上げ」られたことを示す、としている。
(注3)難波宮跡北西部の柱列の年輪セルロース酸素同位体比による年代測定は六一二年であり、七世紀前半に伐採された可能性が高い。
(注4)「白雉元年二月の段階において、豊碕宮の中枢部には、内裏前殿・朱雀門に加え、少なくとも内裏南門が建設されていたと考えられる。」
市大樹「難波長柄豊碕宮の造営過程」(武田佐知子編『交錯する知』思文閣出版、二〇一四年)
(注5)寺井誠(大阪歴史博物館学芸員)「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」(『九州考古学』第八三号、二〇〇八年十一月)、「難波など畿内に搬入された他地域産須恵器」(大阪歴史博物館共同研究成果報告書十四。二〇二〇年)
(注6)藤原宮の造営は、『書紀』に藤原宮の語が見える持統四年(六九〇)から始まったとされていたが、現在は天武紀の宮の造営記事や、藤原宮木簡などから「天武時代」に始まり、「天武・草壁皇子の崩御で造営が中断」し、持統四年に再開されたとの見解が示されている。しかし、複都詔を「藤原宮の造営詔」とみるのは困難であり、複都詔と連続する一連の記事は難波宮造営記事が「三十四年繰り下げられた」ものと考えるべきで、天武十四年(六八五)以降、持統四年(六九〇)までの宮の造営記事の中断を以て「工事そのものの中断」とすることはできない。
『書紀』持統四年(六九〇)十月に高市皇子が「藤原の宮地を観」て、十一月に天皇(持統)が「藤原に幸して宮地を観」る記事があり、これが『書紀』としては天武・持統紀を通じて初の「藤原宮」の記事と考えられる。名称も、天武紀では「都・新城」と呼ばれていたが、以後は「新益京・藤原宮」に変わる。
◆持統四年(六九〇)十月壬申(二十九日)に、高市皇子、藤原の宮地を観す。十一月辛酉(十九日)に、天皇、藤原に幸して宮地を観す。
◆持統五年(六九一)十月甲子(二十七日)に、使者を遣して、新益の京を鎮め祭らしむ。
◆持統六年(六九二)正月戊寅(十二日)に、天皇、新益京の路を観(みそなは)す。
(注7)(大化改新詔其の二)大化二年(六四六)正月朔。(略)凡そ畿内は、東は名墾の横河より以来、南は紀伊の兄山より以来、〈兄、此をば制(せ)と云ふ〉。西は赤石の櫛淵より以来、北は近江の狹々波の合坂山より以来を、畿内国とす。(略)其の郡司には、並に国造の性識清廉(ひととなりたましひいさぎよ)くして、時の務に堪ふる者を取りて、大領・少領とし、強くいさをしく聡敏(さと)くして、書算に工なる者を、主政・主帳とせよ。
(注8)(参考)門井直哉『古代日本における畿内の変容過程―四至畿内から四国畿内へ―』(歴史地理学五四-五、二〇一二年)
(注9)伊勢王らを難波に運んだ船団が、軍事物資を積んで、周防・筑紫に取って返したと考えられる。
(注10)六八八年は九州年号朱鳥三年、三十四年前の六五四年は九州年号白雉三年。六八九年は九州年号朱鳥四年、三十四年前の六五五年は九州年号白雉四年。『書紀』編者は、三十四年隔たった九州年号「朱鳥」と「白雉」を入れ替えたことになる。
『書紀』編者がそうした偽装をした理由だが、蝦夷は律令制定後和銅二年(七〇九)には陸奧と越後の蝦夷が、養老四年(七二〇)には陸奥の蝦夷が反乱を起こし討伐された。七二〇年に完成した大和朝廷の史書である『書紀』の編者が、蝦夷朝貢を持統の事績としたのは、「最近まで天皇家に朝貢し恩賞も与えられていたのに、けしからず反乱を起こしたから討伐した」として、「討伐の正当性」を主張するためだと考えられる。
(注11)なお『書紀』では九州年号白雉元年(六五二)の白雉改元を「二年繰り上げ」六五〇年としている。その結果常色(六四七~六五一)も「二年繰り上げ」られ、常色元年(六四七)の「十師」任命記事が大化元年(六四五)に記されたのだと考えられる。
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